庭園は支配する/呂趙
自然物というものは、どうしてああも芸術的に、緑と赤とを馴染ませるのだろう。どうしてああも自然体に、色の推移を行なうのだろう。あのグラデーションは、天秘のなせる
非同の無二にして有機の万変だ。
――だからこそ。
決して馴染まぬ血の赤を、緑にさえためらいなく塗り込めるそれは、支配的な庭園だ。きちりと四角で切る世界こそが、趙公明の在りようだ。それは、自然物をも超越した領域の成せるものなのだ。誇る自身の元型さえもが、“妖怪仙人・趙公明”の前では、ただただそれを構成する一員に留まるのだ。“趙公明”とは、完成された
総合芸術なのだ。
そんなふうに師がすべてを理解して、その到達領域に酔いしれると同時、自然の到達しきれぬ無力さをおさなごを見るよう憐れみ、いつくしみ、分裂したての細胞をそっと包み込むがごときまなざしでまもるのに容易く切り棄て食す、そのむごたらしいほどのうつくしさ、そこに在る
一抹のあやうさを、呂岳は、あたう範囲で知覚している、つもりだ。呂岳は、持てる感覚を受容体をただその師がためだけにあたう限り拓き、けれど師の超越性がゆえ自らの限界も解して諦観している。それは、師が視る自然界に在る、その
無力さそのものだ。呂岳という矮小な
自然物は、
崇愛する師に支配されるべくのみただうまれたのだ。呂岳は、その生で有せる知覚の
領域の端縁で、未踏のなにかをぼうと眺め、手をのばし、とどかぬさきをみるために目を細め、けれどみえず、ぐっと顎をちいさく引き手を胸元握りしめ、それからあきらめたようぱたり落とす。あたう限り子細に知覚しようとすることさえ、愚かしい傲慢に正しく解する。自身の可能な限りの認識を、わずかでも理解と驕る気は、まっさらさらのさらさらにない。ただその真の美に、究極の美に跪き、差し伸べられた手に応じ
側仕えできるをゆるされていることだけ解している。呂岳にとっては、それこそがただ
存在意義なのだ。これほど珠玉の至高の幸は、師にきく宇宙の、どこさえない
無二の真実なのだ。
師といきる生とは、自然などゆうに超越した世界だ。愛する師の超越の領域に、控えることをゆるされし崇高だ。呂岳は、師の賜う生の価値がために、ただそのためだけに自身の生を、魂魄を、その薄暗さに反してまばゆく、まばゆくおもうのだ。自然さえとうていなせぬ領域の木洩れ日の強烈なコントラストが、濃陰の身に、その手にわずか、なによりまばゆいひかりにゆびさきふれることを、ただただ、ただただ至福にゆるすのだ。師のためにいきる生を
至高にして無二の
カレイドスコープと正しく解させるその、妬ましいほどの、そして同時ねたましさを馬鹿馬鹿しい愚かしさとも正しく解させるその、究極の至高芸術が、呂岳の唯一敬愛する、
絶対的支配者なのだ。
無二の庭園だけがただ、ただ
世界を、当然支配する。それがなにより事実の摂理で、それが当たり前という意においてのみならば、“自然”という語は、正しく機能するのだ。その摂理さえも、超越者のゆびさきのはらにひらり掬われし
花弁なのだから
――
終
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