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舗装の切れた登り坂から身体が重くなったと彼は感じた。ははっとの無声音での笑いの気配と共に。
計測器を見る早乙女ミチルにおいおいガイガーカウンターかよゲンバク扱いかよぞっとしねえ、と煩くする野次馬の声を聞いた気がしたのは、あの男が居合わせれば言いそうなことを自分がトレースしているだけだと思い、しかし片手拝みする武蔵坊弁慶にやめろバカ野郎死んでねえよ死んでたまるかこん畜生、と何かを強く殴り付ける衝撃のようなものまで体感した辺りから自身に異常が起きていると。彼は、神隼人は認識した。
浅間山、幾年かの後。
まず自分の体調不良を思ったのは早乙女ミチル、弁慶が、彼らの耳にも届いていないはずがないそれにあまりに無関心無反応で、あまりに無慈悲が過ぎるであろうがゆえで。しかし下山後の予定を聞かれている辺りで
『おい、水誰か持ってねえか』
そんな声がすると直截に呟いた彼に、何か言いかけた弁慶が竹の吸い筒を傾け足下のクレーター目掛けて注いでいれば
『違ぁあ!』
耳元で怒声が聞こえたと思ったと同時に、隼人の結んだままの薄い唇がぴっと切れた。怒り
―――そこまで抱えていたストレスが爆発しすぎて『違う』と口をすぼめることさえしかねたかのように。
「コメダでいいか
……おぅどした?」
大音声にびくりとしたのと唇からたらたらしたたり始めた赤いものを素手で受け止めることになった格好の隼人に対し、弁慶はありゃりゃと覗き込んだ。まるでそこには他の誰もいないかのように。対する隼人が元から不健康な顔色をさらに青ざめさせ、周囲を見回した後にようやく傍らに立つ弁慶の巨躯を見上げるまで。
「お嬢さん、ゲッター線被曝で鼻血が出るってこた、ないよなあ、あ、鼻血じゃねえのか?」
応急キットならあるけど、余計な荷物をこんなとこで広げたくないのよね、はは、実は俺もですよ、ハンカチあげるわ下山するまでそれで我慢しなさいな後で見てあげ
―――隼人くん?おい隼人?
準備をしてこない馬鹿ではないが、他人のための少々の骨折りをしらっと平気で嫌がってわざわざ見せたがる。それはノイズを個人主義の大人の仕草だと思って寒々しく振りまく餓鬼の巣穴だったのを思い出させ、黙って合わせてやる面倒くささに襲われももし
おおい、変なタイミングで怒んなよぉ、怒ったのかよ何だぁ?下りたとこで待ってろよお、おーいはやと、そんな声を後に一人足早に彼は山道を下った。滴って来るものを片手で受けながら。
「おい、お前、いるのか
『ここ』にいるのか流竜馬」
片手であふれる血を受け止め、もう片方の手で自分のこめかみに手をやりつつ早足で行く隼人に
『おう、いるぜこっちにもな』
嬉しそうな返事と共に、胸の中心がどんと叩かれた。
身体の、内側から。
*
別に帰って来たつもりはなかったのだという。帰る方法も解らないし、降ってか沸いてか、あれ以上強い敵が天井知らずに送り込まれてくる先が「自分」であるなら帰ってこようとは思ってないと。
「そもそも何年も経っただなんてなあ、そりゃ担いでねえかいくらなんでもよ」
途中まで時計
―――ああ計器だ、あれが生きてる間は数えてたんだ、と。
