※A6/62P/約27000字
※通販はとらのあな様に委託します。
https://ecs.toranoana.jp/joshi/ec/item/040031306827
※Dom/Subユニバース
※Sub×Dom(アキラがSub、悠真がDom)
※キャラクターの死に関する内容を含みます
※当初R18描写を入れる予定で案内していましたが、内容を大幅に変えたため全年齢になりました
※書いている人はハッピーエンドだと思っていますが一般的にはハッピーエンドとは言えない終わり方をするのでなんでも許せる方向けです
▼以下サンプル▼
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まるで世界のありとあらゆるものが敵に回り、自らの手から離れてしまったようだった。
得体の知れない恐怖と渇望が胸の奥から押し寄せてきて、肺の中の空気の居場所を圧迫する。息が苦しい。迫り来る化け物の、怪しく光るコアの色が網膜に焼き付いて離れない。あれの姿なんて見慣れたものだというのに、おそろしさが全身にこびり付いて身体の自由を奪い、僕を支配しようとしている。
こんなにも自分の身体を制御出来なくなるのは生まれて初めてのことだ。呼吸をしなければと思うほどに息が詰まり、目の前がちかちかと点滅する。胸を抑えて膝をつき、為す術なく蹲る僕を見てだれかが何かを言っているけれども、まったく声が聞こえない。言葉に耳を傾ける余裕もない。
ああ、あのときだって
――旧都が崩壊したあの日だって、両の足で立っていられたのに。僕はまだ先生のことを追わないといけないのに。リンがいるのに。
どうやって今まで立って歩き続けてきたのか。自分の身体をどう動かしてきたのか。それすらも恐怖に侵食されて分からなくなりつつある。自分が自分ではなくなっていくような感覚がする。それがひどくおそろしくて、息、が。
「
……大丈夫。もう大丈夫だよ」
不意に、声が聞こえた。
周りにいる人々の声を雑音として処理する今の僕の耳でも、その声だけは意味まで理解出来た。
だれかの手が僕の肩に触れる。かすかに震えているような気がするけれども、それは僕の身体が痙攣を起こしているからだろうか。分からない。ただ、服越しに伝わる控えめな体温に少しだけ安心感を覚える。
「エーテリアスはもう倒した。あの子も無事だ。よく頑張ったね」
ささやく声に目の奥がじんと熱くなる。
頑張ったね、なんて。普段ならそう言われても受け流してしまうか、このくらい当然だと言って終わらせてしまっていただろう。だけど今は優しい言葉に頷いてしまいたいと思った。頑張ったんだと、縋りついてしまいたかった。
「僕の声、聞こえてる?」
問いかけに頷く。まだ心臓がばくばくと鳴っていて呼吸は苦しいし、他の音は上手く聞き取れないけれども、君の声だけはよく聞こえている。だから褒めてほしいと思った。
よかった、と呟いた君が、ほんの少しだけ肩に触れる指先に力を込める。
「じゃあ、あと少しだけ頑張って、僕の言葉に従って。大丈夫、あんたに怖い思いはさせないから」
この言葉は信じていいものだと直感した。信じていることを伝えたい、とも。
頷きをひとつ返す。油断するとまた押し寄せてきそうな恐怖に抗うように、出来る限り君の気配に集中する。
上出来だというように、君は僕の肩を叩いた。そうしてその手で、頬に触れる。
「
――アキラくん。《僕を見て》」
やっぱり、その手はほんのわずかに震えていて。
見上げた先にある金糸雀色のひとみは、極星のように光って見えた。
生物が有する「性」は基本的に男か女のどちらかひとつだ。世の中には雌雄同体の生命も存在するが、人間およびシリオンはそれに該当せず、生まれながらに男女性のいずれかを有している。それは種の生殖に関わるものであり、この世の大半の生き物にとって欠かすことの出来ない、第一の性だ。
だが、この世には男女性のほかにもうひとつ、第二の性と呼ばれるものも存在する。旧時代より人間のみが有するとされている、ダイナミクスと呼ばれるもの。生殖に関わる男女性とは異なるそれは全人類に与えられるものでもなく、それを獲得する人間に何か規則性や条件があるものでもないが、現代でも二人に一人はダイナミクスを有していると言われている。
