yuma
2026-02-21 17:47:19
3286文字
Public せたしゃけ
 

1336 鄙の曙 (せたしゃけ)

「1334 冬」の続きのお話です。
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=24054474

史実ネタ、中風にかかったしゃけの療養話ですが、暗い話ではないつもりです。

タイトルは「とはずがたり」に登場する主人公の愛人の一人の愛称「雪の曙」から、響きが良いのでいただきました。
モチーフとしての朝が好きすぎる人間です。


1336 鄙の曙
 

 
 
 
 
 床を離れる瀬太郎の背が無性に名残惜しく、市河家の惣領は腕を伸ばして袖を引いて引き留め「今夜も来いよ」と囁いた。
 それを聞いた瀬太郎は振り向かず、主人の期待にか一瞬体をこわばらせ、「は」と短く返事をした。
 そのあとは、すっかりいつもの主従の顔をした二人は起き出して、身支度をし始めた。
 瀬太郎が隣の間の囲炉裏で沸かしたばかりの湯を手桶に入れて、持ち込んだ。
 立ち上る湯気が冷えた居室を見た目にも暖める。助房は湯に浸した布で顔をぬぐった。肌を刺すほどの熱さが、目覚めさせていく。
 次に諸肌脱ぎになり、身体の表面で乾いた汗をぬぐい、瀬太郎が冷えぬように手早く乾布で拭き取っていく。ぬぐっているうちに、たちまちに湯は冷めていった。
 夜着から清潔な衣に改めると、新しく生まれ変わったかのような気分だ。
 山に阻まれて、当地の日の出は他よりも遅い。
 締め切ってあった仕切り戸を開けて、まだ薄暗い世界の中、助房は瀬太郎の肩に手を置くと、
「これからも頼む」
 そう声をかけた。
 その日の午後、ちらちらと雪が降り始めたかと思うと、降り止むことなく、そのまま風雪強くなり、夜更けには吹雪となった。
 荒れ模様は翌日もその翌日も続いた。
 冬籠りの備えはできている。閉じ込められたからといって困ることはない。
 だが、館から麓まで踏み固められていた道は、あっという間に埋もれてしまったことだろう。
 その景色を思い浮かべて、助房は自身の心残りに僅かに苦笑したのだった、
 
 
 
  
 
 
 
 
 

「助房さま」
 呼びかけられて、助房は二年前の朝から現在へと意識を戻した。
 柔らかな湯の中で、揺蕩う波紋を眺めながら、瀬太郎の促しに片脚を伸ばす。従者の手によって、強張りが解されていく。
 目を瞑った。
 あのあとは、どうしたのだったか。結局、雪に阻まれて二度目の共寝まではだいぶ間があいた。それでもその冬は隙を見て何度も瀬太郎と抱き合った。
 冬以外の助房は変わらず守護と共にあった。
 馬鹿なことをしたものだと思う。一方で、これで良かったとも思う。
 肌を許しはしたが、瀬太郎はそれで増長することなどはなかった。むしろより一層、普段は主従の線引きを自らにきびしく課しているように思える。
 交わりの主体はあくまで助房で、瀬太郎の態度は自制と——敢えて言うなれば——慈しみに満ちている。
 今年の正月早々に助房が病に倒れてからは、主人の身体を労わり共寝をしようとはしなかった。
 助房が命じても、である。その頑迷固陋なさまは、主人を呆れさせた。が、一方でそれこそがこの郎党の長所であった。
 惣領の急な病は、市河の家中を騒然とさせた。
 幸いなことに、助房はしばらく寝付くことにはなったが、不具にもならず、当初は多少の痺れと足裏の感覚の異常が残る程度で済んだ。それも大方はすぐに消えた。自慢の聴力にも変わりなかった。
 雪中に郎党が人を出して山に入り手に入れた、万病に効くという熊の胆が効いたのかもしれない。
 だが、ひとつだけ。何もしていないのに、左腕や脇にビリビリとした不快感を感じるようになった。強い痛みではないが、不定期におこり、それは助房の集中を妨げた。
 寝入りばなに起こると最悪で、朝まで眠れぬことがあり、助房の日々に影を落とした。
 元々、聞こえの良さゆえに眠りが浅い性質だ。しばらく寝付いて身体を動かすことが減ったゆえか、睡眠不足のゆえか気がつけば食欲が落ち、冬の間は気分も沈んでいった。鬱々とした気分のまま、戦の差配はせねばならず、陰で瀬太郎には随分、心配をかける振る舞いもした気がする。
 痛みは根雪のようにしぶとく助房を苛んでいた。
 そんな折に、瀬太郎の母から伝え聞いたところによると、志久見のさらに奥、秋山の地に中風に効くという湯が沸いているという。
 雪解けを待って、案内を得てごく少ない供回りで生命が生い茂る奥山に分け入ったのが数日前のこと。
 道行はのんびりとしたもので、盛りのヤマザクラとトチの花が美しく咲き誇り、一行の目を楽しませた。
 春は気持ちの良い季節だ。
 陽は高く気分は自然と朗らかになっていく。
 馬から降りて徒歩《かち》で進まねばならぬ急峻な山道を、どうしてもと言う瀬太郎におぶわれて進んだのも良い思い出だった。
 そして、この湯に浸かっていると不思議と不快感も和らいでいった。
 この調子では帰りは自身の脚で山を降りられるだろう。
 ただ長湯は禁物だと言われている。少しぬるいほどの湯に日に何度か浸かるのが良いらしい。
 助房の脚を揉みほぐしてきた瀬太郎の手が止まった。
 そろそろ湯から上がる刻限のようだった。
 
