しきみ
2026-02-14 22:41:48
11881文字
Public 傀暮
 

特別なことはなにもない

誕生日を祝いそびれてしまったふたりの話です。
やや友情の域を越えているかもしれません。

 ロドスの穏やかな午後のひと時、遊戯室の柔らかく優しく調光された照明のもとで、こどもたちが思い思いに過ごしている。
 こどもたちのすごす遊戯室では、医療部に属している専任のスタッフがついてはいるものの、手の空いているオペレーターや職員が小さな彼らの様子を見守り、束の間面倒をみることも多い。シャレムも、そういったオペレーターのうちのひとりだった。
 あなたの声はきっと語り部に向いていますから、とお茶会仲間のアイリスに半ば強制的に引っ張られるように足を運んだことが始まりではあったが、今では自発的に遊戯室を訪うことが増えているようだ。実際に、シャレムのやんわりと落ち着いた物腰と、どんな時であっても真摯で丁寧な口調、穏やかでやわらかく優しい声は、アイリスの見込んだ通り物語をなぞるのにうってつけで、空想や物語の世界が好きなこどもたちに特に懐かれている。
 今日も、午後の空いている時間をこどもたちのために使おうと思い立ったシャレムが遊戯室に入ると、間をおかず何人かの顔見知りになったこどもたちがぱたぱたと控えめに駆け寄ってくる。
 シャレムのシャツの袖口や裾をきゅっと握る小さな手、はやくはやくと足を急かす弾んだ声や、小さな歩幅に合わせて頭上で揺れるまだやわらかく幼い耳を微笑ましく見守り、もう〝いつもの〟になった小さなテーブルをこどもたちと囲む。まだ知らない物語への予感にきらきらと輝く瞳の期待に応える時間は、シャレムにとっても心落ち着くあたたかなものになっていた。
 この間のおはなしの続きを聞きたい、あれも読んでほしい、この話を聞いてほしい……と次々に繰り出されるこどもたちのリクエストを、ひとつも零さないよう応えている内に、気づけばこどもたちの夕食の時間が近づいていた。続きはまた今度とシャレムは物語を手繰り寄せる指を止め、机の上に開いていた小さな夢の扉を丁寧に閉じる。まだもう少し、とシャレムの袖や手を引いてせがむこどもたちを次の約束をして宥め、遊戯室を後にした。
 そののち、療養庭園や購買へ足を運び茶葉や日用品を買い足したあと、一息ついて軽く夕食をとろうとしていたシャレムだったが、運悪く疲労困憊のドクターにつかまってしまった。泣きつくドクターの頼みを振り払うこともできず、執務室で激務を捌くサポートを担うことになり、怒涛の数時間が経過してようやく一段落ついた頃には、そろそろ日付も変わろうとしていた。
 手を休めてようやく2人とも空腹を自覚したようで、疲れの色濃く出た足どりで薄明るい夜間照明の通路を辿り、いつでもそれなりに活気のある食堂の人の気配にほっとしつつ夕食と呼ぶには遅すぎる食事をとり、今に至る。
「やっとひと息つけたな……こんな時間まで付き合わせてしまってすまなかったね、シャレム」
 食後のコーヒーに口をつけ、ようやく人心地ついたドクターが力の抜けたため息とともにシャレムを労う。
「いえ、そんな。お役に立てたならば嬉しいです、ドクター」
 対するシャレムは紅茶が入ったカップを手に鷹揚に微笑んでいる……ものの、疲労が隠しきれていない。ふたり揃ってぐったりと食堂の椅子に背を預けている現状に、ドクターが苦笑する。
「そう言ってくれるのは、私としてはありがたいけれどね。せっかくのオフの日だっただろう?」