確かに風呂に入れねえにも程があって自分がくせえどころかコックピットの中の空気にはっきり味が付いてるとわかるぐらいになった時期や、汚れすぎて引っ掻けば脂垢に赤いものも混じって、浮腫かなにかになった気のする頭の皮をいっそ頭蓋骨から引き剥がしたいといつぞやのナイフを真顔で取り出したこともある。長時間搭乗するためのトイレパッドが股間でどうなっているかは恐ろしくてもはや確かめたくない。
しかし今回、いまこの時この状況にたどり着いているのはどういうことかといえば、泥流の中を泳ぎ押し流されるように移動していくのは「戦闘」のためだけにある様々な空間だが、あまりに常軌を逸した世界で気が狂いかける前には、その中でいわゆる「人智」が理解出来そうな場所に打ち寄せられやすいのだという。
手酷くやられた後には残骸と亡骸か散らばり浮かぶ饐えた臭いのする古戦場の海で、超重量の「使えそうな」部品を検査機もマニュピレーターもなしで見極め、かき集め、融合させることができて、また人形のロボットに、ゲッターロボもどきの形になれるし、二足歩行で二メートル程度の知的生命体が逃げ惑う戦場に落とされ、共感や罪悪感を覚えることもあったという、そいつらの目が4つ、頭頂の大きな口の下に並んでいようと。
その時はゲッターの視聴覚がそのまま男のそれになり、突如巨人と化した感触にとまどったものだったが、今回はコックピット内のパイロットの五感が双方向で外部の一個体
―――つまりこの場合隼人だ
―――と勝手に同期しているのだという。
だからもうずっと何カ月は間違いなく飲んでも食ってもいねえがそれでも死んじゃいねえんだよという竜馬は、バス停前の7時には閉まるコンビニで隼人が口を漱ぐのに買ったにミネラルウォーターにどうやら意識が行っている。「吐くなよ、飲み込んでくれって」と言われ隼人が一口含み嚥下すれば、たまらないという感嘆の後、畜生、やっぱり感じるだけで一滴もこっちには来やしねえ、と続いた。公園の水道で隼人に手と貌を洗わせてみた後にも『駄目だ取れやしねえ』と吐き出す声がある。
「それでどうする気だ、何がしたい
非常事態だから付き合ってやらんでもないが、無理難題は言うな」
独り言ちるように隼人は聞く。山道を下る間に研究所がどうなったか、古巣新宿のあの辺りがどうなっているかは掻い摘んで話してやった。竜馬は興味深そうに相槌を打つ気配はあったものの、研究所跡地に何かの痕跡を探したがりはしない様子であり、ブチ抜かれた東口から西口と都庁前までがは一度地ならしされた後、今の都庁は趣味の悪い商業ライトアップがされていると聞きげらげらと笑っただけだった。
「ほんとか?よっしゃそう来ねえとな
そうよ、そうだな
……じゃあまぞここからとんずらだ」
お前との『コレ』がいつどこで切れるかわかんねえが、鬼娘にウダウダ調べられたり弁慶の野郎にもわかるようにこれ以上噛み砕いてる間に終わっちまうなんてなぁ絶対御免だ、
『どこで消えるかわかんねえライターの火、点けっぱなしで隠し持って逃げられるかよ?』
「俺がどれだけ反社なレッテル勝手に貼られてた身だと思ってる」
隼人がにこりともせず返したが、言及されたそれが架空の「試験」であるのは知識の中にあるらしい
バビロンまで何マイル?蝋燭灯していけるかな?
