燐々
2026-02-20 22:17:59
18561文字
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ハレの鐘を照らす日

「リンのやつ、結婚でもすんのかな」 シーザーのそんな一言から始まる物語 彼女が結婚するかもしれない、その事を人伝に聞いた彼がどうするのか。 諦めるのか、そうではないのか。そんなイメージから生まれた1作です。

 それは、ダイナーで一緒に飯を食っていたうちの大将の一言がきっかけだった。
「リンのやつ、結婚でもすんのかな」
……は?」
 シーザーには乙女チックな思考をする傾向がある。本人は俺たちに上手く隠しているつもりらしいが、実際のところは彼女秘蔵の愛読書を読んでニヤついているところを全員が見ないフリをしてやっているに過ぎない。
 ただ、そんな大将ではあるがフィクションと現実を混同するタイプでもなく。何の理由があってリンが……最近少しずつ距離感を変えようとしている俺の意中の相手が結婚するかもしれないなんて言い出しているのか分からない。
 いつもならあっという間に二、三個を平らげるバーガーの包装を指で弄りながら溜息を吐く彼女に向かってテーブルを指先でコツコツと叩いた。
「大将、俺を置いて話を進めないでくれるか。何があってリンが……その、なんだ……結婚するかも、なんて話になる?」
「だってよぉ」
 らしくもない弱々しい声に嫌な予感がひたりと爪先から這い上がってくる。
 曰く、最近街へ行く度に同じ男と出掛けているのを見かける。
 曰く、かなり親しげな二人が眺めていたのは式場案内のポスター。

「カフェで二人して眺めてた雑誌がウエディングドレスの載ったやつなんだぜ_!?_ こんなの、結婚するに決まってるじゃねぇか!」
……
 頬を赤くして叫んで髪をかき乱す目の前の相手は、親友が結婚の相談してくれなかったことを悲しんでいるらしいが、こっちの心境的にはそれどころじゃない。さっさと自分の分を食べ切っていて良かったと思うほど胸の内がザワついている。口元を指で隠しながら回す思考は放っておくと油を差していないネジのように軋んで今にも止まってしまいそうだった。
 そもそも幼くはないが、まだ若いと言って差し支えないリンが結婚を考ているのにも驚きで。彼女にそんな相手がいることに気がつかなかった自分にも驚いてしまう。
 ——よく見ていたはずの相手のことを俺は何も知らなかったのかもしれない。
 あの子には俺と同じで触れられたくない弱い部分があるんだろうと薄々察してはいた。だからこそ、安心して少しずつ心の距離が縮んでいると感じていた。でも、それは酷く驕った考えだったのかもしれない。
「お前、死にそうな顔してるぞ」
「グラサンで見えんだろうが」
「見なくても分かるくらいヤバいってことだよ。あー……コレもう一個食べるか?」
……頂こう」
 トレイに何個か残っていたうちの一つを受け取ってじっと眺める。手軽にカロリーが取れて、味も美味いバーガーにすら彼女との思い出がチラついた。
 さっきは何も口に入れたくないと思っていたが口を開いて深くバンズへ噛み付けば、じわりと肉の味が口に広がった。最後の一口になるまで飲み込む勢いで食べ切れば胸に溜まりかけた澱が多少マシになる。
「喉詰めるなよ?」
「問題ない。それより、シーザー。あんたが彼女たちを見かけたのはどっちの街だ?」
「ルミナスクエアの方だぜ。六分街の方には式場なんて洒落たもんはないしな」
「そうか」
 彼女が選ぶ男ならきっと悪いやつじゃないんだろう。俺よりもずっと清廉で潔白で……遠くの岸を眺めてジッと見つめるようなやつじゃないんだろう。俺ではない他の誰かの隣で穏やかに笑う彼女のことを考えるほど、そっちの世界が正しいような気がして色の向こうにある視界が歪むような錯覚を覚えた。でも、一度目を閉じて深く息を吸えば歪んだ視界は真っ直ぐに戻る。
「なぁ、大将」
 決断をすること、責任を負うことは二度と御免だと思っていたのに。握った右手の拳は握った想いを諦めて脱力することを良しとしない。だから、未だモソモソとバーガーを齧る俺の芯とも言える相手へ握った右手を突き出した。
「諦めの悪い男は嫌われると思うか?」
「そうだなぁ」
 口の端についたソースをぺろりと舌で拭ったシーザーは斜め上を少し見上げる。でも、少しの間の後にニヤリと笑った彼女は握った拳をゴツンと俺のものに当てた。
「さっさと諦めちまう奴よりはガッツがあっていいと思うぜ」
「俺もそう思うことにするよ」
「こう……好きなら掻っ攫って来るようなやつの方がいいと思うんだよなぁ。その方がトキメク……って……ま、ま、街の奴らがな! オレ様がって訳じゃねぇから!」
「はいはい」
 途端に赤くなってあまり食が進んでいなかった様子が嘘のように口の中をいっぱいにする姿を笑いながら、自分のトレイに残っていたドリンクをストローで軽く啜った。氷が溶けたのか薄まった味のするソレは美味いとは言えないが、無意識のうちに酷く乾いていた喉を潤すには十分な味がした。

