BACK ■
HOME ■
NEXT
05/天使、ドラッグ、白昼夢
——カイザーと世一のふたりが試合中の事故で入院させられたそのあと。
ふたりは結局念のための再検査やらでもう二日ほど病院に居残ることになり、またその間に、しびれを切らしたネスがノアの制止を振り切って見舞いに来るなどのイベントが発生した。ノアの忠告をスコンと忘れたカイザーがネスへの連絡を怠ったためである。
ネスは心配そうにびーびー泣いていて、結果、カイザーはそれをなだめるのに数時間を使うはめになった。世一は隣のベッドで微笑ましそうに(或いは関わり合いになりたくないという日本人特有の意思表示を乗せて)そんなネスを見守っていたが、最終的に、いちおう世一の心配もしていたらしいネスに矛先を向けられ、びっくりしてあわあわしていた。カイザーはその様子を小動物めいてクソかわいいと思ったが、なぜ自分がそんな考えを思い描いたのかわからず、口には出さず仕舞い込んだ。
さておきふたりはほどなくして退院し、軽いリハビリ期間を設けたあと、翌週の試合から普通に復帰した。もともと衝突して気絶しただけだったので、頭に若干たんこぶができていた以外に、さりとて支障も無かった。地元スポーツ紙にはバリバリにこき下ろされていたが、ふたりの苛烈極まりない豪快なプレーとそれに伴う結果は、ものの一試合で口の悪い新聞記者たちに手のひらを返させ、『皇帝と魔王、完全復帰』との見出しをプレスさせた。
「ヴェスパー・ブレーメンのふたりは
……結局例の事件の六人目と七人目になっちゃったみたいだな」
ダイニングで向かい合って朝食を摂るかたわら、そんなふうに世一がぼやいたのは、華々しい復帰試合も終わり、事故からちょうど一週間が経った頃のことである。
世一が目を向けている75インチテレビの中では、キャスターがシリアスな顔をして原稿を読み上げていた。留置所から逃亡したとして警察が捜していたアレッサンドロとクンツの二名が、アリアンツ・アレーナからかなり離れたズルツェンオースの裏路地で見つかった。二名は今もって意識不明の状態で、警察は彼らの薬物使用の件も含め、背後に何者かの関与がある可能性も視野に入れて捜査にあたっていく、とのことだった。
「あまり気に病むな世一、俺たちのせいじゃない」
世一をなだめ、カイザーは息を吐く。世一の脳裏に過っているのは、まず間違いなくクラインがほざいていた与太話のことであろう。
——〝エンジェル・ドラッグ事件〟。
三週間ほど前そうしたように「ヤク中のたわごと」と一蹴するのは簡単だが、チームの要を担っていたはずのFWふたりが目の前であんな異様な姿を見せたあとになっては、軽々に流すのもやりづらかった。やむなくカイザーは細長いパンにザワークラウトとヴルストを挟んでやってひょいと手渡し、心配事ばかり連ねる口を食べ物で塞いでみることにする。すると世一は素直にパンを受け取り、リスのようにもぐもぐとそれを口に運び、あっという間にごくりと呑み込んでしまう。
「まぁな。俺たちに出来るのはプレーで自己を証明し続けることだけだ。分かってる
……ただ気になることはなるっていうか」
世一は口端についたパンの食べかすを指の甲でつうと拭い、アンニュイな流し目を作って嘆息した。
「〝エンジェル・ドラッグ事件〟ってホントにあるのかな
——」
その表情がどうにもコケティッシュでどうしようもなく目を惹いたが、カイザーはすぐにハッとして己を律すると、トントンと胸を叩き、言い聞かせるようにして正論を並べ立てた。
「
——さぁな。だから今日練習が終わったら、貴重な余暇を費やして図書館へ行く手はずになってるんだろ」
世一にうりふたつの顔をした悪魔と、カイザーにうりふたつの顔をした青年が〝ホワイトチャペルの天使事件〟なる連続失踪事件を調べている
——という奇妙な共有夢を見たのを切っ掛けに、「時間を見つけて夢の詳細を調べてみよう」とう約束をしていたふたりだが、正直言ってそちらの進捗は芳しくなかった。というのも普通にリハビリや練習、試合などサッカー選手としての本業で忙しかったのもあるし、あと純粋に手がかりが少なすぎたのである。
何しろふたりが見た夢から分かるのは、青年に悪魔が取り憑いているらしいということと、彼らの顔ぐらいのものだった。当たり前だがインターネットでちょっと検索したぐらいでめぼしい情報に辿り着くことはない。それに彼らが調べていた事件についても、歴史資料に派手に名を残しているようなことはなさそうだった。というかそもそも年代がよくわからない。これではより詳細な資料を漁ろうにも圧倒的に情報が足りない。
これ無理ゲーでは?
