2026-02-15 06:23:52
4886文字
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9.乾杯

ニューヨークのパーバソ【Web版最終話】

 ホテルから外へ出ると、冬の風が頬を刺した。真鍮の回転扉が閉じる音が、背後で乾いた響きを残す。私のポケットには、彼が渡せなかった言葉が入っていた。
 その後も変わらず、私はバーソロミューにメールを送り続けた。返信はない。ホテルの部屋をノックしても、その扉が開くことはなかった。それでも、何もしなければ彼は帰国し、全てが終わる。そして、全てを終わらせたのは私だという事実だけが残る。
 彼のホテルの部屋で見つけた、授賞式の日付と時刻のメモだけを頼りに、私はその日、終わる時刻もわからないまま会場で待ち続けた。
 式が終わるや否や、扉から流れ出る人波を割って、私は彼を捕まえた。腕に触れた瞬間、確かに彼の体温がそこにあった。
私に気づき、目を丸くして驚いた彼が、とっさに腕を振り解こうとする。その瞬間、私は彼の手首を掴み直した。
近くにいた白いタキシードを着たエドワード・ティーチが、
「Congratulations!」と場違いなほど明るく叫ぶ。受賞を祝う言葉だというのに、その瞬間、バーソロミューは短くスラングを吐き、眉間を押さえながら、逆に私の腕を引いた。だが、視線は逸らされたままだった。

