べるどくん
2026-02-16 00:29:11
7401文字
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雨とばら

バレンタインのアン兵アン

 男同士でべたつくなんて、そうあることじゃない。ただまあ、肩を組んで酒を飲み交わしたり、握手やハグで信頼を築くことはするだろう。そのくらいはコミュニケーション。コミュニケーション、コミュニケーション……の、はずだった。
 俺ことアンディ・ヒノミヤは、ブルースター財団の雑務を終わらせて、帰宅する前に他職員が上げた報告書に目を通していた。これを読み切ってしまえば、枕を高くして眠れるだろうという考えだ。明日の朝、出勤しながら「ああ、今日は何から始めるのかなあ」なんて考えるのは憂鬱この上ない。俺としては、朝は苦めのコーヒーを飲んで、そろそろ豆が切れそうだなとか、次はどの銘柄を買おうかなとか、そういうランチ頃には忘れ去るようなことを考えていたいものだった。
 モニターのブルーライトが眩しくて目を擦り、最後のファイルに目を通す。半分ほど出ていた欠伸が引っ込んだ。馴染みの組織の動向についてがまとめられていたからだ。
 豪華客船を根城とするエスパー集団・パンドラには、浅からぬ縁がある。現在は名誉会員としてしばしば顔を出す程度だったが、この繋がりだけは失いたくないと思った唯一のものだった。血縁や家族とも異なる、超能力を持つもの達だけが感じる妙な連帯感。幼い傷を 抱えたままでも生きていていいのだと、パンドラは俺に教えてくれた。
(パンドラも……まあ、そう、あいつも。あいつが、かもしれないな)
 唇を撫でながら資料に目を通す。パンドラは、財団目線からでは私設組織というよりもレジスタンスの位置付けに近く、やることなすこと想定外だ。航行先が稀に財団へ共有されることがあるが、それがなければ俺たちは奴らを追うのに苦労する。……苦労するというだけで、できないという話ではないのが重要なところだ。今だってこうして、報告書としてカタストロフィ号のシグナルが地中海沖にあると記されていることだし。
 ときたま合う、海の底のような暗い瞳を思い出す。陽の光を受けて、思い出したように青く反射する眼差しを、いつか懐かしいと思うことがあるのだろうか。
(あ、)
 また、この感覚だ。
 あいつ、兵部京介から向けられる哀れみのような、慈しみのような感情を思い出すと、心のどこかが宙に浮くようになる。これはごく最近になって感じ取った小さな違和感だったのだが、気付いてからはどんどんと大きくなっていった。
 古い映画のコマ送りのように表情を変えていく兵部は、いつも寂しそうに笑っている。出会った当初は不敵ににやついていたあいつが、俺が財団に所属してしばらくしてからだろうか、去り際にだけ見せる一瞬。あんな顔を見せられたら名残惜しくなる。
 そう、はじめは名残惜しさだと思ったんだ。
 仲のいい友達と、夕方に「ごはんの時間だから帰るね」とか言うような、幼さの残滓。メランコリックなものだと思っていたのだが、それにも違和感を持つようになった。

 つい先月のことだ。
 パンドラがエスパーマフィアから救出した超能力者の子供を、受け渡しに来た日。
 そのときは兵部が直々にやってきて、子供と一緒に押収品も手渡してきた。小箱を受け取るときに触れた兵部の手の甲が、意外と骨ばっていて、予想通り体温が低くて、心配を覚えたんだ。だからもっと触れてやりたいと思って、気がついたときには甲を撫でていた。
……ヒノミヤ?」
「あっ、え」
 さすがの兵部も、おかしなタイミングであることに目を丸くする。あんな形を確かめるような触り方、今思い出している俺でもおかしかったと思う。
「どうかしたかい? 傷でもあるような触れ方だな」
「い、や……その。手ェ冷たいなってさ。冷え性?」
「ちげーよ。気にしたことないけど。甲板にしばらく出ていたからかな」
「そっか、そうかも。そうだな」
 しどろもどろになっていたのを兵部は勘付いただろうに、それ以上は何事もなく軽い食事をして、俺も楽しく酒を飲みつつ兵部にスマートに奢られて、気がついたときにはベッドの中だった。もちろん兵部の姿は側になく、酔ったまま別れたのだと思う。記憶はない。なかったこともショックだったが、それ以上に有り得ないと思ったのは、兵部の姿がないことに落胆している自分自身だった。
(もっと、)
 右手を握り、開く。
(触れたかったのかな、俺は?)
 答えは夜通し出ることなく、俺は朝方になってようやく睡魔に屈した。