「ふふ、お気遣いありがとうございます。けれど、私ひとりではどうしても時間を持て余してしまいますから……皆さんのお役に立てるなら、そちらの方が良いんです」
「うーん……私としては君にも休日を自分のために使ってほしいと思っているんだが……いや、こうして君を捕まえて無理に頼み込んだ身で言うのもおかしな話だな……まあ、とにかく、今日は本当に助かったよ。君のおかげで一番の山場は越えられたと思う。埋め合わせというわけではないが、明日は正真正銘のお休みになると思うから、ゆっくりと好きなように過ごしてくれ。おつかれさま、シャレム」
 そう言って残りのコーヒーを飲み干し、ふらふらとした足どりで執務室へ戻っていくドクターを見送ってから端末を確認すると、確かに明日の欄が空になっていた。ドクターの心遣いはありがたかったが、それとしてシャレムには今のところ、誰かと過ごしたり、何か特別なことをしようといった予定がなかった。
 とは言えせっかくの休みなら、明日は自室でひとり静かに過ごそうか、それとも人手が要りそうなところへ手伝いに行こうか……と少しずつ紅茶を減らしながら考える。ゆっくりと好きなように過ごしていいと言うのなら、またこどもたちのところに顔を出しても良いかもしれない。
 今の身には既に遠い時間に感じられる、日の光が射していた穏やかなひと時を思い返しているうちに、シャレムの内に懐かしさが小さな波を立てる。まだシャレム自身も幼さを残していた頃、談話室で寂しさを紛らわせるように身を寄せ合い、あるいは消灯後の宿舎の隅の小さな泣き声を慰めながら、自分を慕ってくれていた小さな仲間たちに覚えていた限りの物語を語り聞かせた夜が脳裏によみがえる。それは、今日ここで目にしていた光景ほど暖かくも穏やかでもなかったはずだ。それでも、かつての記憶の中では数少ない、僅かでも誰かと温かさを分かちあった記憶だった。
 同時に、ついぞそういった慰めを必要とする輪に交じることのなかったこどもの影が記憶の縁を掠めた。彼はいつだって皆の輪から少し外れた所にいて、ひとりで立っていた。それを見ていられずに頻繁に声をかけていたシャレムだったが、当時はそれが彼に響いていたかどうかはわからなかった。友人が心配だからというシャレムの素朴で温かい気遣いが、彼にしっかりと届いていたと本人から聞かされたのはつい最近のことだ。彼の視点で語られる思い出話はシャレムの認識よりも濃密で熱を帯びていて、まるで別の人の話を聞いているようだと少し困惑もしたことは記憶に新しい。
 ――そういえば、しばらく顔をあわせていませんね……
 ふ、とそう思い至り、シャレムは自分がそう思ったことに対して、少し驚いてしまう。
 一度は決別し、影を恐れてあれほど逃げ回っていたのに、今はその姿がなかった記憶の中にも気配を感じている。改めてロドスで同僚として共に過ごすようになってからも、しばらく姿が見えないことなど、気まぐれな相手にはよくあることだったのに、今ではその空白を自分から意識してしまう。自身の心境の変化を目の当たりにして、シャレムの白い首筋がわずかに紅く熱を帯びた。
 ――これは、いつも以上に気を引き締めておかないと。
 あまり意識してしまうと普段の振る舞いに影響が出てしまいそうだ、と自分に言い聞かせ、ほんの少しリズムを早くした胸の音を落ち着かせるように深く息を吐く。
 まだ少しだけ残っていた紅茶をつとめてゆっくりと飲み干し、じんわりと熱を残す首筋を軽く仰いでから、そろそろ部屋に戻ろうと腰を浮かせかけた時、シャレムの端末が短くメッセージ受信の振動音を立てた。
 ――こんな時間に、誰が?
