2026-02-19 20:31:10
3032文字
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このあと滅茶苦茶以下省略

旅が終わったあと二人が日本国で初夜を迎えるまで

 一言も言葉を発することなくじっと周りの様子を窺っている魔術師の姿は、珍しいが初めて目にするものではなかった。以前経験した状況と違うのは、あの瞳が相変わらず蒼いままであり、かつてうっすらと透けて見えた頑なな拒絶もないということだ。
 あからさまなこちらの視線にも気づかず、魔術師は隣で目を輝かせ、黒鋼にとっては懐かしさを覚える城内をまじまじと観察していた。

 小狼とサクラ、そして通訳の役目を果たしていたモコナと別れ、黒鋼と共に日本国に降り立ったファイは当然ながら言葉が通じなかった。とはいえこの選択をした時点でわかっていたことであり、互いに動揺もない。
 魔術師にとっては長旅のあとの異国にもかかわらず、休む間もなく言語の学習に励んでいる。あえて問いただすつもりはないが、もしかするといつものように指先を光らせ空中に呪文を書き出せば、これまで通り労せず意思疎通ができるのかもしれない。だがファイは初めから、自力での言語習得に前向きだった。
 本人がそうと決めたのなら黒鋼が他に言うことはない。協力くらいはしてやるつもりだが、手助けをしたくて仕方がない様子の知世たちが居る以上、あまりやることもないように思われた。

 話すのはともかく聞き取りにさほど時間を要しなかったのは、帰郷直後に思い返した半年ほど二人で過ごさざるを得なかった国の影響だろう。つまりあのとき何もわかりませんという顔をして卒なく黒鋼の支援に徹していたファイは、こちらの言葉をおおよそ理解していたか、すぐに覚えることができるのにそうしていなかったということになる。
 当時の魔術師がへらへらと笑いながら、その内側に誰も踏み込ませないようにしていたのは火を見るよりも明らかだったので、今更追及する気もない。小さな頭の上へ乗せた手に少し強めの力が入ったのは、いわば事故のようなものである。
 不本意ながら始まった旅の同行者であるファイが、その軽薄そうな振舞いにそぐわず頭の回転が速いことはすぐに知れた。以前はそれすらも不信の元だったが、今となってはもう随分と過去の話だ。

 日本国に居を定めてから、魔術師は一貫してこの国の言葉のみを話していた。たとえ不慣れでたどたどしくとも、必死に適切な言い回しを探して口に出している。料理中の独り言すらおぼつかない響きの日本語なあたり、意識してそうしているのだろう。その様子がより周囲の庇護を誘っているのは、あれにとっては予想外だっただろうが。
 後学のため一言も聞き漏らすまいと熱心にこちらを見つめるファイと、面白がる様子を隠さず笑みを浮かべる知世と、心配そうに見守る蘇摩という、安易に身動きが取れない状況に追い込まれたことは一度や二度ではない。
 黒鋼が粗暴な言葉遣いをしようものなら、相手は頭の良さゆえにそれを正確に覚えてしまう。この顔で自分と同じような話し方をされるのはさすがに避けたい。加えて本人に伝えるつもりはないが、あのへにゃへにゃとした語り口が損なわれるのも惜しかった。
 らしくなく表現を選びながら話す黒鋼を見て、知世が一層笑みを深めていたのは苦い記憶である。

 黒鋼が長く不在にしていたツケである業務に忙殺され、あの姉妹の無茶ぶりから逃れ、二人で日々を送っている間に、ファイは幾分かよどみなく話すようになっていた。まだところどころ言葉に迷ったり、拙い物言いだったりする場面もあるが、本人の姿勢や雰囲気も相まってか周囲の人間との意思疎通はおおかた問題ないように映る。
 紆余曲折を経て満身創痍で日本国へ移動した際、ファイは既に今までのわざとらしい外面を取り払っていた。その後の旅でも変わらず、本来の自分として過ごしていたはずだ。ただこの国に馴染むにつれ、更に変化があった。おそらく本人も無自覚のまま作り上げていた薄膜のような最後の壁が、ゆるやかに消えつつある。
 国に戻った黒鋼には任があり、ファイも日々城へ通う生活を続けている。それぞれのやるべきことをなすため、旅をしていたときより共にいる時間は短い。それでも魔術師が自身の旧知と関わり、少しずつ心を開いていくのが見て取れるのは悪い気分ではなかった。



 二人が暮らす家は不思議と落ち着く静寂に包まれている。明日は揃って登城の予定もなく、緊急の呼び出しがなければ一日家で過ごすつもりだった。
 月明りがさしこむ畳の上で、盆の上に乗った徳利を空にしていく。急ぎ誂えた家財の使い勝手と小さな改善点を聞き、直せるところは早々に手を付けてしまおうと話していた最中のことだ。

 ふと会話が途切れた。手にしていた猪口を静かに置いて、ファイの頬にかかった髪をいつも目にするように耳にかけてやる。自分とは全く異なるやわらかい金色から手を離すと、そのまま指先で耳のふちをなぞった。何度か繰り返せば、耳介や首元に酒精のためだけではない赤みがさす。息だけで笑うと、猫のように手を払われた。
 ただ一人だけに許すような触れ合いは初めてではない。己が細い身体を抱き寄せるのも、相手がそっと身体の力を抜くのも、既に慣れた仕草になっている。ただ旅の途中もここへ戻ってきてからも、最後の一線は超えていなかった。魔術師がどう思っているのかは知らないが、黒鋼の中に漠然とまだそのときではないという感覚があったからだ。

 そして今、黒鋼はその感覚が余さず消え失せたのを悟った。こちらを見上げる白いかんばせをじっと見下ろす。この見慣れぬ色合いを持つ人間を初めて出会ったときが嘘のように、今では言葉を介さずとも相手が何を考えているかおおよそ察せるようになっていた。そしてそれは向こうも同じだ。
 だからこそ、ようやく一線を踏み越えようとしている黒鋼に気づいて、こんなにも動揺した顔をしている。

 うなじのあたりに添えていた手をそっと下ろして衿に触れた。手を貸してやらずとも着付けが自然になった、と今更ながらに思う。
「あっ、黒様……
 焦りを隠さずファイが腕を上げた。縋るように伸ばされた指先は全く力が入っていない。黒鋼は気に留めず、そのまま衿に添えた指に力を込めた。
「待って、ちょっとまってってば……、ねぇ」
 知世からもらいうけたのだろう質の良い生地がたわむ。乱れた首元から浮き出た鎖骨が覗いた。
……Жди!」 

 聞き慣れない言語に疑問を感じるよりも先に、ファイが勢いよく顔を上げた。自分の行動が信じられないとでも言うように両手で口元を抑えている。
 黒鋼は今度こそ声を上げて笑った。まるで戦場にいるかのようにぐらりと血が滾っている。きっとこれが、やっと手にすることのできた何にも隔てられていない姿なのだろう。
 褒められたものではない顔をしている自覚はあったが、この期に及んで気を回す必要もなかった。どうせこいつしか見ていないのだ。
 ファイは怒ったり照れたり泣きそうになったりと目まぐるしく表情を変えてから、諦めがついたのかようやく身を預けた。未だに頬は紅潮したままだ。今は衣服に隠れている白い肌もおそらく赤くなっているのだろうが、それはこれから確かめればいい。

……黒様、いつもよりさらに顔がこわいよー……
「言ってろ」
 黒鋼は意に介さず目の前の身体に覆いかぶさった。
 あの魔術師の一言は己の最後の鎖を断ち切る言葉だったのかもしれないなどと、いくらか熱に浮かされたことを考えながら。