よるうみはる。
2026-02-18 00:45:46
6210文字
Public 原作軸
 

ダーリン、今夜は甘やかしてあげるよ。



 ――あいつに言ってやるからな!
 昔、金に困って身を投げ売った夜があった。金髪に碧い瞳をした、痩せさらばえたガリガリの男を犯してみたいとか、吐き気のするような欲望を並べ立ててきた男がいた。
 当時のオレは年齢を偽って深夜まで働き詰め、帰宅するのは決まって日付を跨ぐような真夜中で、その頃には夜更けに帰れば母親がいないっていう知恵もついてた。
 だから、オレはその時ばかりは、いつもよりたくさんお金が入るなら、自分の身体の価値なんてどうでもいいと思って、朝までその男に抱かれてたんだ。当然、ふらふらになって帰った早朝の自室には、母親の姿なんてなくて、たった数万ぽっちの稼ぎと共に、オレは疾うに捨てたはずの尊厳を思い出して、布団の中で泣いてたような年頃だ。
 あ? 死ななくて良かった? ……そうだな、死にたいって気持ちはたぶんあんまり無くて、どちらかというとオレはずっと怒ってた。なんでこんなに弱いんだろうって、オレに力がないんだろうって。
 それで必死に働いて得た金は、いつか大学へ行くための学費として蓄え、それを母親に奪われねえように必死に隠してた。まあ、必死だったんだよな。そこから、まとまった金があるなら投資すればいいんだって気付いたら、少しは楽になれたんだ。

 白く煙る湯気の向こう、バスタブの中で前を向く彼の背中を後ろから抱き締め、その腕から指の先までをなぞるようにして丁寧に清めている最中、敬一くんはそんな過去をぽつりと呟いた。視界をぼやけさせる熱気のせいか、それとも感傷ゆえか、微かに震える彼の輪郭は今にも泣き出してしまうかのように心許なく映り、愛しさが募るままに火照ったうなじへ唇を寄せれば、彼は誘われるように首だけをこちらへ傾けて、揺れる碧い瞳を覗かせた。
「よく頑張った、って言われたい?」
……いや、別にそんなことはどうでもいいし、アイツがオメーのことを指すのも分かってた。でもオメーは、多分オレが初めてじゃないことも、何かしらあったこともきっと知ってるだろうなって思ってたし」
 よく分かっているな、と思う。敬一くんが初めてじゃないって分かったときは、誰だよと思って調べ上げたこともあるが、彼があんまりに貧困で喘いでいたときの話なので、オレは特別に嫉妬したりもしなかった。
 だって、仕方がないだろ? 害虫が光に寄ってくるのは自然の摂理だ。人の中でもピカピカして毛色の違う敬一くんの姿は一等綺麗だっただろうし、細い手足のうつくしい男を征服するのはさぞ愉しかっただろうという気持ちは理解も出来るが、オレがそれに怒りを覚えるかどうかというのは、全く別の問題だった。
 悋気こそ起こさなかったものの、正しく現在の彼はオレのものであるので、害虫の処理をすることも所有者の役目だろうと思うのだ。
 ――しかし、本当に手を煩わせる害虫だな。
 獅子神敬一の周りに羽音をさせて、目障りなほど飛んでいたのをオレはとっくに知っていたし、敬一くんも気付いていた。家の周りのセキュリティを強くしたいと相談に乗ったのはつい三日前のことで、オレは出来るだけ高性能な防犯機器を教えてあげたし、それを奴隷くんたちがセットしていたのも知っている。敬一くんに許可も取って、オレのパソコンからそれを確認だって出来るようにだってした。
 もちろん、黙って盗撮することも出来るけれど、恋人のプライバシーは尊重してやりたいと思っている。まあそれとは別に録画機器はあるけれど、これらはバレていない。――いや、バレていたとしても敬一くんはそのままで良いと思っているから口に出さないのだろう。時たま夕飯のメニューを思い出したように呟くので、そういう時は大抵オレに来て欲しいってことだ。だからそう、敬一くんは知っていて放置してるものもある。