 一瞬不思議に思ったが、シャレムが個人的にやり取りをする人間は限られており、その中で最も可能性の高い人物は、こんな時間に、と言うよりも、時間を問わず連絡を寄越す可能性が大いにあった。
「ああ……
 端末の画面を表示して、シャレムは呆れなのか安堵なのか、それともあまりのタイミングの良さに見透かされているような心地を覚えたからか、自分でもよくわからないため息をひとつ吐いた。
 画面には、メッセージの差出人と受信時刻、それと一言「今戻った」とだけ表示されている。
 
 ロビーに着いてすぐ、シャレムはメッセージの送り主を見つけることができた。最近の活躍の影響で日の高いうちであれば多くの人に囲まれていただろう人影が、さすがにこの時間帯ではさほど注目を集めることもなく、片隅で静かに佇んでいる。頭上にぴんと立つ立派な飾り毛の揺れる山猫の耳が、聞き馴染んだ足音を過たず捉えたのだろう、シャレムが少し遠くから声をかける前に視線が絡んだ。それに促されるように、心持ち歩幅が広くなる。
「お疲れ様でした、ミスター……
 と、そこまで声にして、シャレムは続けるべき名前に迷う。
 新しい舞台への衣装に身を包み、通名をも新たに得たこの旧い友人を、公の場で何と呼んだものか、未だにシャレムは馴染みかねている。変わらず、ドクターの影であり刃であるとは言っていた。ならば今まで通りの亡霊の通名か、だが装いを新たにした彼とは呼び名を区別をするべきか。しかしその名を呼ぶことは、喚起される記憶から未だにおそれが勝る。
「どうした、シャレム」
 ぐるぐるととぐろを巻いて停滞してしまったシャレムの思考に、低い声がするりと入り込む。声に促されて焦点を取り戻した視界には、疲れた身を出迎えるシャレムの言葉をただじっと待っている友人の姿がある。
 ふと、考え込むことに意味などないのでは、とシャレムの考えに答えが降りてきた。装いに、仮面に、纏った役割に惑わされてはいけない。
 ――単純なこと。今、目の前にいる〝彼〟を呼べばいい。この方が私にしてくれているように。
「いえ、何でもありませんよ。おかえりなさい、ルシアン。お疲れ様でした」
「ああ。……ありがとう、シャレム」
 すんなりと出てきた言葉に、それを受け取った目の前の友人の眉間の皺がゆるんだことに、シャレムはほっと息を吐く。ふわりと心の底が温もりを帯びた気がして、もう自分たちはこれでいいのだと、少し肩の荷が下りた心地で微笑みを返した。互いに疲れが滲んでいるが、穏やかな空気がふたりの間に流れる。
「では、参りましょうか、ルシアン」
 僅かながらも気がゆるんでいるタイミングを見逃さず、シャレムは未だに諸々の手続きや検査を怠りがちなこの友人を伴って――半ば引きずるようにして、各種窓口と医療部へと足を進めた。
 明日でいいと渋る書類を書かせサインをさせ、必要ないと逃げようとする簡易検査をこの上なく渋々ながらも受けさせ、帰艦後に速やかに済ませるべき手続きを一通り終わらせる。
 一度はゆるんだルシアンの眉間の皺が、通路を進むごとにまた少しずつ深くなっているのはシャレムも気づいていたが、足は止めない。そうして、医療部を後にする頃にはルシアンはもうすっかりと機嫌を損ねてしまっていた。
「シャレム」
 ロビーでその名を呼んだ声とは打って変わって恨めしげな声色で呼びかけられる。シャレムが振り返ると、不満がありありと浮かぶ視線が隠すことなく注がれていた。
「私は、疲労を増幅させるために君を呼んだのではない……
 縫い止めるような視線とともに、ルシアンの指がシャレムの頬をほんの僅かに撫でる。
「そうですか? 仮にそうだとしても、私を呼んだならこうなることくらい、あなたもわかっているでしょうに」
 指先が顎の稜線をなぞり、肩口に垂らした髪を掬い上げるのを好きにさせ、シャレムはルシアンの不機嫌な視線を正面から受け留めて何でもないように微笑んでいる。
「それは……
 ルシアンが言い淀む。道中の屁理屈の数々で説得し煙にまけると考えていたことが滲む沈黙だった。ルシアンの存在感の圧に不慣れな人々を相手にしていたならば、それもかなっただろうが、シャレムにとっては全く意味をなさなかったようだ。
「ふふ、言いくるめられるとお思いでしたか? あなたのわがままくらい、もう慣れました。観念してください、ルシアン」