 その日からだろう、俺が違和感に苛まれるようになったのは。
 寂しさとも名残惜しさとも違うこの感覚はなんなのだろう。病に名前がつくだけで人が治療法を得るように、俺もこの浮ついた感覚を名付けたかった。
(一番近いのは、不安か? それなら触りたいっていう気持ちにも納得できるし)
 手首を掴んで引き留めたい。兵部はいつもどこかに消えてしまうし、奴の長い人生を考えてみても、別れはそう遠い話ではないから。
(そうか、不安なのか……
 兵部はパンドラという組織に俺を招き入れ、過ちを犯した俺に背を預けてくれた。贖罪はまだ継続しているつもりだが、俺は罪の意識よりもなによりも、彼の幸福を祈っているらしい。我ながらおもばゆいことだ。
 しかしながら原因が分かればあとは簡単だ。病気の時のように薬を処方すればいい。さて、不安への特効薬は……
「え、なんだ? それ」
 そんなものがあったら、精神病院は商売になっていない。
 憂さ晴らしならいくらでも方法はあるが、根本的な解決にはならないだろう。俺がマウスのスクロールを止めて考え込んでいると、背後でドアの開く音がした。悠理だ。
「あれ、ヒノミヤさん? まだ残っていたんですね」
「もう帰ろうってとこだったんだ。悠理は?」
「この部屋の電気を消そうと思って。消し忘れかと思っちゃったんです」
「そりゃ悪かった。もう帰るよ、お前も早いとこ帰んな」
 黒髪の毛先を弄りながら、悠理がはにかむ。俺が小さくため息をつきながらパソコンの電源を落とすと、そのため息が気になったようだった。
「なにか、お悩み事ですか?」
「ああ、いや……悩みってほどじゃないんだけどさ」
 少し考えて、不安の解消には人に話すのも効果的だったよなと相談することにした。もちろん、不安の対象がパンドラのボスであることは伏せて。
……ていう奴がいてさ、今なんか、ふわふわした不安があって落ち着かないんだよ」
 話終わって一息つく。なんとなく気持ちの整理ができてスッキリして、俺は悠理に目をやった。トマトくらい真っ赤な顔になっている。
「ど、どうした!? 急に風邪!?」
「い、いえその……か、風邪ということにしてください……
「してください!?」
 動揺している俺以上に混乱している様子の悠理が落ち着くまで、しばらく待つ。デスクにあった貰い物のレモンキャンディを食わせると、彼女の頬からゆっくりと赤みが引いていった。
「す、すみません。なんでもないんです、なんでも……
 頬をキャンディで膨らませつつ、もごもごもじもじする悠理に首を傾げる。彼女はこういった感情の機微にも詳しいかと思ったのだが。
「それで、その、不安……でしたか。聞いた限りですと、感情をどうにかするというより、関係をどうにかする方が手っ取り早いのかも……です」
 おお。求めていたアドバイスがやってきた。
「どうにかするって言ってもな」
「変える……でしょうか。ううん、例えばプレゼントを贈ってみるとか」
「プレゼント?」
 誕生日でもないのに?
「そうすると向こうも意識……あ、いえ、その方も『どうしたの?』って、ヒノミヤさんの気持ちを考えてくれるかも、ですよ。わ、わかりませんけれどもっ!」
 なるほど、一理ある。俺は相槌のように頷いた。要は、俺の不安は兵部に起因しているのだから、兵部側の感情を変えてみてはどうかという話だ。
 贈り物をすれば、どの程度であれ相手のことを考えているアピールにはなる。否が応にも、兵部はその日一日中……いや、少なくとも受け取ってから五分程度は俺のことを考えるはずだ。そう思うと今から胸のすく思いがした。
「ありがとな、悠理。なんか考えてみるよ」
「あ! はじめは消え物がいいですよ、お花とか、お菓子とか」
「きえもの……
 ペンで手のひらにメモをする。少女とはいえ多感な頃だからか、俺には想像もし得ない助言に痛み入るばかりだ。彼女にも今度、なにかお礼のお菓子でも買って差し入れよう。
 悠理は去り際に「がんばってくださいねっ!」と頭を下げていたが、外れのないプレゼントを選べというエールだろうか。
「兵部に渡すプレゼント、ねえ……
 食べ物はなんでも口にしているイメージだが、だからこそ面白みがないかもしれない。だとすれば花か、とスマートフォンで近場の花屋を探してみる。
 善は急げだ。兵部にとっちゃ悪かもしれないが、あいつは元々悪役なんだから、それもいいだろう。

