あま-やどり【雨宿り】
雨を避けるために、軒下などにしばらく身を寄せること。
どう-めい【同盟】
個人・団体または国家などが、互いに共通の目的を達成するために同一の行動をとることを約束すること。また、それによって成立した関係。
*
朝の光に照らされる白い部屋で、小さな緑だけが、自分を呼ぶように輝いていた。
起きて顔を洗い、制服に着替えて、志音はリビング兼ダイニングへ顔を出す。自分以外に誰もいない家は、とても静かだ。カーテンを開けると朝日が取り込まれて、アパートの部屋が白く眩しく浮かび上がった。
だから余計に、小さなその緑が文字通り異彩を放っていた。吸い寄せられるように近寄ると、それは小さなペンダントだった。テーブルの上には、加えて、「三日後に帰ります。学校気をつけて。それと、押入れから母さんのペンダントが出てきました。お前が持っていなさい」というメモ書きも。出張の度、こんな風にメモだけを残していく父にはとっくに慣れた。気に掛かったのはペンダントのほうだ。銀の細いチェーンと、青みがかかった緑の雫型の小さな宝石のそれを眺める。
父が言うに、これは母のものだったらしい。確かに母は、このペンダントを肌身離さず持っていた、気がする。六年以上前のことだ。記憶は定かではない。下手に扱ったら切れてしまいそうなチェーンをそっと掬い上げ、ペンダントトップを日の光に透かしてみる。宝石の透明度は高いらしく、きらきらと光を反射して、顔に光と影を作った。エメラルド? 翡翠? 宝石は詳しくないけれど、それは自分の知っているどの宝石とも違うような気がした。ひっくり返したり角度を変えて観察しているうちに、昔の記憶がほんのり蘇る。
――おかあさんのそのキラキラ、きれいだね! 志音もそれほしい!
「ごめんね
…これはお母さんの大事だから
……」
――じゃあ、大きくなったらお金もちになって自分で同じやつ買うね!
「う〜ん、普通のお店では売っていないのよ」
――なら、志音がそっくりの作るね!
「
……ふふ、そうしたらお揃いね」
――おそろい!!
そんな会話をしながら、二人で笑い合った。
大きくなった今では、あの時自分が言った言葉は叶わないことは知っている。あのあと、似たようなものが売っていないか調べて見たことがあるけれど、一致するものはなかなか見つからなかった。母が「普通のお店では売っていない」と言う通り、手作りかオーダーメイドか、そういう「世界に一つ」というものなのだろう。
首を傾げて眺めていると、どこからかノイズのようなものがすることに気がついた。外の騒音かと思ったけれど、どうやらそれは手元のペンダントから聴こえてくるらしい。耳に近づけてみると、その正体はすぐに分かった。雨音だ。微かに、さーさー、あるいは、ぽつぽつ、という音たち。耳を近づけて音が聴こえるなんて、なんだか、貝殻から波の音が聴こえてくるのに似ている。落ち着く音だ。
それから長い間、何の変哲もない、そのただの雨音に聴き入っていた気がする。いや、実際には数分だったかもしれないけれど、その時だけ、とてもゆっくり時間が流れているように感じた。
ふと時計を見やると、針が指すのは七時四十分。ペンダントに気を取られて、すっかりやるべきことを忘れていた。朝食を食べて、学校に行く準備をしなければ。洗濯機を回すのと掃除は、帰ってきてからでいいか。
志音はそんなことを考えながら、なんとはなしにペンダントを制服のスカートのポケットに滑り込ませた。
その後はごく普通の一日だった。音楽を聴きながら登校して、ぼーっと授業を受けて、一人で昼食を食べて、また授業。自分の日常はその繰り返し。けれど、思わず持ってきてしまったその存在だけが、ポケットの中で微かに違和感を放っていた。
*
放課後の掃除が終わってすぐに、校門を出る。部活に入っていないから、特に学校に残る用事もない。
空を見上げると、灰色の雲が、ゆっくりと形を変えて流れていくのが見えた。まだ空の青は見えていたけれど、空気には雨の匂いがかすかに混じっていた。そういえば天気予報は夕方が雨だった。折りたたみ傘は持っているけれど、家に帰るまでせめて本降りにならないよう念じる。