脚が軽くて速ければ
そしてゲッター2のパイロットもまた然りである
*
「新宿だ」
『えっあっという間だったじゃねえか』
「新幹線だったからな」
『ええ俺が知ってる新幹線じゃなかったぞ』
なんかゲッター2みてえな面構えのクルマだったじゃねえかという竜馬は、携帯の中で0系新幹線車両を見せられてそうそうこっちと一人盛り上がる
「新幹線ぐらい乗った事ねえのか」
「おう、ねえよ。生涯山手線圏内お住まいだぜ」
このあたりで隼人はしばらく、独り言が止められない統合失調か発達障害の症状と周囲に見られている事を覚悟した。なにぶん、もう都市部には入った、「どうでもいい」存在ばかりの中だ。
食って、風呂に入って寝たい
それが竜馬の素直な欲求だった。
竜馬を、消失したパイロット流竜馬を帰還させるためと、もしくはそれとは全くの別腹でゲッター線の調査研究のためにこの状況を精査してみないのかといえば、隼人にその気は起きなかった。むしろこれはあくまで彼個人の気の病の類で、身体の変調扱いで済んでいた、「もしかして」の可能性とは数える気にならなかった。
早乙女博士に懐柔されて乗せられた「ことになっている」ゲッター線への関心も、あれはそう易々と人を
―――被験者を投げ込み兵士を踊らせられる研究対象ではなかった。仮に人知を超える何者かが再来し、非常に強力な防衛のための兵器として継続的に使用する必要が生じるとしても、その代替エネルギーたりえるものを探し実用化する道を彼は「あの後」いやあの途中から模索し始めていた、早乙女がモグラのように地下に籠ってしまう頃には既に。
既に起きてしまった事故で臨界点的状態にあった人体のサンプルならば、隼人自身で事足りていたのだ、弁慶のサンプルと比較した際に、被爆量の差は2号機3号機の位置関係だけでも大きかったがそれでも。
神隼人という人格は、初めて手に入れた火で野原を焼きたがりはしない
自分が大きな力を預けられていると瞬時に理解した後は、それまでの敗残の余韻はあとに、新たな責任を見出しまず彼自身が背負った
***
そんな静かに冷ややかにも確かな責任感ある隼人をして、カツ丼とラーメンと一杯のビールを高倉健演じる元服役囚のように感無量気味な溜息を耳にさせつつ食させた後は、甘いものがケーキが食いたいと竜馬は言った。咀嚼嚥下味覚の快感はあるが全く腹には入らないからと。
「チョコレートの四角い奴」や「断面が美味そうなやつ、白菜の鍋みたいになってるやつ」がオペラとミルフィーユなのか、それとも違うパイ類なのかと専門店の喫茶コーナーで帽子を脱いだ隼人が、ショーケースのタルトとシブーストをも注文し、ひどく仏頂面な甘いもの好きのハンサム来店かと店員を微笑ませた後、更にもう一度入った焼肉屋でミルクレープを発見した竜馬は『これだよこれ、なんで知らねえんだよったく』と(恐らく)鼻を膨らませた。竜馬にかかればタルトもチーズケーキもモンブランもすべてが「あれだよあのケーキ」なのだった、他人が食するのを見た事程度しかないかのように。
しかしやはり胃の中には飯一粒、酒の一滴も落ちて行かないようで、竜馬がああ畜生とまた悔しがるのに対し、そろそろえづきが来そうな隼人は待て、もう無理だ、とテイクアウトでその場の会計を閉める。
当人は楽しそうにしているが、渇いた喉を潤すことが許されないなら竜馬がいるのはシシュポスで、飢えても食わせてもらえないならそこは飢餓地獄だ。いったいこの男がいるのは何処なのか、そしてこの男はそこに住まう何になったのだろう。獄卒の鬼か、鬼とも呼ばれる亡者の方か、それよりも落ちた幽鬼たちか。
いずれにせよ、流竜馬はもはやこの世に戻れる存在ではいられなくなっているのだろう
(もしくは気の迷いでいまこのとき幻視している「亡霊」を自分はそんな者にしたがっている!)