 シャレムが自分に甘いところがあると知っているが故に、微笑みながら甘くない態度をとる彼がルシアンには少々面白くなかった。あからさまに力をなくして萎れたルシアンの頭上の耳を見て、シャレムは苦笑する。
「私だって、あなたに甘いばかりではありませんよ」
 シャレム本人にも、ついついルシアンを甘やかしがちだという自覚はあるらしい。
「とは言え、帰艦後の書類も簡易検査もこれですべて済みましたから。遅くまでお疲れ様でした、ルシアン。あとは部屋に戻るだけですし……お休みの前に、ゆっくりとハーブティーでもいかがですか?」
…………君が良いのならば、ぜひ」
 声色こそ未だ機嫌を損ねているように聞こえるものの、提案を聞いた途端にそわりと一瞬落ち着きをなくしたルシアンの耳の動きを見たシャレムは、つい笑みを深くしてしまう。
 面倒見の良いシャレムは、どうしたって結局、この手のかかる友人を放っておくことも、甘やかさないでいることもできないようだ。
 
 しんと静まり返った居住区画の通路をふたりで進む。二組の静かな足音が向かう先は同じ部屋だ。区画整備の際に一時的に同室となっていたのだが、ルシアンの離艦する頻度が上がり居室を留守にする期間が増加したこと、ふたりとも相手との同室の生活が苦ではなかったことから、使用可能な個室を増やすため、とそのまま二人部屋の使用を続けている。ドクターなどは、もっと早く言ってくれればちゃんと用意したのに、などと言っていた。シャレムとしては何か大きく誤解をされているように思えたが、傍のルシアンが嬉しそうにしていたので、今に至るまで何も言えずにいる。
 居室に入ると、センサーで点いたあたたかみのある光がふたりの部屋の主たちを迎える。時折気まぐれに部屋の奥から出迎えてくれる黒く柔らかく高貴な淑女は、今日は〝お友達〟と出かけているらしく、気配はなかった。それを少し寂しく感じながら、扉にロックをかける。シャレムはルシアンのようにロドスの艦外に出ていたわけではないが、それでもどこか、やっと帰ってきた、と一日の疲労と安心が混じり合った心地がした。
 自分は荷解きがあるからと先にシャワーを譲られたシャレムがリビングに戻ると、外套を脱ぎ身軽になったルシアンがソファにかけて待っていた。交代でシャワールームへ向かう背中を見送って、シャレムは簡易キッチンに立ち、夜のささやかなお茶会の準備を始める。
 ある程度の備蓄食料や簡易食、私室での嗜好品を保管できて、あとはカップが洗えて湯が沸かせればいいという程度の簡易的なキッチンを、この部屋ではお茶会に関する品々が占有していた。棚に並べられたいくつもの茶葉の缶や療養庭園から分けてもらった質の良い乾燥ハーブのキャニスターをざっと眺めて、シャレムは今夜のブレンドを頭の中で組み立て始める。
 眠気を妨げるものは避け、疲れた身体に優しく、気分がぱっと華やぐようなものを、といくつか候補を絞ったあたりでシャワールームの扉が音を立て、ルシアンが戻ってくる。
 そのままソファへ戻らず、ルシアンはまっすぐにキッチンへと歩いてきた。シャレムの背後にのっそりと陣取り、肩越しにシャレムが茶葉を調合する手元を眺めているようだ。
 ――以前なら、こんな状況はおそろしくて仕方がなかったでしょうね……
 影から逃げている時期に、このように背後にひたりと張り付く気配を感じようものなら、シャレムはとても正気ではいられなかっただろう。
 しかし今はもう、この気配がおそろしいものではないと知っている。
「ルシアン、すぐに用意できますから、座って待っていてくださっていいんですよ?」
「いや……君が不快でないのなら、このまま見ていたい」
「私は、特に……嫌ではありませんが」
 シャレムにとっては、なんということはないいつもの作業で、見ていても面白いことはないのではないかと思ったが、ルシアンにとってはどうにもそうではないらしい。本人が楽しんでいるならいいのだろう、とそれ以上疑問を重ねることはせずに、手元にじっと注がれる視線を感じながら調合を再開した。