雨は好きではない。頭は痛くなるし髪は機嫌を損ねるし。何よりあの日を思い出すから。そして、冷たくて、死を思わせるから。まあ、好きな人なんてそうそういないだろうけど。
――雨。そういういえば。
立ち止まり、今朝の雨音がするペンダントの存在を思い出してポケットから取り出す。もう一度耳を澄ませると、やはり雨音が聴こえてくる。不思議な石だ。
と、急に風が強く吹いた。髪が視界を覆い、思わずよろめく。それのせいもあって力が抜けてしまい、ペンダントがするり、と手を離れた。
「あ!」
志音が歩いている、河川敷を横目に見渡せる遊歩道の一段下の道へ、ペンダントは吸い込まれるように落ちていく。
落ちた衝撃で割れてしまっていないだろうか。割れていなくても小さいから気付かれずに誰かに踏みつけられてしまうかもしれない。母の大切なものを壊してしまったかもしれないという焦りに、心臓が早鐘を打つ。
けれど幸か不幸か、それはとある二人組のそばへ落ちたようだ。制服を着ている男子高校生だ。背の高い方が足元のその存在に気づいたのか立ち止まり、しゃがんで拾い上げる動作をするのが見えた。彼はもう一人にペンダントを見せ、何やら言葉を交わす。それから周りをきょろきょろと見渡して、志音の存在に気づく。こちらを見上げた彼とバッチリ目が合った。
「これ、お前が落としたのー?」
背の高い青年がペンダントを高く掲げて志音に呼びかけた。
「そっ、そうです!」
上擦った声で答え、慌てて階段を降りていく。二人組の元へ駆け寄って頭を下げる。
「すみません
……!」
「ううん、気をつけろよ」
「はい
……」
小さく縮こまってそれを受け取る。少し土埃がついてしまっているけれど、壊れたりはしていないようだ。ひとまず胸を撫で下ろす。ありがとうございました、とお礼をして踵を返すと。
「あ、ちょっと待って」
振り返ると、二人組は何やら真剣な目でこちらを見つめていた。何か気になることがあったのだろうか。
「
……?」
「その涙澄石
……お前も雨の紡ぎ人なんだな!」
彼は目を輝かせてそう言った。聞き覚えのない単語に、志音は目を瞬かせる。
ちょうるいせき。あめのつむぎびと。なんだそれ。
「
…………何ですか、それ?」
「ありゃ? おかしいな?」
想定外の反応だったのか、二人は後ろを向いて頭を突き合わせ、ひそひそ話を始める。
「どういうことだ? 自分が雨の紡ぎ人だと知らない? それとも俺らの
――」
「いや、間違いないよ。あれは本物だと思う」
「じゃあ、どういうことだ
……?」
「事情があるのかも。聞いてみればいいんじゃない」
「それもそうか」
そこまで話して、ようやく二人はこちらに向き直る。全部聞こえていたけれど。
背の高い方が少し気まずそうにしながら言葉を続ける。
「その
……勘違いだったらすまん。でも、その石は、雨の紡ぎ人っていうやつが持ってるお守りというか、証みたいなものなんだ。だから、お前もそうなのかと思って
……」
その石とは、ペンダントトップの宝石のことを指しているらしい。雨の音が聴こえる、不思議な石。手のひらの青緑をまじまじと見つめる。母は一体、どんな秘密を隠し持っていたのだろう。
「これは母のものだから、詳しいことは
――というか」
じっ、と志音は彼らを見据える。特徴的な濃緑の制服から見るに、おそらく志音と同じ高校の生徒なのだろう。けれど交流の狭い自分なので、見覚えはなかった。ペンダントを拾った背の高い方は、鼻にそばかすのある活発そうな青年。もう一人の方は、下級生だろうか。おとなしそうな印象で、丸眼鏡をかけている。
「あなたたちは、誰? 雨のなんとかって
……何者?」
あ、という表情を浮かべる二人。落とし物を拾ってくれたとはいえ、訳のわからない話をし始める二人は、志音から見れば十分不審だ。蛍は犯人に降参するかのように両手を挙げた。
「悪い悪い。俺は小湊蛍。その制服、お前も糸凪高校だよな? 俺は二年で、隣は一年の
――」
「森生琥珀です。あの、僕たち決して怪しい者ではなくて」
眼鏡を掛けた小柄な方、琥珀はご丁寧に学生証まで見せてくれた。確かに自分も通っている糸凪高校の学生証だ。しっかりと名前も彼らの顔写真も載っている。一旦は同じ学校の生徒ということで、不審者ではないらしい。