気付いていないのか気付かないふりなのか、あるいはあの向こうに行った人間には「わからないこと」、些事になるのか。この反応はカウンセラーごっこができなくもない早乙女ミチルに判断させてみたいとはふと思う、この認識力の具合は無知ではなくなんらかの鈍麻化ではないのかと。更生段階で仏門修業をしたという弁慶が、この竜馬の供述で即座に地獄を連想するかしないかも、聞いてみたくなった。それでも、
隼人は詰まるところ、嘗て命を懸ける機会を共にした存在の死の可能性を受け入れる段階に既にあった。「隣人」を「犠牲者」を悼む事と背負う事ならできていた。偲び供養する仕草だけ真似ながら、ありえない童話的解決の可能性や子供のような畏怖の奴隷でいたがる嘗ての知った顔に付き合うのが苦痛になってきていた程度には、嘗て/過去に大きな火が上がったただの過去形である/最早何もない/もはや遅い/祭りの後の残骸が散らばるばかりの場所に、また何かを期待するようなねだるようなあの未成熟な「受け入れられなさ」どもが。
なのにそんなとき「ダチ公」は戻って来(たかのように感じられ)た、彼の中だけに、だがもうこの世のものではなく。
『食い過ぎたんなら歩け歩け!』そう人のみぞおちから下腹部まで叩く感触を覚えた隼人がやめろと本気の拒絶の声を返せば、午後一時過ぎ、三丁目のデパート群からすれ違う見知らぬ顔がびくりとする。そのびくりがもっと危うい、容易に着火のタイミングを求めていそうな者が白昼にも混じる、歌舞伎町方面へ斜めに横切り歓楽街へと隼人の歩みは
『おうどこ入る気だよ』
奥へ、音楽や客引く声、真昼間の石鹸臭い臭い、人波の奥へとそして大きくもないホテルや一階が夜向け飲食店になっている派手な色のアパートの向こう、フェンスやブロック塀で細い道に面した側の守りを固めた民家の並びが現れる。
『おい』
富久町に入る寸前、五丁目辺りで
『
……駐車場にされてやがる!』
「地元の駐輪場、だな」
六時間で百円だとぉ?情けねえなあ狭いなりにも道場跡地だぞ、と竜馬が嘗て生家のあった場所で呆れた風に叫ぶ。権利者もその後いい商売ができなかった地面と見えた
『親父がいなくなった時によ』
空手道場の傍ら骨接ぎの看板も出していた竜馬の父は、土地柄闇医者代わりに夜分専門外の患者が飛び込むことや、また実際施術台から動かせない患者を庇っての派手な立ち回りに至りもすることで、駆け込み寺扱いもされていたという。近隣の頼まれごとはそう断らず、礼金の多寡に拘らなかったが拒むこともしなかったので、その腕っぷしや地元民としての近隣とのとりなし、骨接ぎ整体
―――間接外し等の技術を何かしらの交渉用に請われ呼ばれることさえあったのだと。
両親の結婚と母の不在について彼がどう聞かされ育ったかは不明ながら、「道場主」というよりは「道場を構えるやくざ者の骨接ぎ師」の、開店休業状態の自宅道場で空手だけは英才教育を施され、他は知れたものではなく育った竜馬がある日気が付けば
『親父が一週間帰って来てなかった。窓側の金魚鉢が西日で煮えちまって、メダカがよ。』
お前はいつか禄でもねえことになるから犬だの猫だの飼いたがるなつってた奴がサカナなんぞ飼ったらまあざまあねえことになってやがったんだ。
生きたまま山に連れてかれたのか海にバラ撒かれちまったのかはしらねえが多分そういう事だ、こっちに寄越して返せねえ事にはなってたんだろう(役場職員と訪ねてみた事務所からはそこにないはずの腐った水槽の臭いがするような気がした)、だけど七年経ったらお役所に届けて死んだって事になンのよ、
それまでは「行方不明」だから骨接ぎの看板も片付けなかったら、ずーっと葬式も挙げねえ、片付けも一切しねえドラ息子って事で、すっかり村八分よ。
でもそんなで丁度今年の暮れにはやっと葬式が出せるとこだったんだぜ
