かんら
2026-02-21 21:50:49
5935文字
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高度に発達した嗅覚は、氷砂糖の幻を見るか?

大正謎軸 天然成分多めの義炭


「あらあら、入れ違いになってしまいましたね」
 しのぶからの言葉をかけられた相手は、全く表情を変えずにぱちりと瞬いた。
「手紙で伝えてた件ですが、当の炭治郎くんが先に向かってしまいました。まだ血鬼術は解けていません」
 そのままつらつらと術の効果、炭治郎の様子と手紙に書ききれなかった情報を、彼は口を挟まずに静かに聞いている。
「────ということでして。そこで人の気配が少ない冨岡さんの屋敷に受け入れてほしいのですが……
「承知した」
 義勇は一言だけ相槌を打つや否や、姿を消した。先に出ていった炭治郎を探しにいったのだろう。
しのぶは相変わらずの言葉足らずの同僚に、溜息をつくしかなかった。





(うう、まずい……気持ち悪い……
 蝶屋敷での会話があった頃。炭治郎は足早に水屋敷を目指して進んでいた。自分の鼻を掴みながら歩く彼は、随分と顔色が悪い。
……まさか、匂いだけでこうなるなんて……


──五感を狂わせる術ですね。今、炭治郎くんは嗅覚が倍になって感知してしまいます──
 やけに藤の花の匂いがした、しのぶからの診察を思い出す。血鬼術はそう珍しいものではないが、相性が悪すぎる、と。
決して強い鬼ではなかったのだ。視覚を半減させたり、逆に聴覚を鋭くさせて動揺させるような術。言ってしまえばそれだけの事なので、すぐに首を切ることが出来た。
 しかし、子どもを庇って受けた術がよりにもよって嗅覚に作用する血鬼術だった。元々並外れた感覚の炭治郎にとって、鬼ですら想定外の凶悪さとなる。
 まず、鬼の醜悪な匂いが強すぎて顔を顰めた。土の匂いは畑を掘り起こした直後のようだったし、木の匂いは葉と幹が押し寄せてくるようだった。
何より人の匂い。体臭はもちろんのこと、血の匂いはより濃く、感情は頭を直接揺さぶられたみたいに暴力的に嗅ぎ取ってしまう。
 鬼はすぐに倒せたものの、塵になる匂いでさえ目眩がする。思わず手で鼻を抑えれば、羽織、隊服、刀、汗。それぞれと自身の匂いがハッキリと分かってしまい、その鮮明さが気持ち悪かった。
 嗅ぎ慣れた匂いは未知の感覚のようで、絶え間なく襲ってくる。しかも、ケガをした子どもの感情も流れ込み、立っているのがやっとの状態だった。
幸いにもすぐに隠が来て、子どもを任せられたが、その後は覚えていない。倒れてしまったのか、気がついたら蝶屋敷のベットにいたのだ。


 目が覚めてからも大変だった。人気の無い静かな病室なのに、何人もいる匂いがするし、薬が目の前にあるくらい強く香ってきて気が休まらない。どうやらどこに寝かせようとしても、ずっと苦しそうな顔をしていたらしい。
 軽い問診を終えたしのぶは、いつもより離れて診断結果を伝えてくれた。
「外傷はありませんでした。血鬼術は日光を浴びていれば二、三日で治るでしょう。しかし、ここでの療養は向かないですね……
 いつもより過敏となった嗅覚は、とりわけ人の匂いを嗅ぎ取ってしまうのだ。水を持ってきたなほの気配をしのぶより先に気づいたし、一部屋挟んだ先の隊士の感情すらも分かってしまう。
 何よりも、自分が辛いことより、無遠慮に人の匂い、感情を知ってしまうことが居た堪れなかった。そんな反応を事前に予想してたらしい彼女は、落ち着いた声で続ける。
「なので、街から離れた藤の花の家紋の家や、鬼殺隊が所持している拠点で休むのはどうでしょう? どちらも数人と関わってしまいますが、静かで蝶屋敷よりは過ごしやすいと思いますよ」