 
【暇か?】
【今日はちょっと用事があるんだよね】
 ポンと返ってくるのは無機質な文字。ここで意味もなく【いつなら会える?】と聞けるほどリンとの関係は進んでいない。郊外には無数とある岩へ背を預けてスマホの端を指で叩く。例の大将との一件以来、早めに彼女へ事の真相を聞こうと何度か間を開けながら誘ってみるもののどうにも上手くいかない。それどころか、いつでも二つ返事で返ってきていたノリのいい快諾の返事が返ってこないことにヤキモキしている方が近頃は多い。だが、こうして躊躇う間にも彼女の結婚話が進んでいたらと思うと気が気じゃない。
 無理にでも会いに行って進むか、一旦止まるか、あちこちに考えが霧散し始めると手に持っているスマホがそのうちパキりと音を立てて自分の握力の被害者になるんじゃないかと思ってしまう。
「強硬手段にでも出るか……?」
「物騒なことを呟くのはおやめなさい。それで、一体なんの話です?」
「近頃のライトは、ず〜っとスマホと睨めっこしては眉間をぎゅうっとしちまってるよなぁ。老眼になるにはまだ早いと思うぜぇ」
 両サイドで口々に言うルーシーとパイパーが俺のスマホを覗こうとするから高く手を上げて遠ざけた。それに対して赤いイノシシたちも一緒になって抗議してくるが知ったことではない。
「プライバシーはどうした。郊外の砂の中に捨ててきちまったのか?」
「誰のことを考えてるか丸わかりの顔をしているあなたにプライバシーを語られるとは思いませんでしたわ」
「せ〜しゅんの香りは土の匂いくらいじゃ隠せないってな」
「面白がってるだけだろ」
 その通り! と頷く二人の頭をそれぞれ指で小突いてから、もう一度このモヤつく胸の元凶になっている上手く繋がらないメッセージに視線を落とした。
「そんなに気になるなら直接訪ねればいいのでは?」
「あたしもプロキシならこんにちは〜って行っても怒ったりしないと思うなぁ」
「それに、ビデオを借りに行くのは会員カードを持ってる者の権利なのではなくって?」
……それもそうか」
 コツンと地面を叩いたバットの音に余計なことまで考えそうになっていた思考がピタリと止まる。うちの参謀の言葉は、久しぶりに誰かのためでもなく自分自身のために行動しようとしているせいで、余計なことまで考えようとしていた頭にはちょうどいいブレーキだった。そもそも客として出向けば何処かへ一緒に出かけるのは無理でもリンと話くらいなら出来るはずで……結婚話が本当ならその時にふらっと彼女の口で直接言われるかもしれない。その時に自分がどう思うのかははっきりと分からないが、今はそれでも動くしかない。ついこの間、シーザー相手に決意して拳を突き出したばかりの自分が見れば呆れて溜息をつきそうなほど思考がまごついて停滞してしまっていた。もう二度と何かを失うのは御免だと思うのに、いざ決断を迫られると若干動きが鈍る己の足をパシリと叩く。
「ルーシー、今日の仕事は安全に帰るだけだな?」
「そうですわね」
「少し出てくる」
「あら、今日のプロキシさんは予定があるのではなくって?」
「ちょうど見たいビデオがあったんでね」
「送ってく〜?」
 パイパーからの軽い問いかけはひらりと手を振って辞退する。彼女の愛車に乗せてもらわずとも俺には自分のツレがいて、郊外の空風を浴びながら考えたいこともあった。そして、察しのいい二人と違って未だに足元でブヒブヒ鳴きながら絡みついてくるイノシシたちを踏まないように軽く手で払ってから少し向こう側に止めた相棒へ跨る。
 郊外には街ほど細かい法はないから、ヘルメットも必要なければエンジンを噴かして最高速度を出す俺を誰も止めたりは出来ない。それに、日が傾くにはまだまだ時間がある。リンが暮らす街よりもずっと近く熱い日差しをサングラスで遮って、回り続けるタイヤと同じように思考を回し続ける。
 ——本当にあの子が結婚するとして、俺はどうするのか。
 諦めの悪い男になることを大将に誓っても、白いドレスを身に纏った紺色の髪が、知らない相手の隣に色を添える姿を想像するだけで胸の奥は直接強く殴られたようにぐらつく。でも、その靄のような不快な気持ちを抱いているという事実こそが自分の気持ちが胸の奥底では揺らがずに固まっている証拠なんだろう。
「リン」
 風を切って走っていれば搔き消されるような小さな呟きでも、たった二文字の名前を口に出して呼んでしまえば胸の靄を晴らすほど心臓は強く音を鳴らす。だって彼女は、いつも視界の何処かで遠くの岸へ行ってしまった仲間たちを見ていた俺の手を引いて、改めて前を見ることを教えてくれた特別な相手だ。だから、この唯一の名前を間近で呼ぶ権利を他の誰にも奪われたくない。
 はっきりと形になった思考を取りこぼさないように、ほんの少しだけ姿勢を前傾にして風と一緒になりながら郊外から街への慣れた道をひたすらに駆け抜けた。
 