——状況が変わったのは、そう思い始めていた矢先のことであった。
きっかけは今日の朝だった。いつもより一時間早い早朝、興奮冷めやらぬ様子でバタバタとこちらの寝室まで駆けてきた世一は、自分が今朝見た夢についてわーわーまくしたて、それから、カイザーも同じ夢を見ていないかと問いかけた。答えは驚くべきことにイエスだ。ふたりは一週間ぶりに共有夢を見たのである。
それはカイザー激似の青年が、教授に罰則で課されたという追加レポートに半ギレになりながら取り組む様子の夢だった。
あとその後ろで世一激似の悪魔がふよふよ漂い、無責任に応援したり煽ったりしていたのだが
……それはどうでも良くて、問題は青年が書いていたレポートの中身にあった。教授へ提出するにあたって青年が書名と日付を入れていたのだ。
レポートには、彼がミュンヘン大学福音主義神学部に所属している〝ミヒャエル・カイザー〟であること
——そしてレポートを提出する日付が一八九八年の十二月十日であることが記されていた。
「で
——そういうわけだから今日の練習後は先約で埋まってる。自主練してるか帰って寝てろネス、わかったな」
そんなこんなでその日の昼過ぎ、クラブハウスの片隅にある食堂でおにぎりを囓り負えたカイザーは、保温ポットに入れられた味噌汁をズズズと啜り、対面のネスに向かってそう言い放った。カイザーが日本式のランチボックスを持ち込むことに慣れたくないのに慣れつつあるアレクシス・ネスは、その言に引きつった笑いを浮かべながら「あ、はい
……」などと遠い目をしている。
見る人間が見れば、「僕の誘いが断られた上に世一のお手製弁当食べてるとかクソありえねーですけど」などという嘆きがネスの顔面にでかでかと書かれているのは明白なことであった。
しかしカイザーはそのご多分に漏れるため、普通に気付くことなく満足そうに味噌汁を飲み干している。
「毎日飲んでてもなかなかいいもんだな、ミソスープは」
そうして続けられた台詞にネスは心の中でしめやかに泣いた。
「そ、そう
——ですか。僕はアイントプフも毎日飲んでいける味だと思いますけどね」
「悪くないが、最近は食ってないな。世一に頼んでおくか」
「そこ、全部世一に、なんですね
……」
「最近料理にやけに凝ってるからな。やる気のある人間に丸投げした方が楽だろ」
「それは
……そうかもしれないけど」
胡乱に受け答えるネスの目が、どんどんと遠くなっていく。これで惚気てるつもりがないって言うんだからたまらない。こんな調子で、カイザーはもともとバグっていた世一との距離をどんどん親密なものに変えていっていた。なんでも退院して以来「不思議な夢を一緒に見るようになった」とのことだ。オカルト過ぎるし意味が分からない。
ついでに世一も、カイザーがまんまと胃袋から買収されているのをいいことに、隠れもせず堂々と隣を陣取るようなことが常態化した(ネスだけ例外で譲られるときがあって複雑)。しかしそれでもアタックしまくっている自覚があるぶん、現状のカイザーに比べたら世一の方がごくごく僅かにマシというのがネス、そしてひいてはバスタード・ミュンヘン選手たちの総意である。
おかげさまでバスタード・ミュンヘンの内部では今、「カイザーと世一は結局マジで付き合うのか?」という内容の賭けが大流行している。なんと昨日ノアまで賭けに乗ってきた。今のところ優勢は「付き合う」派で、9:1で「付き合わない」派に大差を付けている。数少ない「付き合わない」派のネスは昨日も枕を濡らした。マジで世一とくっついちゃうんですかカイザー、その
……まんざらでもなさそうな顔して。
「ねぇカイザー。クリスマス、どうするんですか」
「どーする、とは」
「はぐらかさないで。世一に誘われてるんでしょ」
でもくっ付かないよりは、最早くっ付いた方がまだマシなのかもしれない。
ネスは密かにそんなことを頭に思い浮かべ、そして、再び大きく嘆息した。「クソ世一だけはマジでない」という顔をしながらも、カイザーがここまで恋に浮かれているのならば成就せず地の底まで落ち込まれるよりずっといいと諦めに近い感情を抱き始めているというのもまた、アレクシス・ネスにとっての本当だった。
だってこんなにご機嫌なカイザー、今までに見たことがない。
それは
選考試験で出逢ってからもう十年近く一緒にいるネスが言うのだから、間違いのないことだった。熱愛ゴシップをどれだけ捏造されようと「女も男もクソキモい。クソ無理」の一言で終わらせてきたカイザーが、クリスマスの約束をその場で断らず保留にしている時点で、答えは殆ど出ているようなものなのだ。
ミヒャエル・カイザーは潔世一に恋をしていた。
火を見るよりも明らかに。なのにずっと自分に言い訳をし続けていて、見ないフリをしている。おまけにこの前聞いたらしくもないあの台詞。
——俺は世一の手を取り、何かが変わってしまうことを恐れているのか?
カイザーは忘れろと言っていたが、ネスはやっぱり、あの言葉を忘れられずにいる。何者にも縛られないカイザーが、まるで神様に縛られでもしたみたいに舌の根をもたつかせてもごもごしている。それは、カイザーが世一に惹かれているという事象に輪をかけて、不可解で、奇妙で、
——ひどくおかしな話だ。
(
……何かトラウマでもあるんですかねぇ。カイザー本人も気付いていないような
……)
ネスは都合三度目の嘆息をして、カイザーの顔をこっそりと覗き見る。カイザーは飲み終わった味噌汁のポットを片付けて、手持ちぶさたになった指先を、もじもじと合わせて視線をまごつかせていた。マジで恋する乙女みたいで怖い。潔世一にここまで変えられてしまったのかと思うと恐怖すら覚える。やっぱり世一は魔王だ、あの男だけはいつかしばく。しかしそれはそれとして、まぁ、世一の気が変わる前に覚悟を決めさせるのも魔法使いの役目かなぁと思うことにする。
なんたってネスは自分の
意志で魔法を掛け続けることを選んだので。