(静かで、人が少ない…………なら。それなら)
────感情を知りたい人がいる。

 そう思った時には、考えるより先に口が動いていた。
「あの、義勇さんの屋敷で休むことは出来ますか?」
……冨岡さんのところですか?」
炭治郎くんが選んでいいですよ、と柔らかく微笑えんでいたしのぶは、この提案に驚いたように口を噤む。少しだけ心拍数が上がった気がしたが、沈黙が落ちないように言葉を重ねた。
「ええと、前にお邪魔した時、あそこは人の匂いが全然なかったんです。周りは竹林だし、嗅ぎ慣れた匂いが多いので安心するし……。あっ、勿論しのぶさんや義勇さんがご迷惑じゃなければなんですが!」
「ふむ、確かに療養先に向いてますね。柱稽古も水柱まで辿り着いた隊士はまだいないようですし、鴉を飛ばして聞いてみましょう」
ありがとうございます、と頭を下げた自分自身の匂いだって分かってしまう。感謝の匂いだけではなかったことに、チクリと罪悪感が刺してくるようだった。


 返事が来るまで休んでて下さい、としのぶは出ていったが、言葉通りにすることは難しい。
なにせ鼻を摘んでも匂いが分かる。普段は意識しないで嗅ぎ分けていたものが、一斉に詰め込まれしまい、頭が処理しきれないみたいだった。
自分の匂いだけでも手一杯なのに、部屋に篭った独特な匂いは頭を締め付けるようで気が滅入る。かといって窓を開けてみれば、風は気持ちいいものの、木や土、人や薬の匂いも一緒に流れてきて参ってしまった。
いっそ屋根の上にでも登ってしまおうか、と考えた時に、義勇から常備薬も受け取りたいので迎えに行くという返信が来たらしい。
 そう知らされた瞬間、飛び出して行きたくなる衝動を抑えられなかった。
しのぶに申し訳なく思いつつも、外にいる方が気分転換になると言って外出許可を貰う。義勇への連絡を鎹鴉へ任せて、手際よく包んでもらった薬を持ち、外へ駆け出した。

(はやく、義勇さんの匂いを嗅ぎたい)

 しのぶ達を振り回す身勝手さや、一方的に義勇の感情を知る罪悪感すら忘れ、その一心で埋め尽くされていたのだ。



 今思い返すと、その判断は到底正気ではない。だが、疲弊した頭では判断を誤るくらい、義勇の匂いを欲していた。
 彼を例えるならば、清雅、静謐、清廉────とにかく、清らかなのだ。
人としての匂いは当たり前にあるが、それを上回って佇んでいるような、超然とした美しい匂い。
炭治郎にとって、家族の匂いはすぐに分かるくらい特別だが、義勇もまた特別な匂いの持ち主だった。
 しかし、ハッキリと自覚したのは最近のことである。今まではなんとなく、感情の薄い匂いだなとしか思ってなった。付き纏っていた最終日にようやく気づいたので、少し残念に思ってしまったのは一生の秘密だ。
 それくらい薄い匂いの彼を、もっと知りたい。
今の嗅覚なら屋敷の残り香も分かるかも、とそんな興味本位で動いた罰が下ったのだろう。