 私たちは、喧騒から逃れるように、ハドソン・リバー・パークの遊歩道をあてもなく歩いていた。
会場のざわめきは、まだ背中に貼りついている。
 川のほうから、サックスの音が流れてくる。同じフレーズを何度もなぞり、まだ形になりきらない旋律だった。誰に聴かせるでもなく、ハドソン川に向かって吹いているらしい。その音は、水面に触れて、静かにほどけていく。
 私たちはしばらく、言葉を交わさなかった。高架の桟橋に出ると、空はすでに夕陽に傾いている。ビルの隙間を縫うように落ちてくる橙色の光が、水面に反射して、ゆらゆらと揺れていた。
 川は、街の喧騒を一段階下に沈める境界線のようだった。ニューヨークの夕方は、いつも忙しない。それでも、この時間帯のこの場所は人も少なく、穏やかな時間が流れる。ゆっくりと夜に向けて準備をする時間。
 バーソロミューは、タキシードの上からコートを羽織り、襟を立てて歩いていた。正装は、彼の身体に不思議なほど馴染んでいる。作家と言わなければ、まるでレッドカーペットを歩く俳優のように見えた。それでも、肩の力は抜けていて、少しだけ疲れたようにも、どこか不機嫌な様子にも見えた。
 私はトレンチコートのポケットに手を入れ、彼の半歩後ろを歩く。彼に出会ってからの私は、彼の歩幅に合わせるようになっていた。
 川面を見ていた彼が、ふっと息を吐き、冷たい空気に白くはならない程度の呼気が溶ける。
……読んだのかい?」
 何が、とは言わずに、振り返った彼が気まずそうに質問を投げかける。
……貴方の部屋で、新聞記事と、手紙を。両方」
「手紙については窃盗だぞ」
「私宛だったから、郵便の手間を省いただけだ」
 私がそう言うと、彼はため息まじりに、諦めたように目を伏せた。
「記事のほうは……まあ、あれで大体合っている。ああいう“肩書き”がついた。私がどういうふうに書く人間か、どんなふうに見られているかも」
 一拍置いて、視線をやっと私に向けて、彼は言い添える。
「私は、秘匿性のあるものを好む。親しい者しか見ることができない、その特権のように差し出された部分を、暴くことに、抗えない。本人が隠したがっていた感情も、人生も――私は暴き、作品にして発表してきた」
 声は低く、静かだった。足音が、一定のリズムを刻む。靴底が舗道に触れるたび、言葉の続きを促すようだった。
「編集者のやつに言われたよ」
 彼は、少しだけ口角を上げた。
「書きたい人間に近づいて、秘密を暴いて、書き終える度に離れて、お前のそれはハニートラップだと」
 笑い話にするには、少し暗すぎる声だった。私は何も言わず、ただ歩く速度を落とした。彼も、それに気づいたのだろう。立ち止まり、ハドソン川を見つめた。
「暴力的な表現は、実際に私が経験したものだ。若い頃は荒れた生活を過ごしていてね。暴力で解決することも多かった。殴ったときの感触を忘れていない。拳が、骨に当たる瞬間の鈍い音、人間の叫び声、耳の奥に記憶として残っている。ビーチで言った通り、私は……君のような人間が住む世界とは別の世界からやってきた人間だ」
 その言い方が、妙に痛々しかった。責めるでもなく、逃げるでもない。ただ、線を引き、全てを拒否するような声だった。
……君の部屋に泊まった時、少し驚いたよ」
唐突に、彼が言った。
「本が……ローテーブルに置いてあっただろう。君が……私の本を持っていた」
一瞬、心臓が跳ねる。
「図書館から借りたものじゃなくて、君の私物だったみたいだから、嬉しかった」
彼は川を見たまま続ける。声の調子だけが、わずかに和らいで、どこか慎重だった。
「初めて出した、装丁が変わる前の版だった。今みたいに評価も、売り文句もつく前の」
 風が川面を撫で、水の色が一段暗くなる。
「あれを見た時、懐かしい気持ちになったんだ。書き始めた頃の私は、まだ――人から奪うつもりで書いていなかった」
彼は、ほんの短い間を置いた。
「誰かの人生を材料にするんじゃなくて、ただ、書きたくて、届けたい言葉を……届くかどうか分からない言葉を必死に投げていた」
低く、笑う彼の横顔を、夕陽が輪郭を削っていた。
「君は、私の“読者”だった」
 胸の奥が、静かに締めつけられる。言い切る声は、静かだった。だが、その静けさの裏に、先ほど彼が示した引き返せない線が、はっきりと見えた。
「読者と、恋人にはなれない。私の作品を知っている人間と、同じ目線には立てない。それが、私の中の線だった」
彼は一度、息を吸い、吐いた。責める調子ではなかった。
ただ、事実を拾い上げるみたいに、淡々と。
……隠そうとはしたんだよ。君の前では、ただの旅行者でいようと。それが、かえって何か勘違いをさせてしまったようだけど」
 私は、何も言えなかった。彼の言葉を最後まで聞く責任が私には存在した。
「君が疑った時、傷ついたのは……もちろん、そのせいだけじゃない」
 視線が、私に向く。夕陽の橙色が眩しく、バーソロミューの影を舗道に、濃く映していた。まっすぐに見つめる、その瞳から、目を逸らせなかった。
「私は初めて――君に拒絶される可能性を、現実として考えた。それでも、離れることができなかった。――君を失うことが、書けなくなるよりも、怖い」
川の水音だけが、時間を進めていく。
 ――沈黙が落ちる。