「モタモタしてると、もう当日になっちゃいますよ。断るんなら早めに断った方がお互いのためかと」
「期待を持たせるだけ持たせてポイって一番心証悪いですから、最悪ルームシェア解消もありえるんじゃないですか。
……僕はそれでもいいと思うけど」。ネスが背中を押すように唇を尖らせると、カイザーはハッとして目を見開き、それから、モタモタと舌をもたつかせて辿々しく口を開く。
「
……クリスマス、は、正直、
……世一と過ごすと思う」
その答えにネスは半分ぐらいは分かっていたと言わんばかりの顔をして溜息を漏らした。
「そっかぁ。じゃあ僕んちのホームパーティーは今年も来ませんね」
「まぁ正直
……」
「いやいーんですけどね、一回も来てくれたコトないし。プレゼント代わりのシュトーレンは早めに渡しておきます。実家から本当に巨大なヤツが送られてきてるのでご協力お願いしますね」
「わかった。今年は世一もいるしそこそこ消費出来ると思う」
はいはいまた世一ね、なんて毒づく気にもなれず、ネスは腕を組むとカイザーの顔を仰ぎ見た。
この人は潔世一をどうしたいのだろう。
いつかカイザー自身が言っていた台詞を胸の内側で反芻する。べつにカイザーが世一の想いを受け入れて付き合い始めたところで、ネス含む周囲が狂乱するだけで世一は何も変わらないと思うのだけど。
……潔世一の自由というものはきっと微塵も失われない気がしているのだけど、それでもやっぱり、怖いのだろうか。
彼はまだ自分のことを人間として認められていないのだろうか? だとしたらそれはネスとしては少し悲しい。
「僕ねぇカイザー、気付いたんですけど、敵に塩送るような趣味はなくてもそれよりカイザーがそーゆー煮え切らない態度取ってる方がイヤみたい」
四度目の嘆息。顔を上げて、カイザーの頬を突く。カイザーはちょっとだけ眉間にしわを寄せてネスの無礼を受け入れる。こんなことして許されるのは世界中探してもネスと世一だけだ。だがカイザーがネスに許している理由と世一に許している理由は似ているようでちゃんと違う。
「自分の気持ちには正直になった方がいいですよ。知りませんけど。欲しいならちゃんと行動しなくちゃ、
……キミは最近世一を見て何を思ってるんです?」
そのことを問いただすようにネスが頬を膨らませると、聡明なはずのミヒャエル・カイザーは途端に目を泳がせ、盲目になり、首を傾げて唸る。
「
——わかんねぇけど」
「はい」
「俺だけ見て笑ってりゃいいのに、と、
……あの事故のあとから余計に強くそう思うようにはなったな
……」
「わぁ〜」
お手本のような独占欲。きょうび基礎学校生でも分かるような嫉妬の横顔。あのねぇ、それを恋って言うんですよ、僕のカイザー。よっぽどそう言ってやりたかったネスだったが、そこはグッと理性で堪える。
もしも「ミヒャエル・カイザーを幸せにし隊」が結成されれば、その隊長は自分であるという自負がネスにはあるので。
しかしそれはそれとしてやっぱりクソ世一は地獄に落ちて欲しい。本当になんでカイザーともあろう男があんなおしまいのエゴイストに惚れてしまったのか分からない。異常者は異常者同士惹かれ合うとかなんとか口走った脳内ゲスナーは即刻処した。カイザーは異常じゃない。もしそう見えるとしたらそれすらも全部潔世一のせいだ。
——というかそもそもだけど、同じ夢見てるとか、作り話で世一が合わせて来てるとしてもキモくないですか?
(何がどうしてそんなスピリチュアルになっちゃったんでしょう、あのクソアホ双葉は? 前世で縁があって惹かれ合ってるとでも言うつもりですかね?)
まさかね、と首を振り、ネスはカイザーの頬から指を引っ込めた。カイザーはネスの懊悩になど気付く素振りも無く、世一が持たせてくれたランチグッズをすりすりと撫でている。
その様子をとても見ていられなくてネスは明後日の方を向き直して窓の外に目を遣った。ひどい土砂降りだ。この調子では屋外での練習は出来まい。そしてこんな天気だというのに、きっと午後練が終わればふたりは連れだって睦まじく、図書館へ出掛けていくのだろう。
(は〜、やだやだ)
かといってそれを止める権利もないので、ネスはすっかり諦め、受け入れると首を横へ振った。
よもやこのたった数時間後には、「あの時泣きじゃくって暴れてでも止めておけば良かった」と後悔するハメになるなんて
——露ほども識らず。
◇ ◇ ◇
昼過ぎから降り出した雨足は緩む素振りを見せず、屋外コートが使えないのもあって練習はいつもより少し早めに終わった。カイザーのBMWを駐車スペースで降りて、あとは傘をふたつ並べて目当てのバイエルン州立図書館の門戸を叩く。中はひどく静かだった。普段なら地域の住民やミュンヘン大学の学生がそれなりの数いるはずだが、生憎のお天気のせいか、司書と数名の利用者以外に人の姿が見当たらない。
「
——で、本当に見つかるのかな? レポート
……」
荷物をロッカーに預け、カイザーの先導に従ってやって来た資料棚の前に立ち、世一が首を捻った。利用者によって請求された資料がずらりと並べられている部屋の、奥めいた場所の書架に、カイザーがあらかじめ申請しておいた資料が山ほど積み上げられている。それは図書館に収蔵されている、二十世紀初頭ごろの
——ミュンヘン大学福音主義神学部生による論文の束であった。
「まぁ、無い確率の方が高いだろうな。冷静に考えて、俺たちが見ている夢はまったくの荒唐無稽な妄想である可能性が高い」
戦火を生き残った古めかしい論文たちが納められたバインダーは、表紙に物々しい「持ち出し禁止」の判が押されている。どうやら地域図書、的な扱いの蔵書らしい。時折現役の学生が参考資料として照会することもあるらしく、貸し出し履歴を示す日付の印も幾つか押されていた。電子管理になる手前、二十一世紀初頭の日付で止まっていたが。
「それに戦火で焼けていたり、あるいは収蔵に値するキチンとした論文を通せていなかったりすれば、まったくの無駄骨になるだろう。だがワールドワイドウェブを闇雲に眺めているよりはまだワンチャン有り得る」