◼️

「お前さ、馬鹿なのか?」
「え?」
 開口一番がそれだった。五分どころか逡巡もなく、カタストロフィ号の主は両腕を組んで俺と、ばらの花束を睨みつけた。
「しかも、よくもまあ公衆の面前……てかバレンタインにわざわざ何だよ!?」
「へ?! 今日バレンタインだっけ!?」
「気付け! 町の雰囲気で!」
 紅葉姐さんに連絡を取って開けてもらったゲート。ばらの花束と共に潜り抜け、兵部がレストランに居たので足を伸ばし、「はいよ」と差し出したのが、今だ。
 周囲を恐る恐る見回すと、子供達が目を丸くして、真木さんがため息をついていて、紅葉姐さんが爆笑していた。この場に葉がいたら、殴りかかられていたんだろうか。
 ていうか、バレンタインってマジ?
「どーりで花屋のお姉さんがやけにウキウキしながら包んでた……
「どーせお任せとかにしたんだろ。あのさあ……、いや、もういいよ」
 恥ずかしいやつだなあ、とばらを一輪つつく兵部の耳が、赤く色付いている。それもそうか、バレンタインデーに同性から花束を贈られるなんて、あまり一般的ではないだろうし。プレゼントは誰しも喜ぶことだと思っていた自分の浅はかさに冷や汗が噴き出た。
……ごめん、恥かかすつもりは……
 ばつが悪くなって花束を後ろ手にしたが、ギュンと念動力で前に差し出されてしまう。
「差し出されたものを受け取らないのはもっと恥だからな。もらってやる」
 奪い取るように、ピンクの包み紙でラッピングされたばらたちが兵部の片腕に収まった。なんだか兵部をやけに可愛らしく飾り立てていて、花は兵部のためのものだったのに、なぜか自分が嬉しくなってたまらない。
「ついでだ。へらついてる君ももらってやるか」
「は? うっ」
 知らず緩んでいた口元をむんずと掴まれて、俺はなにかを返す前にテレポートに巻き込まれてしまった。