 戸棚から茶器を下ろす。缶から茶葉を、瓶からハーブを計ってティーポットへ入れる。その間にかけていた電気ケトルの中でお湯が沸く。ティーポットに静かにお湯を注ぐ。一連の動作を、音を、微かなものまで取りこぼすまいとでも言うように注視され、耳を傾けられている。ともすれば絡め取られるように感じてしまうようなそれらも、それが素朴な好奇心から来ていることを知っているシャレムにとっては、むしろ微笑ましいものだった。
「はい、お待たせいたしました。これで持っていけますよ」
「では、私が運ぼう」
 断る隙を与えずにティーセットの乗ったトレーを運び始めるルシアンを追って、リビングへ戻る。今度こそルシアンをソファへ深く座らせて、テーブルの上を調えた。
 ゆっくりと注がれるハーブティーの香りが拡がり、心地よくふたりの疲れをほぐしていく。
「どうぞ、ルシアン」
「ああ、ありがとう……君も、」
「ええ、ご一緒させていただきます。隣、失礼しますね」
 ぎし、とソファがふたり分の体重を受け止める音が、シャレムの耳に随分久しぶりの音として聞こえたのは、数刻前の自覚がじわりと根を広げているからだろうか。ほんの小さな音が聞こえたことに自分が安心したのだと気づいて、シャレムの首筋でまたほんのりと熱がぶりかえす。その熱を誤魔化すように、あたたかいハーブティーに口をつけた。
 
 静かでやわらかい夜の空気と穏やかなハーブティーの香りに包まれて、ぽつりぽつりと短い会話を挟みつつ、ふたりで夜を更かす。流れる沈黙も、とりとめのない話も、お互いに心地よい。
 このまま身体を休める前の時間をゆったりと過ごせると、シャレムはそう思っていたが。
――それにしても、随分と遅い時間のお帰りでしたね。明日、明るいうちの方が何かと都合が良かったのではありませんか?」
 ふと浮かんだ疑問を投げかけると、途端にルシアンはカップをおろし、ばつが悪そうに僅かに眉を顰める。俄かにルシアンの纏う空気がどんよりとし始め、何事かとシャレムもつい同じようにカップをおろして背筋を伸ばしてしまう。
……本来なら、もっと早くに戻るはずだった」
 発された声も、随分と苦々しい。なんということはない質問のつもりだったシャレムは、予想外のルシアンの反応にもしや何か問題でもあったのかと心配になったが。
「君へ贈るべきものが見つけられず、このような時間になってしまった……
 予想外のルシアンの発言に、シャレムは心配のために開きかけた口を閉じる。声のトーンにそぐわない、ひどく些細な理由――無論、これはシャレムから見てのものだが――の開示に、これはもしやルシアンなりの冗談なのでは、と考えたが、どうにもそうではないらしい。あまりに真剣な様子に、なおさらシャレムの困惑は深まる。
「わ、私に……ですか? 贈り物?」
「ああ」
「ええと、その……何のことなのか、うかがっても……?」
 友人へのささやかな贈り物に理由など必要はないとシャレムも承知しているが、とは言えそのような気軽なものは、疲れた身をおして帰艦を遅らせるほどのものでもないように思えた。
 よほどの理由がなければ、そうはしないだろう。そのよほどの理由に、シャレムにはまったく心当たりがない。
……君の祝日を、ともに祝うことができなかった……ホリデーも、新たな年を迎える日も」
「ああ、確かに……しばらくロドスを離れていましたね。ですが私も、何だかんだでせわしなくしておりましたから。それに、カードのやりとりはしましたでしょう? あなたからいただいたものはどれも美しくて繊細で……そんなに気に病まずとも、私はそれだけで充分に嬉しかったですよ。ですから、急いでこんな時間に帰ってこなくとも良かったのに」
 相変わらず変に律儀なんですから、と小さく笑っているシャレムは、落ち込んでいるルシアンを慰めたつもりだった。気にしなくとも充分に貰っていると、そう伝えて安心して欲しかったのだが。
「そうではなく……いや、……君は、平気だったのか?」
「えっ……
 小さくソファを軋ませて、ルシアンがずいと距離を詰めてくる。そらすほうが不自然な程しっかりとあわせられてしまった視線は、じっとりとした不満に満ちていた。
「祝辞に手を抜いたつもりはない。しかし、あれが君へ贈るすべてだと思われるのは、心外だ。それに、このような時間に戻ったのも、君を呼んだのも……時を延ばすことが、惜しかったためだ」
 通路で戯れに触れた時とは全く異なる熱を伴って、ルシアンの指がシャレムの髪にそっと触れる。その間もひたりと据えられていた視線に、つい先ほどまでの不機嫌さはない。