「それでもダメだったら?」
「その時はおいおい考える。かなり骨は折れるだろうが、コネでもなんでも使って、ミュンヘン大学の方の生徒名簿を閲覧するぐらいか」
——なにしろ特定した年代近辺の地域新聞記録なんかは、戦火で焼け落ちて殆ど参照できないそうだからな。一縷の望みを託すにもここくらいしかない。
小声で話しながら、レポートの束たちをふたりがかりで個別閲覧室に運び込む。内容を一々精査する必要がないとはいえ、かなりの大仕事になりそうだ。「うげぇ」ドサドサと積み上げられていく山を見て世一が唸った。ドイツ語の読み書きがまだ完璧ではない世一にとって、小難しい単語ばかりが踊るこれらの文字列は軽い拷問のようなものだ。
「俺今回、あんま役に立たねぇかも」
小さな声でぼやくとカイザーはスンとした澄まし顔で首を横に振った。
「最初からアテにしてねーよ。神学部のネタなんてそもそも日本人にはクッソ馴染みないだろうが。世一は黙って日付と筆者の確認だけしとけ。ついでに、この部屋は個室だから眠くなったら別に寝てていいぞ」
とんでもない言いぐさだったが、本当にその通りとしか言い様がない状況なのでぐうの音も出ない。
「じゃあその、出来るだけは頑張ってみるな
……?」
そういうわけで、世一はそれからしばらくの間大人しく論文の見出しチェックに従事していたものの
——しばらくして本当に寝落ちてしまった。
なのでこれはきっと、潔世一が見ている夢だ。
『なぁミヒャエル』
ミュンヘンの片隅にある安普請の下宿、その屋根裏部屋の片隅に漂い、悪魔は机に向かう青年に構い倒していた。窓の外ではしんしんと雪が降り積もって非常に寒々しく、それはまた、壁の薄いこの部屋の中も例外ではない。青年は蝋燭の微かな明かりだけで暖と光を取りながら、静かにペンを走らせ続けている。悪魔は手持ちぶさたそうに足をぶらつかせて顎に手を当て小首を捻った。そして触れることは出来ないとわかっているくせに指を伸ばし、すかすかと通り抜けていくプラチナブロンドに目を細めてはふっと息を吹きかける。
『そういえばなんだけどさ
——』
どう見ても勉強している青年にあの手この手で邪魔をしようとしている悪魔は、誰の目から見ても、非常に邪悪な存在だった。
しかし邪魔されている側の青年はというと、この異常な状況にとっくに慣れ切ってしまっているのか
……ぴくりともせず
完全無視して羽根ペンを走らせることに集中している。
『前さ、例の教授となんか準備してたじゃん。論文? かなんかの。あれ終わったの?』
今やってるのは違うよな、と、悪魔が頬を膨らませる。不要不急のレポートじゃん、それホリデー明け〆切の宿題なのに。そう文句を言って唇を尖らせる様子から言って、悪魔はどうも拗ねているようだった。構われたいのだ。きっと。世一は思う。カイザーが熱心に哲学書を読みふけっている時に抱く疎外感を重ねると、悪魔の言い分はともかく気持ちは分かる気がした。
『あれはもうとっくに提出した。今は別の教授連中の査読待ち。先行研究に真っ直ぐ則った手堅い内容だからな、まぁ多分通るだろ』
記憶を取り戻すまで帰らないとか駄々こねて取り憑いてきた悪魔の話とか、そーゆーアホみてぇな話は一切カットしてあるからな。青年が当てつけるように冷たく言い棄てるが、悪魔はまるで堪えた様子もなく、ふ〜ん、なんて頷いて尻尾を揺らしている。多分悪魔にとっては、青年の言っていることがなんであろうが、どうでもいいし関係ないのだ。
究極的に、悪魔は青年とお喋りがしたいだけだった。子供じみた動機、だがそれこそが、ある意味純粋で酔狂な悪魔という生物の、本質のひとつでもある。
『なんてタイトル?』
だから悪魔はしごくどーでも良さそうな調子で、ふわふわとそう尋ねる。
『〝アルブレヒトの自由主義神学とその再解釈〟』
青年は羊皮紙から顔を上げずにそれだけ言った。悪魔はやはり興味なさげにふーんと頷いた。だがそれでも、悪魔は、どれほど興味のない話題でも青年の口にした言葉を覚えていたいなと思った。
だって悪魔は、××なひとが教えてくれたことはひとつだって取りこぼしたくなくって
——だから
…………。
「
——世一」
あまり深く眠り込んではいなかったのだろう、夢は唐突に終わり、世一はカイザーに肩を揺すられて目を醒ました。ぱちりと目を開け、まだ若干重たいまぶたをごしごしと擦る。ぼんやりと顔を上げて覗き込むと、カイザーは妙に急いているというか、切羽詰まった感じの表情で世一を見おろしてきていた。
「世一、起きたか」
壁に掛けられた時計の針は既に六時過ぎを指しており、ふたりでこの部屋に資料を運び出してから、二時間ほどが経過していることを示していた。記憶を辿る限り、世一の方は本当にすぐ寝落ちてしまったのだろう。そしてその間カイザーはひとつも文句を言わずもくもくと論文たちの中身あらため続け
——それから、
「あった。あったんだ、世一」
見つけたのだ。ふたりで揃って見る、十九世紀ミュンヘンの夢に繋がるかもしれない手がかりを。
「いや単なる同姓同名の偶然かもしれないが、
……ひとつだけそれらしき論文があった」
カイザーの反応は、どうもまだ半信半疑というか、いまいち呑み込み切れていない様子で、浮ついているというか、むしろ困り果てているようなそんな様子すらあった。世一はもう一度だけまぶたを擦ってそれから大きく目を見開く。「いつの論文?」世一の問いにカイザーは静かにこう答える。「
——一八九八年九月十三日」今朝がたふたり揃って見た夢の日付より三ヶ月ほど早い、だが。
世一は首を振った。
その方が条件に合致する。図書館に収蔵されるレベルのものともなれば、担当教授に出す始末書じみたレポートではなく、せめてきちんとした学期末課題、それも学術誌の査読を通っているものが望ましい。
高校を出てすぐにバスタード・ミュンヘンに所属して大学になど行ったこともないくせに、世一の頭の中にはそういった知識がすらすらと浮かび上がっていた。そしてそのことを疑問にすら思わないまま、世一は静かに、
