樹が裏男の中で語った言葉がどの程度真実でどの程度誇張なのか、という点を考えるとき、忍について語ったことの喜びの性質についてはほとんど事実か、事実よりも少なく語っているのではないかと感じる。一方で、樹の語ってみせた悪意については、事実だったとして0.1%以下を1000倍以上に誇張しているか、あるいはゼロを100%に意図的に見せているのではないかと感じる。
裏男の中での会話は、忍に全て聞こえている。樹が語った内容のうち、悪意に関するものがもしも彼のかねてより有する真実だった場合、それが仙水にとって初耳だったとしてもその場で樹を葬っているし、聞いた話だったとしたら、樹は既に、幾らでも始末されていたと考えられる。仙水と樹の間に、桑原たちを怒らせる打ち合わせが明確にあったかというと、あったかもしれないし、なくても理解し合える程度の相互理解と信頼関係はあったと考えられる。いずれにせよ、樹の有する悪意が0.1%以下やゼロだったならば、裏男内での話が聞いた内容だったとて、信頼関係のもとその時既に誇張と解せたものだったし、初耳だったとて、それが樹の心底の本音でないことを解せる相互理解と信頼関係があったと考えられる。樹が冗談めかして冗談で悪意を誇張できる悪趣味を有することを、成長につれ忍は理解できていた、とも考えられる。樹の、そうした、他者に探らせぬものを忍にだけ明言せずとも明示していることも、忍は理解できていたと感じる。
忍が樹を始末することなく傍に置いていたのは、下記二点の条件を満たしているためである。
①樹は、『“人間くさい妖怪”という概念による転回(“妖怪=悪という固定観念に対するわずかな立ち止まりの開始”)』を忍にもたらした存在である。
②そこにきて、例の件で忍において、“人間=護るべき存在という固定観念の破壊”と、“人間こそが汚い欲により悪事を働く醜い悪魔である”という絶望が生じ、これが妖怪こそ傍に居るべきと感じさせたか、あるいはもっと限定的に、“人間くさい妖怪”だけを傍に置ける、と心を閉ざさせた。
ここで、『忍が、樹に見た“人間くささ”を、徐々に、“のちに真に見た人間の本質=悪意”を有するような“悪い意味での真の人間らしさ”であることを理解していく』という流れを解釈することも可能なのだが、その場合、忍は樹にただ傷つくだけでなく間違いなく嫌悪から樹を始末していたと考えられる。一度期待して裏切られた絶望の上塗りがそこに生じるし、その状況であれば忍は、妖怪を人間同等に、あるいは人間以上に、醜く思い毛嫌いし憎むと考えられる。樹が忍に見せた“人間くささ”の開いた門戸が、忍において魔界や魔族への憧れに繋がるためにはやはり、『忍が樹に見た“人間くささ”とは、“忍が真に人間らしいと感じていたはずの、真に人間にそうあってほしいと感じていたことをのちに理解したはずの、真の人間性”である』と解釈するほうがスムーズにことが運ぶように感じる。
これは、樹という存在が、忍にとっては、『フランケンシュタイン』の小説を読めば生じるような転回と固定観念への疑問視をもたらした存在であるという解釈に繋がる。
樹と出逢うまで、忍がいつも妖怪に向けてきた「最後に言い残すことはあるか」という問いは、常に、『“妖怪=悪であり、人間=護るべきである”という事実を確認するための念押し』でしかなかったように思う。即ち、“自業自得の、自身の悪性により始末されるのに命乞いをする醜悪さ”であったり、“どこまでも理解できぬ異形であることの確認”を忍は求めてきたように思う。
そこにきて、樹の解は、ほんとうにさりげない、忍が人間的と感じる、自然な人間らしさだったのである。文明的、文化的、人間的…忍が、人間として自然だと思っていたもの。それが妖怪にもあるのだという事実は忍に、自身が固定観念のただなかに居たことを自覚させる端緒となる。それは、固定観念の内側に居た忍の扉の鍵をかちゃりと開けるものであり、小一時間の語らいは、その扉をわずか、押し開けるものだった。樹と過ごす時間が、徐々に、忍の戸を開けていったように思う。樹は、忍に、立ち止まり考えるきっかけをもたらした。“妖怪という存在はほんとうはどんな気質なのだろう?”という、妖怪存在への傾聴の端緒を忍にもたらしたのである。
これが、『フランケンシュタイン』の小説が抱く固定観念への警鐘と、それの生じさせる転回とを思わせる。
『フランケンシュタイン』では、フランケンシュタイン博士が創造のまねごとをし、造った被造物を、けれどその見た目の醜悪さだけをもって怪物と決めつけ、そこに怪物性、怪物らしさという固定観念を押しつけ、その被造物が実際にはどんな気質なのか、考えることも耳を傾けることも一切しなかった。また、作中の人間は、たったひとりを除いて同じだった。その絶望と悲嘆とが、その被造物“怪物”に、『外観ゆえに怪物性を押しつけられ迫害されるのならば、有し育んだ“人間的”な感情や理知性を棄て、人間の望み通り、実際に怪物らしく振る舞ってやる』という気持ちを抱かせた結果として、その“怪物”は“人間が真に怪物的であると感じるような怪物”へと創造されてしまったのである。『フランケンシュタイン』とは、そうした皮肉ぶりと、固定観念への警鐘がこもった作品だ。