ダイナミクスはDom性とSub性に分かれるもので、精神にまつわる性だ。男女性とは異なり、身体的特徴に影響を及ぼすことはない。代わりにそれは人の心や性格に依存する。
一般にDomは支配者とされ、Subへの支配欲を抱く傾向にあり、Subは非支配者とされ、Domへの服従と褒賞を求める傾向にある。もっともその程度や欲求のあらわれ方はひとにより様々で個体差はあるが、ただ精神に影響するだけ、というものでもない。双方が合意の上で欲を満たすための行為
――プレイと呼ばれるものをおこなわなければ、欲求不満が肉体に不調をもたらすこともある。ゆえにDomとSubは互いに相性の良い相手を見つけてパートナーとなり、プレイを通して信頼を育んでいくことで安定した状態で生活出来る、というのが一般に普及している知識だ。
また、人々が留意すべきはSubで、合意のない状態でDomからの支配的干渉を受けることや、それに類似する経験をすることで「サブドロップ」と呼ばれる状態に陥ることがある。そのときにDomが適切なケアをしなければ、場合によっては死に至ることもある。そのため新エリー都ではDomによるSubへの非合意の支配的干渉行為は法により禁じられており、また世界情勢を鑑みた上で、Sub性を抑制することでDomからの干渉を一時的に和らげる、あるいはDomがSubへと向ける支配的欲求を抑制することでSubを不本意に傷付けないようにするための薬剤
――いわゆる抑制剤の処方が医療機関で行われている。
実際、ホロウという災厄が人々に様々な痛みをもたらし、恐怖で支配しようとするこの世の中では、パートナーとして生きるDomとSubはそう多くない。年々増加する抑制剤の処方量や、より有効な薬剤の開発は医療関係者と研究者の間で課題になっている。
「とまあ、僕なんかでもこのくらいのことは知っているし、まさかプロキシともあろう者が知りませんでした、ってことはないだろうけど、もうちょっと自分のことに気を使ったほうがいいんじゃない?」
世間一般の常識をぺらぺらと語り、腕を組んだ悠真がじっと見つめてくる。消毒薬のにおいと清潔な白に包まれた病室の中で、濡羽色の髪と金糸雀色のひとみは妙に鮮やかにアキラの意識に留まった。
今、個室にいるのはふたりだけだ。ベッドに横たわるアキラの腕には点滴が繋がっていて、安静を言い渡されている。悠真がその気になれば何だって強いることの出来る状況である。ナースコールなんて対ホロウ六課の執行官である彼が相手なら、アキラは押す暇すら与えられないだろう。
ぎらりとした眼光は鋭い。しかし怒気とも異なる、目に見えない圧を秘めたまなざしを前にしても、アキラがそれに対して不快感を覚えることはない。
しばしの間悠真は意図的にアキラをじっと見つめていた。しかし不意にゆっくりと目を閉じ、開いて、うーん、と不思議そうに首を傾げる。
「おっかしいなぁ、今結構強めに見つめてたはずなんだけど」
「確かに熱視線だったね。おかげで君のまつ毛の数を数えるのに苦労しなかったよ」
「抑制剤が効いてるにしたってドロップしたばかりのSubがDomとふたりきりの空間でグレアに晒されたらもう少し違和感とか覚えるはずなんだけど。ねえアキラくん、今僕に見つめられていて本当に嫌だと思わなかったわけ? 心臓が苦しいとか、息がしづらいとかは?」
「まったくだ」
「
……こんな世界だし鈍いSubも多いけど、やっぱりなんか変だなぁ」
腑に落ちないと言った様子で顎に指を添えて悩ましげな顔をする悠真に、そういうものなのだろうか、とアキラはぼんやり思った。
悠真が語ったダイナミクスに関する常識はアキラももちろん知っている。なぜなら他ならぬアキラがダイナミクス
――Sub性を有しているからだ。
しかしアキラは今までに一度もDomとパートナーになってプレイをしたこともなければ、Sub用の抑制剤を処方してもらったこともない。仕事柄普段からDom性の人間と接触する機会も多かったが、ダイナミクスの影響を受けて不調をきたした経験は一度もなかった。