いるはずの無い者の声は、剣呑な話題になったあたりから一段品が無くなり柄が悪くなった。ろくに遮蔽物も存在しない更地にひとり立つ隼人の耳元で、吐息が触れるほどの近さから語り続ける、聞く者に「聞かせていい話か」などはお構いなしで
死者の、亡霊の声だろうか、もしくはこの世界に正しく戻って来られないでいるあの男の切片断片が、とても近いが致命的に違う座標から膜のように薄いが破れない壁に爪を立てて引っ搔いている。
ああでも、はた迷惑な近所の仲裁屋として親父が肩で風切って、俺が中学もサボるようになる前は仲良い時期もあったんだぜ?あいつらの銃とかそうだな、シンカンセンの種類を覚えるガキみたいにスラスラ言えるのを聞いて欲しがるから、俺までババアどもに嫌な目で見られるようになったけどな。『龍馬』なら好きだろ、って、中央公園の奥で撃たせてもらったりしてなへへへっ
―――あ、なんだ隼人、こういう話興味ねえかよお、オトコノコだろてめえだってよぉ、ちぇっ
駐輪場にくるり背を向けすたすたと行く隼人の目は冷ややかだった。
流竜馬の人生はさしずめ大都心の放置子だった。この全てが他人事で他人任せ他人のせいである人格は、二十数年ただ口を開けて、自分の周りに来る餌になりそうなものを食い、多くを考えず、何かに貢献したか他者と意味のある関わりを求めたかと言えば最後の事故的な数か月を別にすれば否で、それでもこの地球上のヒト生物としては十分大量のエネルギーを消費した方だろう。
これが万一今もどこかで「まだ生存している」との可能性を考えようとしたら、そこには何があるだろう
そう「考えたい」なら理由が何が必要だ。他人事で、他人任せで、与えられるのを待つだけ他者を消費するだけ、せいぜいが「踏み潰すつもりのないものは一応避ける」という選択肢を知っているだけに見えた存在に。いまげんざいも体の飢え乾き心の空虚をその場限り塞ぎたがるばかりのこの告白に。
これはそうした観察をやめる方法が必要なのだろうと隼人は思い至る。「悼む」より「死ぬことはなかった」よりももっと違う感情も。
自分が竜馬を「まだ諦められな」ければいいのだ、
仮に流竜馬の中でもじつはせいぜい十数日程度しか経過しておらず、時間の認識もパニックにより彼にはできていないとか
いっそ彼は時間が経過しない特殊な空間にいるのだとか
―――無理だ、イーグル号に墓場の残骸を括りつけてはあり合わせゲッターにして、昼も夜も数えるのを忘れるほど戦い続けて来たという旅の話と汚れた体の痛みはもう聞いた。
諦めていてもそれでもそれなら?まだ何かないだろうかたとえば
―――理屈を全部無視できる情動、好意であるとか
あまりな発想に隼人は呼気を吸い込んで引き笑いになる。そのひひっ、との小さい笑いにタクシーの運転手は不安げにミラーを覗いた。
コンビニで週刊誌を手にし、作者が死ぬまで終わらないと思っていた長期連載の終了に驚かれ、更に急逝した著名人を周回遅れで悼まれ、ホテルでは夕刻からのチャンネルをうるさく総当たりさせられた後で
「いつまで観てやがんだ」
『ああ悪りぃ、隼人シャワー浴びて来いよ』
「
……」
あ、との声が続く。
「風呂に入りたいんじゃなかったのか、五感で感じるだけでも、そして眠りたいと。だからまともな宿をとってやった」
『おう』
「その為の『風呂』にはどうも聞こえねえ」
天井の灯りは付けないまま、書き物机の上の薄型テレビの灯りだけの部屋で、画面内のバラエティ番組のせわしいテロップが隼人の血の気の悪い顔を白く叩く。
「お前を感じるというこれが、正直俺の突発的な異常か心残りじゃねえかとも思ってる。だとしたらこれ以上は滑稽が過ぎるってもんだ」
さまよえるオランダ人になった流竜馬の霊が望んだのだと信じてお前が好きそうな女を呼んで、俺が腰を振る?供養の作法とも思えねえな