「シャレム。君は、平気だったのか? 気が急いていたのは、私だけだったのだろうか」
 代わりにあるのは、燻る熱だった。
「それ、は……
 瞳が、声色が、どうか同じだと言ってくれとシャレムに語りかける。ルシアンのそれは、懇願であり、また看破でもあった。向けられる熱に、たまらなくなったシャレムはふいと視線を逸らす。触れられていた髪がするりとルシアンの指から逃げる。きっとルシアンからは、ほんのりと朱に染まったシャレムの尖った耳がよく見えることだろう。それでもなお、注がれ続ける視線は返事を促している。
「わ、私も……。しばらく、あなたの姿が見えないのは、その……少し、寂しいものだと、感じていましたが……
 視線の圧に耐えかねて、シャレムは今日、見えない耳の房毛を探して自覚したばかりの心のうちを白状した。
――そうか」
 ふ、と向けられていた圧がなくなったように感じ、シャレムは逸らしていた視線をそろりと戻す。
 穏やかに双眸を細め、ゆるりと微笑むルシアンがそこにいた。そのまま心底満足そうにティーカップを傾けるルシアンに、やっと気恥ずかしい瞬間が終わってくれたかとシャレムはひと息つき、
「それで、君は何がほしい?」
……はい……?」
 持ち上げたティーカップをまた降ろすことになってしまった。
「君へ贈る物を、私では見繕うことができなかったと言ったろう」
 一連の話は終わったものとばかり思っていたが、まだ続いていたらしい。
「なので、君が欲しいと思うものを贈りたい」
 
 一説によると。彼らの〝仲間〟は狩りの成果を身内に見せたがることがあるそうだ。
 ぴんと耳を立てて、ルシアンはシャレムの返事を待っている。まるで耳をそばだて獲物を待ち望む雪原の野生生物を見ているようで、これは、もう充分に貰っていると言っても聞き入れないだろう、とシャレムにはわかってしまう。
「ええと……そう、ですね……
 しかしながら、シャレムにも、これ以上自分から望むものを思いつけなかった。ルシアンから、今以上に何を貰ったら自分は嬉しいのだろうか。何を求めることができるのだろう。強いて言えばそろそろ靴を磨くクリームが切れかけているのだが、さすがのシャレムでももう、それは違うだろうと考え直すことができる。
 では何が、と思考がループに陥りかけた時。ひらりと思考の隅を、まだやわらかい耳の房毛が走り抜ける。
 ほしいものは、先ほど自覚したばかりだったかもしれない。 
……でしたら、あなたの時間をいただけませんか?」
 声乗せてしまえば、それは驚くほどにしっくりと〝ほしいもの〟の位置におさまった。
「明日のひと時を、私と過ごしていただきたいのです。いけませんか? ルシアン」
「私は、構わないが……遠慮を、」
「しているわけでは、ありませんよ」
……そうか」
 穏やかに微笑んでいるシャレムに、しかしルシアンはまだ納得がいっていないのか、相槌を打った唇の端にまだ躊躇いを残していた。
「いつもと変わらないのでは、と思いますか?」
「まあ、そうだな。正直に言えば」
「ふふ……あなたはきっと、何でも用意してくれるおつもりだったのでしょう。そのお気持ちも嬉しいですが、でも、ルシアン。私はこれが、いちばん贅沢な望みだと思っているんですよ」
「贅沢?」
 それは少し大げさではないかとルシアンが僅かに首を傾げる。
「ええ。これだけは、あなたからしかいただけませんから」
 考えてみれば至極単純な理由に、ルシアンの瞳が僅かに拡がる。
「そう、だな。確かに」
「でしょう? とは言え、そう大げさな話でもないのです。ただ、あなたと……さっきのように話をしたくて」
「先ほど? 何か、重要な話をしていただろうか」
「いいえ、ルシアン、重要なことは何も。お互いの周りのことを、少し交わしただけです。ですが、私は……私たちがとらわれてしまっていた過去の話でも、まだ見ぬ先の話でもない……他愛なくて、いいんです。今の私たちの話が、してみたいと……今更、あなたとこのような時間を過ごしたい、などと、少々、おかしく聞こえるかも知れませんが」
 言葉を紡ぐほどに、シャレムの視線はまた下がっていく。冗談めかして微笑み誤魔化すような口元は、そのまま動かしていれば、やっと見つけた望みを撤回してしまいそうだった。ルシアンの視界の端で、シャレムの脚に縋るように、黒く長い尾がそろりと絡みつく。