 次に目を開けたときには、見知った兵部の部屋にいた。ソファに半分崩れかけた体勢で座らせられ、膝がついてしまうくらい近い距離に、兵部がいる。
「おわっ!?」
「それで、だ……
 肩で花束を背負って、兵部が俺の体に乗り上げてくる。
 え、なんで。なんで!?
 状況が飲み込めずに固まっていると、それをどう受け取ったのか、兵部はどんどん顔を近づけてきた。それとなく顎を掬われて、外れる予定だった顎が落ち着いている。こいつ、アジア人のなかでも取り分け目元が涼しげだし美形だし、こんな風にやたら蠱惑的に微笑まれると、もう誰も動けなくなっちまうんだろうな。
 そう、今の俺みたいに。
「ま、君の度胸くらいは評価してやる。だから、これはご褒美……
……わ゛ーーーーっ!?!?」
「ぐぉ」
 これ以上は無理だ、と兵部の顎に掌底を喰らわせる。
「兵部、おま、いきなり何すんだ!?」
「そりゃこっちのセリフだガキ!!」
 花束で頭を殴られ、赤い花びらがわっと目の前に散らばった。その向こうに見えたのは、兵部の驚きの表情だ。頬は赤く色付いて、訳がわからない、という目をしている。
 互いに疑問を浮かべながらぜえはあとしつつ、ややあって居住まいを直す。先に口を開いたのは兵部だった。
「御多分に漏れず……
 前髪をかき上げて、﨟長けに呟く。
……君は、この美しい僕のことが好きなんだと思っていたんだが?」
「す……
 好きとか。
 好き。
 ――好きとか?
……え、お前は男じゃん?」
「くっそ、君って奴は……!」
 俺は頭で思っていたことを口から出すのが得意なので、今回もスーッと口にしてしまった。だって、兵部がおかしなことを言うものだから。
 そりゃあ、こいつのことは憎からずに思っているし、こうした不安を抱えるくらいなのだから危機にはすぐさま駆けつけるくらいできるだろう。しかし兵部の言葉は、文脈からすると恋愛感情にまつわるものだったろう。兵部は他人の苦労ごとには疎い男だが、こと自分に降りかかる面倒ごとには敏感だ。なにしろ、自分は楽なことしかしたくないから。だから恋だの愛だの、自身が関わることを汲み取ってくるのはわかる。だが、だけど、しかし、前提として。
(こいつは男だし、俺も男だし……?)
 成り立たないだろと首を傾げていると、兵部は何度かやるせなさそうに花束で俺の頬を叩いた。全く痛みを感じないのに、胸の奥が針山になったように痛む。
「聞くが……
「うん」
「君は僕がどういう風に見えるんだい」
 じっとりとした恨みがましい視線が和らぎ、俺もようやく普通の呼吸を思い出した。どういう風に、か。
(触れないもの……だと思う。俺だけじゃなくて、誰も掴めなくて、形が見えないもの。あ、手が冷たかったな。冷たいし形は掴めないんだけど、俺たちに恵んでくれるような……
 それを俺の言葉でまとめてみるなら、そうだな。
「雨……霧雨かな」
「その心は」
「俺はお前の形が知りたくて触りたいんだけど、雨みたいに広すぎる感じがする」
 暗がりの夜に、街灯が一本だけ白く光っていて、霧雨の一部だけを照らしている光景が目に浮かぶ。風に凪がれても天から地へと降り注ぎ、草木を育てて人も伸びる。たまに災害になるところなんてぴったりだ。
「冷たくて、でも水だから俺たちを育ててくれたりするだろ? そういうところも似てる。でも形が分からなくて、やっぱり不安なんだ。いつ降り止んじまうかも、なんだか怖いよ」
……じゃあ触ればいいだろ」
 ソファに半ば押し倒される形になった俺の膝に、兵部が座っている。その問いかけは、どちらかといえば彼がしてほしいのだろうなと分かるほどの温度があった。
「少し前からなんだけどさ……
 脚に兵部の重量を感じながらも、目を閉じて考えを整理する。考えがついたことから、兵部に誠実であろうと話し始めた。
 先月に触れ合った手のことや、そこから抱き続けていた違和感と、不安という自分なりの答え。そして、触れることに別の感情が混じってしまうことへの気後れが、先ほどの掌底だったこと。
「さっきはマジですまん、本当にびっくりして。その発想はなかったから」
「おまえ僕を馬鹿にしてるのか」
「違うって! ……ああ、この不安ってそういうことでも解消できるのかもなあって、そう思ってるよ、今は」
……
 納得したのか不満なのか、兵部は黙って俺の膝から降りるとソファに座り直す。片手に花束を握り締めたまま、決して離すことだけはせずに、ぱらぱらと落ちた花びらを眺めていた。俺もゆっくり上体を起こして、同じようにソファに腰を落ち着ける。昼下がりの日差しが宙に舞うほこりを光らせていて、ああ街灯に浮かぶ霧雨みたいだなと思った。
「嬉しかったぜ、僕は」
「え?」
「花。君にしては珍しく良いチョイスだ。だから僕は…………あー、損した!」
 淡々と静かに話していると思ったら、壁が震えるほどの大声を出す。俺が跳ねあがった肩を戻しているうちに激情を放出し終えたのか、ひどく小さな後悔を零した。
「損した」
 彼の中で、花束を受け取ってからどれほどの起伏があったのかは知り得ない。たとえ俺がサイコメトラーだったとしても、それを読むことはしなかっただろう。だってこいつのことを、超能力抜きでわかってやりたいじゃないか。……今は、誠実であることしかできなかろうとも。
「ごめん、損させて」
……謝るだけか?」
「あ、謝ってそれ以外って……
 頭を掻きながら悩んで、花束から一本、ばらの花を抜き取った。それは奇跡的に兵部の無体から生き残ったきれいな花で、深紅の花弁が誇らしげに広がっている。赤いばらは兵部には派手すぎるかと思っていたが、この堂々たるさまはなるほど、似たような彼を飾るには丁度いいのかもしれない。俺もこんな花のように、胸を張りたかった。
「正直まだ、あんまり自分のことが分かってない。自分のことなのに」
「ふ。『自分のことは自分がよくわかってる』なんて言葉、今時は詐欺師も使わないぜ」
「この気持ちを抱えたままお前に触ったら、……全身確かめたら、もっとお前に不誠実になっちまうかもしれないから。そんなのはやだから」
 一輪のばらを指でくるくると回したあと、自分の唇に寄せた。
……こういうので、どう?」
 生花の瑞々しい柔らかさがくすぐったく、己が世界で一番愚か者のような心地になる。鼻腔を通る華やかな香りも、どこか自分には不釣り合いのような。それでも、己が抱える不安を彩るものとして相応しいような。
 兵部は俺の意図をすぐに察したようで、片眉を上げて皮肉げに笑った。
「臆病者」
「ああ。なんとでも」
 兵部もまたばらに口元を近付けて、真似事のように首を傾けた。ふたりのあいだで香りが華やぐ。互いの呼吸が、互いのからだの中にばらを咲かす。
「あんたは俺を臆病にさせるんだ」
 いつか触れるだろう兵部のくちびるは、このばらの花よりも柔らかいのだろうか。











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