医療機関での診断上Subであることは確かなのだが、極端に第二性欲が希薄なのだろう、というのが医師の見解である。ただ、この新エリー都ではそう珍しくもないことで、ホロウ災害に巻き込まれた人間が救助されてしばらく経ってから第二性欲が薄れていることに気付いたり、あるいは逆に以前よりもその影響を受けやすくなったりと、そういう変化が生じることはあるらしい。
アキラ自身特殊なインプラントを目に組み込んでいるし、旧都陥落も経験している。だからそれらの影響かもしれないと、今まで自分のダイナミクスについてはさほど気にしていなかった。むしろ「万が一何か少しでもおかしいと思ったときはすぐに言うこと」と定期的に釘を刺すリン
――血を分けた彼女はニュートラル、すなわち第二性を持たない者だ
――のほうが気にしていたくらいだった。
じい、とまた悠真の金色の目がアキラを見つめてくる。澄んだ綺麗な色だ。真っ直ぐな視線に思わず惹き込まれて、そのままずっと見つめていてくれたらいいのに、なんて甘いことを考えてしまう。けれど。
「
……本当に平気なんだね。まあ、あんたが無事ならそれでいいんだけど」
気まぐれな猫のように悠真がぱっと顔を離したことで、アキラのささやかながらもおそろしい願いは叶わなかった。名残惜しさに背を押されて悠真を見上げ返そうとするも、伸びた手のひらがアキラの両目を覆ってそれを制する。
「こーら、ダメだよ。あんたが大丈夫そうなのはわかったけど、万が一ってこともあるし。ドロップしたばかりのSubは不安定で、ちょっとした弾みでまた体調を崩しかねないんだから」
「君といつものように会話をするだけでも?」
「ダメ。出来ればあんたにはもう一眠りしてほしいんだけどな〜。あ、子守唄でも歌ってあげようか?」
「悠真が歌ってくれるのかい?」
「今回に限り、あんたにだけ特別にね」
茶目っ気たっぷりの声で言う悠真の顔は、彼の手に遮られているせいで見えなかった。アキラを慮っての行動だ。ここは大人しくもう少し身体を休めるべきなのだろうと今は従うことにして、目を閉じる。
「
……ふふ、良い子だ」
ささやく声が聞こえて、胸の奥がじんわりと温かくなった。かたちを持たないはずの熱そのものが胸の中の空洞を満たすような感覚は奇妙で慣れないのに、心地よいものだ。途端にベッドに横たえている身体がずっしりと重くなって、眠気が押し寄せてくる。悠真の言うとおり、アキラの身体にはまだ休息が必要らしい。
詩のない、音だけの歌が聞こえた。普段よりもやわらかな悠真の声音が美しい旋律を紡いでいる。そのメロディーに合わせてとん、とん、と肩を叩かれるたびに緊張がほどけ、張り詰めていた何かが緩んで、意識が溶け出していく。
もしかすると無意識のうちに、一度落ちかけた自分がもう二度と落ちてしまわないようにと、取り繕っていたのかもしれなかった。けれど傍にいる悠真の
――Domの気配が、Subであるアキラに底知れぬ安心感を与える。たとえ自制を失うことがあっても任せていいと、そう伝えてくる温かさだ。
正直、悠真がDomであるのはアキラにとって意外なことだった。お互いにお互いがダイナミクスを持っていることなど打ち明けていなかったし、お互いにそうだとも思っていなかった。ただ、今までずっと第二性の影響を受けずに生きてきたアキラが突如としてサブドロップを引き起こしたとき、助けてくれたのが悠真でよかったと心から思う。
なにせ悠真はアキラにとって大切な存在だ。それを明確な言葉で伝えたことはないが、この健気でまぶしい青年を家族のように甘やかしたいと思っているし、特別な存在としていっとう大切にしたいと、要するに愛おしいと思っている。逆を言えばそれほどまでに深く想っている相手だからこそ、あの状況下でも彼の声だけは聞き取れたと言えるのかもしれない。
いずれにせよ悠真には助けてもらったのだから、次に目を覚ましたときにはもう一度、きちんとお礼を言わなければ。意識が深く深く沈んでいく中で、アキラはそう思った。そうして、世界は暗転した。
