よるうみはる。
2026-02-14 23:30:26
6911文字
Public 原作軸
 

明日からは、朝まで隣にいるので。

セフレ関係のれめししのバレンタインの話。


 ――二月十四日という日付が、これほどまでに暴力的な質量を持って自分を押し潰しにくるのだとは、獅子神敬一はこれまでの人生で一度も経験したことがなかった。
 二階建ての広々とした自宅のリビングで、獅子神は自嘲気味に自分の指先を見つめる。投資家として、常に冷静沈着にマーケットの動向を読み解き、巨額の資金を動かしてきたその指が、今はまるで自分の意思を離れたかのように、微かに、けれど確実な震えを刻んでいた。
 数日前から身体の節々に走っていた鈍い痛みと、喉の奥にこびりついた不快な熱感を、獅子神は、ただの疲れだと自分に言い聞かせて切り捨ててきた。合理主義を標榜する自分にとって、管理不足による体調不良など、プロとして最も恥ずべき失態であるはずだったが、今日という日だけは、何があっても「万全」でなければならなかったのだ。体調を整えるべく、健康管理には一層気を遣っていたはずなのに、どんどん酷くなっていくのが分かった。薬があっていなかったのかも知れない。こんなことならば、早めに村雨に相談しておくべきだったかと悔やんだところで、後の祭りである。
 キッチンに立ち、獅子神はなるべく味付けを違えないように夕飯の準備を進めていた。今夜、バレンタインの配信を終えた男が家にくるからである。『バレンタイン、空けといてよ。家に行くから』そんな風に約束を取り付けられ、獅子神はにべもなく頷いた。そんな、――叶黎明という男にとって、自分はどのような存在なのだろうか。
 あの男との関係を一言で表すのであれば、殺し合った友人、それから「セフレ」という、互いの肉体を都合よく消費し合うだけの関係。そこに愛などという高尚で重苦しい感情を持ち込むのは、契約違反にも等しい行為だと理解している。それでも、獅子神の胸の奥底には、あの男の手に求められたいという渇望が、泥のように淀んで消えずに残っていた。こんな感情を抱くなど、馬鹿にもほどがある。期待に応えてくれるような男ではない。そもそも、とっくに見透かされているような気もするが、叶が何も言わないのであれば、獅子神は追及など出来ない。したくなど、無かった。
……オレには、これしかないし」
 誰に聞かせるでもなく独り言ちた言葉は、虚しく静寂に吸い込まれていく。
 金も、地位も、家事のスキルも、叶を引き止めるための材料にはなり得ない。ストリーマーとして華やかな世界に生き、多くの人間に愛されている叶が、自分に求めているのは、ただこの「身体」だけなのだ。そう自分に言い聞かせなければ、獅子神の脆い精神は、今日と言う日に期待という毒に侵されて崩壊してしまいそうだった。
 冷蔵庫にはバレンタインだからというありきたりな理由をつけて作った、チョコドーナツ。丸ごとチョコレートだと気恥ずかしさもあったし、ドーナツなら腹の足しにでもなるだろうという気持ちからもあった。あの男なら、バレンタインの由来を知っているかも知れないが――獅子神とて、ほんの少しだけ、恋人同士のような真似事がしたかったのだ。
 だが、その願いを嘲笑うかのように、熱は刻一刻と獅子神の体力を奪い去っていく。


 珍しくインターホンが鳴ったが、叶黎明はいつも突然ではあるが獅子神の家の合鍵を持っていない男でもあった。薬を飲んで眠っていたせいか、そこまで体調は悪くない。これならなんとかなるだろう。起き上がると倦怠感は感じたが、どうということは無かった。この程度であれば、誤魔化すのは容易い。
 モニター越しに見える叶の姿は、いつもと変わらず自由で、どこか退屈そうで、それなのに獅子神の心臓を狂おしいほどに跳ねさせる。本当に来たのかと思わず頬が緩むが、ひとつ頬を叩いて気持ちを落ち着けた。浮かれるな、バレるな。失態は正しく、あの男から興味を失わせるだけなのだから。
「敬一くん、お待たせ! というか、敬一くんオレの配信見てなかっただろ! ちゃんと観測しろ」