 思った通りに日が傾くよりも早く六分街にあるビデオ屋裏の駐車場に辿り着く。飛ばしすぎたのか乱れた前髪を軽く頭を振るついでに整えれば、革のグローブの下にある手も力み過ぎたのかギシギシと軋んでいた。その他にも感じる細かい違和感を店の入口に向かいながら直して、肝心の扉の前でひとつだけ息を吐いた。そして、片手でも軽く動く丁寧に整備された扉を開けた。珍しく客のいない店内には店番のボンプがいて、俺を見るとぴょこんと長い耳を跳ねさせた。
「ンナンナ!」
「あんたしかいないのか?」
「ンナ」
 俺の問いに二、三度首を横に振ると機械の体は隣の工房へ駆け寄って行った。また別のボンプが光る目でこっちを見ているドアが開けられると、中から現れたのはリンではなく彼女の兄だった。
「やぁ、ライトさん。いらっしゃい」
「アキラ、あんたの妹は留守か?」
「いいや、ここにいるよ」
 てっきり出かけていると思った相手がいるらしい工房へ近寄ろうとすると中から高い悲鳴が響いた。その悲鳴の鋭さにどくんと心臓が嫌な音を立てるのは、遠い昔に耳を割いた声を想起するからかもしれない。ただ、この家に間違ってもエーテリアスはいないし、この声が身の危険を感じて発されているものじゃないと言い聞かせれば嫌なリズムで鳴っていた鼓動はすぐに収まる。
「なんで呼んじゃうの_!?_ お兄ちゃん!」
「別にいいじゃないか」
「もー! 全然良くない_!!_」
 落ち着いた声と跳ねる声が言い合う様子に俺が足を止めると、アキラは困ったように眉を下げた。
……入っても?」
「どうぞ」
「どうぞじゃない!」
 相反した言葉が飛んでくるが、迎え入れるようにドアを手で押える相手の味方をして工房へ足を踏み入れれば——中には白いレースの花嫁が立っていた。
 人工的なモニターの光を浴びているだけなのに網膜へ焼け付くように輝いて見える白色に目を見開けば、ドレスと同じような柔らかい生地の手袋に覆われた手で近くのモニターを指さすリンは赤い唇を開いて声を出した。
「Fairyが見たいって言うから……!」
「マスターの晴れ着姿をメモリに記憶するのは助手として当然の権利であると主張します」
「ごめんね、ライトさん。こんなの急に見てもびっくりするよね」
…………
 彼女が動く度に床に擦れる裾の音がやけに大きく聞こえる。敵を地面に引き摺った時とも違うスルスルと軽く響くだけの小さな音が耳にこびりついて離れない。
 白い姿が少しずつ近づく度に、空気の吸い方を忘れそうになって。見慣れない白色の中に浮かぶ綺麗な目が変わらない仕草できょとんと俺を見上げるだけで胸の奥にある心臓が止まったような錯覚を覚えた。
「あんた……それを着るのか?」
 一体、誰の隣で?
「うん、本当は明日着るんだけど。お披露目しろってうちの妖精が煩くって。式場に無理言ってドレスだけ持ち出してきたんだ」
「明日……なのか?」
「えっ、うん。明日だよ」
 息をしろと頭に命令をしなければこのまま視界が眩んでしまう。顎を殴られて脳が揺れた時よりも、こめかみを打ち付けて切れた血が目に流れた時よりも。ずっとずっと強烈に目が回るような気がした。リンが誰かの隣を選んだことも、そこへ収まる日付も……何もかも知らなかった。そもそも、このことを知る権利すら自分にはなかったと突きつけられたようで指先から順番に血の気が失せていく。そして、今ほど日頃からグラサンをかけていて良かったと感謝したこともない。この目元を隠す色がなければ格好悪く血色が失せた男の顔を幸せなはずの彼女の瞳の前へ晒すところだった。
 一度だけ目を閉じて白いドレスを視界から消す。それから、彼女にバレないようにゆっくりと息を吸って冷えた指をグローブの中へ隠したまま紺色の髪をそっと梳く。時々、夕焼けの公園で俺の視界を借りたまま隣に立って話をする横顔にもしてやっていた触れ方も、これからの俺には許されなくなるんだろうか。
「えっと、ライトさん。お兄ちゃんもいるし……ね?」

 ——ああ……嫌だ。

 家族がいるからと困ったように眉を下げながらも、俺に撫でられて白い頬を赤くしているのはリンなのに。
……よく似合ってるな」
 このドレスが俺と揃いの色だったなら涙が出るほど美しいと素直に思えたはずだと考えてしまう。彼女に似合っているから余計に胸が詰まって息が苦しい。それでも、詰まった胸から無理矢理言葉を引き摺り出して褒めれば、更に赤くなっていく姿を見てしまうと——諦められないと頭の奥が喚いて仕方がない。
 触れられて、避けてくれたなら……俺なんかでは比べられないほどの相手がいると諦められた。でも、こんな風に希望が残るような反応をさせてしまうような奴が彼女の相手なら諦めがつかない。つけられるはずがない。
 ——この恋は簡単に膝をついて、首を曲げて。別の誰かに託せるような恋じゃない。
 髪を撫でていた指に一度だけ紺の毛先を巻き付けてするりと離せば、リンは照れたように指先で頬を掻いた。そして、気を取り直すようにドレスを摘むと「気に入ってくれたなら、明日ライトさんも見に来る?」なんてことを言って笑った。無邪気で残酷な誘いを受けて心を折った方が彼女のためになると理解していても、次の一手を考え続ける頭はこの誘いを最後のチャンスとしか捉えなかった。だから、いつもの調子でグラサンに触れながら「是非、行かせてもらおう」と答えれば彼女は傍のテーブルへ置いたスマホを手に取って左右へ振った。
「あとで、式場の座標と時間送っておくね!」
「助かる」
 頭も視界もクリアになれば、平然とするのは楽だった。落ち着いて息が出来るようになった体で「また明日」とだけ告げてひらりと右手を振る。綺麗に纏められた白いレースの想い人が同じように手を振るのを見た後に店の外へ一人で出る。そして、大人しく待ってくれていた愛車に凭れかかってスマホを取りだした。数コールのうちに繋がった相手の声は俺から仕事以外の要件で通話なんて滅多にしないせいか酷く不可解そうで、スマホの向こうで形の良い眉を寄せて皺を作っているのも簡単に想像がついた。
「悪いな、ルーシ。ちょいと頼みがある」
 諦めの悪い男が無様に散らないための装備品の手配はうちのお嬢様にしか頼めない。簡単な通話を切った後に見上げた空は、日が傾いて夕陽色に赤く染まり始めていた。イアスの体を借りたリンをたった一人の観客として認めたあの特別な日と似た色をじっと目に焼き付ければ、二度と心は迷わなくなった。
 