対ホロウ六課所属の執行官という肩書きで、かつ貴重なDom性の持ち主となれば、ホロウでの救助活動時には重宝される。突発的なホロウ災害に巻き込まれたSubは自らの制御を失ってドロップしやすい傾向にあるからだ。仮にパートナーがいたとしても、そのパートナーもまた動揺していてケアの出来る状態じゃなかったり、あるいはそもそもそのパートナー自体を失ったりしていることもざらにある。適切なケアを受けられなければサブドロップ状態に陥ったSubは命を落としてしまいかねないし、ホロウという環境下ではそれがエーテリアス化を早めるおそれもあるため、緊急の場で適切にSubをケアすることの出来るDom
――悠真の存在は重要で、実際に多くの人命を救ってきた。
だから嫌な言い方にはなってしまうが、悠真にとってそれは慣れたことだった。元々Domらしい支配欲が限りなく薄い悠真は、付け入る隙だらけのSubを目の前にしてもDomとしての欲が暴走することはない。対ホロウ六課の斥候として培ってきた観察眼で冷静に状況を把握し、相手に合わせた適切なケアを施すことが出来る。もっともそれも完璧なものではなく、苦い思いだって数え切れないほどに味わってきたけれど、Domとしての振る舞いは人助けのために使う道具のひとつのようなもので、仮面の切り替えは簡単なことだった。
「そう思ってたんだけどなぁ
……」
しんと静まった空気に、声が溶け出す。
真っ白なベッドの上で静かに寝息を立てるアキラを見つめて、悠真はそっと自らの胸を押さえた。
ダイナミクスは個人情報のひとつであり、その開示は緊急時を除いて必須ではなく、個々の判断に委ねられている。ゆえに悠真は普段自らがDomであることを明言していないし、仮に相手がDomまたはSubであると勘づいても、相手がそれを口にしない限りこちらからは触れないのを鉄則として、不必要な関わり合いや面倒事が起こるのを避けている。もちろんアキラにも明かしたことはないし、逆にアキラがSubであることも知らなかった。何ならアキラがダイナミクスを持っているとすら思っていなかった。こんなことにならなければきっと一生知らないままだっただろう。
今日、悠真がその場に居合わせたのは偶然のことだ。プロキシとして引き受けた迷子の捜索依頼でヴィクトリア家政とともにホロウに入ったアキラは、そこで目的の子どもを見つけるもエーテリアスの強襲に遭い、襲いかかるエーテリアスから子どもを庇おうとした。同時刻に別の任務で同じホロウを訪れていた悠真はその場に鉢合わせて、凶刃がアキラに届くより先にエーテリアスを倒し、そのまま討伐を手伝って無事に場を収めた。しかしアキラの様子がおかしいことに気付き、彼がサブドロップを起こしているのだと思い至りその場でケアした。悠真の処置のおかげで彼は一命を取り留めたものの、経過観察のために一日入院することになり今に至っている。
眠るアキラの顔は穏やかなもので、顔色も悪くない。ホロウ内で長時間エーテルに晒された状態でサブドロップに陥ると後遺症が残る場合もあるが、この様子だと明日には問題なく退院出来るだろう。唯一の家族であるリンへの説明はヴィクトリア家政のライカンが代わりにおこない、明日の朝にはふたりでアキラを迎えに来てくれることになっている。だから本来悠真はもうお役御免となるはずなのだが、医者に万が一に備えて最初に彼をケアしたDomに付き添っていて欲しいと頼まれてしまった。そうして帰れずにいる
――否、それを言い訳にしてここに足を縫い留めている。
「
……はぁ。まさかこんなことになっちゃうなんて」
溜め息をついて、深く眠るアキラの頬に触れた。指先に伝わる体温にほっとして、どうしようもなく泣いてしまいたいような気持ちになる。それは決して純粋な感情ではない。友人として彼を案じる想いも確かにあるけれど、ほの暗く混じる欲望もあるからだ。
目の前のSubを失わなくてよかった、と。腹の底で獣がひそやかな唸り声を上げているのを、悠真は感じ取っていた。弱り果てた彼が、アキラが自分の声にだけは反応してくれてよかった。助けることが出来てよかった。
……あの場に居合わせたのが他のDomではなく自分でよかった。
