バトキャロ

香水。

 バトリスは愛子に生まれたことを喜ばしいと思ったことがあまりない。
 しがない男爵家の両親は、大して期待もしていなかった次男が愛子であったことに狂喜乱舞して、バトリスを足がかりにいまよりも優位な地位を得ようと日々画策した。
 興味も向く前から魔法に関して学ぶようにと徹底して方向性を決められたが、愛子は魔力量が桁外れに多いのであって、最初から魔法を学問として修めているわけではない。当然、知らないことは知らなかったし、分からないことには躓いた。その際の両親からの叱責は恐ろしいほどであったが、愛子の体に傷をつけるような真似は流石の彼らもしなかった。バトリスと随分と比較されるようになってしまった兄からは陰で小突かれたり、服の上から抓られたりしたものだけど。
 魔法さえ修めていれば両親は満足する。いや、満足はしないだろう。愛子という国で安泰の立場で以て、更に評価されるなんらかの成果を上げて家を盛り立てるまで、決して彼らは満足などしない。それでも、バトリスは表面上でも両親が納得するのであれば、と魔法に関する知識を修めていった。幸いなことに学べば相応に知識を積み重ねるだけの頭はしていたようで、愛子ということを差し引いても研究所に出入りして嫌がられることはない。権威ある識者と気軽に会話をすることはできないが、研究者と魔法理論について侃侃諤諤の議論を交わすことはよくあった。
 男爵家の次男として生まれたにしては過ぎる待遇。男爵家の次男として生まれたにしてはそぐわぬ要求。ふたつを天秤にかけた結果、バトリスは愛子であることを喜べないという感情に落ち着いている。
 ──落ち着いていたはず、だったのだが。
「まあ! この香水は菫のような香りだわ。庭で咲かせるには慎ましいと言われるけれど、私は可憐で好きよ」
 ありがとう、バトリス。
 そう言って向かいのソファで花のように微笑むのは婚約者のキャロラインで、バトリスは彼女が嬉しそうに香水を纏うのを見て深い喜びを感じながら「よかった」と頷く。
「今回の香水は気分が上向きになりやすいように調整したので、使い方によっては普段よりも魔法の出力が上がります」
「そうなの? 最初に作ってくれたものとは対照的ね」
「ええ、比較しやすいかと思いまして」
「それですぐに作れるなんてすごいわ!」
 手放しで賞賛してくれるキャロラインに、バトリスは面映ゆい気持ちで靴先へ一瞬視線を向ける。
 フルード公爵家の令嬢であるキャロライン。風属性の愛子でもある彼女と婚約できるなど、バトリスがただの男爵家の人間、ましてや次男であれば絶対にありえないことであった。バトリスが火属性の愛子で、その生まれから優れた教育を受けてきた結果があって、キャロラインとは縁を繋ぐことができたのだ。重荷にすら思っていた愛子であることが運んできた僥倖に、バトリスは手のひらを返したように感謝する日々を送っている。
「バトリスの香水も自分で作ったの?」
「ええ……お好みではありませんか?」
 貴族が独自の香水を調香することは珍しくない。家が名の知れた調香師に注文している場合もあるし、見出した調香師のパトロンになる場合もある。バトリスが使っているのはキャロラインの訊ねるとおり自身が調香したもので、効果はキャロラインに贈った菫の香水と同じだが、それよりももう少し気分が高揚しやすいようになっている。これはバトリス自身の気分に作用させたいからではなく、己が傍にいる際にキャロラインが楽しいと感じてくれるようにと意図したものだった。香りというものは纏っている自身よりも他者のほうが感じやすい。とはいえ、意に反する感情を抱かせるほどの効果はない。ただ、抱いている感情を後押しする程度である。そも、感じるほど近くにいなければ意味もない。
 突出した効果のものも広範囲に作用するものも作ろうと思えば作れるが、そんな過大な効果を付与すればまず間違いなく麻薬同然に法規制されるだろうし、事件が起きた場合に非難の目はバトリスに向くだろう。そんな愚かな真似はしない。なによりも、キャロラインを害するのと同然のことなど、どうしてできるだろうか。
「いいえ。少し甘くていい香りだわ……はしたなかったかしら」
 確かめるように少し身を寄せてから、はっとした顔をしたキャロラインは恥じらってソファへと身を戻した。さらりと肩口を流れる絹糸のような黒髪を見て、バトリスは少しの寂しさを覚える。
……お隣へ行ってはいけませんか?」
 ばち! と長い睫毛が音を立てそうなまばたきをして、花も蕾に戻って身を隠すであろう美貌が薄紅の色に染まる。貴婦人らしく、親族男性以外と間近に話したことも少ないだろうキャロラインの隣へ掛けたいと望むのは、婚約者とはいえ高望みが過ぎるだろうか。
