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那須野
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徳種
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その海を知る日には
【徳種】CP未満*徳+種。合宿所居残り期間中、二軍寮101号室にて。
宿舎のベッドに寝そべったまま、スマートフォンの画面に表示された時計をぼんやりと眺める。二十一時十五分。
徐々に夜更けの静けさを取り戻しつつある二軍寮、廊下の最奥の101号室で、種ヶ島はひとり就寝前の自由時間を過ごしていた。
本来は四人部屋だが、現在この部屋を使っているのは自身だけだ。合宿所への残留に伴い一軍寮から一時的に二軍寮へ移ることになったため、暫定措置として用意されたのがこの101号室だった。
海外遠征を辞退した数人以外の一軍メンバーが日本を発ってから、きょうで二週間。
一ヶ月間の旅程の折り返しに差し掛かり、他愛ない雑談が交わされることもあるグループメッセージのやりとりも落ち着きを見せ始めている。大曲とは時折個別に連絡を取っているが、集中している時期にむやみやたらと雑談を送るわけにもいかない。
(アイツら、今どのへんやったっけ。何しとんかな)
記憶では欧州各地を巡っている頃合いで、時差を考えると恐らくあちらは昼ひなか、練習試合の最中だ。その後には試合内容を踏まえてのミーティングや追加のトレーニングなど、合宿所と何ら変わらぬ密度のスケジュールだと聞いている。果たしてどんな様子だろうか、移動続きでさぞ目まぐるしいに違いない。そんな他愛のない想像を巡らせかけたところで
――
ひやりと臓腑の冷える感覚が背すじを伝い降りていく。
(
…………
あー、アカン、またやってもうた)
咄嗟にきつく目を閉じて、一旦思考を外へと追いやる。広がりかけた動悸は、深呼吸を繰り返すことでどうにか宥めつけた。
「
…………
、
…………
はー
……
」
無意識に握りしめていた端末から手を離し、溜息とともにベッドのなかで姿勢を変える。宿舎の無機質な壁を見ながら、眉根を寄せて指先を握り込んだ。
幼少期に根付いた飛行機への恐怖心は、高校三年生となってもまったく和らぐ気配がない。
乗り込むことはおろか、遠巻きに機体を見るだけで気分が悪くなってくる始末だ。たった一ヶ月のうちに航空機を乗り継ぎ各地をまわるタイトな海外遠征など、およそまともなコンディションで臨めるはずがない。合宿所への残留はいまの自らにとって最善の選択であり、課題に向き合うための時間でもあった。
今後プロ選手への道を目指すなら、どこに拠点を据えてもコンスタントな海外遠征は避けられない。
合宿のコーチ陣との面談でも一年生のころから再三指摘を受けており、十分に理解はしている。根深い本能的な恐怖感をどうにか克服できないかと国内線の短いフライトを試みたこともあるものの
――
いまのところ、すべて芳しくない結果に終わっている。
幸い、二年前のU-17W杯同様海路の手配が叶ったため、今回のオーストラリア大会についても自身は船で現地へ向かう手筈になっている。
添乗スタッフの管理下を離れないこと、トレーニングのノルマと定時報告など条件は幾つかあるが、「空路を取る必要がない」という一点だけで心身の負担感に天地ほどの開きがあるのは事実だ。紛れもない特別対応である以上、そのための条件なら幾らでも呑む。
「
…………
」
もう一度深く息を吸い、細く吐ききったところで緩慢に身を起こす。
外の空気を吸えば多少は気分転換になるだろう。椅子に掛けていた上着を羽織って部屋を出ると、知った姿がこちらに向かって進んでくるのが見えた。
数秒遅れて気が付いたらしい男
――
徳川と、ぱちりと目が合う。
「お疲れ様です」
「おー、徳川もおつかれさん」
「いまからどこか行くんですか?」
「ちょい散歩。外の空気吸いたなってん」
男の部屋はちょうど真向かいの102号室だ。すれ違いざまの軽いやりとりのはずだったけれども、いらえを聞いた男は律儀に扉の前で足を止めて小さく首を横に振ってみせた。