 入ってくるなり、叶がいつもの軽い調子で笑いかけてくる。観測しろ、というその傲慢さも思わず、目尻を緩めてしまいたくなるのだ。その声を聞いただけで、獅子神の喉の奥が熱く焼けるように疼く。
「テメーの夕飯の準備してたんだよ。寒いだろ? 入れよ」
 声が掠れないように、細心の注意を払って答える。叶は微かな違和感に気づいた様子もなく、家主に導かれるままリビングのソファに腰を下ろした。
「温めたりするから、ちょっと待ってろよ」
 はーい、と叶がいつも通りの返事をして携帯をいじり始めた。待ってる間に、と作ったチョコドーナツを渡せばよかったのかも知れない。「今日、バレンタインだろ?」とふざけた調子で、友達に渡す気軽さみたいに、叶へそれを渡せていたら、獅子神は後に、みじめにならなかったのかもしれない。
 けれど、熱に浮かされた獅子神の思考は、もはや正常な段取りを組み立てることができなかった。もしここで断られたら。もし、こんなものはいらないと冷笑されたら。ネガティブな想像が、熱のせいで肥大化し、獅子神の足をすくませる。
「なぁ、敬一くん! 今日はなにをつくったんだ?」
 叶がふいに立ち上がり、獅子神のすぐ傍まで歩み寄ってくる。彼の纏う香水の匂いが、普段なら心地よいはずなのに、今の獅子神にはひどく毒々しく感じられた。
 キッチンに入ってきた叶が、獅子神の手元を覗き込む。鍋の底を焦がさないようにかき混ぜていた指先を、叶がいたずらに触れてくる。
「今日はクラムチャウダー。それから煮込みハンバーグにしてみた。ライスとパンならどっちがいい?」
「そうだな、今日はパンの気分だな! 敬一くんがよく買ってるパン屋のやつだろ? それ美味しいから好きなんだよな」
​「なら多めに、トーストしてやるよ。あったかい方がいいだろ?」
 獅子神の声は、自分でも驚くほどに平坦で、熱に浮かされた脳が必死に「いつも通り」を演出しようと、神経を尖らせているのが分かった。楽しくできているだろうか、友人の振る舞いが出来ているか。
 オーブンで軽く焼き直したパンの香ばしい匂いと、鍋の中でふつふつと音を立てるクラムチャウダーの白い湯気が、普段なら食欲をそそるはずのキッチンを満たしていくが、今の獅子神にとっては、それさえも胃の腑を掻き乱す不快な刺激でしかなかった。
 テーブルに並べられた料理は、どれも獅子神が叶の好みを熟知した上で用意した献立であったが、いざ向かい合って食事を始めると、獅子神の味覚は熱によって麻痺しており、丹精込めて作ったはずのハンバーグも、まるで砂を噛んでいるかのように感じられる。味気がない、というのか。叶は美味く食べられているだろうか。
「敬一くん、ハンバーグめちゃくちゃうまいな! 今日は誰かに取られることもないしゆっくりできる」
 無邪気にスプーンを動かす叶の笑顔を、獅子神は網膜に焼き付けるように見つめていた。――きっと、この男が望んでいるのは、手際よく食事を提供し、望まれればその肉体を差し出す、都合の良い「獅子神敬一」なのだと思う。ここまでは、きっと叶のお眼鏡に適っているはずだ。自分好みのものをきちんと出されて、まだ獅子神のことを必要だと思ってくれているに違いない。
 だから。もしも自分が今、ここで力尽きて倒れてしまったら、この男は落胆し、二度とこの家を訪ねてこなくなるのではないか? そんな強迫観念が、獅子神の喉をさらに狭め、吐き気を伴う倦怠感を増幅させていった。
​「敬一くん? あんまり食べてないみたいだけど、どうかした? なんか食事制限してたっけ?」
 ふいに叶が顔を上げ、じっと獅子神の顔を覗き込んできた。
 その鋭い視線に、獅子神は心臓を掴まれたような衝撃を受け、慌ててグラスの水を口に含んで、引き攣った笑みを浮かべる。
「なんでもねーよ! 味見しまくってたから腹減ってねえんだよ。それより、デザートもあんだけど、入るか? ……チョコドーナツ作ってみたんだよ。バレンタインだろ、今日。せっかくだと思ってな。食べれるか? 腹いっぱいなら持ち帰りに包むし……
 そこまで言って、要らないと、言われたらどうしようかと思った。しかし、叶は食い気味に言葉を重ねた。
「えっ、敬一くんの手作り!? 最高じゃん! 食べるよ! あ、たくさんあるなら、持ち帰りも包んで? 家でも食べるから」
