さん
2026-02-21 23:36:24
7146文字
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君のパンが食べたい

二部終章END後時空なデぐ♀|もう何でも許せる人向け|捏造・自己解釈過多

覚えてるデと覚えてないけど無意識に色々残ってるぐ♀
両片思いくらいの雰囲気、あんまり甘くない
2部終章終わってすぐくらいのテンションで書いてたもの

 僅かにドアの開閉音が伝わる。ややあって、インターホンが鳴る。予測どおりの時間だ。
 デイビットは早足で玄関ドアへと向かった。途中、セットしておいたコーヒーメーカーのガラスポットを一瞥する。二杯ずつ、といったところか。解錠しドアを半分ほど押し開く。立っていたのは隣人たる少女。赤みの強い茶色の髪。澄んだ琥珀の瞳。記憶より幾分大人びた顔立ちも、この頃は目に馴染んできた。目が合うなりぱっと笑みを浮かべた彼女に、デイビットも僅かな笑みを返した。
「こんにちはデイビット! 今おなか空いてる?」
 記憶の中の彼女からはしない、ささやかな幸福に満ちた匂い。ひっそりと噛み締めながら僅かに目を細める。焼きたてのパンの匂いが、今の立香の匂いだ。
「今空いてきた」
「そ、そんなわかりやすく気を使わなくても……
「使っていない。君と食べたい。今すぐにだ」
 立香の手には匂いの発生元、焼きたてのバトンブレッドが載ったトレイ。ただ受け取ってドアを閉め、ひとりで胃に詰め込むなどあらゆる意味で勿体ない。世辞でも何でもなく食欲を喚起されたのも事実だ。デイビットがストレートに告げれば、頬がみるみるうちに淡く染まる。この手の言動に立香は弱い。半年前には『からかわないでください!』と可愛らしく拗ねられていたものだが、この頃は特に反論もなく照れるばかりだ。物足りなさと愛おしさとを共存させつつ、デイビットは玄関のドアを更に開いた。
「という訳だ。上がってくれ」
 頬を染めたままの立香から、おじゃまします、と控えめな声。サンダルを脱ぐ彼女を見下ろしつつ、デイビットはドアにチェーンをかけた。
 あの過酷な旅路の残り香。その発露。それが日常の穏やかな要素ばかりであることに、安堵と一抹の寂寥とを感じる。客観的には歓迎すべきであろう事実だが、まざまざと思い知らされる。
 彼女の中に残れなかった。
 欠片どころか、砂の一粒ほども。
 今更だ。記憶を持ち越せたのはデイビットただひとり。再確認するまでもない。というのに、初対面の際には耐え難い苦痛に襲われた。たったひと言で。まずは隣人として引越しの挨拶をと訪ねた己に、何の疑問も持たず『はじめまして』と返す声で。用意していたはずの一般的な挨拶すら消し飛ばされ、二言三言返すのが精一杯だった。何を告げたかさえ曖昧だ。覚えているのは不思議そうにこちらを見送る瞳のみ。
 自分自身不可解だ。至極当然の対応に過ぎない。それも想定していたはずの。積み重ねた関係性など存在しない。立香は知る由もないのだから。幾年もかけ消息を探った末、ようやくこのアパートメントに辿り着いたデイビットのことなど、微塵も。だが己は予測が外れることを期待していたようだ。全く自覚なく、意識の底の底で。
 ――五分ひびを辛うじて積み重ねていたあの頃よりも、どうやら強欲になったらしい。
 容量制限が失われた影響の一形態。記憶への執着も却って強まった。これまでの反動と、かつての彼女との別れ際に生じたささやかな未練とで。結果も過程も可能な限り保存したい。今の己ではいずれ薄れ、擦り切れると知っていても。自身で残すのと同等に、彼女の中に残りたい。何をどう捉えるかは立香次第、こちらで制御できるはずもないと知っていても。
 想定外は自分自身の情動だけだ。状況も為すべきことも変わらない。元々私的な交流は無に等しい。デイビットが向ける熱量にしても、立香とすれば理不尽ですらあるはずだ。この半年ほどはその格差を埋めるべく動いてきたが、そろそろ一歩踏み込んでもいい頃合だろう。
 左手の薬指を占有するのは、早ければ早いほどいい。


『窓を開けるたび気になっていたんだが……きみだったんだな。夜半に幾度食欲を刺激されたか知れない』