「
……
外、雨が降ってますよ。俺もそれで引き上げてきたところです」
「あー
……
ホンマ?」
「霧雨程度ですが」
「さよか~
……
」
確かに日中から薄曇りの空模様ではあったが、この夜更けにいよいよ降り出したらしい。間の悪いことだ。思わず「ツイてへんわ」と零すと、訝しげに眉をひそめた男の視線がじっと注がれる。名前を呼んで自ら先手を取るよりも、男が口を開くほうがほんの一瞬早かった。「種ヶ島さん」
「大丈夫ですか?」
「
……
なにが?」
「少し、顔色がすぐれないように見えます」
「
…………
気のせいとちゃう?」
普段は他人の感情の機微に疎いたちの男だというのに、何故こんなときばかり鋭いのだろう(否、空元気を取り繕う程度の余裕すら、いまの自分は持てていないということか)。
「体調が悪いなら、医務室に
……
」
「ちゃうねん。
……
ほんま、そういうんとちゃうから。おおきにな」
気遣いを含んだ直線の眼差しを普段の調子で軽く躱しきることができずに、すいと目を逸らす。我ながらあまりに出来の悪い応えだと自覚しながら、それでも誤魔化すようにひらりと手を振り男の横をすり抜ける、
――
はずだった。
通り過ぎざま、ぱっと持ち上がった手が自身の腕を取る。
自分よりも掴んだ本人のほうが驚いているようで、端正な瞳がまるく瞠られているのが見えた。
「
……
すみません」
「いや
……
」
「でも、そんな顔で歩いていたら、そのあいだに何人声を掛けられるかわかりませんよ」
「
…………
、」
「それに、雨のせいでかなり冷え込んできてます。
……
体調が悪くなくても、外に出るのはやめたほうがいい」
決まり悪げに手を離した徳川が、視線を落としながら言う。腕にかすかに残る手のひらの感触と、訥々と連ねられた不器用な言葉たちに、くしゃりと頭を搔いて溜息をひとつ吐いた。
「種ヶ島さん?」
「
……
お前にそこまで言われてもうたらしゃーないわ」
「え?」
同学年の入江や鬼であればいざ知らず、後輩にここまで言わせるとは、どれほどひどい顔をしているものか。
鏡を見てから部屋を出るべきだった。どんなときでも客観性は重要だ、次回からはそうすることにしよう。そんな内省とともに、種ヶ島は緩慢に踵を返す。訝しげな表情の男を肩越しにちらと振り返り、なるべく軽い調子に聞こえるよう気を払いつつひそめた声で言う。
「気ィ紛らわすんくらい、付き合うてくれるやろ?」
「
――
……
」
数秒の間。
短い首肯が返ったのは、二、三度のまばたきのあとのことだった。
扉を閉めたばかりの101号室へ引き返し、ふいの来客を迎え入れる。並んだ勉強机の椅子を示して座るよう促してやると、男はこちらに視線を向けたまま静かに腰を下ろした。
「横にならなくていいんですか」
「大丈夫やって。寝とんのが嫌で部屋出たんやから」
重ねて投げられた問いに苦笑をひとつ。これまで気付く機会がなかったが、存外心配性らしい。机に頬杖をつき、わずかに首を傾げて尋ねた。
「俺、そないにひどい顔しとるん」
「
……
見た目には、少し覇気がない程度だと思います。でも」
「?」
「アナタがそれを隠しきれていないこと自体が、調子が悪い証拠でしょう」
「
………………
、」
だから、声をかけました。
何気ない様子でそう答えた徳川に、今度は種ヶ島が目瞬きを返す番だった。
二軍との合流期間中、自身は常に一番コートで過ごしており、元来のトップであるこの男とは必然的に練習試合が組まれる頻度も高い。一軍、ナンバー2のバッジを預かる身として負けを喫したことはないが、やはりあの鬼と入江に見込まれ鍛えられているだけあって日ごと着実に力をつけてきているのを肌身に感じる。
この男なりにこちらの人となりや所作を捉えつつある程度には、視野も洞察力も深まっているということだ。なるほど、と声に出さず納得を呟いて、肯定の代わりの沈黙をあいだに落とす。それが理由であるのなら、下手な誤魔化しはなおさら通じない。
体温を、心拍をコントロールするように深く息を吸って、細く吐く。そのままの呼気に乗せ、ぽつりと男を呼んだ。