「飽きねえ?」
 味のことを言ったつもりだったが、ダブルミーニングも聞こえるかも知れないと、ギクリと身体が固まる。叶がその反応に何も言わないはずがない、と思ったが、目の前の男は少し頬を緩めてみせた。
「敬一くんの、だろ? ――飽きないよ」
 その言葉の真意を量る余裕など、もはや獅子神には残されていなかったが、自分を全否定されることのないその一言に、張り詰めていた心の糸が、ほんの僅かに緩むのを感じた。
 夕食を片付けている間、獅子神はこのあとのことを考えて僅かに鬱々とした気持ちを抱えた。体調は正直あまりよくは無い。段々熱が上がっていることも分かっていて、どうしたものか、と思うのだ。なにせ、自分たちの関係において、食事だけをして終わりましょうとはならないはずだ。それならただの友達でいいのに、わざわざセフレを選んで一緒に夜を過ごしたいとなれば、セックスがしたいということだ。恋人同士ならここで終わるかもしれない関係も、名前が変わればそれに準ずる他ない。
 ぐらり、と視界が揺れる。思わず手から皿が滑り落ち、ステンレス製のシンクに破片が散らばった。
 やってしまったと、慌てて破片をかき集める。食後のデザートだと、ドーナツを食べていた叶も何事かと駆けつけてきた。
「大丈夫か? 敬一くん」
「ああ……悪い。手からすっぽぬけちまった。ちょっと片付けるから……
「敬一くん」
 その、短く名前を呼ぶ声の響きに含まれた僅かな険しさに、獅子神の心臓はひどく無様に跳ね、指先に刺さった陶器の破片がもたらす鋭い痛みさえ、熱に浮かされた意識の向こう側へと追いやられてしまった。赤い筋がひとつ、指先を流れて、シンクへとにじむ。
「指、切れてるよ。……敬一くん、今日はやっぱりおかしくない?」
 カウンター越しにいた叶が、こちらへと入り込む。獅子神の聖域へと脚を踏み入れた男は、獅子神の肩を、叶の大きな掌が強く掴み、有無を言わせぬ力で自分の方へと向けさせる。
 こちらの都合など気にすることもなく、近づいてくる。叶の瞳が至近距離で獅子神を射抜き、その眼差しに耐えかねて視線を逸らそうとしたが、逃げる間もなく、片方の手が獅子神の額に、冷たい氷のような感触を持って押し当てられた。
(やめてくれ、触れないで、くれ……
 反射的に身を竦めたものの、逃げ場のないキッチンの隅で、獅子神はただ、自らの隠し事が暴かれる瞬間を恐れた。
「ちょっと体調悪そうだなとは思ってたけど、なんだよこれ。めちゃくちゃ熱いじゃん。早く言えよ」
 叶の声は、いつもの飄々とした明るさを完全に失い、低く、地を這うような静かな怒りに満ちていた。
 その温度差に、獅子神は最悪の結末を予感して、震える声で必死に言葉を紡ぐ。
「ま、まってくれ……こんなん薬飲めば大丈夫だし、ちょっと仕事立て込んでたせいかもしんねえ。見た目より全然ヘーキだし、……、ちゃんと、あの、できるから、さ」
――――――はぁ?」
 低く、地を這うような吐息が叶の唇から零れ落ち、その冷え切った温度に晒された獅子神は、まるで心臓を直接氷の手で掴まれたかのような戦慄を覚え、弁解しようと開いた口をただ震わせることしかできなかった。
「できるってなに?」
「ぁ……
 即座に何も答えることが出来ず、間抜けにも空気が漏れるような声が出る。
「まさか、こんな状態でオレとセックスでもするつもりだったのか?」
「だ、って……――だって、オレにできることなんて、それ以外ないじゃないか。獅子神は次の言葉を紡ごうとして喉に張り付いたものを取り出そうとする。「だって、テメーはそれのためにきたんじゃねえの……
 震える唇から漏れ出たその言葉は、熱に浮かされた獅子神の、歪んだ自尊心と切実な恐怖が混ざり合った本音そのものであったが、それを聞いた叶の表情から温度が消え去るまでには、一秒の猶予さえ必要なかった。
「苛つくな、お前」
 低く、地を這うような怒声がキッチンの狭い空間に反響し、獅子神は弾かれたように肩を跳ねさせたが、叶は掴んでいた彼の肩を突き放すようにして離すと、軽蔑さえ入り混じったような冷ややかな眼差しを獅子神に投げつけた。