 ——俺は、あの子の傍にいることを諦めたくない。
 

 天気は雲一つない快晴で、テラスを吹き抜けていく風も寒すぎないくらいで丁度いい。朝からあれこれ着付けられてちょっと疲れているけど、昨日は着けなかった綺麗なベールを頭に乗せてもらうと繊細な装飾に心は弾んだ。鏡の中にいる自分は多くの女の子が一回は憧れる物語の中のお姫様みたいで指先で触れてみたくなった。ちょんと触ってみた鏡の中にいる私は普段バタバタとあちこち走り回っている自分とは別人みたいに綺麗で思わず笑ってしまう。
「機嫌が良さそうだね、リン」
「私だって女の子だから、こうやって綺麗にしてもらうとテンションも上がるよ」
「僕としては少し複雑な心境だけど」
「お兄ちゃん……それ、昨日も散々聞いた」
 グレーのスーツを着たお兄ちゃんは足元にお揃いの蝶ネクタイでお洒落をしたイアスたちを引き連れて腕を組んでいた。昨日だってドレスを着た私を褒めながらも「複雑だ……複雑だ」と散々繰り返していたからこれ以上聞いたら耳にタコができてしまう。
 だから、きゅっと自分の手で両方の耳を塞ぐと私のものと同じような色をした目は丸くなっていた。でも、不意に目元を柔らかくしたお兄ちゃんは私の前髪を崩さない程度に撫でてから「僕もそろそろ覚悟はしておかないとね」と静かに笑っていた。
「お兄ちゃんに可愛い妹離れが出来るのかな?」
「リンの方こそ面倒見のいいお兄ちゃんがいないといつまでも困るんじゃない?」
「どうだろう……お兄ちゃんがいないのって想像つかないなぁ」
「ははっ、僕もだよ」
 白いドレスとオシャレな空間に浮ついているのか普段はしないような話をしてしまって家族相手なのに照れてしまう。それはお兄ちゃんも同じなのか、触ると崩れる髪じゃなくて私の頬を両手でうりうりと撫で回して赤くなった耳を誤魔化していた。
 そうやって、兄妹で話しながらじゃれていると係の人がやって来てお兄ちゃんたちとは別れることになった。後でチャペルで会うと分かっていてもほんの少し寂しかったのはウエディングドレスの感触に心が引き摺られているせいだ。慣れない高さのヒールと長いドレスに躓かないように頑張って歩いているとさっきのお兄ちゃんの反応も相まって——私が本当に結婚するような気分になってしまう。
 案内の人に連れられ入ったチャペルは明るくて、カラフルなステンドグラスが光を透かしていてとても綺麗。足元のガラスの向こうには白い花が敷き詰められてあって、ここを歩く新婦さんたちはみんな幸せな気分になるに違いない。そんな道を歩く私を見るのは家族の他は知らない人ばかりで、全員が今日のために集まった式場のスタッフさんたちだ。
 そして、歩いていった先で私を待っていたのは今回の発端である依頼人。街中で突然「モデルを頼めませんか_!?_」と泣きついてきた時には正直変な人だと思ったんだけど……この綺麗な式場の宣伝に命を懸けていると言ってもいいくらいの熱意があって、色んな夫婦の門出に立ち会いたいと熱心に語ってくれたから写真の撮影に協力することにした。そもそも、これだけスタッフさんがいるのならその中の人と写真を撮れば? と言ってみたりもしたけど、それだと写真を見てやって来た人が同じ顔を見つけてがっかりするかもしれないとのことで、特に人目を惹く花嫁側は関係者以外が良かったらしい。
「やっぱり貴女に頼んで正解でした」
「そうかなぁ」
「はい、きっと最高の宣伝写真になります!」
「そうだといいけど。それで? 何処にどの向きで立つとか決まってる?」
「ここに、この向きで……
「うんうん」
 一応お揃いのデザインの白いタキシードを着た人と向かい合って立つ。一生懸命にいい写真を撮ろうと頑張る姿を見ながら、頭の中で「この相手がライトさんならもっと笑顔になれそうなのに」なんて薄情なことを考えてしまう。
 真っ白のイメージもないし、神様へ幸せを誓うイメージもない片想いの相手が赤いマフラーの代わりにネクタイを居心地悪く締めている想像をして思わず笑ってしまう。
「いい笑顔ですね、そのままでお願いします」
「はーい」
 好きな人を思い浮かべた笑顔を褒められつつ、さらりとしたベールを下ろしてくれる彼へ向かって少し屈んで頭を下げた——その時だった。

 バン!

 確か、式場の説明をされた時にお兄ちゃんが「随分重いね」と苦笑いしていた両開きの木の扉。さっきもスタッフの人が一人ずつ片面を押して開けてくれた厳かな重い扉が大きな音を立てて開いていた。その場にいた全員が音の方を向いても全く揺れもしない長身の影を私が見間違えるはずがない。でも、頭に思い浮かべる装飾が何一つない姿に思考はぴたりと止まってしまう。そして、注目を一身に浴びたその人は徐に右腕を真っ直ぐ私たちに向けて伸ばした。スっと人差し指だけを立てた手で相手を指す仕草はこの世界で一番——ライトさんに良く似合う。
「その結婚、ちょいと待ってもらおうか」
 低くハリのある声は、必死に叫ばなくても真っ直ぐ私の耳に響く。黒いタキシードのジャケットはいつもの彼の装いと色は大きく変わらないのに。視線を遮るサングラスもなくて、目元を隠す前髪も綺麗に後ろへ上げられているせいで、真っ直ぐ赤い視線に射抜かれているとひと目で分かって心臓がバクバクと騒がしく音を立てる。