生まれてこのかた一度も覚えたことのない執着めいた感情がアキラに向いていて、あまりのおぞましさに吐き気がする。別に彼を助けた相手が誰であれ彼の無事を喜ぶべきなのに、他の人間ではなく自分でよかっただなんて、ひどい感情だ。今だって医者からの頼みを大義名分に、アキラの傍を離れたくないと思う自分のわがままを許してここに留まっている。これがダイナミクス
――Domとしての「支配欲」なのだろう。
浅ましくて汚らわしいそれに対して理性は不快感を示すのに、頭の中には声がこびりついていて消える気配がなかった。サブドロップしたアキラを前にした自分が今までには一度も訴えたことのない声が。渇望に似た、末恐ろしい本能の叫びが。
「
……嫌だなぁ、本当に。
……パートナーになんて、なっていいはずもないのに」
アキラの体温に触れていたいと願う右手を左手で引き剥がし、強く強く握り締めて、悠真は俯く。
どうか、いっときの気の迷いであればいいと願わずにいられない。お互いにお互いのダイナミクスを知らない状態で、想定しようのなかった緊急事態に直面してしまったせいで、今まで大人しかったDomとしての本能がバグを起こして一時的に暴走しているだけなのだと。一夜が明けてアキラの体力が回復する頃には彼もいつも通りに戻っていて、以前のようにダイナミクスなど関係なくただの友人としていられたらいいと。
「
……あるいは、僕だけなら何とかなるから。あんたは今まで通りでいてよ」
落とされたつぶやきは悲痛な色に染まっていた。
ダイナミクスは人間の精神にまつわる第二の性だ。その欲望の発露には個体差があり、精神に強く依存するがゆえに強烈な恐怖や支配の経験がその性質を大きく変えてしまう危険性をはらんでいる。
もしも今回の一件が悠真だけでなくアキラにまで影響を及ぼして、今までは希薄だった彼のSub性を鋭敏なものに変えてしまったら
――少なくとも今までとまったく同じように生きていくという選択肢は彼から失われてしまう。
そのときは自分が責任を取ると言い切るだけの強さがあればよかった。けれど悠真にそれを言う資格も、権利もない。
……先の短く、相手を確実に置いていくと分かっているDomが、特定のSubをパートナーにするなんて、そんなの悲劇にしかならないのだから。
「あんたには笑っていてほしいんだ。頼むよ
……」
唇を噛み締め、肩を震わせて悠真は黙り込む。
世界が残酷であることはわかっているから、この夜を越えた先に待ち受けるものも悠真にとって都合の悪い、今までと変わらない日々であるようにとただ、祈って。
……世界が変わってくれたらいいのにという底の見えない願いと浅はかな期待は、押し殺して。
大雨が瓦礫の山を打ち付ける音が響いている。
まだ年若い女がひとり、何かに縋るように虚空へと手を伸ばし、だれかの名を呼んでいた。白い首には焦げ茶色の革のベルトが巻かれていて、そこに下がるシルバーのタグが鈍く光っている。刻まれた文字は名前だろうか。支配と執着の強さが絶望の色を深く、濃くして、悲劇を惨たらしく縁取っている。
ひゅうひゅうと呼吸をつたなくしながらもなお名を呼び続ける彼女の耳には、もうだれの声も届かない。己の支配権を、制御権を委ねた相手を失った彼女は、自らの手綱さえも失くしてもうだれの手も届かないところまで落ちてしまっている。時の経過とともに呼吸が上手く出来なくなり、ついにはばしゃりと雨に濡れた地面に頽れて、それきり動かなくなるさまを、悠真はただじっと見ていた。
本当は、ただ見ていただけではない。どうにかして少しでも意識をこちらに向けさせようと声をかけて、肩を掴み、目を合わせようとした。けれどだめだった。何をしてもその虚ろな目は失ったものを探そうと必死なまま現実を見つめられないでいて、自我の制御を奪取することは出来なかった。
別にこの終わりかけの世界では珍しいことではない。パートナーを失ったDomが発狂し、エーテルに侵食されて目の前でエーテリアス化したこともあれば、パートナーを失った者同士が失意のあまり心中していたこともある。いずれもダイナミクスを持っていなければ回避出来たかもしれない悲劇だった。ダイナミクスを持つ者同士が信頼を預け合うということは、ときにただの男女が恋仲となり、夫婦の契りを結ぶことよりも重たい意味を持つ。DomとSubがパートナーになることはメリットばかりではない。ホロウがいつ日常を吞み込むかもわからぬこんな世界ではきっと、デメリットのほうが多いだろう。