『そんなご迷惑を……? ごめんなさい! わたし、いつかパン屋さんを開くのが夢で! 少しずつ練習してて! それで、その……後先考えずに作りすぎちゃったので……良かったらどうぞ!』
 うっかり焼きすぎてしまったのは胡桃の入ったロールパン。勇気を出して押したのは右隣のインターホン。出てきたのはひと月前に越してきたばかりの、ちょっぴり近寄りがたい雰囲気な外国人のお兄さん。しげしげとトレイの上のパンを見つめるのは、綺麗な紫のまなざし。
 初めて顔を合わせた日からずっと、このひとのことが気になっていた。こちらを見下ろす視線そのものは鋭かったはずなのに、ちっとも怖いと思わなかった。立ち去る背を見送りながら、もっと知りたい、ちゃんと話をしてみたいと思った。お裾分けをしてみようとすぐに思いつけたのもきっと、話すきっかけをずっと探していたからだ。
 いまも鮮明に覚えている。言い訳みたいに付け加えたひと言に、このひとはほんのり笑ってこう告げたのだ。
『では、オレは隣でコーヒーショップをやろう』
 微笑ましそうな笑み。冗談めいた口調。日本語もすごく流暢だし、なんだか思ってたより親しみやすそうなお兄さんだ……なんてホッとしてたら、にわかに真剣な顔で両肩を軽く掴まれた。
『焼きたてのパンに淹れたてのコーヒー、かなりのシナジーだと思わないか。提携しよう』
『まだ予定すら未定だよ!?』
『腕を磨いているからには全くの白紙ではないはずだ。計画にオレの名を連ねておいてくれ』
『えぇ……
 びっくりしすぎて敬語が飛んでいってしまった。どうして突然マジなテンションで迫られてるんだろう……まだ近所や廊下で行き合ったら挨拶しあう程度の付き合いなのに。もしかしてお隣さん、ちょっとヤバい感じのひと……? なんて、こっそり冷や汗をかいていた。
『冗談のセンス独特ですねヴォイドさん……
『一応は本気の申し出だ。それから、オレのことはデイビットと呼んでもらえれば嬉しい。とても』
『は、はぁ……
『ともかくありがとう。じっくり味わわせてもらうよ』
 悪いひとではない、のだろう。突拍子もないことをふたつみっつと立て続けに投げかけられはしたけれど。このひとなりのエールなのかもしれない。そう思っておく。……でないとちょっと怖い。距離の詰め方が急速すぎる。
『あ……はい、どういたしまして! おやすみなさい!』
『うん。おやすみ』
 ひどく優しげな笑み。こんな柔らかい笑い方するんだ、と変に鼓動が早まる。逃げるように自分の部屋に戻った。玄関のドアを閉めてから、少し遅れて隣のドアが閉まる音。お裾分けやめておけばよかったかな、なんてほんの少し思った。だって、これから顔を合わせるたびにドキドキしてしまいそうだったから。色んな意味で。
 ――けれど、やっぱりあの日勇気を出して良かった。
「ミルクとホイップクリーム、どちらの気分だ?」
「クリームあるの!? けどごめん……最初はブラックの気分かも」
「了解。オレは両方入れる」
 デイビットの方はどうやら甘いものの気分みたい。大きめのマグカップを両手にキッチンから戻ってくる。
「スプレータイプが投げ売りされていた」
 片方を立香に手渡しながら、疑問の答えを先回りで教えてくれる。こうして日常会話すらショートカットしがちなのに、デイビットはお裾分けのたびに立香を自分の部屋に上げるのだ。どう見ても修羅場の最中みたいな、疲れた顔をしているときでも。君のおかげでひと息つける、なんてホッとした顔で言われたら回れ右なんてできないし、それに。
 そのまま帰されちゃったら落ち込むくらい、好きになってしまった。この部屋が。穏やかな時間が。漂うコーヒーの香りが。立香のパンを齧ったあと、デイビットの頬がほんのり緩む瞬間が。
 だからわたしは、前よりひと回り大きなボウルに粉をふるうようになった。
「では、頂こう」
「うん、召し上がれ!」
 デイビットがパンを口に運ぶ。今日のはチーズとコーンのバトンブレッド。レシピ本に忠実に進めてみた。最近ちょっと欲が出てきて、いろいろとアレンジしてみるたび裏目に出るのが続いていたから。やっぱり初心者ベイカーには早すぎたんだ……もっときっちり基礎を固めないとだ。
