ぬす
2026-02-16 21:42:45
2477文字
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インパルスコントロール

飼い犬とサンポの話 ※うっすらメタ要素があります

――犬はいい。
 時に勇敢に主人を守り、時に健気に主人を癒す。
我が人生の伴侶と言っても差し支えない愛しいその子の、
あたたかく柔らかな毛を撫でる。
にこりと笑うように口を開けてこちらを見上げるその姿の、なんと可愛らしいことか。
 愛犬と過ごす穏やかなこの時間が好きだ。
いつものベンチに腰掛けて、街ゆく人々を眺め、控えめな日光を浴びる。
忙しい人々にとっては時間を無駄にしているとも取られるだろうが、時折通行人に構ってもらっては嬉しそうに尻尾を振る我が子の姿を見られるだけで私は満足だった。
 ぴくり、と愛犬の耳が動く。
知り合いでもいたのだろうかと愛犬が振り向いた方向を見れば――ああ、なんてこと。
今日は最も幸福な日であり、最も不幸な運命にあるらしい。
「げっ……
「まだ話しかけてもいないのに!げっ、とは何ですか!」
 サンポ・コースキ。この町で最も口の上手い男。
それ故に彼と話す時間は気分が良く、刺激的で、胸が弾む。
だからこそこの男とはあまり関わり合いになりたくない。
こちらの隙を見つけては懐に入り込んでくるその仕草が、声色が、そしてあの笑みが何よりも苦手だった。
「そんなこと言っても、ワンちゃんは素直ですよ?」
――ああ、可愛い我が子はまたこの男に尻尾なんて振って!
 隣に腰掛けたサンポの膝の上、人懐っこい愛犬はそれはもう嬉しそうに、目をキラキラと輝かせて目の前の男にのぼりついて。
相手がサンポでなければなんと良い顔なのだろうと何枚も写真を撮っていたのに。
「ふふ、くすぐったいですよ。顔はやめてくださぁい」
「ちょ、ちょっと、舐めちゃダメ!
 なんでそんなにこんな男にそこまで懐くの!」
「こんな男とは何ですか!
 全くもう、サンポは悲しいです。
 僕があなたに何かしましたか?」
 そう言われると、彼に悪いことをされた覚えはない。
ただ何度か、いや何度も話して、その度に胸を高揚させられて、その感覚を受け入れたくなくて。
優しく暴かれ、踏み込まれ、その度に快を求めて歪んでいく自我が恐ろしくて。
どうにかこの男を拒まなければいけないと――つまりは、私の都合で冷たい態度を取ってしまっている。
どう考えても私が悪い、そう思うと何も言い返せない。
「僕は好きですよ。あなたと話す時間は何よりも幸せを感じます!」
「私、あなたに優しくした覚えはないけど」
「そうですねぇ、口ではいつも寂しいことばかり!
 でもお嬢さんは僕のことがだぁいすきですから」
……なに勘違いしてるの」
 いつだってそうだ、この男は人の心を見透かしたような口振りで、都合の良いことばかり言う。
共感してほしい時も、解決してほしい時も、そして理解してほしい時も――こちらの欲しい言葉をくれる。
それはもう、不気味な程に。
 今だってそうだ。ああ、そうだ。
私が何より知っていてほしいことを、この男は知っている。
「もう帰る」
「ええ?せっかく会えたのに。
 もう少しお話ししていきませんか?
 この子もまだ僕と遊びたがっていますし」
「その子をダシにしないで」
 サンポの膝の上、とても収まりきらないほどにだらけきって腹を出した愛犬の姿に溜め息をつく。
彼の大きな手に撫でられるのが気持ちいいのか舌を出して、私の視線に気付いて――にっこり。かわいい。
 仕方ない。もう少しだけ構わせてやろう。
私の都合で愛犬の遊び相手を奪ってやるわけにもいかない。
犬にも社会性は必要だ。
「可愛い子ですが、これではお嬢さんを守れませんね」
「この子は別にそんなことしなくていいの」
犬は勇敢に主人を守る のではなかったのですか?」
……私そんなこと言った?」
 ふと、彼の目から光が消えた気がした。
宝石のような緑の瞳が暗い影に落ちて、そこだけが水底に沈んだよう。
ぞく、と寒気が走る。
何か恐ろしいものを見てしまったのではないか――雪の街に相応しくない汗が頬を伝う。
 そんな私の不安を汲み取ったのか、取り繕ったようにまた笑みを浮かべるのがいっそう不気味で目を逸らした。
「こんなに懐いてくれるワンちゃんはこの子ぐらいです。
 匂いを嗅いで唸ったり……見るだけで吠える犬もいるのですよ!
 ああ、酷い話です!」
……私だって犬ならそうしてた」
「お嬢さんに番犬は難しそうですけどねぇ。
 ワンワン!と言われても可愛らしくて手を伸ばしてしまいそうです」
「噛みついてあげようか」
「アハハ!噛み痕が残るといいですね」
 軽口を叩く姿はいつものサンポのもの。
先程の異様な雰囲気は何だったのだろうか?
私の気のせい、にしては彼自身それを自覚しているような振る舞いをしていた。
情熱的で愉快な男の、素の冷たさのようなものを見てしまったのだろうか?
……サンポ、もしかして疲れてる?」
「おや、心配ですか?
 珍しい。あなたがこのサンポを気遣うなんて。
 やっぱりあなたは優しい人ですねぇ!」
「そういうこと言うならいい。今の無し」
「そんなぁ!」
 ちらりとその横顔を見れば、いつも通りの緑の目。
やはり思い違いだったのだろうかと気を抜けば、安堵と共に落胆が胸をじわりと侵していく。
恐ろしいのにもう一度覗き込みたい。
先程の目。あの暗く冷たい暗闇のような目。
あの目で見つめられたら、私は――
「ダメですよ」
「え」
「ふふ、ダメですよ。そんなに甘えてばかりでは。
 ご主人様を悪い人から守らなければ、ねぇ?」
「あ……
 だ、だから……いいの!この子は危ない目に遭わない方がいいんだから」
 ああ、やはり苦手だ。そう思うことにしたい。
この男を受け入れたがる私を律しなければならない。
膨れ上がる欲に溺れるのを防がなければならない。
……ねぇ、早く帰ってよ」
 彼の上で甘えたままの我が子がなんとも愛おしい。
違う、離れなければ。呑み込まれる前に逃げなければ。
ああ、それなのに足が動かない。
私の本心を見透かしたように、彼は愛犬を抱え直して笑った。