それでも、と望んで相手を信頼し、愛し、ともに生きる道を選んでしまうのが人間の性なのだけれど。
ざあざあと雨が降っている。
目の前で事切れた女に、見覚えのある銀髪の青年の影が重なる。
……ああ、これは悪い夢だ。
そうだとわかっていても、悠真の膝から急速に力が抜けていくのを止められはしなかった。情けなくその場に崩れ落ち、茫然とその名を呼ばずにはいられなかった。
「
――アキラ、くん、」
心臓がどくどくと早鐘を打ち、痛くて、痛くて、たまらなかった。
降り注ぐ太陽の光のあたたかさに、ふわぁ、と欠伸がこぼれる。
晴れた空の下、すっかり馴染み深くなった六分街の通りを悠真はひとり歩いていた。ビデオ屋へ向かい、アキラの様子を見るためだった。
ホロウの中でサブドロップしたアキラを助けてから早いものでもう一週間が経っている。あの日、万が一のときのための付き添いを頼まれた悠真が帰宅出来たのは結局夜更けだった。アキラのバイタルに大きな変化はなく、再びドロップする兆候も見られないから大丈夫だという医師のお墨付きをもらい、終電の時間も過ぎていたのでタクシーを拾って病院を去ったのを覚えている。
Domとしても、友人としても、悠真はアキラのことが気掛かりだった。なので数日のうちに様子を見に行くつもりでいたが、病院から帰った翌朝、共生ホロウのひとつが活性化して対処に追われることとなったため、アキラにメッセージを送る時間すら満足に作れず今日に至ってしまった。
大きな被害が出る前にホロウの問題を解決することが出来たのは不幸中の幸いであるが、今までSubとしての欲求が希薄で、サブドロップに陥ったこともなかったというアキラを一週間もそのままにしてしまったのはけっして褒められないことである。あれが一時的なことで、今は問題なく以前と同じように生活出来ているのならそれでいい。けれどもしそうでない場合、Domのだれかがプレイをして、その欲求を満たしてやる必要がある。パートナーになるとまでは言わずとも、定期的にプレイをしてくれるDomをアキラが見つけるまでは、彼を最初にケアした悠真が面倒を見るべきだろう。
別に自分がそれを望んでいる訳じゃないと言い聞かせながら歩き進んで、悠真はビデオ屋の前に辿り着く。連日ホロウを駆け回っていた身体は疲労を訴えていてくたくただ。だからこそ病弱な身体が発作の兆候を示す前に確認を済ませて家に帰りたい。
麗らかな昼下がりのビデオ屋の扉はだれに対しても開かれている。けれど悠真は馴染んだ癖で扉をコン、とひとつノックしてから、ドアノブに手をかけようとした。ひんやりと冷たいノブに手のひらが触れるのと、がちゃりと音がするのはほぼ同時だった。
「やっぱり悠真か。いらっしゃい」
開いた扉の向こうからアキラが現れる。反射的に引いた手を違和感のないように下ろしながら、悠真はその顔色を確かめた。血色は悪くないし、花緑青の目も鮮やかで、いつも通りにやわらかく綻んでいる。何か不調を抱えているようには見えない。
「久しぶりだねアキラくん。元気そうでよかった」
長居するつもりはないが、かといって顔を見ただけで立ち去るというのも妙な話だろう。それにまだアキラがダイナミクスに悩まされていないと断言出来る証拠が揃った訳でもない。ゆえに悠真は本心からの言葉を当たり障りのないように紡ぎ、アキラに招かれるままビデオ屋へと足を踏み入れた。
悠真が最後にアキラを見たのはあの真っ白い病室の中だった。元々落ち着きのある青年だが、あの消毒液のにおいに満ちた清潔すぎるほどの白の中で眠る姿というのは妙に儚く、心臓の裏側を逆撫でされるような感じがした。だから今目の前でアキラが悠々と歩き、お互いのダイナミクスを知る前と同じように過ごしているのを見て、暗い部屋に明かりを灯したときのような安堵を覚える。