『半日一緒にいてみて、これがてめえ一人の物狂いに思えんのかよ』
「さあな取り敢えずは憐れ以上の感情は起きん」
(そりゃあ慈しみのひとつだと思うぜ、と言ったのは、何年目かに差し向かいで飲んだ時の弁慶だったか。あそこでできた縁をナシにしねえで何かやれるんじゃないのかお前なら、と不意に合掌しつつ彼は言った。あの地で起きた事を無にしないために続けていることを弁慶に伝えるつもりは隼人には無かったが。)
お前はもう完了形と過去形の存在だと、隼人がそうクリティカルな表現を口にしようとしたところで
『わかった、じゃあ俺の為にお清め気分できれいな水たっぷりで風呂使ってくれや、で、臭くもべとべともしねえ寝床で寝るんだ』
銭洗い程度には俺にも御利益あるかもしれねえしよ、そういう言葉と共に隼人の腕から感覚がなくなったとみるや肩がぐいと持ち上がり、コートから片袖が抜かれる
「!」
半日ありゃ、ちったあ操縦だってできるようになってきたぜ?、と笑いがあり、どこからどう「支配権」を奪い返すとはわからないまま、隼人はばっと強い動きでその腕を振りほどくように払う。洒落者の手指とまでは見えないが、割れ爪を気にするスポーツ選手のそれを連想させるネイルを施された爪は、今も人の顔程度なら真皮が見えるところまで掘れる、あの日以降再びやっていない、それだけだ。おぉこえええええ、と竜馬も楽し気な声を出した。
『おっ。お前、肝臓治ったのかよ』
「誰が肝臓だ」
『いやだってよ、お前黒かねえのにどーにも肌色悪かったじゃん、内臓悪いんじゃねえかとあの頃弁慶とよ』
「生活変わりゃそんなものすぐ変わる」
『へえ、こりゃ真っ白になっちまってまあ、いい物食ってんのか』
服を脱ぎ捨てた隼人の身体つきは以前とさして変わらなかったが、浅間山の麓で彼らがシャワーブースを共に使った裸の付き合いの頃に比べ、青い鋼のような全身がバネの身体はすっかり白くなっていた。煩い自己主張をしたがる部位が見当たらない引き絞られた肉体の静かな隆起がなめらかな彫像のそれまでに見える白さは、肌を大きく晒してようやくはっきりわかるもので、ほうほう、へええとバスルームの鏡の前であちこちにぺたぺたと触れ、尚もしげしげと覗き込みたがる竜馬の「操縦」を振り切り、裸の隼人がシャワーノズルの下に立つと
『わりいちょっと待った』
ここだけ俺の思うように浴びさせてくれ
そんな言葉と共に隼人の両肩から感覚が消えた
「おい」
右手がコックを荒々しく強く掴み、シャワーを全開にする。痛いほどに勢いのある水流がまだカーテンを引かないバスタブの外まで飛び散るのも構わず、湯の温度調節もそこそこに隼人の両手は大きく頭の左右に伸ばされた。磔刑図のように、もしくは映画で刑務所の便所の排水路をも潜って夜の土砂降りの中へと逃げ出しおおせた主人公のように両手を広げ、降りかかる一滴も逃さぬように全身で浴びる
「ああ
……」
切ない声を自分の喉が漏らすのに隼人はぎょっとする、ちがう、これは竜馬だ、感極まった竜馬の奴だ、そう思う端から自分の目がぼろぼろと涙を零すのを隼人は感じる。驚くような困ったような瞬き、激しいシャワーの下それでも何度も目元を拭うてのひら、そして鼻をすすり微かな嗚咽、シャワールームの壁に身体を押し付け漏らす男泣き。その自分の身体が演じる無様を見とどけ隼人は少し考えた様子の後、制御が戻って来てだらりとなった両腕を自分の身体に回し、しばらくの間かき抱いた
「
―――落ち着いたか?」
ドライヤーを切って静寂が戻った部屋、隼人は泣いて赤くなった顔には似合わない調子で姿見に映った自分の影に向かって問う
『ああ、落ち着いた、本当にすまねえ』そう頭の中に声が返る。