(人が、感情の匂いが、多すぎる……!)
 気合を入れて外に出たが、あっさりと折れてしまいそうなくらい、匂いに溢れていた。
人が行き交う様子は普段と変わらない。しかし、一人ひとりの体臭と複数の感情の匂いを、容赦なく嗅ぎ分けてしまう。
 ふと視線を上げた先。五つほど前の軒下で簪を見ている女性は憧れと葛藤、相対する店主は自信と少しの焦りがある。購入を迷う客に買わせたいのだろう、会話を聞かなくても予想がついてしまった。
それほど精度が高い匂いが、絶え間なく流れ込んでくる。覚悟はしていたが想像以上に辛かった。
 こんなことなら義勇さんを待っていた方が良かった、と何度も後悔したが、自分が決めた事なので歩き続けるしかない。そんな決意とは裏腹に、目的地の屋敷まで半分も進んでいなかった。
 ダメだ、まだまだ遠いけど一旦休もう、と横道へ逸れた時。今までの複雑な匂いが全て消える。
────違う。ただ一つの匂いに意識を持っていかれた。

「炭治郎」

 水の上に立っているようだった。見渡す限りの空と水は、どこまでも青い。その中で凛と立つ彼は、とても、とても綺麗で。確かめたくて、手を伸ばした。

 すり抜けてしまうのではないか、と思った手はしっかりと握られ、いつの間にか周りの景色は元に戻っている。……あれは幻だったのだろうか。

…………あ。義勇、さん……
……すまないが少し揺らす。寝てろ」

 一瞬の浮遊感。どうやら炭治郎を抱えて屋根の上に登ったらしい。流れていく景色と匂いから察するに走っているみたいだが、殆ど揺れを感じなかった。彼の匂いに集中し、他人の匂いから少し離れたおかげで、水上を揺蕩っているような心地になる。

……あの幻覚は、義勇さんの匂いを見たのかもしれない)
 そうだったらいいなあ、と振り落とされないように彼の首へ腕を回した。きっと落としやしないだろうけど、もっと匂いを嗅ぎたくなったのだ。
あの景色こそ、義勇の本質なんだろう。そう思えた事になんだか安心してしまい、すとんと意識が落ちていった。





 蝶屋敷から急いで追いかけて、やっと見つけた時には彼の足取りが怪しかった。驚かさないように正面に回り込んで声をかけたものの、反応が鈍い。
一目で分かる程に憔悴しきっている炭治郎をこのまま歩かせるのは危険だと判断し、顔色が見えるように横抱きにする。
表通りは人が多いし目立つだろう。一刻も早く休ませるのが先決だと屋根に登って走り出したが。
(まずい、今は人の匂いが一番辛いと言われていた。俺の匂いで悪化するか……?)
 療養先を提案したのは炭治郎らしいが、人がいないし義勇も頻繁に帰らないからこそ思いついただけだろう。義勇自身の匂いは我慢して過ごすつもりだったのかもしれない。
何も話してこないし、いまだ朦朧としている様子を見て、降ろして離れた方が良いか声をかけようとした。

 しかし、ぼんやりしていた炭治郎は、義勇の首元に抱きついてくる。
驚いて思わず凝視すると、ひどく気の抜けた表情で、さらに鼻先を埋めるように顔を近付けてきた。
……俺の匂いは、平気なんだな)
 腕の中でまるっきり安心して体を預ける存在に、ぶわりと血液が茹っていくようだった。
しのぶの話では老若男女問わず、人の気配に魘されていると言っていたのに。
 こんな仕草をされたら、自覚したばかりのやわい感情が流露してしまう。それとも、この辿々しく未熟な想いさえ、受け入れているのだろうか。……なんて、世迷言を。
 そんな義勇の葛藤など知らぬとばかりに腕の重心が変わったことに気付く。
再び顔を覗くと寝息を立てていた。青白いままだが穏やかな表情で、呼吸も正常に繰り返されている。
(確かに寝ろとは言ったが……
 心の中でため息をついて、あまり揺らさず、一般人に見つからないように走り続けた。

 炭治郎が起きたら、己には全くわからない自身の匂いを聞いてみようか。
今の彼なら義勇の心が筒抜けになると分かっていても、不思議と嫌悪感は湧かなかった。
 それよりも、無性に彼の声が聞きたいし、真っ直ぐな赤い瞳を見たい。
この腕の中で己の羽織を掴む存在に比べれば、たとえ匂いがバレて、世迷言と片付けられても、己のちっぽけな感情など至極どうでも良かったのだ。