 おっと、閑話休題だ。
 観たくないものなんて、一秒だって脳に飼っておきたくないだろ? だからすぐに好きなことで満たしたくなるんだ。敬一くんのことならずっと考えていたいし、見ていたいからこれは仕方がない。害虫なんてみんな視界に入らない方がいいんだからだ。
 そう、害虫だ。
 敬一くんが話す害虫は、二週間ほど前から現れた。投資関連の集まりに行くって話は、オレは元々聞かされていて他のみんなもその日はじゃあ敬一くんちには集まれないねなんて話をしていたんだ。敬一くんは「夕方には帰るぜ?」なんて言ってくれた。暗に、夕飯は一緒にどうかってことで、オレたちがそれを読み違えるはずもなかった。みんな敬一くんちの合鍵を持ってるから、各々夕方までには好きなように集まって、敬一くんの帰りを待っていたんだ。冷蔵庫に下準備をした材料があることも、圧力鍋で保温された角煮だって知っていた。みんなあとは、家主だけだなんて好きなことをしていたっていうのに。
 ああ、今思い出しても腹立たしいな。
 帰ってきた敬一くんは、笑みを浮かべてた。「わりぃ、待たせたな」なんて。普段通りだったけど普段通りじゃなかった。ここにいる四人全員を騙し切るのは流石に無理じゃないかって思うけど、敬一くんは気取られたくない時は、本気で隠し通してしまうたちがある。それは特に自分のことだったりすると、隠れちゃう。でも、自分以外の何か心配事だとかであれば、そういうのは漏れちゃうし、そういう時は決まって何を言うべきか悩んでるってことだ。
 五つの目がオレへと向けられ、オレは着替えてくると言った家主の後を追いかけた。
 スーツを脱ぎ捨てながら、敬一くんは随分と疲れた顔をしていた。まどろっこしいことは嫌いだからオレは、単刀直入に「なにかあったの」って聞いたんだ。
 敬一くんは少しだけ迷って「昔の知り合いが」って話だした。それが害虫が光を見つけたっていう報告に他ならない。害虫の言葉を要約すると、お前のことを知っているぞ、最近はずいぶん羽振りがよくて、オレっていう恋人もいることも知ってるぞ――というものだった。敬一くんとのデートのときは視線が多くて放っておくことが多いから、これはオレの失態だと思った。今度からは一から百まで片付けなきゃならない。それはまあ別にいい、恋人に災厄が振りかからないなら、オレはこういう苦労は厭わないんだから。
 オレに何があったかを報告した敬一くんの一番の心配は、「叶に迷惑かけるかも」だなんて。どこまでも自分を後回しにした健気で、それでいてひどく不器用な心配であった。少し青い顔で、震える声でそんなことを言うものだから、オレは堪らずに彼の体を抱き寄せ、その臆病な懸念も、自分を犠牲にしようとする呪わしいほどの優しさも包括してやりたいという心持ちだってある。
 彼が守ろうとしているのはオレの平穏なのだろうが、オレにとっての唯一の平穏とは彼が不当に傷つけられない世界そのものだという事実に、このお人好しな恋人はいつになったら気付いてくれるのだろうか。――などというのは、オレのエゴなので一旦脇に置いておこう。
 もちろんその問題の男は、さっき敬一くんがぽつりと語った過去の男に他ならない。
 瘦せ細った子供の面影を思い出したことにも腹立たしいが、今の敬一くんを脅そうとしてきたその馬鹿さ加減にも心底うんざりする。そこからは本当に愚かだとしか言いようがないんだけど、そいつは敬一くんの元へ何度も何度も、執拗に話をつけにやって来たのだ。それも、彼の聖域であるはずの自宅にまで押し入るような真似をして。
 ――本当に腹立たしいと思わないか?
