どこかで聞いた話。インドネシアでは、まれに人間が蛇に襲われるという。酔っぱらって路上で寝こけた人間などが、生きたまま丸呑みにされるらしい。頭のてっぺんから足の爪先まで、まるっと。
深夜に訪問する時には、できるだけ音を立てないように気をつける。簓にだって、それくらいの常識と分別はある。なんてことをもし実際に口にすれば、訪問される側である盧笙は「そもそも深夜に人んちに来んな!」と目を吊り上げることだろう。想像して簓は口元をにやにやとだらしなく弛ませる。未だに、簓に足りないのが常識や分別だと思っているのだ、あの男は。
限界まで小さくした足音で軽やかに安アパートの外階段を上がる。音もなく滑らかに鍵を回し、最小の隙間だけを開けた玄関からするりと侵入する。三和土にきちんと並べられた盧笙の靴の隣に自分の靴を置いて、迷いなく簓の足は寝室へ。
この家の襖のクセは熟知している。桟を襖が滑る音より、盧笙の寝息の方が大きいくらいだ。音ばかりでなく気配まで殺して、布団の枕元にしゃがみこむ。
「ぅゔん……」
寝苦しそうな呻きが盧笙の口から漏れ、右向きから左向きへ、大きく寝返りを打つ。普通なら、起こしたかもしれない、と動揺するところだろうが、簓は当然このパターンも把握しているので喜びに飛び上がりそうになった。寸でのところで自分を抑え、来た時と同じひそやかさで寝室を後にする。
それから、勝手知ったる盧笙宅の風呂にお邪魔する。するすると服を脱いで、ぬるめのシャワーを水圧弱めに浴び、最大の難関であるドライヤーに挑む。ドライヤーは他のステップと違い、簓の努力で音を消すことができない。けれどドライヤーをせずにあちこち濡らすと盧笙を困らせてしまうから、使わないという選択肢は存在しない。ついでに付け加えると、風呂に入らないという選択肢も、髪を洗わないという選択肢も存在しない。
とはいえ、一連の手順には慣れている。慎重さを損なうことのないように自分を戒めながら、手早く全ての工程を終えて、いそいそと寝室に戻る。
落語の噺に、人間を丸呑みにする蛇が出てくるものがある。人間を呑んで腹を膨らませた蛇がある草を食べると、はち切れんばかりの腹が元通りになるらしい。それを聞いたある男が、大食い勝負の後で苦しくなった腹を楽にしようとその草を食べたところ、実はその草の効力は「腹の中のものを溶かす」のではなく、「人間を溶かす」ものだったため、胃袋の中に入っていた食べ物を残して男は溶けてしまったという。
再び寝室に忍び込み、今度は迷いなく布団に手をかける。ためらいなくするりと合間に侵入して、盧笙のすぐ隣で横になる。布団の中は盧笙の体温でぬくい。盧笙は相変わらず難しい顔をしている。
温度の低いシャワーで冷えた身体に熱が巡っていくのがわかる。この感覚も楽しいが、できれば簓の体温が盧笙と同じになってしまう前に、簓の存在に気づいて欲しい。
最初に気づいたのがいつの頃だったかはっきりと思い出せないが、盧笙はたまに眠りながら暑がっている。季節はあまり関係なく、規則性も特にないようだ。冬にこうなっているのを発見した時、あまり苦しそうなのをどうにかしてやりたくなって、外気で冷えた手を額に当ててやったら盧笙が気持ちよさそうにした。それならもしかして、とわざとシャワーで身体の温度を下げてから布団に潜り込んでみたら、涼を求めた盧笙がしっかりと抱き締めてくれた。それ以来、運良く暑がる盧笙に遭遇できた時には同じことをするようになった。
隣に並んで、盧笙の横顔を見つめる。こうしていると時々、蛇が羨ましくなる。もし蛇になれたら、盧笙を丸呑みにするのに。足の爪先から頭のてっぺんまで、髪の一本すらも残さず丸ごと腹に納めてしまうのに。そうして膨らんだ腹が少しずつ小さくなっていくのを全身でずっと感じるのに。腹がどんなに重たくはちきれそうでも、決して軽々と溶かしてしまうようなもったいないことはしないのに。
未だに寝苦しそうに眉をしかめる盧笙がこちらの方へ寝返りを打った。盧笙の腕が簓にぶつかり、盧笙の眉間の皺がぎゅっと深くなり、その目が薄く開く。
「なんや、お前、また……」
不明瞭な響きで文句を紡ぐ盧笙が、簓の身体を撫でる。ふと、眉間の皺が浅くなる。
「身体、冷えとるやん。こっち来ぃ」
招かれて簓は盧笙にじりじりと近寄る。最後の距離は、盧笙に引き寄せられたことでなくなった。平時よりも熱い盧笙に抱き締められ、体温の差が急速に埋まっていく。盧笙の険しかった顔が安らいでいく。
「はぁ……」
心地よさそうなため息をついて、盧笙の身体から力が抜ける。盧笙が深い眠りの淵へ落ちていくのを、至近距離で感じ取る。
こうして寄り添う時、例え簓が蛇だったとしても望みを叶えることはできないと思い知る。盧笙は簓よりも身体が大きくて、丸ごと全部を呑み込むことはできないからだ。そのお陰で簓はこの妄想を捨てることができる。何と言う名をつけるべきかまだ決められないこの欲を、諦めることができる。
じわじわと自分の体温が普段通りまで上がっていくのを味わいながら、家ばかりでなく布団の中まで忍び込むのを許されている現状を噛み締めた。噛み締めて、飲み込む。これでもう十分じゃないかと。
物分かりの良さが、喉を滑り落ちていく。その先にある腹の底には同じものが既にいくつも積み重なっているが、一番底にある欲望についた火を消すことはできず、いつまでも燻っている。
いつかその火が燃え上がり、唇から炎を溢してしまう時が来るのではないかと、簓はずっと恐れている。
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