(日差しの匂い…………春みたいで、甘い……水?)
「目が覚めたか」
……わぁっ!義勇さん!」
 炭治郎が目を開けると、義勇の顔が近くて思わず叫ぶ。驚いた匂いと心配の匂いだ。
「すみません、声が大きかったです……
「気にするな。体調は良くなったか?」
「はい!大分落ち着きました!」
「そうか」
凪いだような、嬉しそうな匂いがする。いつもだったら分からない匂いだろう。これだけ近いとよく分かるなあと一瞬だけ喜んだが、逆に何故こんなに近いのかと疑問を抱く。
 答えは簡単で、胡座をかいている義勇の上、横に抱き抱えられた状態で座っていた。
「うわあああああ!」
「っおい!」
今の体勢を理解した瞬間、暴れ出した炭治郎を押さえ込むように添えられた手の力が強くなった。焦った匂いが濃くなる。
「っな!なんで、抱えて……じゃなくてっ、すみません!えっと、あの!」
「落ち着け、周りを見ろ」
……へ?」
 その一言で本当に落ち着いていくみたいで不思議だった。言われた通りに視線を動かすと、どうやら屋根の上にいる。竹林も見えるし、水屋敷に着いたのだろう。安心と少し呆れた匂いがした。
「日が当たる客間や縁側に寝かせようとしたんだが、どこに降そうとしてもお前は手を離さないし、苦しそうだった。移動している最中は寝れていたから、屋根の上なら良いのだろうと抱えてたんだが……。どうした?」
「あ、……う、その…………
珍しく長めに喋る義勇に対して、炭治郎は何も話せなかった。顔が熱いし、全身から火が出そうなくらい恥ずかしい。あれほど伝えてきた鼻は、いまいち義勇の感情を暴けないようだった。
だって、だって。

(義勇さんのことが、好きだって、バレた……?)

 そんな分かりやすい反応をしていたら、誰だって気づくだろう。なんて言い訳をしようか、ぐるぐると頭の中が回りだす。
照れくさくて目を合わせられないのに、何を考えているのか、彼はさらに追い討ちをかけてきた。

「炭治郎。俺の匂いは好きか?」
…………はい」
「そうか」
その質問に三度目の大声をあげそうになったが、我慢して小さく答える。
嫌そうな匂いはしなかったし、もしかして恋心には気づいてないかもしれない。今更になって義勇の服をしっかり掴んでいる手が目に入る。
そう、意識を逸らしたのが良くなかった。次の瞬間、とんでもない発言が降ってくる。

「俺は、炭治郎の事が好きだ」

匂いで分かっていただろうがな、と薄く笑う義勇に対して口をポカンと開けるしかない。
(え……?義勇さんが、好き?匂い……匂いなんか……
確かに、言われてみれば恋のような匂いがする。しかし、それは今まで嗅いできた恋の感情とは違っていた。まるで透明に熟れた果実みたいな、嗅いだことのない匂い。
いつもは自身の匂いに隠れてて、今の嗅覚になってやっと知れた、彼の、義勇の恋。
それを実感する前に、再び彼の口が動き出した。

「炭治郎は、俺の事が好きか?」

 さっきから、天地がひっくり返ったような衝撃が止まらない。
口を開けば本心も、叫びも、建前も、余計な事も、心臓も、全てが出てしまいそうだった。
見上げた義勇の顔色は何も変わっていないのに、と少し恨めしく思った時、ぬばたまの髪から覗く耳が赤くなっている事に気づく。

 それを見た炭治郎は、込み上げてくる色々な想いを勇気にして頷いた。

 この瞬間の景色は、絶対に忘れないだろう。
万彩の花びらが舞い、満開の幸福が降ってくる。
冬なのに、春が咲いたような匂いだった。