どうしてこんなタイミングで喧嘩をしてしまったんだろう。そこまで怒るようなことじゃなかったのに、俺がムキになって言い返した言葉に、喜八郎はキツイ目つきで俺を睨んで部屋を出て行ってしまった。一人残された俺の部屋の冷蔵庫には喜八郎にあげるはずだったチョコレートが冷えている。
俺と喜八郎は性格が全然違うから、意見がぶつかることはそれなりにあった。ある程度のことは喜八郎はそう思うんだなって彼を知る手がかりくらいに思えるんだけれど、時々は今日みたいに言い合いになって、俺はすぐに後悔の念でいっぱいになる。
喧嘩をしたいわけじゃない。大好きなんだから当たり前だ。俺の方が年上だから言い返したり揚げ足をとったりしなければいいのに……毎回こうやって反省をして、だけど喜八郎と話していると歳の差なんて忘れてしまう。良い意味でも、悪い意味でも。
俺はいつものように連絡先の中から喜八郎と一番仲がいい滝夜叉丸の名前を探し、おそらく喜八郎がそちらに行きますという内容とともに二人が好きなケーキ屋のギフトチケットを送った。
俺たちの仲直りは難しくない。喜八郎はわりと怒りが持続するタイプだけど自分の興味があるものが目の前にあればそちらに気を取られ、タイミングさえ間違えなければ簡単に俺の謝罪を受け入れてくれる。だけど、今日だけは、そんなタイミングなんて待っていられない。
滝夜叉丸にメッセージを送った直後、俺はその履歴のすぐ下にある喜八郎とのメッセージ画面を開いた。昨日の夜、駅前で待ち合わせをした時のやりとりを見ながら、入力画面にぽちぽちと文字を打つ。本当は電話をしてしまいたかったけれど、さすがにまだ移動中だろうし、怒っているだろうし。
打ち終わった文章を二、三回読み返してからえいやっと送信。じっと見つめていればすぐに既読がついた。喜八郎はいつもスマホを鞄の中に放り込んでいて全然確認しないのに。まさか俺からの連絡を待っていたのだろうか。
思わずふわりと浮上しかけた気持ちに、落ち着けと言い聞かせながらアプリを閉じて立ち上がった。うろうろと部屋の中を歩き回り、一分ほど経ってから画面を確認する。通知は特にない。いや、まだ文章を打っているところかも。基本的に短文かスタンプしか送ってこないけれど、今はいつもと違うわけだし。いや、でも。考えたところで何も変わりはしないので、もう一度画面を消して、飲み終わっているコップを洗うためキッチンに立った。
普段なら喜八郎の気持ちが落ち着くまで待っている。彼が俺のことをちゃんと好きだと分かっているから待っていられる。でも、今日だけは、何日も前からリサーチして用意したチョコレートを、バレンタインデーの今日のうちに渡したかった。
ブブッとスマホが鳴って、俺は手に泡がついたままスマホの元へ走った。濡れた手で画面に触れアプリを開く。
『また喧嘩したんですか? 喜八郎と連絡がつきましたので、ご安心を』
あーっ、滝夜叉丸か……!! いや、ありがとう、だけど……!
ガッカリした心をきちんと隠してお礼のメッセージを送り、ソファーに倒れ込む。ソファーカバーの生地が濡れて、喜八郎に怒られるなぁと思った。怒っていいから戻ってきてほしいと思った。バレンタインデーはもう半日も残っていない。
手の中でスマホが震える。滝夜叉丸からの返信かなと思いながら目を向ければ、画面には喜八郎の名前が表示されている。バッと起き上がって、震えそうな手で応答ボタンを押した。
「もしもし……!」
『……』
「あれ、喜八郎……? ……もしもし?」
『……今日だけ、特別です。謝ったら許してあげます』
「! ごめん、ごめんなさい! 直接謝らせてほしい、今どこにいる?」
『……公園』
「どこの? え、うちの近くの、あそこ?」
『久々知先輩のばか』
「ご、ごめん……? えっと、迎えに行ってもいい?」
『僕がいつも滝夜叉丸のところ行くと思ってますよね』
「……いま、怒ってる……?」
『ばか。黙って聞いてください』
「はい」
『久々知先輩がわざわざチョコ買ってたの知ってました。あんな堂々と冷蔵庫の中にあったら気付かない方がバカですけど。男同士でバレンタインなんてする必要ないのに、先輩が』
「待って、喜八郎」
『黙って聞いてて。先輩がバレンタインとかのイベントをいちいち気にするのも知ってたし、真面目にチョコ用意するんだろうなって分かってたから、だから、僕もチョコ買ったんです』
「え!? どこ、えっ、いまそこの公園にいるんだよな? 今すぐ行くから動かないで」
『もう、うるさいな……。でもやっぱりいつもみたいに喧嘩しちゃうし、先輩、追いかけてきてくれないし、……チョコ食べちゃった』
「は!?」
電話をしながら部屋を飛び出して、鍵もかけないまま階段を駆け下りる。階段の出入り口を閉じている扉を叩くように開けガシャンッと壊れそうな音が鳴るのを背中で聞いた。電話の向こうで落ち込んだ声で話す喜八郎の言葉に頭が沸騰してしまいそうだった。チョコ、食べちゃった!?