……恐る恐る切り出すようにして、こう、カイザーに問いかける。
「
……その論文のタイトル、もしかして〝アルブレヒトの自由主義神学とその再解釈〟だったりしない?」
世一の言葉を聞いたカイザーは、殆ど息の根でも止められたみたいな顔をして大きく目を見開いた。
「
——何故世一がそんなフレーズをドイツ語で言える? 専門用語中の専門用語だぞ」
「今、夢で見た、
……から」
カイザーの尤もな疑問に世一が目を泳がせて答えると、いよいよカイザーは呆けたような表情を隠せなくなり、あんぐりと口を開けたまま固まった。「
……マジか」信じがたい、だが、状況証拠が全てを物語っている、と言わんばかりの困惑が彼の美しい尊顔を埋め尽くす。「マジか
…………」吐き出された声音は震えていた。怯えか喜びが、はたまた困惑か。いずれにせよ動揺していることには変わりが無さそうだ。
だってこんなの、あまりにも常軌を逸している。
「なら俺たちが共に見ているあの夢は、
……本当に過去あったことなのかもしれないな」
〝アルブレヒトの自由主義神学とその再解釈〟と神経質な筆致で書かれた古ぼけた羊皮紙のコピーを握り締めながら、カイザーが静かに呟いた。
「俺たちによく似たあの連中も、連続失踪事件も、
……悪魔さえも、百年以上前にこの街に存在した
事実なのかもしれない。だがそうだとしても疑問は残る」
「
——あいつらが俺たちのそっくりさんな理由と、そもそも俺たちが同じ夢を見る理由?」
「その通り。おまけに俺の方は名前まで完全に一致すると来た。ドイツじゃありふれた姓名の組み合わせとはいえ、ここまで条件が揃うと流石に無視し難い」
そしてカイザーの口から続けてこぼされた戸惑いも露わな声を、世一は静かに、
……静かに拾い、最後はふたりしてそれ以上何を言うべきかわからなくなって押し黙った。
「「
…………」」
それからしばらくの間、個別閲覧室にはまんじりともしない沈黙が広がった。カイザーは非科学的な事実の一致をどう受け止めていいのか未だ迷っていたし、世一は世一で、百年前のそっくりさん達をどう解釈するべきか、珍しくその思考力をサッカー以外のことにフル回転で割いていた。彼らはめいめいに机の上を指先でトントンと叩いたり、或いは自分の額を叩いてみたり、それからさらに、発掘された論文に目を通したりした。十九世紀のミヒャエル・カイザーが手で書いたと思われる論文の文字は、気味が悪いぐらいに二十一世紀のミヒャエル・カイザーが書く筆跡に酷似している。
「なぁ、もしかしてあの夢さぁ、俺たちの前世だったりするのかもな」
そうして微妙な雰囲気の沈黙が三分か五分も過ぎた頃、世一が、ふとそんなことを口にした。
「
Vorheriges Leben……?」
「そ、
Vorheriges Leben。わかる? あんま信じてない?」
「いや普通に言っている意味がピンと
……あ? いや待てよ」
聞きなじみのないフレーズに、カイザーは頭を捻る。世一の口ぶりに、あまりふざけていたり、冗談だったりの気配はない。であればこれは恐らく、世一がなんらかの日本語的な概念を無理矢理それっぽい単語で翻訳したのだろう。そう解釈してからもう一度頭を捻り、「
——あぁなるほど、」それからカイザーは正解に辿り着く。
「そうだ、仏教には輪廻転生の思想があるんだったな、確か。周囲がクリスチャンばかりなので失念していた」
そうしてカイザーがぱちんと指を鳴らすと世一はきょとんとして目を丸くした。
「エッ、あ〜、なにソレ。もしかしてキリスト教には前世とか来世ってないの?
……俺なんか失礼なコト言っちゃった?」
「クリスチャンにとっての死後は地獄と天国の二択、そこで終わりだ。だがまぁ状況的に、説としては面白いかもな、とも思う」
どうせカイザーは、神など信じていないのである。だから最後の審判が存在していなくても不思議には思わないし、生まれ変わりという概念は、なるほど確かに、この奇怪極まる状況に対してのひとつの解法として有力なように思われた。
十九世紀のミヒャエル・カイザーも潔世一と同じ顔をした男に捕まっていることにだけは、「ちょっと待てよ」と思わなくもないが。
……まぁコイツの顔かわいいし、とカイザーは首を傾げて唸る。かつて同じようなことをネスに言ったら「世一の顔がかわいいとか思ってるのカイザーだけですよ」と耳打ちされた気がするが、それでもやっぱりカイザーは世一の童顔はかわいいと思っている。それを惚れた弱みとか蓼食う虫も好き好きなんて言葉で表現するとは知らないまま。
「だがもし俺たちが生まれ変わり、ふたたび巡り逢っているのだとしたら、一体何の為にそんなことをしてるんだろうな?」
しかしそれはそれとして、仮説を採ったところで残る疑問もあって。
思ったままぽろりと言葉を零すと、隣の席に腰掛けている世一は、くりくりとした大きな両目をいっぱいに広げてカイザーの顔を覗き込み(だいぶあざとい)、ニコリと微笑み、それからそっとテーブルの上に広がる論文へかけられた指先へと、己のそれを重ね合わせる。
「
——そんなの決まり切ってるじゃん」
カイザーの真白く無骨な左薬指に、少し日に焼けた自分の右手薬指を沿わせ、絡めて、世一が囁いた。
「お前に逢うためだよ。そんでお前は俺に逢うため。それ以外に理由なんて要らないよ」
それはその時の潔世一にとって、なんら嘘も誇張もない、心からの、本当の言葉だった。
世一はたった今見たばかりの夢を思い返す。あの夢の中の悪魔だってきっと同じ気持ちだったはずだ。根拠はないが、そんな確信がある。
きっとあいつは振り向きもせず課題に没頭しているあの後ろ姿を見ているだけで、結構満たされて幸せだったんだろうな。
それは世一が、カイザーと図書館に調べ物へ来るだけでもまあまあ浮かれてるのと、本質的には何も変わらないことだった。こうして指を重ね合っていると互いが生きていることを確かめられて安心するのと根っこの部分は同じ。だからこそ潔世一はこんなふうに思考実験をする。