 敬一くんに何度も手を貸してやろうかって言ったけど、敬一くんはその辺りの甘え方が下手だから。「自分でなんとかする」と言って聞かなかった。とはいえ、オレもこんな取るに足らない羽虫程度なら、敬一くんならなんとか出来るだろうっていう信頼も持っていた。そもそもこの家に出入りしているのは、敬一くんだけじゃなくオレ含めたネジの外れたギャンブラーの巣窟だ。何かあってもどうにかなると考えていたんだ。
 これはオレの二つ目の失態だ。
 害虫という生き物は、時としてこちらの常識では推し量れないような支離滅裂な行動を取る。
 そいつが突然敬一くんの前へ姿を現したのは、自分の会社の資金繰りの苦労ゆえ、実に身勝手な理由からであった。融資しろと声高らかに脅迫じみた要求をしてきたが、当然敬一くんは取り次がなかった。過去の醜聞を曝露してやるという使い古された脅し文句にも敬一くんは微塵の興味も示さなかった。ただし、オレが恋人だということを世間に晒してやると喚いたのが、例のパーティーの日だった。だから敬一くんはオレに迷惑がかかるかもという話をしたんだ。
 正直、心底そんなのはどうでもいい。別に二人の関係が露見したところで、オレの配信者としての活動に致命的な支障が出るわけでもないし、それは敬一くんにしても同様だろう。誰がどのような意図で購入したところで投資のレートは変動しやしないし、ギャンブラーとしての金だってあるオレたちに社会的制裁はあまり意味がない。日本が駄目なら海外へ拠点を移して活動を続けるだけの力も資金も十分にあるのだから、敬一くんもオレも困らない。
 そもそも、奴にはそこまで頭が回っていないし、自分にどれほどの力があるのかという肥大化した勘違いの中に生きている。自身の力量を正しく見誤っているという自覚すら持てないからこそ害虫なのであり、その哀れな性質すら理解できていないのだ。
 自分の矮小な器すら把握できない、蒙昧な羽虫。
 万全の防犯対策を施し、今日に限っては敬一くんと二人の奴隷くんしかいないという静かな家。
 はは、まさか窓ガラスを叩き割ってまで侵入を試みるなんて、普通に生きていれば理解できないだろう?
 それはもう、単なる脅迫者の域を超えた犯罪者の所業だ。幸いにも敬一くんはキッチンにいて、飛散したガラスの破片を浴びることもなく無傷だったが、侵入した男は血走った目で言ったんだ。無視をするなって。路傍の石ころが何を喚いたって意味がないことを分かっていないから、こんな結末を迎えたんだろう。
 敬一くんの身体は、バスタブの湯に浸されてようやく柔らかな温かな体温を纏っている。オレがここへ駆けつけた時の彼は、まるでこの世の終わりでも見届けているかのように真っ青に強張り、氷のように冷たかった。背後から抱きしめて、濡れた髪のひと房にキスを落とせるのは、この世界でオレだけに許された特権だ。
 人間ってやつは、咄嗟に理解できないものには反応が難しいものだ。どんなに訓練を積んでいても、自分の予想と大幅に違うっていうのは起こるのでそれに対してどれだけ早く復帰を出来るかで、生死は変わると思っている。言うまでもなく、敬一くんはオレたちに比べれば「弱い」部類に入るとはいえ1/2ライフのギャンブラー。オレたちとの間に埋めがたい実力差が存在していようとも、並の人間よりは余程に面白く、魅せてくれる男だ。あり得ない状況に叩き込まれても、本来ならば冷静さを取り戻すことなど彼には造作もないはずだった。
 だが、そこで男が喚き散らした言葉に、彼の身体が凍りついたように固まってしまったのは、決して責められるべきことじゃない。敬一くんは何ひとつだって悪くない。敬一くんの周りにいる人間は、誰一人として敬一くんが悪いね、なんて責めたりもしないだろう。