 デイビットの目元がふんわりとゆるめられる。それを眺めるのがいつからか立香の密かな楽しみになっていた。だって純粋に嬉しい。モチベーションも上がるというもの。……まぁ、うまく焼けたものしか持ってこないからでもあるんだけど。今日はカッサカサでゴワついてるクロワッサンが部屋に待機している。天板二枚分。この感じだと温度管理に失敗したのかも……。なぜか焼き上がりも想定よりだいぶ小さかったから、他にも原因が隠れていそうではある。
 目指すは昔どこかで食べたクロワッサン。覚えているのはたったひと口で衝撃を受けた至福の味わいだけ。あの幸福感がしっかり刻まれているせいか、どんなクロワッサンを食べてもなんとなく寂しくなるのだ。大好きなはずなのに。
 とにかく練習あるのみ! ……なんだけど、まだ一度もうまく焼けたことがない。今日はバトンブレッドのおかげで少しマシだけど、実はクロワッサンに挑戦するたび自信がしぼんでいる。テキストどおりに進めているはずなのに、毎回なにかしら失敗しているのだ。くじけそう。なんだか失敗作をリメイクする腕前ばかり上がっているような……。本格的に練習するようになったのは大学生になってから、つまりはひとり暮らしを始めてからのこと。経験値も練習量も足りてない自覚はある。一歩一歩着実に進んでいくしかない。
「うん、好きだ」
「よかったぁ……! ちょっとだけ自信が蘇ってきたかも。ありがと!」
…………そうか。何よりだ」
 うん? なんだろ……デイビットが微妙に困ったような顔をしていた。ほんの一瞬だけど。
「え、と……本当は気になるところとかあったり、する……?」
「ん……そうだな、なくもない」
 じ、とまっすぐに見つめられる。パンじゃなくて立香の顔を。
……な、なんです?」
 なにか推し量るような冷静なまなざし。けれどこっちはそうもいかない。一気に心拍数が上がっていく。
…………パン屋を開きたいという夢は、いつから?」
「へ? 高校生くらい……だったかなぁ。いつかできたらいいな、くらいの夢なんだけど……ほら、チャンスが来たとき肝心のパンがおいしくないなんてダメじゃない?」
「何かきっかけが?」
……んー……特にない、かも……?」
 …………なんだろ、妙にもやもやする。ど忘れした単語が思い出せそうで思い出せないときのような気持ち悪さ。立香が眉根を寄せたのをどう受け取ったのか、デイビットが少し表情を和らげる。
「すまない。以前から気になっていただけだ。……それで、本題なんだが」
 にわかにいじわるな感じの笑みが浮かんだ。あまり見覚えのない表情にドキッとする。二重の意味で。
「君、まだ成果物を隠し持っているだろう」
「へ……!?」
「君の採点では失格の……クロワッサンかな。それを食べたい。今すぐに」
「なっ!?」
 なんで知ってるんです!?
 焼きたてゴワゴワクロワッサン! まごうことなき失敗作……! というか食べたいの!? 天板二枚分のパッサパサだよ!? どうしたら少しはおいしく食べられるかなぁ……とか頭を悩ませてたんですが!?
「最近オーブンの配置を変えたんじゃないか? 焼き上がりのアラームがうっすら聞こえるようになった」
 また疑問を口にする前に答えが返ってくる。確かに一ヶ月ほど前に配置換えをした。作業スペースを圧迫していたオーブンを、新しく設置したスチールラックへと。
 ……うん? 待って?
 お裾分けにインターホンを押すとデイビットがすぐ出てきてくれるの、それで察知されてたからってこと!? コーヒーメーカーにふたり分は余裕な量のコーヒーがいつも溜まってるのも、もしかして……!?
「焼き上がりの回数と持ち込まれたパンの量があまりに見合わない」
「く、クロワッサンってわかったのは……?」
…………まだ一度も差し入れられたことがないから、かな。確証はなかった」
 デイビットにしては曖昧な理由。ちょっと引っかかりはするものの、言い当てられてしまったことに変わりはない。
「ともかく持ってきてくれないか。どうしても食べたい」
「けどカッサカサで……!」
「原因分析には第三者の視点も交えるべきだろう」
「だからって食べさせられないよ!」
「巧拙は二の次だ。頼む」
 いつになく食い下がるデイビットに戸惑いながらも必死に首を横に振る。絶対ダメ! 自分ですら処遇に困ってるような代物、デイビットの口に入れたくない!