「何も、おかしなことなどないだろう」
 流れ去ってしまいそうな言葉を堰き止めるように、ルシアンが声を重ねる。くっきりと輪郭の際立った声に視線を上げると、真剣な面持ちのルシアンがシャレムをまっすぐに見つめていた。シャレムの視線を受け止めると、目を伏せ、胸に手を当て、ルシアンは座っていながらも恭しく頭を垂れる。
「私と過ごす時間が、君にとって有意義であることを光栄に思う。どうかひと時と言わず、明日は君の望むままに、シャレム」
「あの、ルシアン? そこまでかしこまっていただく必要は、」
……たとえ日用品の買い出しであっても、君に付き従おう」
 慌てたシャレムに促されて身を起こしたルシアンの目には、真摯さの代わりに悪戯な光が宿っていた。
「あっ……! もう、からかわないでください」
「からかってなど。君の日常を、今を、私に見せてはくれないのか?」
「そういう意図で言ったのではありませんよ……
「そうか? しかし、私は……本気で言っている。会話だけではなく、今の君の生活の一端でも、共に過ごせたらと」
……半分は、からかっていましたよね?」
…………否定は、しない」
「あなたという人は……
 悪びれもせず頷いてみせるルシアンに思わずため息を溢してしまうが、シャレムの目には依然としてやわらかな笑みが浮かんでいた。
「ですが、ありがとうございます、ルシアン。それでしたら、明日は少しいろいろな場所を回ってみましょうか。療養庭園に新しく入った花が、そろそろ咲きそうだと教えていただきましたし――
 きっと、思い出せばシャレムはひとりでも足を運び楽しんでいただろう。けれど、その時間を共にする相手がいると思うと、日々のひとつひとつの小さな予定が、いつもより色鮮やかに感じられた。
 シャレムの視線の先で、記憶を幾度かかすめていったやわらかなかたちより幾分も大きく立派になった耳が、持ち主の機嫌の良さを映したように房毛をゆらめかせている。
 特別なことは、きっとなにもしない。
 それでも、明日は良い日になるだろう。
 
……よく考えてみますと、これでは私がいただきすぎているような気もしますね」
 すっかりと空になったティーセットを片付けながら、シャレムが思い出したように呟く。
……? なぜだ?」
「いえ、その。お祝いをしそびれてしまったのは、あなたもなのだと気付きまして。私のために今回こうしていただいてしまうと、忙しいだろうからとあなたの誕生日にカードを贈るだけで済ませてしまったことが、申し訳なく……
「君の思い遣りに満ちた一言は、私にとってはとても嬉しいものだった。そのように思う必要は……
 そう言って、ルシアンの唇がはたりと止まる。ついさっき、シャレムの声で聞いた言葉とまったく同じことを紡いでいた。
 ふふ、と声をこぼしたシャレムの肩が、笑みを抱えきれずわずかに震えている。
「ほら……ルシアン、あなたも同じことをおっしゃるじゃないですか」
……そのようだ」
 吐息と変わらないほど控えめな笑い声が、まだ部屋にうっすらと漂うハーブティーの香りにほどけていく。
……それで、ルシアン」
「ああ」
「あなたは、何が欲しいですか? あいにく、私には、あなたほどのものは揃えられませんが……
 明日、シャレムがルシアンの時間を貰う。それを望んで受け入れたルシアンにとって、明日の約束を取り付けた時点で既に贈り物――シャレムの時間を貰っているようなものだったが、どうやらシャレムはそのことに気付いていないらしい。しかし、更に何か望みを聞いてくれると言うならば、ルシアンは遠慮をしたくはなかった。
「ふむ…………それならば、」
 考えるふりでふと逸らした視線を、たっぷりと溜めてからシャレムに戻す。とたんにぴしりと背筋を正すシャレムに、口の端を微かに緩ませる。
「明日、君と過ごす時間の供に。ふさわしい紅茶を、新しくブレンドしてほしい……君からしか、もらうことのできないものだ」
 きっちりと、同じやりとりで横道を塞いできたルシアンの、それでも心からと伝わる望みを受け取って、シャレムの微笑みもまたふわりとやわらかく綻んだ。


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