           一歩。
      一歩。  
 一歩。  

 ライトさんが真っ直ぐ私に向かって歩いてくる。そして、最後の数歩を駆けて詰めた彼は私たちの間にバッと割って入った。少し広げられた右腕は、ホロウの中で何度も見た背中で私の入ったイアスを庇う時の仕草と同じだ。
「ハレの日に雨を降らせるようでおたくには悪いが……邪魔をさせてもらう」
「え、えっと……?」
「ライトさん……な、なんで_!?_」
「なんでも何も、リンを攫いに来た」
 まるで、映画に出てくる悪者がお姫様を攫う時のようにニヒルに笑った彼は、重さなんてないかのように私のことを両腕に抱き上げた。会場がざわざわと騒がしくなってお兄ちゃんが「リン!」と叫んでいるのだけがよく聞こえた。でも、私の視線は周りも何にも気にならない。出逢ってから一番近くにある赤い色を含んだ深い色の瞳だけに釘付けになっていた。そんな私に、ふっと目元を緩めた彼は次の瞬間には顔を上げて式場に響くような声を出した。
「この結婚に異議のあるやつはこの場にいないのかもしれない。だが、俺にとっちゃ異議しかない」
 さっきから呆気に取られている新郎役だった人をジッと睨むように見る視線の強さに、向けられた訳じゃない私まで心臓が跳ねてしまう。
「特にあんた……惚けた面をして見てるだけか? 取り返すもしない、守りも庇いもしない。そんな男に彼女は渡せん」
 グッと私を抱える腕の力が強くなる。そして、いくらか高い段差があれば彼にとっては十分らしく、ライトさんは一気にバージンロードの半分ほどの位置まで飛んだ。白いドレスの裾がふわりと舞う。何人かの女性が黄色い悲鳴を上げて、お兄ちゃんとイアスたちだけがバタバタと席を立っていた。
「リン」
 潜められた低い声は私の名前を呼ぶ。そんな声を出した彼が一瞬だけ不安そうな顔色をしていたから思わず指先でその頬へ触れていた。
……しっかり掴まっててくれるか」
 こんなに大胆なことをしたのに。彼は私に対してだけ不安そうな顔を見せる。それに、今すぐ色んな誤解を解いた方がいいのは分かっていたけど……この逃避行に賭けてみたい自分が確かにいた。だから、ひとつ頷いて彼のしっかりした首の裏へ両腕を回してギュッと掴まった。

 ——彼女はこのカリュドーンの子、ライトが貰い受ける。

 ざわめく声では駆け出した彼の足を止められない。唯一、降ろして欲しいと願うことの出来る私が胸を高鳴らせて喜んでしまっているんだから……誰にもライトさんを止めることは出来なかった。

 黙ったまま、ただ強く私を抱き寄せて走った彼が人目を避けて私を連れ去ったのは、式場から少し離れた裏路地にある部屋の一室だった。がらんとした部屋は薄暗くて人が暮らしているような生活感はない。
「うちの荷物を一時的に置いてるような場所でな。ちと埃ぽさはあるがその格好を汚す程じゃないはずだ」
 簡単な説明をしながら部屋の奥へ足を進めた彼は、二段ほど重ねられたダンボールの上へ私をそっと座らせた。見回した感じ、ソファも椅子もない場所だからコレが一番座り心地の良い物になるんだろう。そんなに後ろのレースが長いドレスでもないから床へ擦ることもなく綺麗に収まる私を彼は立ったままじっと見下ろしていた。
 私からも話をどう切り出せばいいのか迷っていると、不意に彼は私の前へ膝をついてそっと両手を握った。
「俺を恨んで構わない」
「えっ」
「昨日引き留めもせず、あんたの晴れ舞台をあんな風にしたのは俺だ。あんたの面子も、大事な……男の面子にも泥を塗った。憎まれるのも恨まれるのも覚悟の上だ」
 訥々と話し続けるライトさんを止めようと思っても、サングラスに隠されていない目を伏せているせいか視線が合わなくて上手くいかない。こうなったら恨んだり憎んだりする訳ないと大きな声ではっきり言うしかない。そう思って息を吸った時、ずっと伏せられていた彼の目が突然私を見上げて見つめてくる。それに、はくりと口を開いたままの私の両手を握りしめる手が熱でもあるのかと思うほど熱い。そして、その手と同じくらい熱を持った瞳に見つめられて顔がぶわりと熱くなっていく。
「俺は、あんたが好きだ。その白い色を纏った姿で他の男の元へ行くのを耐えられないと思っちまうほど愛してるんだ」
「ま、待って!」
 プロポーズされていると錯覚しそうなくらい熱い想いを真っ直ぐぶつけられて慌てて首を左右に振った。けど、私の制止を拒否だと捉えたのか見つめてくる瞳がゆらりと揺らいだ。ライトさんとは言葉がなくても何となく意思疎通出来ているような気がしていたけど、言葉にしないまま理解し合うのなんてやっぱり無理だ。特に、頭の回転が早い彼は「どう思う?」と言葉を促していつも私を待ってくれていた。そんな人が何歩も何歩も先で勘違いをしているならしっかり捕まえて「好き」と叫ばないと私の想いは上手く伝わらない。
 だから、握られていた手をそっと解いて私の前に膝をつく彼の両頬をゆっくりと包んだ。
「私、結婚したりしないよ」
……しない?」
「宣伝写真のモデルを頼まれただけで、あの男の人はただの依頼人。好きな人なんかじゃないよ」
「つまり…………全部俺の勘違いってこと、か」
「私がちゃんと説明しなかったせいってのもあるけどね」
 パチパチと瞬きを繰り返す目を見ながら「ごめんね」と謝れば、彼の瞳は更に揺らいでからフッと伏せられてしまった。いつもなら彼が目を伏せると厚い前髪と色のついたサングラスに隠れてしまうから、視線を伏せながらどういう顔をしているのかは分からない。でも、今の彼はいつもと違って私の視線から隠れる術がない。だから、騙されたと怒る訳でも。無駄な時間だったと落胆する訳でもなく——安心したような顔色を浮かべながら私の手のひらへ頬を寄せているライトさんの姿が私の目には良く見えていた。
「結婚、しないんだな」
「うん」
「あいつの元へ行っちまうもんだとばかり思ってさ……
「行かないよ」
……そうか」
 それっきり言葉を止めてしまったライトさんの温もりをしばらく手のひらで感じていると、彼は不意に立ち上がってもう一度私を抱き上げようとする。けど、この腕に抱き上げられてしまえばこの逃避行は頭の整理がついた彼の手であっという間に終わってしまう。それに、さっきの熱い想いへの返事もしていないし……もし、このままさっきの告白が流れで無かったことになってしまったら絶対に嫌だ。
 だから、抱き上げようとする彼の両手をぎゅっと握る。友人同士ならしない指を絡ませた繋ぎ方に心臓がドキドキして、体が少しづつ熱くなる。ライトさんはもう頭が冷静になったのかもしれないけど、やっとさっきの告白が身に沁みてきたばかりの私の心を置いてけぼりにするのはちょっと酷い。
「貰い受けた子をもう返しに行っちゃうの?」
……それ以上言えば本気で俺に攫われるぞ」
「好きな人に映画みたいに攫われて心臓がおかしくなるくらいドキドキさせられちゃったから、本気で攫ってくれなかったら困る」
 繋いだ手を引っ張れば、ちょっとのことじゃ揺らがないはずのライトさんの体を軽く引き寄せることが出来る。トンと囲うようにダンボールに手をついた彼の目の奥に映る白い衣装の自分が良く見えるほど近い距離。どっちかが少し動けば抱き締め合うことも出来そうな距離で、今度こそ誤解のないように言葉を渡す。
「好き。あの式場で相手がライトさんだったらいいなってずーっと考えちゃうくらいあなたのことが好き」
 本当は、あなたのことを考えている時の笑顔を一番褒められたって教えたかったけど。一緒にいる時の笑顔には敵わないだろうからやめておいた。それに、そんなことを言う暇もなく髪の後ろへするりと通った彼の指が頭に乗ったベールを下ろして、一枚のレースを隔てたキスが頬に落とされたから何か言う余裕もすっかりなくなってしまった。
「また、映画みたいなことするんだね」
 いつもと違って、私の方に視界を遮る薄い膜がかかっている。ライトさんの視界を借りる時の灰色がかった世界とも違う白い世界で辺りがしんとしているからか、静かな雪の中に彼と二人きりになったような気がして。心臓の音だけが目立っているような気がした。
「俺の愛した女が映画を引き合いに出す時は最高に褒めてくれる時だと思ってるんだが……合ってるか?」
「ふふっ、ホラー映画でヒロインを助けに来た主人公みたいだったよ」
「そいつは最高の褒め言葉だ。ヒロインを落として落胆されないようにしないとな」
「ライトさんなら絶対離したりしないでしょ?」
 ベールの向こう側にいる彼の首裏へ腕を回す。そうすれば、彼の誇りが詰まったがっしりとした腕は背中に回される。ぎゅっと少し体が軋むくらいの力で抱きしめてくれる彼の広い背中へ掴まるように触れた。
 ライトさんは、真っ白が似合う物語の中の王子様って感じがしない。だって、今でも時々遠くを見ているとこも知っているし、いざという時には綺麗な衣装を躊躇いもなく脱ぎ捨てて自分の拳を振るう人だと分かっているから。
 だけど、彼は簡単に私を諦めたりしてくれないってこともちゃんと分かってる。今回、身をもって知った大きくて熱い想いを私は一生覚えているに違いない。走馬灯みたいに人生を思い出す時に、必ずこの姿で駆けてくれたライトさんのことを思い出すはず。だって、私を手に入れるために駆けるたった一人の王子様の横顔を忘れることなんて簡単に出来はしないでしょ。