「厚かましいのは承知の上だ」
「そうは思わないけど! アレ本当に食べられたものじゃ……!」
「オレが欲しいのは君の研鑽の過程だ」
 どうにか回避しようと言葉を重ねるつもりの唇が、半開きのまま固まった。
「余すところなく味わいたい」
 目指す水準へ至る過程を。
 失敗を。試行錯誤を。うっかりミスを。まだ初心者に毛が生えたくらいの力量しかないわたしの、練習の積み重ね。その途上でできるもの。
 そのぜんぶを。
「藤丸にすれば単なる失敗作だろうが、オレには期間限定品だ。逃したくない」
 ――ああ。このひと。
 わたしを。わたしの足跡を。
……また、おぼえててくれるの?」
 あのとき、言ってくれたみたいに。
 ぽろりとこぼれたのは頼りなく震えた声。デイビットがびっくりしたみたいに目を丸くする。けれどすぐに細められる。同時に持ち上がった唇の端と同じく、ひどく嬉しそうに。
「勿論だ」
 きっぱりと言い切ったデイビットの笑み。得体の知れない熱が胸いっぱいに広がって、一瞬言葉に詰まった。
…………ああもう! わかった、持ってくるから……! 返品不可だからね!」
 がばりと立ち上がる。ぱたぱたと小走りでデイビットの部屋を出る。自分の部屋へと駆け込んで、予定よりひと回り小さく焼き上がったクロワッサンの群れを見下ろした。ひとつ取り上げる。ひと口齧る。噛み切るのにちょっと手間取る。やっぱ固すぎ。咀嚼する。ごわっとする。いいのは香りだけ。不意に滲み歪んだ視界をぐいっと腕で拭う。
 おかしいな。いつもは静かな瞳をきらめかせて、こんな失敗作を貴重品みたいに欲しがってるデイビットの何倍もおかしい。まだ食べられたくなかった。目指すものとは天と地より遠い。もっとちゃんと胸を張って届けたかった。美味いなって笑ってもらいたかった。
 そのはずなのに。
 泣きたくなるくらいうれしいなんて、変だ。
 そもそも『また』ってなんだろう。『あのとき』っていつだろう。自然とこぼれ落ちた言葉の意味が、自分自身でもわからない。似たような出来事なんてなかった。デイビットに出会ってから一度も。どうしてこんな感極まっちゃってるんだろう。さっきからずっとおかしい。目頭も胸の奥も熱くて、変に舞い上がっている。
 ごくりと飲み込む。喉に引っかかりながら食道を落ちていく。本当にひどい。クロワッサンの風上にも置けない。もう一度目元を雑に擦る。深呼吸する。トレイにがさっと盛り上げて部屋を出た。
 自分でも理由のわからない衝動に背を押され、ぱたぱたとデイビットの部屋に戻る。変に気がはやる。早く。はやく。行儀悪くサンダルを脱ぎ散らし、デイビットの待つリビングへと駆けこんだ。
「はい、ご所望のクロワッサン! 見てのとおり、本当においしくないよ」
…………ああ。頂こう」
 デイビットが立ち上がる。手を伸ばす。いびつなクロワッサンの小山にじゃなく、まっすぐ立香の目元へと。そっと拭われる。またすぐ滲む。あっという間にぼやける。デイビットの表情さえわからない。おかしいな、全然止まってくれない。変なの。くすくす笑いがこぼれる。涙もぽろぽろこぼれる。デイビットが律儀に拭ってくれる。キリがないのに。
「じっくり味わわせてもらう」
「それなんだけど……食べるの、ひとつくらいにしてもらっていいかな」
 涙を拭う手を止めようとしないデイビットに、ちょっぴり気恥ずかしくなりながら切り出してみる。
「断固拒否する。……と言いたいところだが、どうした?」
「フレンチトーストにしてみたいんだ。少しは食べやすくなるかもだし……一緒につくって、ホイップクリームも絞って食べよ?」
 出来栄えはもうどうしようもないけれど、やっぱり少しでもおいしい状態で食べてもらいたい。一緒に、なんて我儘も混ぜ込んでみる。いまも目の前はぼやけたままだけれど、デイビットが軽く頷くのがしっかりと見えた。
……魅力的な提案だ。従おう」
 デイビットがトレイをそっと取り上げた。ことりと小さな音。濡れた頬を自分で拭おうと上げた腕が掴まれる。ぐっと引かれる。ぽすんと受け止められる。そのままゆるく抱きしめられた。びくりと身を固くした立香を労わるように、ゆるく肩をさすってくれる。
「アイスクリームも添えたいところだ。君が泣き止んだら調達に行こうか」
……きかないの?」
 自分でもわからない涙の理由に触れようとしないデイビットに、恐るおそる尋ねてみる。
「訊いたところで答えられない。……だろう、藤丸?」
 柔らかく囁かれたデイビットの返答は、なぜだか満足げな響きを帯びていた。む、と唇をこっそり尖らせる。……確かにそうなんだけど、頷くのはなんだか癪だ。それすらお見通しらしいデイビットが、今度は背を撫でながらクスリと小さく笑った。
「理由なら、オレだけが知っていればいい」