『変なタイミングでお前に操縦かえしちまったのもよ、俺の本当の股間てかまたぐらはあの後ずっと何十日か何百日か、操縦席から一度も立ち上がることも無しで、そりゃオッソロシイことになってる筈だからほんと気持ちだけの話だってのによ』
「もういい」
コントロールだけ返されて『んじゃ、またぐらをケツまでよーく洗ってくれ、俺は手ぇ出さねえから』と隼人の尊厳を守ったつもりでとんでもないことを竜馬は言った、まだ鼻をぐずぐずさせながら、いかにもいい事を提案したかのような口調で。そして『なあ俺が黙ってなんかした方が良かったやつか』『やっぱ代わらせろよ自分でや』「黙ってろ」との冷え冷えとした短い応えと少しくの空白時間の後は、バスタブに長々と身を横たえ肩まで湯に浸かった隼人が、外見的には全く一言も発さなくなった。
「シモも少しはすっきりしたk『うわああああ!!』
じゃあいい、と隼人はまだ湿った小さな頭を揺すって長い黒髪を散らした。
ホテルのメイキングされたベッドをめくりつつ隼人は言う、
「どうやら今の状況は俺がお前にもっと何かしら理屈をそこに据えておけない情のようなきかん気のようなものを持っていれば、もっと多くを見出せた可能性がある。」
弁慶でも早乙女ミチルでも、あの場で真偽はどうあれ『俺は生きてる』とお前が言っている、と伝えていればあるいは
その場合もっかい一から全部説明繰り返しの繰り返しの泣かれて笑われてドつかれて上手い毒吐いたつもりの気分ワリイ俺オレアタシな自分話されたあげくの強制終了じゃねえの、それでメシもフロもねえ、ほんのひとくち水くれの一言も耳に入りやしねえ、やだねじょうだんじゃねえ。だから
『俺の話聞いてくれる気配なんざ絶対ねえ』
隼人は毛布を胸の上まで引き上げた
『ナリだけ大人なクソガキどもが勝手に吐き出すだけの場所だったのよ、ありゃあ。俺一人がじゃねえけっきょくのとこな
吐き出すことしか学んでなかった俺が、それが仲良しのごっこにもなってねえ、タニンをてめえの中の何処にも置かねえ置いてこっちを見てくれる気なんざねえ子供のシャブシャブに水っぽい絆未満だって気付き始めたところで時間切れだった』
ちょいとだけマシそうなあんちゃんがいたのもありゃあ何だったんだろうな
研究所の責任者で昔の写真の中では赤いシャツ着て、死んじまったお袋さんから引き継がれる十字架があって、鬼娘じゃねえ早乙女ミチルと心が通じてて、父親にも実はちゃんと愛されてたあれは、
あれは一体誰だったんだろうな?
ゲッター地獄の隙間から見えたと思うんだ、絶対会った事はねえ筈の、でもすげえ近いとこにそんな奴がいて、あのあんちゃんじゃあ絶対になかった気がする。俺はそいつが大好きでそいつも俺を好きでいてくれたのを誰かがバラバラに引き裂いてあの鬼娘一家にしちまったみたいな、
『いや、いや何言ってやがんでぃ俺ぁ』
でもなそいつは、バラバラにされちまったのは、お前じゃないお前な気がするようになってしょうがねえ時も出て来た、俺はお前が大好きでお前も俺に笑ってくれてた世界があって、本物なのはこっちじゃなく
「ストップ」
俺への勧誘の仕方としては面白いけどな、それで世界を壊すんじゃねえよ
言って隼人はベッドサイドの灯りを落とした。そしてさらさらとしたシーツの上にバスローブ姿の身を預け、湯上りの微かに上気した手足の肌を心地良くひやりとしたそこに滑らせる。「ほら、清潔なベッドで眠る感触。」その言葉に隼人の喉から隼人らしからぬ呻きが漏れ『ちくしょう』とどこかの何かが叩かれた。そして、嘗て聞き慣れたビープ音。世界が一瞬真っ暗になった。
『畜生てめえ煽りやがって隼人』
隼人の耳元に竜馬の声が聞こえる、ただし、「外側」から
『座標がチョイっとだけズレた、ずらせた!お前の外に出られた!これがどういう事かわかるか?』