——もし、今の俺が生まれ変わって来世に望むことがあるとすれば。その時はまたミヒャエル・カイザーに逢いたい。
……逢いに行きたい、と。
「だって俺、きっと何度生まれ変わってもお前のことを好きになる。お前のいない人生なんてつまんないよ」
そうして最後に締めくくられた言葉は、クリスマスを数週間後に控えたタイミングで口にするにしては、いささか直球過ぎる程の愛のメッセージだった。
「
…………スピリチュアルのうえにメルヘンだな」
あまりのワードチョイスに、さすがのカイザーも面くらったらしく、返事はスリーテンポぐらい遅れて歯切れが悪いうえにやや斜めだった。「カイザー?」世一はきょとんとしてカイザーの顔を覗き込む。すると彼は頬をかぁっと赤く染め、手のひらで顔を覆う。
「アッ」
世一はその姿を見てようやく自分が何を口走ってしまったかに気がつき、自分まで間抜けな声を上げて顔を朱く染めた。
「えっと、その、これは、」
そしてしどろもどろに舌をもたつかせてなんとか弁明をしようとする。「くそぉ
……クリスマスまでとっとこうと思ってたのに
……うぅ
…………」だが喋れば喋るほど語るに落ちる感じで、もはや取り繕いようもない。
「わ、忘れて。いや嘘じゃないから忘れなくてもいいんだけど。
…………とにかく生まれ変わってもまたお前に逢えたら嬉しいよなって、ホラお前だってさ、初対面の時、俺に逢いに来たんだって言ってたじゃん」
「ソレは生意気な日本のガキを叩き潰して自己証明の足しにするためで
……」
「うぐぐ
……知ってる。知ってる
……まぁその結果俺にボコボコに叩き潰され返して、いつの間にか一緒に暮らすようになっちゃったんだけどな」
ふたりぶんの言葉が、照れくさい薄桃色に染まってもつれて落ちていく。まるでクリスマス・プレゼントのボックスに掛けられていたリボンを一斉に解いたらそのまま絡まってしまったみたいなもどかしさ。もしもバスタード・ミュンヘンのチームメイト達がここにいれば、あまりのじれったさに取り囲んでカバディでも始めていたかもしれない。それぐらい、ふたりの間に漂う空気は甘酸っぱくて、特にカイザーに言わせるのであればらしくなくって
……。
「
………………帰るか」
だからそのうち、どちらからともなくそんなことを言い出したのは、ある種の必然だったのかもしれない。
「今日、ここで調べたかったことは、十分調べが付いたと思うし。
……もう夕飯の時間だし」
「
……あぁ」
言い訳じみてぎこちない言葉を世一が漏らし、それにこれ幸いと乗っかってカイザーは広げた資料を片付けはじめる。持ち出し厳禁の地域資料だから元の棚に戻さなくちゃいけない。そんなことを考えながら現実逃避のように資料を整えていると世一が目配せをして手を伸ばしてくる。
「なぁ夕飯何食いたい?」
「世一の飯ならなんでもうまい。任せる」
「こーら、なんでもいいが一番困るんだよ」
「クソ知ってる。だから言った」
「おいこら」
「
……フ、冗談だ。今日はもう時間も遅い、中央駅の地下で適当にテイクアウト見繕って、それを食べて済ませることにしよう」
資料をまとめ、分担して抱え上げ、並んで席を立った。個別閲覧室を出て恐ろしく
人気のない図書館内を歩きながら小声で会話を交わす。なるべく、努めて、いつも通りの雑談になるように。少々近すぎる友人の距離におさまるように。
それはクリスマスをまだ迎えていないゆえの予防線だったのか、或いは単に踏ん切りが付いていないだけだったのか。
……後者なのだろうということは、たぶん、ふたりとも薄々勘付いていた。だって指先が触れ合いそうになるたび、ほんの少し後を引かれる様子を見せながらもそそくさと離れていくから。
「なぁ、本当に生まれ変わってるとしてさ、俺なんで悪魔から人間になったのかな〜」
薄暗い書棚に請求した資料を全部返したことを確かめながら、なんでもなさそうな調子で、世一がつぶやいた。
「知らん、罪でも雪いだんじゃないか」
世一に続いて自分でももう一度確認を済ませ、部屋の外に出てカイザーはどうでもよさそうにうそぶく。カツカツと音を立てて大階段を下っていく最中で、窓の外、ひどく静けさに満ちた真白いミュンヘンの街が目に入った。いつの間にか大雨は雪に変わっていたらしい。
「えそーゆー仕組みなの? 悪魔と人間と天使って」
「いやマジで知らん、適当言っただけだ」
この雪だと車が止めてある場所まで徒歩で戻るのすらだりーな。そんなことを曖昧に考えながら嘘八百をくちびるに乗せると、不思議と笑えてきて、カイザーはくつくつと肩を竦めて見せる。
——そんなモンで簡単に天使だとか悪魔だとか全部棄てられるなら苦労しねぇよな。
一瞬、そんなフレーズが、カイザーの脳裏を過った。けれどその意味が理解出来ることはなく、自分でも何を考えているんだ俺はと溜息を漏らし、階段を降りたところで振り返って世一の腕を引く。
「わっ、ちょ、カイザー!」
予期せず触られた世一が素っ頓狂な声をあげた。あまりに可愛らしいのでからかってやろうと思いながら、カイザーは歩を進める。そうして図書館棟の出入り口をくぐり抜け、世一をバカにするためにくちびるを開いて
——
「
————は?」
けれど実際に唇から転がり落ちてきたのは、カイザーが思っていたのとは似ても似つかない呆然とした声音だった。
「えっ?」
つられて、世一もひきつれたような声を漏らす。だがこのときばかりはカイザーとて世一をバカにすることも出来なかった。それが正常な反応で、それだけが現実的なリアクションだ。
「なんだよ、これ
……?」
扉の向こうに広がっていたのは異様な光景だった。
どうにも、異様としか言い様がない
——だって煤けた泥雪まみれの大地に伏せって、怪しい人間どもが奇妙で悍ましい形の〝何か〟に祈っている状況なんて、それ以外になんて表現すればいいんだよ?
