ティファニーで朝食をで、オードリー・ヘプバーン演じるホリー・ゴライトリーが飼い猫に名前をつけず、ただキャットと呼び続けたように、ゼノは階段に座ってその猫
――何とそれは映画通り赤みがかったマーマレード・タビーだった
――の耳をくすぐりながらも決して名前をつけることはなかった。もし映画通りの展開がやって来るんなら、ゼノはその猫を所有せず、ただ一緒にいるだけだと恋路の相手(ポール)に主張するだろうし、その男と激しい喧嘩をしたらタクシーに乗り込んで、そんで雨の中道端に猫を放り出すんだろう。でも彼はホリー・ゴライトリーのように飼い猫に執着してはおらず、オードリー・ヘプバーンのように動物好きで猫を放り出す演技を嫌がるふうでもなかった。彼が猫を撫でるのは、ただの気まぐれでしかなかったんだろう。
その猫は、聞くところによると、ゼノいわく彼の家の近所の人気者らしかった。人々は好き勝手に名前をつけ、好き勝手に餌をやり、好き勝手にかわいがったそうだ。ゼノもその一人だったのだが、それでも彼はその猫をキャットと呼び続けた。別に、ホリー・ゴライトリーのように、何かに属するのが恐ろしいってわけでもなかったろうが、別に、俺の恋人って属性を否定しているってわけでもなかったろうが。
そんな猫と戯れる彼を見かけたのは、俺が短い休暇を得て恋人の家に寄った時のことだ。ゼノはそんな俺を見つけると、カバードポーチの階段に座りながらこちらに向かって手を振り、穏やかに猫を撫で続けていた。俺は猫が逃げていっちゃ困るだろうと気遣って、夕暮れ時に芝生に佇んだ。
俺がさて、どうするかって考えていた時(主にどうやって彼にキスするかって悩んでいた時)、彼の家の隣、老婆が一人娘と住んでいる急勾配の切妻屋根の家から、体よくアンディ・ウィリアムスのムーン・リヴァーのレコードが流れ出した。映画でホリー・ゴライトリーがギターを弾きながら歌ったやつだ。俺はそれを聞いて、こんなに出来すぎているんなら、そろそろ雨が降って俺達はキスをするんじゃないか、と思った。
ゼノが猫の耳を触る。尻尾を触る。猫は嫌がらず、ゼノの隣に座っている。まるで、恋人にするかのように。
「なぁ、俺はほったらかしなん?」
俺はいつもより声を張り上げて、そうゼノに尋ねた。するとゼノは笑い、楽しげに猫を撫でた。
「さぁ、どうかな。そういえば君は猫好きだったっけ? それとも犬の方が好きかい?」
「どっちかっていうと犬の方が好きだね。命令に従順だからさ」
「おや、君の恋人は従順じゃあないのにね」
不思議だね、と言うゼノの手は、夕暮れのオレンジ色の明かりを受けて赤く染まっている。彼が撫でるマーマレード・タビーの猫も、より赤く、燃えるように染まっている。俺はそれを見つめがら、本当にどうすべきかって迷う。このまま突き進んで、猫が去っていくのを待つ? それとも猫を撫でる恋人を眺めて、彼の自由さを堪能する? 俺の恋人っていうより、ただのゼノ・ヒューストン・ウィングフィールドって男の自由奔放さを堪能する? 科学以外の何にも属さない、そんな男を堪能する?
「生憎、俺は恋人には振り回されるのが好きなんでね」
「へぇ、初めて聞いた。じゃあ君は大昔から虹の終わりにいたわけだ」
言外に自身のことを自分勝手って言って、そして大昔から自分が俺のものだったみたいに言って、ゼノは真っ黒な目を細めて微笑んだ。俺はずっと求めていたそれにもう何も言えず、スニーカーを履いた足を踏み出す。丁寧に手入れされた芝生が軋み、その音に猫が耳をぴくぴくとさせる。尻尾もぶんぶんと揺れる。きっと、あの猫は俺を警戒しているんだろう。俺の指先からは硝煙の匂いがしただろうし、厳しい訓練の後の汗の匂いもしただろうし、そして猫が嫌う男の声をしていたから。
「まぁ、十一の頃からそうだったんだろうな」
ムーン・リヴァーが流れる、アンディ・ウィリアムスの甘い歌声が夕暮れに溶ける。曲がり角の向こうで待ってる、ハックルベリーの友達、ムーン・リヴァーと私、私達は同じ虹の終わりを目指している
――。そんなふうに続く幻想的な歌は、俺が幼い頃、お袋がうっとりと口ずさんでいたものでもあった。もうしばらく会っていない、自分の子供がゲイってことすら知らない、長年のパートナーがいるってことも知らない母親。
「おいで、スタン」
その時、初めてゼノはそんなふうに俺を呼んだ。レコードと同じ甘い声で、もしかしたら、より湿度を含んだ軽やかな声で。
俺は足を進める。猫が短く声を上げて逃げ出す。または、新たな、より快適な居場所を求めて去ってゆく。俺がお袋たちのもとを去って軍に入ったように、あの猫にももしかしたらより良い場所があるのかもしれない。
でも、今雨は降らない、映画のようには降らない、ゼノは猫を投げ出さないし、その猫を必死で探したりしない、ドラマチックに泣きもしない。彼はただ、猫を撫でていただけで、それに理由なんてない。もしかしたら、俺をからかうって理由はあったのかもしれないけれど。じれったく、こそばゆく俺をからかって、より強く求めるって理由はあったのかもしれないけれど。それでも俺達は映画のクライマックスでポールとホリー・ゴライトリーがそうしたように近付いて、階段で熱心にキスをする。誰が見るともしれないのに、そんなことは気にもとめないで。
まだ、ムーン・リヴァーは流れている。レコードの針は窪みをなぞり、ぶつぶつと途切れつつも大きな窓からそれは流れ出す。俺達はそれを聞きながら、ただいつものようにキスをする。カメラが切り取る印象的な愛がなくたって、俺達はありきたりなキスをする。
多分、恋愛映画のように恋人になる理由なんてなくたって、俺達は愛し合える。彼が科学にしか属していなくたって、俺が軍にしか属していなくたって、理由なんてなくたって、俺達はただ愛し合える。そしてそれは、俺達が十一の頃から決まっていたことだった。十一の頃から、俺達は求め合っていた。一緒に虹の終わりを目指していた。それが上手くいかなくたって良かった。一緒に同じ方向を見つめていられたら、俺達はそれで良かったのだ。合間にキスが出来たら、抱き合えたのなら、より良いってことはあっただろうけれどさ。
録音されたオーケストラが、次第に迫る夕闇をなぞる。俺が彼を抱き締めるよりもずっと優しく、俺達を包みこんでゆく。そして俺達はまたキスをして家に入り、それからまたキスをする。決してドラマチックじゃなくたって、ただ求めあえたらそれでいいって思いながら。
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