「敬一くんはオレをなんだと思ってるんだ? ……体調を崩して立っているのもやっとの相手を、無理やり抱くほどオレが飢えてるようなケダモノだと思ってるのか? ……それとも、オレにはそれだけの信頼もないってことだろ」
「ちが、……違うんだ、叶、そうじゃ、なくて……っ」
「何が違うんだよ。お前が言っているのはそういうことだ」
 吐き捨てられた言葉は鋭利な刃物となって獅子神の胸を深く抉り、叶はそのまま背を向けると、止める間もなくリビングを横切って、廊下の向こうへとその姿を消してしまった。
 静まり返ったキッチンの中で、獅子神は指先から流れる血さえ拭うことを忘れ、ただ一人膝を突いたまま、止まらない涙が床を濡らしていくのを、ぼうぜんと見つめていた。
 終わったのだという確信が、高熱に浮かされた思考の隅々まで泥のように染み渡り、彼を繋ぎ止めるための唯一の手段であったはずの「身体」というカードを、自らの愚かな体調管理不足によって失ってしまったのだという事実に、喉の奥からひりつくような嗚咽が込み上げてくる。
 投資家としてどれほどの損失を出したときよりも、たった一人の男に見捨てられたことが、これほどまでに自身の存在価値を根底から粉砕するものだとは思いもしなかったし、そもそも自分は愛される資格など最初から持っておらず、ただ都合のいい機能を提供し続けなければ誰の隣にもいられないのだという、幼い頃に植え付けられた孤独の記憶が、熱による悪夢のように何度も何度も獅子神の心を苛んでいく。
「ふ…………、ぅ……、ぅ……っ、…………っか、の……ぅ」
 どれほどの時間が経過したのか、視界が涙と脂汗で歪み、いよいよ意識の輪郭さえもが怪しくなってきたその時、遠くで玄関の扉が開閉する重苦しい音が響き、再び自分に近づいてくる足音が聞こえた。戻ってきた叶の手には、近くのコンビニエンスストアへでも走ったのか、大きなレジ袋と、どこからか用意した清潔なタオルや水の入ったグラスが握られていた。
……いつまでそんなところで蹲ってるんだよ。しんどいんだろ?」
 叶の声にはまだ隠しきれない不機嫌さが残っていたが、それでも獅子神の脇に手を差し込み、抵抗する気力さえ失ったその身体をなんとか抱き上げる動作には、拒絶とは程遠い慈しみが含まれていた。力を無くした身体を抱きかかえ、リビングのL字ソファへと寝そべらせる。寝室に行くには少し遠いからだ。叶はソファのひじ掛けにあったブランケットを獅子神に掛け、手際よく獅子神の切った指先を消毒して絆創膏を貼ると、最後に濡らしたタオルでその熱い額を優しく拭った。
「かえ、ったと、おもった……
 獅子神は力なく、震える声で呟く。嗚咽にまみれた言葉は聞き取りにくいだろうが、叶は「バカだな」と力ない罵倒が降り注ぐ。
「誰がこの状態の病人を放っておいて帰るんだよ。敬一くんはオレをそんなに薄情な男だと思ってたの?」
 呆れたように吐き捨てた叶は、買ってきた経口補水液の蓋を開けて獅子神の唇に無理やり押し当て、一口ずつゆっくりと飲むように促した。その体温のあまりの優しさに、獅子神が再び子供のようにぐすぐすと鼻を鳴らして泣き始めると、叶は深く溜息を吐き出し、獅子神の湿った金髪をゆっくりとその大きな掌で梳き始めた。
 叶は床に跪くと、獅子神の震える瞳を真っ直ぐに見つめ、その頬に残った涙の跡を親指でそっと拭い去った。
「ねえ、起きたら、一緒にドーナツでも食べよう」
「う、ん」
 熱に浮かされて、半分も理解できてなかったも知れない。でも、叶の声はどこまでもやさしくて、獅子神の脳へと侵入をしてくる。
「その時にさ、話があるんだ。……今はとにかく寝てろ。目覚めたら、……――逃げないでちゃんと聞いてよ」
 叶のそれにこくりと頭を揺らした。獅子神はもうよく分からない。けれども、何か大事なことであるのは理解できた。叶の声は、正しく獅子神を支配する何かを含んでいるのかも知れない。たったその一言で、束縛されてしまったような気分にもなる。
 叶がそっと身を起こし、獅子神の目じり、額、頬へと淡いキスを送る。
 目が覚めたら、何か変わるのかもしれない。そんな予感を覚えながら、獅子神はそっと目を閉じ、眠りの底へと静かに、落ちたのだった。