彼は、自らが引いた線――自分の人生の核を私に差し出した。その内側に、私は踏み込むことを許された。
胸の奥が、静かに熱を帯びる。誇らしかった。
――どうしようもなく。
「バーソロミュー、私が惹かれたのは――作家としてのジョン・ロバーツじゃない」
 彼の瞳が、わずかに揺れたのがわかった。
「五番街で、人波に逆らいながら、コインを拾うバーソロミュー。貴方だ」
 夕陽が、彼の輪郭を縁取る。
 その光の中で、私は続けた。
「私は、貴方の人としての気高い精神の在り方に、特別な感情を抱いた」
 バーソロミューは、動揺を隠すみたいに、ほんの少し顎を上げ、疑うような視線を寄越す
「特別な感情、と言ってくれるが――それは恋愛感情で間違いないのかい?」
 あれほど熱烈な手紙と告白を寄越しておきながら、手放しで喜ぶことのない、この慎重で臆病な愛しき異邦人エイリアン
誰よりも傷つきやすく、それゆえに誰よりも言葉を大切にする人だった。
「もちろん。貴方が言ったはずだ。私はまだ特別な人に出会えていないだけだと。特別な人は、ずっとロンドンに暮らしていた。この冬、やっと、五番街で出会った。――貴方と」
強い、確信だった。
……これから別の誰かと会う可能性だってあるだろう」
「そうかもしれないね。でも、……もう貴方と会っているからな。これから会う人はタイミングが違ったみたいだ。貴方と先に出会えて良かった。本当に」
これから出会うかもしれない、他の誰かを想像する余地すら無かった。
バーソロミューは困ったように眉間を押さえた。
「だったら……ハグは、できるかい?」
 試すように、恐る恐る私を見つめるその表情は、私よりもずっと幼く見えた。
「もちろん」
 私は、大きく腕を広げた。
 一瞬の躊躇のあと、彼が静かに踏み込んでくる。迎えるように腕を回した瞬間、彼の香りが胸元に落ちた。
冬の空気に澄んだ柑橘の残り香。すぐに、乾いたシダー。それはどこか理性的で、けれど抗えない温度を秘めていて、静かに熱を帯びる香りだった。
 そっと胸を押されて、再び距離をとった。顔の左側が熱い。沈む夕陽に照らされたせいだろうか。それとも、さっきまで触れていた体温の名残だろうか。
 川のほうから、サックスの音が届いた。同じフレーズを、ゆっくりとなぞるような音は、もう練習には聞こえなかった。どこか切なくて、けれど、甘さを捨てきれない旋律。派手に主張するでもなく、夜に向かう街の背中を、そっと押すような音だった。
この街に来たばかりの人間が、まだ居場所を決めきれないまま、それでも歩き続けるために必要な――そんな気分を、音にしたみたいだった。
「じゃあ……君は、私とキスはできるかい?」
その声音には、冗談めいた軽さの奥に、拒まれることを恐れるような震えが混じっていた。
……喜んで」
 喉が鳴ったのは、どちらの音かわからない。両手で彼の肩に触れた。自分の鼓動が、耳の奥で反響している。キスの作法など知らない。ただ、本能に引き寄せられるように、息だけを止める。
……!やっぱり、待ってくれ」
 慌てた様子で掌で唇を隠され、低く制される。
「パーシヴァル、覚えているかい?ワイングラスの傾ける角度は、キスをする角度と同じなんだ」
 記憶を反芻する。バーで再会した際に赤ワインを傾けながら話した雑談だ。私の唇に触れた指を絡めてそのまま、軽く握った。バーソロミューは、私の前に改まるように立ち、ほんの少し首を傾げた。
「君が、あのバーで会った時に、ワインを飲もうとした時、勢いよくグラスをまっすぐぶつけてきただろう。あの角度、勢い。豪快な作法についてだよ」
 彼は思い出したかのように、楽しそうに、それでも艶やかに笑う。
「ドイツ式だと言われたね」
「そう。キスをする時は、君はじっとしていてほしい。でないと、顔がぶつかる。交通事故みたいにね。私は自慢の鼻を折られたくない。……おそらく、君の方は無傷な気がするけど」
 冗談めいているのに、声はひどく真剣だった。私はわかった、と一言だけ返した。
「だから、君は目を閉じて、そのまま、じっとしていればいい。相手が――私が、合わせるから」
 そう言って、彼は私の顎にそっと指を添える。その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にあった緊張が、静かに形を変えた。私は、頷き、瞼を伏せた。

 ――貴方は、あの時、再会したバーでワイングラスを重ねたあの夜、私がキスをする瞬間を、もう想像していたのだろうか。そう問いかけたくなった。けれど、声に出せば、この尊くも儚い均衡が崩れてしまう気がして、私は黙った。この問いは、今はまだ、胸の内側に留めておくべきものだと直感した。
 ――いつか、聞いてみよう。
 顔の近づく気配を感じて、少しだけ瞼を上げて盗み見てみた。わずかに傾げられたその顔は、夕陽に縁取られた睫毛と薄く結ばれた唇。その静かな美しさに、心臓が止まりそうになった。
 道に、二人分の影が伸びていた。
 今、目の前に映る彼の首の角度は、あの夜、再会したバーで乾杯したワイングラスと同じ角度かなんて、正直覚えていなかった。
けれど、これからワイングラスを重ねるたびに、私は今日この素晴らしい瞬間を思い出すのだろう。

乾杯は、影の中で音もなく、柔らかく重ねられた。