 ふらふらと足先は揺れるけど、しっかりした腕に抱えられた体はとても安定している。規則的な揺れと温かい体温はだんだん眠気を運んできていた。朝から怒涛の展開だった体にはこの眠気に抗う理由がない。いつものジャケットはトゲトゲしたスタッズがあるけど、今日のタキシードには無いから余計に安心してライトさんに身を預けていると遠くから「リン!」と私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
 耳慣れたお兄ちゃんの声にうとうとしていた目を開ければいつの間にか式場のエントランスにまで戻ってきていた。そして、視線の先には走ってくるお兄ちゃんとイアスたちがいる。そっと腕の中から降ろされて立つと、ぽよぽよ駆け寄ってきた小さな家族は一斉に飛びついてきて、お兄ちゃんだけが腕を組んだままライトさんをジッと見ていた。
「相手がライトさんじゃなければ、今頃僕は半狂乱で治安局に駆け込んでるところだったよ」
「お兄ちゃん……私も止めなかったから」
 ライトさんを怒らないで。そう言おうとしたけど隣に立つ本人が頭を撫でて私の言い訳を止めた。
「アキラ。あんたらの仕事の邪魔をしたのも、あんたの胃を痛めさせるような真似をしたのも俺の一存だ。すまなかった」
 無敗であることを何よりの誇りにする人が深く頭を下げる姿にぎょっとしたのは私たちだけみたいで、お兄ちゃんは誠心誠意謝る彼の姿を見て吊り上げていた目をフッと緩めた。
……そういうことが出来ない男の人だったら絶対に妹を預けないんだけどな」
「頭を下げた後に刺される覚悟くらいはしてたさ」
「僕をなんだと思ってるんだい? 別にそこまで過激じゃないよ」
 ポンポンとライトさんの肩を叩いたお兄ちゃんは仕方がないと言いたそうに笑っていて、もしかしたらひょろひょろの腕で殴りかかってしまうんじゃないかとハラハラした気持ちは無事に杞憂で終わった。けど、私にくっついていたイアスを抱き上げたお兄ちゃんは、さっきまでと違った綺麗すぎる笑顔をにっこり浮かべると彼に向かってこてんと首を傾げた。なんだか、妙な圧を感じる笑顔を真正面から浴びたライトさんの顔がひくりと引き攣る。そして、その笑顔は私にまで向けられて彼と顔を見合せて二人でサッと青ざめた。
「二人の逃避行が映画俳優も裸足で逃げ出すくらい様になっていたから、依頼人の彼も喜んでしまってね。報酬も弾むから改めてモデルを……って話も出てるから依頼料のことは正直なんでもいいんだけど」
 ジリジリと近づいてくるお兄ちゃんの腕の中にいるイアスまで小さな手を伸ばしてうねうねしながら私たちにじっとりした目を向けてくる。なんだか、セットでラスボスみたいな空気感を纏う家族を前にライトさんの腕へぎゅっと掴まれば、みんなは更に笑みを深くした。
「僕の妹を断りもなく攫っていくつもりかい、ライトさん?」
「ンナナ!」
 ンナンナ! と一斉に上がる声にたじろぐ私の背中を大きな手がそっと支えてくれる。その手の感触に顔を上げると、胸の奥があたたかくなるくらい優しい色の瞳と目が合う。こんなに優しい色は初めて見る気がすると思ったのは一瞬で、いつもサングラスの奥からこうやって私を見てくれていたんだとすぐに理解した。無言で「後悔しないか?」と聞いてくれる彼にこくりと一つ頷けば、頭を撫でてから柔らかく笑ってくれる。そして、真っ直ぐ私の家族を見たライトさんは、お兄ちゃんに向かって握った右の拳を差し出した。
「リンを……あんたらの大切な家族を俺に託してくれ」
……
 娘さんをください。そんな台詞を映画で見たことがあるけど、それとも違う言葉と行動に胸が高鳴る。やっぱり、あの精算の日、彼に全てを賭けたのは間違いじゃなかった。きっと、この壊れかけた世界をどれだけ広く探したとしてもこの人以上に私と家族を大事にしてくれる人はいない。
 ——ください、と欲しがるんじゃなくて。
  託して欲しい、と願ってくれる人に私は恋心を攫われた。