「お前は?」
そう聞かれた瞬間、顔見知りになりたいわけではなかったのに、思わず名前を聞いてしまったことを後悔する。けれど言い出したのは自分だ。この際仕方ない。
「私も、糸凪の二年。星野志音」
「え! 俺と同じじゃん! ライン交換しない?」
「
……ナンパしたいの?」
「違う、誤解だ! 変な意味じゃなくて同じ仲間なら、と思って」
ブンブンと首を横に振って強く否定する蛍に、隣の琥珀はため息をついた。蛍は居心地悪そうに頭を掻く。
「あー、
……とりあえず、立ち話も何だから、どっか座らないか?」
*
「つまり、私は雨の紡ぎ人という雨を操る一族で、この石は一族であることの証
……」
「涙澄石ね。そうそう、そういうこと」
河川敷のすぐそばの小さな公園にある東屋に移動し、志音は、蛍との二人から雨の紡ぎ人とは何かの説明を受けていた。まだ、騙されている気がしてならない。この後、変な壺を買わされるんじゃなかろうか。
「一応、もう少し補足すると
……」
メガネを僅かに押し上げて、琥珀が言う。
「雨の紡ぎ人には古くから伝わる歌
――雨詠みの譜というものがあります。それを歌うことで雨を操ることができるんです。
……心当たりは?」
志音は首を横に振る。
「そんなの、知らない
……。私は、自分がそんな力を持ってるなんて知らなかった
……」
「そこが変だよな。親とか、それが難しかったら祖父母とか親戚から教わるはずなんだけど」
「科学技術が発展した現代で、僕たち一族の異能が廃れていることは確かです。蛍から見れば奇妙かもしれないけれど、そういう人がいても、不思議ではないよ」
と、蛍はフリーズしている志音を覗き込む。
「
……星野、ついてこれてる?」
「
……まあ」
明らかに自信のないと分かる微妙な動きで頷くと、蛍が可笑しそうに笑った。
「絶対分かってないな。ま、ちょっとずつでいいからさ。そうだ、なあ琥珀、実際に見てもらったほうが納得してもらえるんじゃないか?」
そう蛍がぽん、と手を叩いて提案した。琥珀は少し不安げに蛍を見やる。
「
……目立たない?」
「どうせ車の音で聞こえないし、誰も見てないだろ。この後雨予報だし」
決まり、といった風に蛍は立ち上がる。黄金色の目を輝かせ、自信満々な表情で。
「よく見とけよ、星野。いいもの見せてやるから」
蛍と琥珀は東屋の外に立った。雲間から差すオレンジの夕日が、ちょうどスポットライトのように当たっている。二人は背中合わせになると、合図もなく歌い始めた。高く澄んだ声は琥珀、しなやかで力強いのは蛍だろう。彼らのメロディは似ているようで少しずつ違い、けれどぴったりとはまっている。互いに調和して共鳴しあう、観客が自分一人なのがもったいないくらいのデュエット。アカペラであることをものともしない。どこぞのアーティストより上手いのではなかろうか。
体を揺らして聴き惚れていると、ぽつり、と雨粒が志音の頭を打つ。
「__!」
ぱらぱらと、雨音は増えていく。屋根の外に手を出してみて、感触を確かめる。雨なのに、不思議とあの尖った冷たさはない。優しい雨だ。夕日に照らされ、雨粒はきらきらと煌めく。その光景は天気雨のようだ。
歌
――二人に倣って雨詠みの譜、と言うべきだろうか
――を聴いているうちに、やがて志音は確信する。二人が歌っている雨詠みの譜は、初めて聴くはずなのに、どこか聞き覚えがあるものだった。似たようなものを聞いたことが、やはりある。しまいこまれていた記憶をなんとか辿って、ようやく端緒を掴む。脳裏に浮かび上がるのは、また母との記憶だ。
あれは確か、母のお見舞いに行った時で、病室の前に行ったら歌声が中から聴こえてきて。またあのお歌だ、と志音は思った。
母は時々、志音の全然知らない歌を歌うことがあった。鼻歌で、歌詞もないから調べようもなくて。何度か教えてと頼んでも、いつもはぐらかされていたのを覚えている。扉の前で母の歌声をこっそり堪能してから、今来ましたよと言わんばかりに病室の扉を開ける。
――ねえねえ、今何か歌ってた? もしかして新曲? いつ出すの? もう一回歌ってみて! 私にも教えて!