『お前が阿婆擦れだって、アイツに言ってやるからな!』
 キイキイと。耳障りな鳴き声だけは立派な、虫だ。
 かつての、瘦せ細った幼い子どもの身体がいかに淫乱だったかと、その身を汚された過去がいかに無価値であったかと、懇切丁寧に敬一くんに聞かせ始めた男の舌を、今すぐにでも根元から引き抜いてやりたい。貧困に喘ぎながらも必死に明日を繋ごうとしていた青年の尊厳を踏みにじるような大人が、まともなやつわけがない。
 もっと早く、オレはこの部屋に着いているべきだった。
 しかし、物理的な距離という絶対的な障壁を瞬時に無効化する手段などこの世には存在しない。SFのように敬一くんの家に繋がるドアが欲しいと思ったが、当然そんなものない。焦燥感に急かされるまま、ようやく敬一くんの家へと踏み込んだオレの視界に飛び込んできたのは、無機質な床の上に力なく転がっている、浅ましい羽音を立てていた男の無様な姿であった。
 かのう、と。今にも消え入りそうな掠れた声でオレの名を呼んだ敬一くんの足元には、まだ辛うじて息のある男が横たわり、傍らに控えていた奴隷たちは彼を落ち着かせるように大丈夫だと繰り返し、事後処理のために村雨礼二を呼ぶべきだという進言を口にしていた。彼らの賢明な判断にその場の始末をすべて委ねることに決め、オレは真っ赤に染まった己の両手を見つめて呆然と座り込んだ敬一くんを、壊れ物を扱うように優しく、けれど二度と離さないように力一杯抱き締めた。

「綺麗にしよう」

 温かな湯をたっぷりと溜めて、未だ震えの止まらない彼の身体をゆっくりと沈めてやる。
 溢れ出した湯がタイルを叩く音だけが響く静寂の中で、オレは敬一くんの指先にこびり付いた、あどけない少年の尊厳を汚そうとした害虫の汚らわしい痕跡を、丁寧に、慈しむようにして洗い流していった。
 かつて彼が一人きりの布団の中で泣きながら耐え忍んだ夜の記憶さえも、この温熱で溶かし、オレという存在で塗り潰してしまいたかった。
 敬一くんの白い肌を赤く染めていたのは、ガラスで切った男の返り血だったのか、それとも抵抗した際に男を傷つけた証だったのか。いずれにせよ、そんな不浄な色が彼の美しい指先に残っていること自体、オレにとっては耐え難い苦痛であった。
 そうしていると、敬一くんは男に抱かれたことがあるという、苦痛の告白をオレに聞かせたのである。オレに嫌われるのだけは嫌だなと呟いて。そんなことで嫌いになるはずもない。
 敬一くんは強いので、今は余りの衝撃で頭が追い付いていないだけだ。包丁を突き立てたのも初めてなのだから仕方がない。肉のやわらかな感触には驚いたことだろう。抵抗の意志を形にするため、必死に指を動かしたその瞬間の生々しい感触が、今も彼の掌に残っているのかもしれない。
 しかし、そんなことは最終的にはどうでもいい。取るに足らない些末な虫の存在。
 敬一くんを人殺しにはしないように、礼二くんにも説明をしたし、ユミピコにも咎人について伝えてある。晨くんには事実だけを伝えると「面白いことしなきゃね」とだけ。一番怖い男だと思う。
 今、オレにとっての大切なことは、敬一くんの心のケアだけだ。うんと甘やかして、なんにも考える必要が無いってことを教えてあげる必要がある。
 オレは彼の指先に唇を寄せ、残った僅かな震えを吸い取るようにして深く、深く口付けた。
 温かな湯気が視界を白く染め上げ、外界の忌まわしい出来事をすべて遮断していく。
 ここでこうしている間だけは、過去の呪縛も、男が残した汚泥のような言葉も、すべては水底へと沈んで消えていく運命にあるのだ。オレは敬一くんをさらに強く抱き寄せ、その火照った耳元で、彼を安らぎへと誘うための甘い独占の言葉を、繰り返し、繰り返し紡ぎ続けていった。