夜具の中、見えない何か、見えない手が体重が突如出現し、隼人の上に馬乗りになっている。饐えて酷い臭いとなにかが朽ちた後の臭い、土か工業油にまみれたような感触。
『絶対に破れなかったそっちとこっちの壁、じゃあこいつは百パーセント安全なごくうすコンドームみたいなもんだ、安パブの姉ちゃんとサランラップ越しのベロチューの罰ゲームしたことはあるかよ?ねえか?じゃあデビューさせてやんよ』
たくらみが上手くいった有頂天な声、トマホークで鬼の首を「場外ホームラン」した遠い日と同じ声色。「穴があったら突っ込むのが男」など言いたがる精神性とセンス。汚れがさがさとした何かの当たる感触がある隼人の胸板は、シドニー・J・フューリーかバーボヘンが描いた透明人間か色情霊の手のひら、指の形に押し潰されているかもしれない、いや、そうなっているのだろう。
嘗ての野卑が懐かしさも憐れみもずたずたにして突然目の前に降って湧いた。ああそうだこの小汚さと距離の取り方の下手さ愛されたがりが生理的にどうしても無理だったのだと隼人は思い出す、悔いる。圧し掛かっている質量は嘗ての目測よりも確実に大きく、人間の身体とは思えない金属や合皮やコードの感触がただ「纏っている」状態ではなくして竜馬の肉体を名乗っているのを感じてしまったから。
そうか、つまり途中から飢えたまま死ななくなったというのはつまりそういうことだ、何度も古戦場でぼろぼろになったゲッターを直したというならその時には中の竜馬も。
見えない膜の向こう、かさかさになった熱い舌が隼人の頬の上を這う。そして
「ずっりい
……」
すげえきれいな水の匂いがする、風呂入ったきれいな肌の匂いもする
『すべすべ、さらさら』とは身動きできない隼人の首筋のあたりで聞こえた感極まった調子の声だった
こんなの有難がって大事に食わねえとダメな奴じゃねえか、御無体できねえ、クッッッッソ、いや違うのかな、やっぱ俺と隼人は両想いみたいな事になってる世界が本物で、だから無体はしたくねえのかな
などと独り言が夜具の中、透明なような闇から聞こえ
『ああと、な、隼人、じゃあツトメテ優しくすっから、このリンクが切れる距離になって俺が離れるまでだけ好きにさせろよ』
『な?』とさもいい事を言っているような調子の声とともに、竜馬「らしきもの」は隼人の上に本格的に圧し掛かった。
チェックアウトは一日半延びた
獣臭は身体を騙し騙し風呂に浸かった隼人のみならず部屋にもへばりついて、ホテル側はおそらく自殺者が出た時よろしく特殊清掃を呼ぶだろう。以前のならいで偽名でチェックインしてなければ間違いなくブラックリスト入りだと隼人は思う。
竜馬はこれから行かされそうな星系の名を告げていった、アーサー・C・クラークの未来宇宙船が片道30年かけて行く先だったが、竜馬はまた寄るよと口付けらしきを隼人にして言った。
航行ログに印が付けられたから、来年の今くらいに忘れてなけりゃ。記憶媒体を吹っ飛ばされてなけりゃ。
それでちゃんと友達になろうぜ俺ら、離れたら難しいこと考えるよかすぐ悲しくなれるぐらいに、そしたら弁慶たちにも会いに行ってみるんだ。
なんだか勝手に希望の未来を見出して、竜馬はまた泥濘宇宙に運ばれて行った。さてどうしたものかと隼人は考える。仏前の花と菓子も亡者には供養として届くというなら、この馬鹿馬鹿しくも不毛な一夜もどこか遠く彼岸じみたところへ離れて行ってしまったあの男の為の何かになるのだろうか、それに此岸の自分にも、自分達にも
いやそれはと隼人は顔を背ける。それはあるいは、彼がバラバラに引き裂かれた後の神隼人であるがゆえの限界か、それとも。
その名と少し癖のある端正な面差し以外、善きもの美しきもの全てはぎ取られたかもしれない彼、の。
そういえば鬼やらいを、儺をする頃合いだったと彼は今更に思い出した
鬼に年に一度遭い追い払う日だった
二月三日は。
(了)