 
 
 
 
 
 
 遣戸が開け広げられた柱の間からは、板廊下と手摺、野山の緑が生き生きと浮かび上がり、薄暗い部屋を彩っている。
 朝の湯を使い終わって、小板敷に着ていた衣を敷いて単衣のまま横になっている。
 助房は、さきほどからの瀬太郎との押し問答に飽き飽きとしていた。
「すっかり良くなったぞ」
「しかし」
「こんな人目のつかないところに連れてきておいて、今更怖気付いたなどと言うなよ」
「そういうわけでは」
 半月ほどの滞在予定の折り返しにきている。食欲も増して、体調はすこぶる良い。湯に浸かる以外はだらだらともの思い耽るくらいしかやることもない。
 であれば、当然のごとく欲求が湧いてくる、というものだった。
 起き上がり膝立ちでにじり寄ると、俯き加減の従者の顔を上げさせて口を吸う。
 抵抗がないので、すぐに舌を差し入れようとすると
「助房さま、駄目です」
 と、瀬太郎の腕が助房を押し留める。
「瀬太郎は『駄目です』と『しかし』が多いな。貞宗殿にもここまで拒まれたことはないぞ」
 貞宗の名を出すと、瀬太郎もにがり切った顔をするしかないようだった。
 貞宗の許しがあるとはいえ、また、助房が誘い込んだとはいえ、信濃守護の男を寝取ったようなものだというのに、もう少し自覚を持てば良いものを。
 瀬太郎としては、この交わりはあくまで我儘な主の世話の延長、というつもりなのかもしれないが。
 しばらく黙っていると、ぽつり、と瀬太郎が思いを溢した。
「助房さまのお加減が良いのはわかりました。ただ、このような春の明るい日差しのもとでなど、果たして許されるものでしょうか」
 瀬太郎の視線は、目に痛いほど瑞々しく鮮やかな緑へと注がれていた。
……
 助房は立ち上がると、両手で引き戸を締めにかかった。すぐに里山の景色は遮られ、一筋の光となった。それも振り返った助房が後ろ手に引き戸をぴたりと合わせると、何も見えなくなった。
「助房さま」
 声を頼りに、助房は瀬太郎に正面からのしかかると有無を言わせずに押し倒した。
「今だけここはまだ寒風吹き荒ぶ雪の中、それでいいな」
 諾の返事の代わりに、瀬太郎は助房を強い力で抱き寄せたのだった。

 

 
 



 
 
 湯治を終えた助房たちは、志久見の館へと戻った。
 足利が楠木を破ったという一報が届いていた。助房が休んでいる間に世の中は進んでいるようだ。
 それ以外には、貞宗殿からの書状、さらに村上信貞からの軍勢催促が届いている。
 村上とは諏訪との戦の掃討戦で一度会ったきりだ。助房が倒れて以降の一月、二月の戦の催促には弟の経助を出していた。様子を聞くところによると悪い男ではなさそうだが、北信濃でじわじわと勢力を伸ばそうとしているらしい。
 今回は小笠原と共同戦線を張るらしく、それであれば市河としては気負わずに参戦できるというものだが。
 
 季節は初夏に向かおうとしていた。