『創造のまねごとという醜い欲望、悪事、その醜悪さを抱いた人間が、自身の被造物を怪物として迫害することで実際にそれを怪物として創造し得た』という罪に罪を重ねるさま、その醜さと汚らわしさとは、忍が樹と出逢うまでもずうっと重ねてきた問いの意図を思わせる。即ち、忍が問いのなかに無意識下で求めていた『妖怪における、自身の悪性にもかかわらず命乞いをする醜悪さの重ね塗り』等の、悪が悪を重ねる構図による悪の確認がそこに在るのだ。
加えて、『フランケンシュタイン』で被造物、“怪物”を固定観念で見なかった唯一の存在とは、目の見えぬ者だった。つまり、“怪物”の見た目の醜悪さが見えないから、それを固定観念で見なくて済んだ、という仕組みなのだ。この事実は、忍にとっての樹との出逢いそのものである。樹は、忍に、固定観念への目隠しをさせた存在だったのだ。目隠しをしてみれば、妖怪というものは、必ずしも悪ではなかったのだ。それが皮肉にも、その後人間の悪質さを知ってしまったことで、“真の悪は人間だった”という結局の固定観念に忍を強く置かせ、絶望させたのだけれど、これは、忍が固定観念のものすごく強い人間であることも示す。同時に、一つの固定観念から解き放っても、それが固定観念という陥りそのものから解き放つまでに至るのは難しい、ということも思わせるし、忍の場合、妖怪についても、“妖怪は完全悪ではなかったという固定観念”にただシフトさせただけとも言える。
ちなみに、これを前提とすると、『忍が一度“妖怪は完全悪ではなかったという固定観念”にシフトした以上、樹がどんな悪ぶったことを言っても妖怪を再否定することに繋がらなかっただけ』という解釈もできるのだが、やはりそれだと、一度期待させた妖怪への再否定と拒絶反応が強く出て、人間以上に妖怪を憎むんじゃないかなと思う。すなわち、この場合、『人間は悪だし、妖怪はもっと悪くて真に人間的である』という解釈に彼をぽつりと孤立させたように思う。だから、やはり忍にとって樹は、ほんとうに悪質な悪意というものを忍にも他者にも大きく向ける者ではないという認識をさせていて、ふわりと、くらげのように、たゆたうけれど必要なときは毒で刺す容赦のなさがあったとても、それは忍にとって、背中を任せられる存在たる一因でしかなかったのかなと。
つまり、忍にとって、樹とは、『“人間くさい妖怪”というあいまいな存在であると同時に、忍が“真に人間的であると感じてきたはずの人間的な側面”を有しなおかつ人間そのものではないという一種のイデアに近いものである』と考えられ、そうした異例の居ることが、二元論でしか生きられない忍にとっては、救済そのもので、神じみたメシアであったんだろうなと思う。
樹とは、忍にとって、無二の特例で、何より人間的で何より妖怪的な、いいとこ取りの存在だったんじゃないかなと。忍は、自分も樹みたいに、人間であっても妖怪に近いものになれたら、と憧れたんじゃないかなと。樹という救済は、忍に本来、常に絶望を突きつけてもおかしくないけれど、忍は、それを経たとしても救いに着地できたんだろうなと。
ある意味そんなだれより人間くさい忍を、その真っ直ぐで不器用な純粋さを樹は何より好ましく思っているし、そこにもしかしたら一種の嫉妬じみたどろりとした澱を奥底抱いていたかもしれないけど、忍は、それを知っても、「俺だってお前がねたましいさ」と返して終わるんじゃないかなと。なんか、だれより惹かれ合ってる背景に、その奥底に、互いをまばゆく思う気持ちのどこかに若干のねたましさがあるかもしれないのいいなぁと思いますね。ねたましくおもうくらいのまばゆさがあるうらやましい存在だからこそ惹かれる。そんな、憧れ同士なんじゃないかなと。
まとめると、樹がブラフにおいて誇張した悪意って“人間=きたないもの”に向いた嫌悪をベースにしていて、ピュアな忍のきれいなこころって、樹にとっては、ある種だれより人間くさくて、ある種人間のイデアみたいなのに、だれより人間らしくないきれいな存在だから、忍を除く人間に向いた悪意をベースにしたそれにおいて、忍への感情こそ真実を論拠としても、語りきってはいないし、忍に対する辛辣さは無いはずなんだよね。忍のきれいなこころが傷ついていくさまって、“人間という悪に傷つく”ということは即ち、それでも忍は汚れてはいかない不可侵性に基づくので、樹においても、『忍の傷つくさまに対する悲しみを悪趣味な悲観主義者として愉しむ側面を持ちながら、絶望を忍とともに重ねてゆく』という入り組んだようでシンプルな感情に基づく余生の生きかたを自然築かせたのだと思います。
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