来羅
2026-02-21 23:02:23
2587文字
Public トワウォ
 

惚気(風信)

ワンドロライ第32回。




「可愛いんだ」
 はぁと溜め息を漏らした龍捲風は、幾分疲れた様子で椅子に深く腰掛けた。勝手知ったる部屋の中、これまた勝手に茶器を手にして茶を注ぐ。
「信一が可愛い」
 困ってる、と愁いを帯びた顔が大真面目に言った。
 馬鹿なんだろうか。
 いや、馬鹿なんだろう。知っていた。
 大馬鹿でなければ、数十年前にこの香港を席巻していた青天會に少数で喧嘩を売るなんて真似はしない。
「いつ、どんなときでも、どこにでも、俺のあとをついてくるんだ」
 龍捲風がガキを拾ったという話は聞いていた。
 ただそれだけだ。聞き流すようなどうでもいい話だと思っていた。
「目が合うと笑う。小さな手で、躊躇いもなく、俺の手を握る」
 ほとほと困ったといったその顔の中にある喜びは隠せていない。
「可愛いんだ」
 初めての感情に戸惑う男は、果たして本当にあの龍捲風なんだろうか。
 おそらくは世界にふたり(ひとりは自分だ)、かの『龍捲風』を恐れず、狼狽えさせる人間。興味が湧いたのは、けれども一瞬だった。





「可愛いんだ」
 今日も今日とて頭の湧いたことを吐露する龍捲風は、またもや勝手に淹れた茶を断りもなく飲み干して溜め息をついた。
「信一が可愛い」
 それがどうした。
 言いかけたものの、起き上がって相手するのも億劫で寝たふりを続ける。そっとマットの隙間に手を差し入れて、いつでも得物が取り出せるように、それだけは忘れない。
「お前もガキを拾ったろう。どうしてこんなに可愛いんだ?」
 それはお前の頭が馬鹿だからだ。
 心のうちで毒づいて、苛々と歯ぎしりした。龍捲風は構うことなく、どれだけ『愛息子』が可愛らしいかを滔々と語っている。
「俺の右腕になりたいんだそうだ」
 そりゃ、当然だろう。話に聞く優男に、右腕が務まるのか甚だ疑問だが。
「ずっと俺の側にいると言われた」
 ボスの側に控えるのも当然のことだ。部下、ならば。
「あの子はどこにでも羽ばたいていけるのに、よりにもよって俺の側を選ぶんだ」
 けれども後悔なのだろう。滲み出る苦悩はボスのそれじゃない。
「俺は、それが、嬉しいと思ってしまった」
 ぽつりと零れた本音は随分と弱弱しかった。今ならば簡単にそのタマが取れそうだった。だから掴んだ得物からそっと手を離して、寝返りを打つ。
「可愛いんだ」
 そこにいたのは、誰だっただろう。
 ただの中年の男は、熱に浮かされたように可愛いとくり返した。





「可愛いんだ」
 いい加減にしてほしい。
「想像してみろ。ああ、いや、もったいない、想像はするな」
 実に面倒くさいことになった。
 龍捲風はひとりで勝手にべらべらとしゃべっている。
 あの弱そうな右腕が聞けば、悲鳴を上げて真っ赤になるに違いない。
 何が悲しくて、この男の浮いた話なんぞ聞かなければならないのか。
「俺が施してやったパーマを乱していいのは俺だけなんだそうだ」
 聞きたくない。
 聞きたくない。
 それでも寝たふりを選んだ手前、耳を塞ぐわけにもいかない。たとえそれがバレているとしても、だ。
「年甲斐もないと笑ってくれるな」
 笑うどころの話じゃない。恐怖だった。言ってもわからないんだろうが。
 幼い頃より手塩にかけた育てた『息子』に手を出すのと、自分の盾になって死ねと言うのはどちらが真っ当だろうか、などと思わず考える。
 少なくとも龍捲風はまともじゃない。
「可愛いんだ」
 べたべたに甘やかしている様がまざまざと浮かんだ。
 寝たふりも飽きて、盛大に眉根を寄せる。
「俺を見つめる瞳も、俺を求める腕も、俺に乞う声も、俺だけのものだ」
 仄暗い独占欲。
 ちりちりと肌を刺す怒気に目を開ける。
 そういえば王九との小競り合いがあったことを思いだした。
 ただのガキの喧嘩だ。ボスがしゃしゃり出てくるようなものでもない。けれども、その程度ならまだ、と牽制しているのだとようやく気づいた。
 ボスに守られる頭馬。
 噴飯ものの『愛情』を、あの顔だけの男は知らないに違いない。
 お前はそれでいいのか、とは今さらだった。
 大事に大事に鳥籠の中で囲うように愛でてきたその『愛息子』は、一端の男で、龍捲風の右腕で、今や王九にも引けを取らない。
「可愛いんだ」
 うっそりと告げる男に、その日はじめて肌が粟立った。




「可愛いだろう?」
 目尻を落として龍捲風が言った。
 こんなところまで押しかけてくる非常識さに頭が痛い。暇なんだろうか。暇なんだろう。何もない空間は頭がおかしくなるばかりで、これもまた幻かもしれなかった。
「俺がいなくても、仲間がいてくれる。最後まで城砦を守りきってくれた。住人たちを守りきってくれた。俺はそれが誇らしい」
 今度のそれは当てつけだろうか。
 じろりと睨めつけてもどこ吹く風の男は、愛用の煙草を吹かしながら口角を上げる。
「俺の信一は香港一の男だからな」
 その香港一の男とやらを置いてきて、それでもどこか清々しささえ感じられる龍捲風は懐かしむように、愛おしむように残された者たちを語る。
「そこで、だ」
 ちらりと、そのとき視線がこちらを向いた。
 楽しげな眼差しは冷ややかで、サングラス越しでもわかる殺気は敢えて隠していない。
「もうすぐここに来るだろう、お前の『愛息子』に、俺はどうすればいいと思う?」
 反射的に距離を取る。龍捲風は動かない。
 龍捲風の珠玉の顔についた真一文字の傷と、失くした指三本。
「ああ、そう身構えるな。『それ』はもう信一がやった。もう一度殺すにしても、まぁ、できるかどうかは知らんが、信一を待ってからにするさ」
 剣呑とした眼差しで笑う男は、なるほど、真っ当な黒社会の男だ。
「それまで仲良くしようじゃないか」
 はは、と笑う男は上機嫌に頬を緩める。
 もっと早くに気づいていれば何かが違ったんだろうか。
 いつもみたいに寝入りばなを急襲されて、意味のない息子自慢を聞かされていただろうか。
 龍捲風は、真っ当だ。
 真っ当に、頭がおかしい。
「それで、俺はどこまで信一の可愛さを話したんだったか。ああ、最初からにするか?」
「~~~~帰れ!!」
 我慢できずに突っ込んで、大ボスはうんざりと頭を掻きむしった。