悠真が常日頃から抑制剤を服用し、ただでさえ希薄なDom特有の気配や威圧感を限りなく抑え込んでいるのもあるのだろうが、SubとしてアキラがDomである悠真になにかを感じ取っている様子もなさそうだ。今までのアキラがSubでありながらまったくそれらしい欲求を持たず、Domのグレアに対してもとことん鈍かったことを考えると、あの日彼がサブドロップしたのは一時的なことだったに違いない。あの日のことをきっかけにSubとしての欲求が目覚めてしまったこともないのなら何よりだと言える。
「せっかく来てくれたんだ、映画でも観ていくかい?」
あの日のことに触れる機会を窺っているのか、棚に並ぶビデオを眺めながらアキラが尋ねてきた。彼の性分を考えると、おそらくだがあれを無かったことにしたり、黙って流したりするようなことはしないだろう。ただ、ダイナミクスは重要な個人情報であり、第三者においそれと知られることのないよう丁重に扱うべきものである。だからふたりきりになるタイミングを作ろうとしているのかもしれない。
アキラのそういった気遣いも、優しさも、悠真は好ましいものだと思っている。だがアキラがあの日を境に何かダイナミクスに関わることで問題を抱えているわけではないのなら、これ以上踏み込むのは控えるべきだ。あの日確かに悠真の胸の奥でうっそりと囁いた本能の声は掻き消えることなく、今も残っているのだから。
「悪くない提案だけど、今日は他にもやらないといけないことがあるから遠慮しとくよ。あれからずっとメッセージを送る暇もないくらい忙しくて、今日やっと近くを通りかかる用が出来たから顔を見に来ただけなんだ」
今日の予定なんてあとは家に帰って休むくらいしかないのだが、悠真はわざと多忙なふりをすることにした。実際昨日までメッセージを送る暇もないくらい忙しかったのは事実だ。真実の中に混ぜ込んだ嘘がそう簡単に気付かれることはないだろう。
「ニュースで見たよ。共生ホロウが活性化して、六課総出で対応に当たったと」
「そうそう。なんとか落ち着いたけど、事後処理が山ほどあってね〜。書類仕事に追われてる月城さんに六分街の雑貨屋限定のあんぱんを差し入れするためにこっちまで来たってわけ」
「なるほど、つまりまた仕事をサボっていると」
「多忙な副課長に代わって巡回がてら差し入れを買って帰ろうとしてる善良で仲間想いな僕に対してサボりなんてひどくない? まあとにかく、そういう訳でもう行かないといけないんだよね」
軽口を叩く悠真のことをアキラは疑っていないようだった。こちらを見つめる花緑青の目はいつも通りで、悠真に何かを望むことも、悠真におそれを抱くこともない。ダイナミクスを持たぬ一般人と同じように見える。
それがなんだか、ひどく惜しい。そう思う自分に嫌気がして、悠真は早くここを立ち去らなければと踵を返した。アキラがSubだと知ってしまったせいなのか、それとも連日の疲れが溜まっていて抑制剤の効きが悪くなっているのかはわからないが、このままではグレアが漏れ出てしまいかねない。街中のどこを歩いているとも分からぬSubの一般人がDomの撒き散らすグレアにあてられて体調を崩すなんてことがあったら一大事だ。騒ぎを起こさないためにも、一刻も早く帰宅して身体を休めなければと理性が警鐘を鳴らしている。
「落ち着いたらまたビデオを借りに来るよ。それじゃあ、」
またね、と紡ごうとして、手首に走る衝撃に身体が強ばる。
「待ってくれ」
明瞭に放たれた制止の声と、手首を握り締めてくるアキラの力強さに、どくりと心臓が重く鳴った。
「少しだけ話をしないか」
「
……あはは、相棒ったら僕が仕事をサボるのを手伝ってくれるつもり? 気持ちは嬉しいけど、さすがの僕でも今は副課長たちに全部任せる気にはなれないんだよねぇ」
不自然に上擦ったり、固くなってしまったりしまわないようにと、悠真はつとめていつも通りの声で言葉を返し、アキラの手から逃れようとする。けれど手のひらから伝わる力の強さも温かさも変わることはなかった。
「すまない、悠真。
……柳さんから今日一日君は休みだと聞いているんだ」
次いで告げられた言葉に、ひゅ、と喉元で息の擦れる音がする。