◇ ◇ ◇
その〝異常〟を察知した瞬間、カイザーは咄嗟に世一の一歩前に進み出て、彼を庇うように右腕を広げた。大雨が変化したぼた雪に降りつけられ、世界は徐々に薄汚れた灰鼠色に染まり変わってきている。先ほどまでの雨で溶けてぬかるんだ地面は、土と、そして排気ガスで煤けて黒ずんでいた。そしてその黒ずみの真上に、恐ろしく白い純白の翼を広げた、〝何か〟が佇んで人間ふたりを取り囲んでいる。
〝何か〟は
紡錘形に近い正八面体のフォルムをしており、その表面はいわゆるビスマス鉱石的な鈍い虹色のグラデーションを現していた。見た感じ金属質っぽく、それらしき場所に飾ってあったのならばよくわからん類の近代アートだと納得できそうな見た目をしている。ただし
——そのギラギラした本体に繋がるようにして浮かんでいる
翼と円環が生々しく動いてさえいなければ。
「てん、し、さま、」
人間
——あまり裕福ではなさそうな服装をした、中年の男ふたり
——は、べしょべしょの雪に覆われた道路に座り込んで、両手を合わせ、その忌々しい構造物を拝んでいた。男たちはふたりとも恐ろしく焦点の合っていない虚ろな目をしており、それはさながら、神に救いを求める末期患者のようである。
まぁこんなツラした連中は十中八九ヤク中だろう。カイザーはチッとちいさく舌打ちをし、それから、ドラッグ中毒患者だけでは説明の付かない〝何か〟を睨め付ける。「てんしさま、」男たちはなおも〝何か〟に縋り付いて、涎を垂らしながらその名だけを口ずさみ続けていた。とにかくこんな奇妙な現場からは逃げるしかない。その狂った様子にカイザーはそう判断を下す。追われないことを祈って車がある場所まで逃げて、撒き、それで終わりだ。
……関わり合いになるべきじゃない!
だが、その判断は
——命取りと言えるほど遅かった。後から振り返ってみれば、そうとしか言い様がない。
「世一、黙って俺について、」
「
——〝エンジェル・ドラッグ事件〟?」
男たちとその言葉、そしてふよふよと浮遊する〝何か〟の存在から何らかのパズルを組み上げてしまったらしき世一が、ぽつりと、そう呟いた。
呟いてしまった。その瞬間
——変化は迅速に起こった。
≪
——————、≫
聞くに耐えないハウリングのような金属音を鳴らして、〝何か〟がこちらを見た。
目などついていない出来損ないの機械じみた構造物ではあったが、見られた、と確かに思った。〝何か〟がキンキン喚きながら翼を広げ、こちらに迫ってくる。ヤツらの頭上に浮かぶ円環が毒々しく発光し、光が集束していくような不穏な予兆を見せる。
あ、これ、世一を狙ってるのか。
カイザーはその光を見ただけでそう確信し、喉をヒクつかせた。まずい。まずいまずいまずい、アレが
そのまま発動すれば、世一が、
——世一が連れて行かれる!
「ダメだ!」
だからどうしてそんなことを思ったのかもわからないのに、カイザーは世一を抱き寄せ、〝何か〟から放たれる光線からその身を盾にして庇い立てて。
「
……は?」
その結果
——〝何か〟が放ったレーザーのような光により、カイザーの肩口が服ごと鋭くばっさり焼き切られて。
露わになった表皮から、一瞬で焼き爛れた皮膚とぱっくりと開かれた傷口が丸見えになってミュンヘンの冬の凍気に晒されて。
「かい、ざー
……?」
世一の視界に滴り落ちる赤い血の色が映り込んで。
「かいざ、なんで、」
世一の唇が引きつる。間近で喉が震える音がする。カイザーは遅れてやってくる痛みに必死に抗いながら世一の顔を見上げた。世一はカイザーの腕の中で守られながら両手で顔を覆い、掠れた金属みたいな悲鳴を漏らし続けている。
「あ、ぁ、うそだ、」
世一が鳴いた。
それは世界への憎しみを湛えた悲鳴だと思った。
こんな声音、今までコイツの喉から聞いたことがない。だって潔世一はありふれた家庭に生まれたふつうの人間で、愛を知っていて、挫折は知っていても本当に絶望するような不幸もなくって、そういう甘っちょろいところも含めてカイザーはなんだかんだヤツを好ましく思っていたのに。
「あ、ぁ、あ、あぁあああっ
……!」
なのにどうして指と指の隙間から垣間見える世一の目は憎悪の紅に染まっているのだろう?
どうしてそんな、クソ
神に愛と優しさの全てを奪われたような顔をして、呻いているのだろうか?
≪
————、≫
世一の呻きに反応したのか、或いは単に
冷却時間が過ぎたのか。〝何か〟が、ふたたび、円環を発光させる。光が集束していく。あと数秒もしなうちにあの忌々しいレーザーがくる。そう思ってカイザーは目を閉じようとするが、しかし、それよりも早く世一の引っ繰り返ったような悲鳴と怒号を耳にする。
「俺の、
——ミヒャエルに、その汚らしい翼で触れるなッ
——!!」
それはやはり、どう解釈しても、世界への怒りと憎悪をありったけぶちまけたような
——つめたく、ひどくつめたい、世一らしくもないけだものの絶叫だった。
——幻が見える。
真っ白で清潔な温かい揺り籠の中、繰り返し夢で見た悪魔が、カイザーと同じ姿形をした男を恋人と呼び、男は悪魔に愛を囁き返す。優しく抱きしめ合い、唇を触れ合うように重ね、星が生まれ死んでいくように、恋いあい、求めあっている。
『ミヒャエル』
悪魔は男を呼ぶとき、いつもほんの少し上ずったような、高揚を隠し切れない色を滲ませ、何よりも温かい感情を渡そうとしてくれた。
『愛してるよ
……ずっと、ずーっと、何度生まれ変わってもお前のことが大好き』
指先でなぞる様にそっと頬を撫で返してくれるようになったのは、いつぐらいのことだろう。男には思い出せそうにもない。それぐらい深い付き合いだった。人間の寿命では考えられないほどの時間をこの悪魔と共に過ごした。幸せだった。ようやく手に入れた、男にとって離しがたいと思えるほどの存在だった。この悪魔が手に入るのなら他に欲しいものなんてなかった。
『俺も
……』