「お兄ちゃん」
「分かってるよ。全く……リンは随分かっこいい人を捕まえたんだな」
 コツンと大きさの違う二人の拳が合わさる。それに喜んだイアスがぴょんと腕の中から飛び出して、ライトさんの顔にべちんと突撃していた。そして、残りの二人もわちゃわちゃと彼の長い足に掴まって小さな家族なりの熱烈な歓迎が繰り広げられる。
「ははっ、まるでもう二人が家族になったみたいだね」
「こんな格好だし、挨拶も終わっちゃったような感じだけど……ま、まだ違うからね? みんな、ライトさんのこと困らせちゃダメだよ」
 さっきまでは気分が高まっていたせいで気にならなかった照れがだんだん喉元から這い上がってくる。照れ隠しに少し早口気味になりながら家族に言い聞かせていると、ぺったりと顔に引っ付いていた一際小柄な家族を片腕に抱いた彼は、足元にいる他の子を蹴らないように気を使ってしゃがみこむと空いた方の手で一人ずつ順番に長い耳を撫でていた。
「リンの家族になれたら、あんたたちは俺のお兄さんになるんだな」
「ンナ_!?_」
「その時はよろしく頼むぜ、お兄さん方?」
「ンナー!」
 飛びかかる勢いで背中や腕に乗られてもビクともしない姿は頼もしいことこの上ない。すっかり三人に揉みくちゃにされている恋人を見ながらお兄ちゃんと二人で笑う。そして、揃って笑っている私たちを見てライトさんは眩しいものでも見るみたいに緩く目を細めていた。
「それで、色々すっ飛ばしてライトの花嫁さんになったんだね!」
「そこまですっ飛ばしてないよ!」
「あれ、違った?」
「まだ恋人……一応」
「どっちかって言うと、ライトが通い妻してるって感じにこいつには見えるなぁ〜」
「だから、まだ恋人なの。同じ場所に住んでないし」
 モゴモゴとナッツを摘みながら赤くなる私の両隣でニヤニヤするパイパーとバーニスの口に同じものを放り込む。
 あの騒動の後ライトさんとお付き合いを始めてからしばらく経って、順調に甘やかされている自覚はある。あれだけ「複雑だ」と言っていたお兄ちゃんが「ライトさんは健気だな」と呟いてしまうくらい恋人になった彼は私に甘い。車もあるしこっちから郊外に行くと言っても「迎えに行く」と言って、仕事の合間を縫っては郊外から距離のあるビデオ屋まで来てくれる。それは街で遊んでいた時も同じだったけど、顔を出してくれる頻度が一段と増えた。だから、パイパーが言った通い妻という冗談はあながち外れてもいない。
「最近のライト、ご機嫌でハッピー! って感じだし調子もいいよね」
「でも、ここから街まで来るのって大変でしょ?」
「プロキシさぁ、ここがどこだか忘れちゃった? カリュドーンの子は運送会社で走り屋。確かに街の駐禁とか駐車場はめんどうだけどよぉ、行って帰るくらい楽なもんだぜぃ」
「そっかぁ……
 でもなぁ、と続けようとした言葉はかくんと喉の奥で止まる。原因は分かりきっていて、後ろからするりと回される鍛えられた腕に引き寄せられたから。首だけ動かして見上げれば見慣れたサングラスがじっと私を見下ろしていた。
「リン。その手の心配は全く必要ないが、気になるなら俺に言ってくれ」
「さすが旦那は来るのが早いなぁ」
「もうちょっとプロキシちゃんと飲みたかったな〜」
「しばらくこっちにいるんだ。明日でも明後日でも飲めばいいだろ」
 旦那という言葉を否定もしないまま三人が話す賑やかな声も彼の腕の中で聞けば特別で、ついくすくすと笑ってしまう。それに、楽しくて笑う私の喉元を擽ってくる指は「ちゃんと言ってくれ」と小さく抗議をしてくるから、後ろに立つライトさんの体に背中を預けた。
「しんどいなぁ、ってならない?」
「一度もないな」
……ずっと一緒ならなぁ、ってなる?」
「毎日なってるな」
「ふふっ、そっかぁ」
 二人でいる時間はたくさんあったのに、ドタバタと恋人になったから後々不安が湧いてきていた。だけど小さな不安はあんまり必要ないみたい。私を抱き締めてくれる彼は他の人から見てもハッピーらしいし、ライトさんは簡単に嘘をつくような人でもない。
 見えにくい位置にいる恋人へ手を伸ばせば撫でやすいように顔を寄せてくれる。逆手のまま形のいい頬をうりうり撫でると彼は小さく声を出して笑った。そして、そんな風にじゃれ合う私たちを見ていた両隣の友達は、楽しげにバシバシとライトさんの背中を叩いていた。
 
