もう考えるべきことはすべて考え尽くしたつもりでいた。人間のありようも妖精のゆく先も、ムゲン自身がこの世界をどう流れていくかも、四百年ぶんの昼夜があれば落としどころくらいは見つけられる。
そうして散乱する疑念や問題を警しきって、ようやくムゲンは顔を上げられるようになったのだ。
すると空の高さを思い出した。地の果てへ向かう道にも咲く花があることに気づき、星月夜にわざわざムゲンを訪ねてくれる友人たちがある幸運を知った。数百年越しに自分の目で見渡す世界はすがすがしいほどに広大無辺だった。
「師匠待って、紐がほどけちゃった!」
今、そのムゲンの果てしない世界の中心には、難しい顔をしてスニーカーの靴紐をいじくる妖精の子どもがいる。
「結んでやろうか?」
街に来るためふたりで着替えた洋服は軽く風通しがいい。出発前に小さなスニーカーの蝶結びはしっかり確認したつもりだったが、はしゃぐシャオヘイの勢いには耐えきれなかったようだ。
振り返って訊ねるムゲンを仰ぐ表情がきりりと引き締まっている。
「ううん、いい。できる!」
「そうか?」
「できる!」
両手で靴紐を力の限り引っぱり上げているシャオヘイを、とりあえず脇から持ちあげ小道の脇に運んだ。
路面を背にして降ろした体の隣にムゲンも腰かける。
緩やかな土手になっており、眼下を浅い川がのんびりと流れている。岸辺には幼い子らが幾人か固まり、藻を取って遊んでいた。
「ぎゅっとして、輪っかに、しゅってやって……」
安穏とした光景を眺めるムゲンの隣から、ぶつぶつ呟く声が聞こえてくる。順序を声で確認しているくせに、短い指でめちゃくちゃに絡ませた靴紐は団子になっていた。
これなら靴が脱げることはないだろうが、さすがに見た目が悪すぎる。靴紐を踏んで転ぶ可能性もありそうだ。
「……シャオヘイ」
「なに?」
それは駄目だろう、と言いかけて口をひらき、そのまま閉じる。スニーカーから視線を上げて窺ったシャオヘイの表情を前に、どうしても否定の言葉が出せなかった。
大きな目が輝いて、紅潮した頬が林檎のようにつややかだ。身を膨らませて満足げにする子の達成感に水を差すのは気が引ける。思えば今日まで、シャオヘイにスニーカーを履かせるときは必ずムゲンが靴紐を結んでいた。
「師匠、なにってば。お腹すいたの?」
「いや、まだ平気だ。……自分で結べるようになったんだな」
「うん!」
シャオヘイがむふんと鼻を鳴らす。胸を反らすとつられて短い足も跳ね上がるので、片足だけ紐が絡まったスニーカーが機嫌良く空を蹴った。
「師匠が結んでくれるときにさ、いつもずっと見てたもん! ね、ねねね、順番もうわかったから、ぼくこれからは自分でできるよ!」
「凄いな」
へへへ、と笑ってムゲンに寄りかかってくる軽い体を受け止めつつ少し上を見る。さて、どう指摘するべきか。
シャオヘイのできることが増えたのは幕しく、微笑ましい。この子の自信にもなるはずだ。それをくじくことなく正しい蝶結びへ導くために、今ムゲンは何を言うべきだろう。
機嫌のいいシャオヘイを片手であやしながら沈思することしばし、やがてムゲンはふ、と吐息で微笑んだ。
「師匠?」
ムゲンの笑声を聞き拾った子がくるりと上を向く。
まるい目はためらいなどなくムゲンを捉える。
ふわふわした白い髪に手を置き、ムゲンもシャオへイの目を覗きこんで微笑んだ。
「私も随分おこがましい心構えでいたものだ」
「なに? なんの話?」
「おまえの靴紐の話」
「ぼく? なんで?」
顔いっぱいに疑問符を浮かべる子へ微笑み、まるい頭をただ撫でる。
四百年、もう考えるべきことはすべて考え尽くしたつもりでいた。あとはあるがまま人と妖精のあいだをさまよう気でいた。図々しい。自意識過剰も甚だしい。
自省は川から吹く風のようだ。清涼にムゲンの迷妄を払ってゆく。とても笑わずにはおれなかった。
考えるべきことをすべて考え尽くしたはずのムゲンは、子どもに正しい蝶結びを伝える方法ひとつ思いつかないではないか。
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