だから男は悪魔の身体に手を伸ばし、優しく抱きしめ返す。胸元に顔を埋めるようにして項垂れると悪魔の身体から微かに甘い香りが漂ってきて、
……すこしだけ泣きそうになる。
『俺も愛してる、お前を、永遠に、』
愛していた。
『永遠に
——』
そのためなら何を棄てたってよかった。
お前を愛することを許されない世界なんていくつ滅ぼしたって構わなかった。
どんな罰を受けようともお前が笑っていてくれるのなら、そう祈って、願って願って願って、
——けれど祈りは届かない、願いが叶うこともない、だから悪魔はやがてすべての希望を取りこぼし、
……世界を呪う。
『なんで! なんでこんな真似すんだよ! 何がそんなに憎い!? 俺たちが愛し合うことの、何が!!』
光景が切り替わる。揺り籠は消えて燃え盛る煉獄だけが果てもなく広がっている。その中心で悪魔は力なく横たわる何かを抱え、苦しみに顔を歪め叫び続けている。
『ただ好きになっただけなのに
……』
何かは青のグラデーションで染め抜かれた金髪をべったりと塗り込められた赤茶色で汚し、ぐったりと顔を伏せっていた。
『許さない
……許さない、許さない、許さないッ
…………!』
けれどその意味を問う暇はない。悪魔が張り裂けんばかりの怒号を上げると、その背中から伸びる悪魔の翼が際限なく肥大化していく。やがてそれが全長の数倍にまで膨れあがったところで、悪魔はカッと両眼を見開いた。
その瞳は血に濡れて紅く、憎悪に塗れてどす黒く、
——それを認識したところで、白昼夢は終わる。
「あ、ぁ、あ、あぁあああっ
……!」
目を見開く。肩口が氷点下の風に晒されてにじみ出した血ごと凍り付いていく。カイザーは顔を上げた。腕の中に抱きかかえて守ろうとしたはずの男は、
——イカれたフットボーラーではあるが普通の日本人であるはずの潔世一は、その背から全長の三〜四倍ほどもある巨大な黒い翼を広げて怒り狂っている。
「殺してやるッ
……!!」
世一が叫ぶと翼は猛烈な勢いで閃き、その鋭い骨指によって〝何か〟を両断した。
≪
————!≫
ほんの一瞬の出来事だった。瞬きをする間もなく、コウモリのような形状をした巨大すぎる翼に、〝何か〟たちは粉砕され、一掃された。カイザーは我が目を疑った。だが事実として、奇怪な形の構造物達は、さらさらと砂のようになって、やがて塵一つ残さず消えてしまったのだ。あとには頭を垂れるヤク中男どもだけが残される。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ
……!」
その光景を見て、世一がぜぇぜぇと胸を喘がせる。一試合ぶん全力疾走させられたあとと違わぬ消耗ぶりにカイザーの頭の中でいやな警鐘が鳴る。
「よいち、」
カイザーはギョッとして世一の名を呼んだ。
「
——世一!」
だが世一の身体から放たれるどす黒い怒気は止まらない。乾いた血をべったりと塗り込めたみたいな衝動も、
——悪意も、堰を切ったようにあふれ出して留まる気配が無い。漆黒の翼は怒りに呼応するかのようにまだ膨脹し続けている。
「しっかりしろ、世一
……!」
だけどそれでもカイザーには、世一を見棄てることは出来なかった。
異常なほど大きな翼も、似付かわしくない憎悪も、赤く光る眼も、何もかもすべて恐ろしかったが、それでもこの男を助けたいと心の底からそう願っていた。
「世一
……!」
腕を伸ばす。服を切り裂かれるのにもかまわず、人間には有り得ざるその鋭い翼ごと世一の身体を強く抱きしめる。一瞬、白昼夢の中で見た男の願いが重なる。この愛のためなら世界を滅ぼしたって構わない
……。自分がこんな行動に出てしまうのは、あの夢を見たせいなんだろうか? そんな疑問が脳裏を掠め
——だがすぐに首を横へ振る。
——違う。違うんだ。ただ俺は世一が大切だと思ったから。
——他の何者でもない潔世一が、だからお前にこれ以上苦しんでほしくはない。
果たして、その祈りこそは、天に届いたのだろうか。
「
……かい、ざ、」
強く抱きしめられたその腕の中で、世一が、きれぎれにカイザーの名を呼んで身じろぎをした。カイザーはハッとして腕の中を見おろす。世一の両の瞳と目が遭った。
——紅ではなく海色をした、青く、透き通る、優しい瞳と。
「たす、けて
……とまんな
……」
掠れた声でそれっきりを言い残し、世一が体力を使い果たしたようにふらりと後ろに倒れ、目を閉じる。
「
————あぁ、」
カイザーは息を呑んだ。このままでは世一の意志にかかわらず暴走が止まらない、そんな予感がある。
だからミヒャエル・カイザーは覚悟を決め、チアノーゼでも起こしたのか
紫色に染まりつつある世一の唇に己の唇を寄せて、
「わかってる」
彼の呼吸を奪うためにキスをした。
「ッ、ぅ、
————ッ、」
世一がちいさく喘ぐ。肺をめいっぱい動かして、大気の代わりに己のくちびるから酸素を与える。躊躇いはなかった。人命救助のためというお題目を除いても、嫌悪はない。だってカイザーは世一に生きていてほしいのだ。
サッカーにおける好敵手として、気の置けない同居人として、そして
——それから、たぶん、別の理由からも。
「ッ、ぁ、あ
…………」
それからどれだけ唇を重ねあっていたのかは、誰にもわからない。雪が深いせいか異様な構造物がうろついていたせいか、ヤク中の男ふたりを除いて通行人のひとりも通らなかったし、カイザーも世一もまともな判断力を有していない。ただ命を混ぜあって延命するような感覚に言い知れぬ背徳感を覚えながら、ぱん、と何か弾けるような音を聞いてカイザーはふっと唇を離した。そして目の前で、膨れあがっていた翼がハロウィンのコスプレ衣装についている程度のサイズにまでしゅるしゅると縮んでいくのをぼんやり見つめている。
「どうにかなった、のか
………………」
その縮んだ翼をするりと撫で、カイザーはホッとしたようにちいさく呟いた。
——記憶にあるのは、そこまでだ。
BACK ■
HOME ■
NEXT