 そう遠くない未来で、私はもう一度レースで彩られたドレスを着るのかもしれない。それが白色なのか、もっと違う色なのかは分からないけど。ライトさんとお揃いのデザインならそれでいい。ふわりと式場の床に流れるような長さのあるドレスか、郊外の砂にも負けない軽やかな短いドレスのどっちになるんだろう。
 彼との色んな未来を想像するだけで胸はとくんとくんと音を立てる。
 ほんの数歩先の未来すら確かじゃないこの世界でずっと先の未来を誓い合うのはとんでもなく怖いことだ。それを、私も彼もよく知っている。だけど、その恐怖に立ち竦んで手を離すことがお互いに出来なくて恋をすることを選んだ。
 決断することを二度としたくない。
 後悔を全て忘れることは出来ない。
 そう思い続けてきたライトさんが、どれだけの想いで式場に乗り込んできてくれたのかを思うだけで私の胸は何度でも高鳴ってしまう。こんな恋をさせてくれた彼との未来だから私は幸せな想像をたくさんしたい。
「ねぇ、ライトさん。私たちが本当に式をするってなったらアイアンタスクを借りれないか相談してみようよ」
「神様のいるチャペルも、キラキラしたシャンデリアもなくていいのか?」
「神様ならいつも見てくれてるピースがいるし! アイアンタスクのバーにはグラスが引っかかってキラキラしてるからシャンデリアみたいでしょ?」
……うちの奴らは誕生日パーティーの飾り付けも上手いから、目一杯張り切ってくれるだろうさ」
「きっと楽しくなるね」
「ああ」
 二人きりで手を繋いで歩く宿への道のりが、いつか二人の家への道のりになる日を願って。果ても知らない世界でずっと明るく生きるために私たちはお互いを照らすように笑いながら未来の約束をし続ける。

 
 
 ずっと昔。あいつらと遅くまで飲みすぎた日の翌日、起きる時間を遅くすると必ず腹の上に飛び乗ってくる軽い子供がいた。普段相手にする連中が鳩尾を狙って入れてくる重いパンチには呻き声を漏らさず耐えられるのに、俺の名前を呼びながら飛び乗ってくる軽い体重に勝てた試しがなかった。そして、あの賑やかな日々を夢に見ても寝覚めが苦しいだけじゃなくなったのはいつからだったか。
 夢を見る度、彼らにもう一度会えないかと二度寝を繰り返そうとしては「働きなさい」とお嬢様に手痛い一発を貰うようになって少しマシになった。
 腹に飛び乗ってくる重さを錯覚しながら目を覚まして、腕の中ですやすやと眠っているリンを見た時に初めて俺は生きていて良かったのかもしれないと思った。
 時間をかけて積み重ねてきた日々の中で、過去の自分が首を絞めてくる日は少なくなっていった。この事をリンに話せば、笑顔を浮かべた彼女は「良かったね」とだけ声を震わせながら言ってくれた。その時に、この人は「家族のように愛しい恋人」でもなく「家族になりたい人」へ明確に変わった。だから、すぐに指輪と改めてのプロボーズも贈れば目を丸くした彼女は、ぎゅっと俺に抱きつきながら「駆け出したらいっつも急なんだから。エンジンでも詰んでるの?」と泣きながら笑っていた。
 そんな幸せな日々を走馬灯のように夢に見ていると、記憶の中よりもずっと軽い重さが腹にポスっと乗る。それを落とさないように手で支えながら目を開けると、俺にも彼女にも似ている丸い目がぱちぱちとこっちを見ていた。
「おはよ……おチビさん」
 ニコニコ笑う柔らかい頬を指で軽く突っついてから体を起こす。放っておくと風に吹かれてコロコロ転がっていきそうな小さい命を腕に抱いて床へ足を下ろせば、命と同じくらい小さい手はぺちぺちと俺の頬を叩く。
「分かってる。忘れてないよ」
 ベッドサイドのテーブルへ置かれた銀のタグ。そして、同じような色の指輪を手に取れば腕の中の子は満足そうに胸を張っていた。依頼だ、仕事だと大人が言っているのを聞きすぎたのか、この歳で何かをこなすことに達成感を覚えているらしい小さな額を撫でながらタグを首に引っ掛けた。そして、手の中に転がる指輪は休日というのもあって指へ通した。ごたつく事情が重なれば熱や衝撃で歪むのが嫌でチェーンに通すコレも休日なら収まるべき所に収まっている方が落ち着くだろう。
 揺れるタグを触って遊ぶ小さな手はそのままにして寝室を出れば、既に朝食が出来上がっているのか部屋には食事のいい匂いがしていた。
「ジャムがあるといいな?」
 俺もこの子も気に入っているぶどうのジャムを彼女はテーブルに並べてくれているだろうか。そんな些細なことを楽しみに生きる未来が来るなんて、いつの俺に言っても信じたりしないだろう。
 でも、この腕に守りたいものが増えて、守らせてくれる家族が二人も増えた。だから、全て亡くしたあの日を忘れることは出来なくても「一緒に死んでやれた」とは今の俺にはもう言えない。
「おはよう、リン」
「おはよう、ライトさん。ちょっとだけ寝坊助さんだったね」
 手元で料理を続けながら朝の挨拶をしてくれるリンの傍へ寄れば、いつまでも可愛い小柄な人はそっと俺へ背伸びをした。背中を丸めれば頬に触れる柔らかい感触は彼女の機嫌の良さも伝えてくれる。そして、親の行動を真似したい年頃なのか輝く丸い目を更にキラキラさせた子も頬へキスをくれるから何の予定もない一日が良い日になるような予感がして——幸せに胸が詰まりそうだった。
 

「生きていて良かった」とはあいつらを思うと今でも言えはしないが、少なくとも死ねない理由が出来たから「もう少し待っていて欲しい」と向こう岸に立つ彼らへ笑いかけ、俺は守りたいものを腕いっぱいに抱えて人生を走り続けていく。