そう母に詰め寄って質問攻めにすると、なぜか、母はやけに寂しそうな、複雑そうな表情をしていた。それから静かに笑って、
「
……だーめ、秘密よ」
と言うのだ。
結局その歌の正体は分からないままだった。真似るようにその歌を口の中で転がしてみると、なんだか懐かしくて心がふわふわして、でもすぐに歌うのをやめた。幼いながらに何だか気軽に歌ってはいけないような気がしたから。何気なく口ずさむには神聖で、重々しいもののように思えた。今思えば、その直感は正しかったのだろう。
志音は降りしきる光の粒に目を細めた。
雨は嫌いだ。そのはずなのに。こんな雨を見せられたら、いつものように嫌だ、なんて思えない。
彼らの歌う雨は、どうしようもなく綺麗で、透き通っていたから。
いつの間にか歌うのを止めていた蛍と琥珀は、東屋に戻ってきていた。歌い手がいなくなり、少しづつ雨音が弱くなっていく。
「なっ、信じてもらえた?」
「え?」
「だってお前、まるきり魔法なんて信じてないみたいな顔してたからさ」
心中を見抜かれて、志音は少しだけ俯いた。信じていたと言ったら、嘘になる。自分にあんな力があるなんて、信じられないと、やはりからかわれたのだろうと冗談半分に話を聞いていた。けれど今なら、彼らの言葉が嘘ではないと分かる。
「
……うん、そう思うよ。でも、二人の雨を見て分かった。二人とよく似た歌を知っていて、涙澄石、を持っていた私の母は本当に雨の紡ぎ人だったんだって。だから、娘の私もそうなんだ、って」
蛍は頷いた。
「なあ、星野。一つ提案があるんだ。俺たちは同盟を組んでるんだけどさ」
「
……同盟?」
大袈裟な言葉に瞬きをする。蛍は頷き、大きく両手を広げておどけて言う。
「そ。『あまやどり同盟』。雨の紡ぎ人の、雨の紡ぎ人による、雨の紡ぎ人のための同盟さ!」
志音は首を傾げる。抽象的すぎてピンと来ない。蛍の説明を、琥珀が引き継ぐ。
「雨の紡ぎ人の
……なんというか、小さなコミニュティです。定期的に集まって、一族に関する情報とか、色々調べたりして交流してるんです」
「そうそう。お前が良かったらだけどさ、入ってくれないか? 俺と琥珀、それからもう一人女子がいるんだ。星野が来たら、きっと喜ぶぜ」
それはとても、とても魅力的な提案に思えた。学校のどこにも属さない、友達と呼べる存在なんてほとんどいない自分を、受け入れてくれるかもしれないばしょ。けれど、様々な思いが駆け巡る。それは一種の恐怖かもしれないし、忌避感かもしれないし、防衛反応と呼べるものかもしれない。
だってあの時、決めたじゃないか。結局失うくらいなら、最初から無いほうがいいと。
そうやって、自分を守ってきたのだから。
「ごめんなさい、私
……遠慮しておく」
頭を下げ、きっぱりと断った志音に、二人は顔を見合わせた。けれど蛍は、すぐ頷いた。
「わかった。こっちこそ、急に誘って悪かったな」
「気にしないでください、選択は自由です」
「まあ、気が変わったら教えてくれよ」
「
……うん」
気を遣われている。志音はうつむいて返事をすることしかできなかった。学校で会ったら気まずいな。これだから人付き合いは嫌なんだ。とかそんなことをとりとめもなく考える。
いつの間にか、あの光のような雨は止んでいて、街は暗い灰色に包まれていた。
家に帰った後、キッパリ断ったにもかかわらず、なぜか胸がざわざわして落ち着かない。これでいいはずだ、断るのが最善だったと、そう思い込もうとする。
けれど、あの二人の歌が、志音の頭の中でずっと鳴り響いていた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.