「なあ、徳川」
「はい」
「お前、
……
ヒコーキ乗っとってオモロい思うこと、なんやあるか?」
「
……
面白い、ですか?」
頷く。
自身が海外遠征を辞退した理由は合宿所内でも周知の事実だ。無用な気遣いを避けるためにあくまで笑い話程度に振る舞うと決めていたし、コーチ陣を含め一年生のころからの付き合いの面々には多かれ少なかれ「飛行機嫌い」の実際の姿を知られている。まして最上級生となった今、この件について必要以上の抵触や配慮をされることはほぼなかった。
――
この男以外には。
徳川はこうした形で体調に影響が出るものだとは知らなかったのだから、向けられたそれがあくまで純粋な気遣いであることは理解している。だからこそ、その直線を躱しきれずにかすかに心が揺れたのかもしれなかった。
ひとつ年下の男の、まっすぐなひとみが自身を射る。
昨年とは明らかに違う強いひかり。真正面から叩きのめされても挫けず立ち上がる、未知の片鱗。今回の合宿と、男にとっては一度きりのU-17W杯を越えたその先で、この双眸は一体何を映すのだろう。
一年早く高校を卒業する自分には、この場所でそれを知る機会はない。ふと気付いたその事実が、なぜだかひどく惜しいもののように思えた。
「
……
フライトのルートにもよりますが」
自身の胸中など知る由もない男は真剣な表情でしばらく考え込んだあと、ようやく口を開く。
「海が、綺麗だと思います」
「
……
海?」
「はい」
寄越された答えに、素直な疑問符が唇から零れ出た。軽く頷いた男が、記憶を辿るように目を細めながら言う。
「空から見る海は、
……
そうですね」
「
……
、」
「
――
静かです。とても。広大で、ひたすら、青い。飛行機から海を見ると、船に乗りたくなる」
噛み締めるようにそう紡ぐ男の顔を、種ヶ島は思わずまじまじと見つめる。その声には確かに、海への親しみが滲んでいた。
「
……
お前も船好きなん?」
「ああ、いや、趣味でヨットを
……
。
……
種ヶ島さんもですか?」
「俺はどっちかっちゅうとクルージング派やけど。ヨットもエエなあ。写真とかあらへんの?」
「確か、少しなら
……
」
好奇心に誘われるままつい身を乗り出して尋ねると、律儀に応じた徳川が上着のポケットに手を差し入れる。スマートフォンの画像フォルダを表示させようとしたところで、
――
互いにふと顔を見合わせた。
「
……
ふ、はは、船の話なんだか飛行機の話なんだかわからんくなってもうた」
「
……
すみません」
「いや、
……
うん、助かったわ、徳川」
「え?」
「声出したらなんやちょっとラクになってきた気ィする」
「
……
そうですか?」
「おん」
至って真面目な表情のままきょとんとしている様子が少し可笑しい。そっと息を吐いて、椅子から浮かせかけていた腰をひとまず戻す。片膝を胸元へ引き上げゆるく抱え込み、向かいに座る男を見遣る。言葉を続けようとする気配を察してか、改めて姿勢を正す徳川にちいさく笑んだ。
「飛行機がアカンの自体は、自分じゃ犬に噛まれたみたいなモンやと思とるんやけど。
……
いっぺん体が覚えてもうたことやから、別に怖ないて頭でわかっとっても、なかなかうまくいかへんねんな、これが」
「
……
はい」
「ほんで、どーやったらアイツと折り合いつくんか、探しとる。今も」
「
……
ええ」
男の視線が、ただまっすぐに自身を映している。
諦めていない。諦めるつもりなどないと、伝わっただろうか。赤銅色のひとみがゆっくりと何度か目瞬いて、薄く和らぐ。
「もう、大丈夫そうですね」
「
……
ん。おーきにな」
「明日もよろしくお願いします」
「おう」
「
……
おやすみなさい」
「おやすみ、」
――
本当に、知らぬ間に随分と内面を捉えられていたものだ。けれどもそれも男が見据える日本代表トップの座、その道の途中に己が立っているからこそと思えば、五感を揺らすのは心地好い緊張でしかない。
ぱたん、と、扉が閉まる音がする。
あの男のいう静かな海を知る日には、あとどれほどで届くだろうか。遠のいていくかすかな足音に耳を傾けながら、夜の静けさのなかで目を閉じた。