 でも、頷いてほしい。
 その身に触れるほど近くにいていいのだと言ってほしい。
 焦がれる気持ちを隠さぬ目で見つめ続ければ、キャロラインは常の自信に満ちた様からは意外なほど視線を彷徨わせたが、ひと呼吸でバトリスを見つめ返してくる。
「よくてよ」
 その頬は林檎のように赤かった。
 あまりにも愛らしい反応をするキャロラインに堪らず、バトリスはすぐさま立ち上がると大股でテーブルを迂回して、キャロラインの隣へ乱暴にならないよう慎重に腰掛ける。一瞬きゅ、と身を固くしたキャロラインであるが、彼女は僅かにバトリスへ身を寄せるように座り直してくれた。キャロラインから傍に来てくれた喜びにバトリスの表情は笑みに蕩ける。
「手に触れても?」
「そうやってひとつずつ訊かれては……その、照れてしまうわ」
「私はキャロライン様が止めなければ天井知らずに我儘を言う男です」
「我儘にもよるけれど……婚約者なのだから、私は叶えたいと思うわ」
 言ってから、キャロラインは一度頷いてバトリスを見つめ、真珠のような色をした片手をそっと差し出した。高位のものの慈悲にすら見える仕草であったが、キャロラインがその手に触れることを許してくれるのはバトリスが彼女の婚約者だからだ。いずれ、夫として彼女を腕のなかに閉じ込めるものだからだ。
 喜びがひたひたと溢れて染み入るまま、バトリスはキャロラインの手を両手でそうっと持つ。研究内容によっては力仕事もするバトリスとは違い、柔らかで繊細な壊れもののような手。キャロラインはどこもかしこもがどんな芸術品よりも素晴らしい。心までもが凛としていて、バトリスにとってキャロライン以上に美しいひとはいなかった。
 両手に戴いた手。つるりとした爪先に唇を寄せれば、キャロラインは一瞬手を引っ込めかけて、結局はそうはせずにいてくれた。
 指先を喰んでしまいたい欲求を堪えながら唇を離せば、レースから覗く首元まで真っ赤になったキャロラインが仔兎のように震えている。
「手に触れるとしか聞いてないわ……!」
「触れました」
「そうだけど……! っんん……案外、貴方は意地悪だったのかしら……
 むむ、と小さく結ばれた桃色の唇。いつもは余裕を感じさせる笑みを湛えているキャロラインが、自分によってこんなにも可愛らしい表情を見せてくれるのがバトリスには嬉しい。
「お慕いする方を乞うことは意地悪ですか?」
「そんなことはないけれど……でも、だって……どきどきしてしまうのだもの」
 目を伏せるキャロラインの頬に睫毛の影が落ちる。その様にバトリスは反射的にキャロラインの頬へ手を伸ばしてしまう。白皙の薄い皮膚に指先が触れてから女性の顔を無遠慮に触れる無礼に気づき、バトリスは己の卑賎な生まれを呪った。高位の貴族であれば骨の髄まで叩き込まれている教育が、自分には足りていないのだ。
「失礼……しました」
 よろよろと下ろした手。先程までと違って、とてもではないがキャロラインの顔を見られない。嫌悪されることはないと思いたいが、失望の色を見つけてしまえば堪えられなかった。
(そんなことになるくらいなら、彼女を攫って……閉じ込めて……
 醜い欲望が泡のように浮かんできたとき、キャロラインの手がバトリスの手を握った。
 は、と顔を上げればキャロラインはぽぽっと染まった頬にバトリスの手をあて、眉を下げながらはにかんでいる。
「いいのよ」
「キャロライン様……
「私たちは婚約者なのだから……貴方に触れられて嫌になんてならなくてよ。言ったでしょう? 私、貴方が我儘を言ったとしても叶えたいのだもの。だめなときはちゃんというわ」
 微笑み、バトリスの手のひらに頬を寄せるキャロラインに、その肌の柔さにバトリスは目眩のように視界がくらくらする。
 酩酊したような心地になりながら親指ですり、とキャロラインの頬を撫でれば、彼女は擽られた小鳥が囀るように笑う。
……私は、きっとキャロライン様に相応しい婚約者に、夫になります」
「もうなっているわよ?」
「もっとです。もっと……
「そう……では、私も頑張るわ」
「キャロライン様は既に完璧です」
「ふふ、私ももっと、よ」
 向上心のある気高いキャロラインらしい言葉。
 バトリスはキャロラインが目を灼かれるほどに眩しくて、盲目に求めずにいられないのを自覚する。
 愛しい、いとしい、愛している。自分だけの唯一のひと。永遠にあなたを愛している。
 いつか、キャロラインの唇に触れよう。指先だけではとても足りない。彼女のどこもかしこもに触れて、自分だけのものにしよう。
 どろどろと湧き上がるこの感情。これは、この抑えきれない衝動は。
「ふふ。やっぱり、あなたの香水は良い香りね」
 香水の所為などではない。