人気のない道を駆け抜けてすぐに公園に辿り着き、こどもたちが遊び回る中でぽつんとベンチに座る喜八郎を見つけて「喜八郎!」と声を上げた。ビクッと肩を震わせた喜八郎が顔を上げ、電話口から『早いですね……』とちょっと引いたような声が聞こえた。もっと、もっと早く、喜八郎を追いかけていればよかった。
滑り込むように公園の中に入り、ベンチの前で膝をついた。ぎょっとした喜八郎の顔が思ったより全然怒ってなくて安心したけど、今はそんなことより。
「ごめん! チョコは!?」
「……まだちょっとだけ残ってます。でも、包装紙は破いちゃったし、見た目ももう」
「いいよ、そんなのどうだっていい。すぐに追いかけなくてごめん。バレンタインなのに、喧嘩してごめん。全部俺が悪かった。だから、……たのむ、チョコ、少しでも欲しい……!」
「……ふ、ふふ、もう、久々知先輩、時々すっごくめちゃくちゃですよね。謝ってくれたから許してあげます。僕も、せっかくのバレンタインなのに怒ってごめんなさい。……先輩のチョコ、まだもらえる?」
「あげるに決まってる!」
ぎゅっと手を取り握ると、よかった、と喜八郎が微笑んだ。その笑顔だけで喧嘩してたことなんて全部忘れてしまえる。好きって、魔法みたいだ。
「おにいちゃんたち、なかなおり?」
「けんかしたのー?」
「チョコおれもほしいー!」
「わっ、わ、いつのまにか子どもが!?」
「土曜日ですからね。チョコはこのお兄ちゃんのだからあげないよ」
「うそだー、だってさっき自分で食ってたじゃん!」
「僕が買ったから僕のでもあるの。でももうこの人にあげちゃった」
「チョコ食べたいー!」
「ぼくもー!」
「き、喜八郎」
「もう行きましょう。ほら、みんな邪魔だよ。チョコは好きな子にもらいな」
「昨日もらった!」
「おれも!」
「わお、最近は進んでるんだな。じゃあそのチョコで満足しなよ。僕のも好きな人用なんだ」
「!」
「お兄ちゃんが好きなのー?」
「えー!」
いつのまにか俺たちの周りに集まっていた子どもたちを喜八郎は案外うまくあしらって、俺のことを押して公園を出た。しばらく着いてこようとしていた子たちも公園を少し離れると「またねー!」と手を振って公園に戻って行く。ようやく二人きりになって、喜八郎がふぅとため息を吐いて俺の手を取った。
「っ!」
「ん? あ、喧嘩してたんでしたっけ?」
「してない、してない!」
「謝ったから許したんでしたね。久々知先輩、本当に飛んできたから、おもしろかったですよ」
「だって喜八郎がチョコ食べちゃったとか言うから……!」
「全部食べる前でよかったですね」
「本当だよ!」
「ふふ」
喜八郎が、俺の隣で笑ってくれる。チョコがなくても俺はそれだけで十分幸せだった。チョコがあるから幸せは倍になる。
「帰ったら一緒に食べよう」
「先輩どんなやつ買ったんですか?」
「有名なところのみたいだよ。一応去年までの口コミとかも調べて評判のいいやつを選んだから、ちゃんとおいしいと思う」
「やった。楽しみです」
「……チョコがあるのを知ってたなら、出て行かないでくれればよかったのに」
「それとこれとは話が別です。そもそも先輩が……、ストップ、喧嘩は明日にしましょう。今日はバレンタインデーですから」
「明日もしたくないけど、了解。今日はバレンタインデーだから」
それでもたぶん俺たちはくだらないことで喧嘩になってしまうんだろうけど、今日はバレンタインデーだから、喧嘩は全部明日に持ち越そう。何か口が滑りそうになったらチョコを放り込めばいい。甘いチョコレートがきっと怒りも溶かしてくれるだろう。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.