いを
2026-02-15 22:24:03
1680文字
Public くらくら
 

つき/みちる


お返事用

 チル。
 心のなかで舌ざわりがよくなってきたころ、とある単語が思い起こされた。チル・アウト。くつろぐ、リラックスするという意味の単語。そうか、あのチルか。そう思うとチルということばも、なめらかに出るように感じた。彼は悩むようなようすで、首をかたむけた。しんと空気がゆっくりとやわらいでいる。給湯器の音が消えたからだろうか。ひとの声は遠く、膜を張ったように揺らいでいる。ずいぶんと考え込み、話し込むときに音が遠くに聞こえる――自覚している現象だった。
 チルというぐらいだから、きっとチルアウトと関連している意味なのだろう。彼も自分とおなじくらい思考をしているであろう――そのくちびるを開いた。
「瞑想できそうなやつ、ってイメージですかね」
 と、そのひとはそういった。
 瞑想。メディテーションというものだ。それなら分かりますと頷いてみせる。
 瞑想と音楽。なるほど、気付かなかった。科学者の間でも瞑想という行為について研究が行われているというぐらいだし。
 それらを鑑みて、音楽に通じる理由も理解できる気がする。
「ははぁ、なるほど。そういうことなら俺にも分かりやすいです」
 音楽に疎い自分でも、イメージがつきやすい。彼いわく、車内でよく流しているという。車にも疎い自分は、車内で流す曲はユーロビートという感覚だったけれど、今はこういう〝チルっぽい〟ものも流行りなのだろう。ずっと前に先輩の車に乗らせてもらったら、爆音のユーロビートが流れていたことを思い出す。――例の、爆音ラップの人だ。そう考えると、おそらく自分は爆音音楽より彼のいう「チルっぽい」音楽のほうが落ち着くし好きなのだろうと思う。歌詞があってもなくても、よい意味で耳に残らない音たち。聞き流してしまっても気にならなくて、自然と流れていて心地よく、落ち着くもの。まさに緊張しない曲だ。
 音楽をつくるひとの脳を見てみたい。正確には彼らの頭の中。オタマジャクシの群れをどうやって躾けているのだろう。自分の思うとおりに動かせるのだろう。そういう突飛な才能をもつひとを見たことがある。拳銃で自らの頭をぶち抜いて自殺をした、いわゆる天才ミュージシャンと呼ばれたひと。脳漿ははじけ飛んでついぞ頭の中を見ることはできなかった。
 そういったひとびとがいることは知っている。一般人が「チル」だという音楽を、ミュージシャンたちは神経を尖らせて書いているのかもしれない。そう思うと、音楽というものはなかなかに矛盾性のあるもののように見えた。
 ――あなたにとってのチル・ミュージックとは?
 と、少々の好奇心と後学のために尋ねてみる。
 彼はマグカップに注がれたお湯を、そっと飲んだ。喉を湿らすように。
 あるいは、考えをさらにめぐらせるように。
 答えはこちらも感心するような答えだった。合成音が入っているもの。そしてその音はたしかにどこかで聞いたことがあった。クラシックなどに使われるピアノや、ヴァイオリン、チェロなどの弦楽器よりも電子音のような――そういう系統の音が好みなのだろうか。
 彼はなんらかを考えながら、そしてまるで促すかのように「車に乗ってみるか」と誘ってくれた。
 車。
 なるほど先ほど彼は車で流すといっていた。それなら自然と聞けるかもしれない。いや、せっかくの機会だし傾聴させていただこう。
「え! いいのですか道代さん。けど俺、あんまり同乗したことがなくて。バイクは乗ってるんですけど」
 バイク、と彼はこちらから見えるほうの目をちいさく見開いてみせた。
「大型二輪の免許は持ってるんですが、普通免許は持ってないんです。助手席でも後部座席でも乗せてください。ぜひ」
 彼は穏やかな顔をしている。ことば選びもていねいだと思う。どう伝えれば分かってもらえるかを思考しながらことばに出している。会話相手もきっと、するすると自分のことばで彼に伝えることができるだろう。
 だから自分も自分で考えた自分のことばで彼に伝えたのだ。
「あなたが選曲したチルっぽい音楽、楽しみにしていますね」