個人の仕事が終わった後に夕食を済ませて寮に戻り、自室でシャワーを浴びたりして明日の支度まで終わらせると、二十時三十分を過ぎたところだった。同室の二人はまだ帰っていない。この時期は皆、仕事が多いから。蓮巳は寝間着代わりにしている練習着のままで、鬼龍の寮室に向かった。
開いてるから勝手に入っていいぜ、などとメッセージが来ていたので、一応チャイムは鳴らすが返事を待たずに勝手に入っていく。こちらもまた、鬼龍以外は誰もいない。
「おう、お疲れ」
そう声を掛けてきた鬼龍もまた、蓮巳と同じ練習着姿で、珍しく小説を読んでいたようだった。手の中にある文庫本は、今度鬼龍が出演するドラマの原作だ。役作りの為には苦手なことだろうと向き合う、その真面目さや努力する姿勢は好ましく思う。
机には珈琲の入ったマグカップと、普段買わなさそうな洒落たチョコレートの箱。一粒ずつ違ったものが入っている八個入りらしいその箱からは、既に二つが消えている。
蓮巳は何も言わず、鬼龍の隣に座った。
鬼龍は読んでいた本に、書店でもらったのだろう紙のしおりを挟んでテーブルに置いた。あまり本を読まない鬼龍は、ちゃんとしたしおりやブックカバーなどは持っていないようだった。蓮巳にはしおり紐のついたブックカバーを手作りしてくれたというのに。
そんな鬼龍は、大きく伸びをして、チョコレートを口に入れた。その指の動きを目で追ってから、蓮巳は文庫本に目を向けた。蓮巳は既に読んだことがある、人気作家の推理小説。とある洋館を舞台にした連続殺人事件の話。いつだかは推理物で犯人役をやっていたが、今回の役は刑事側だそうだ。鬼龍の役は、事件の起きた館にベテラン刑事と一緒に捜査に訪れる若手刑事だ。事件に関わる重要人物ではないけれど、それなりに出番は多い。
「いいのか? 仕事のものだろう」
「いいんだよ、一気に読んでも頭に入らねぇし」
鬼龍はそう言って笑いながら、珈琲を一口飲んだ。
「しかし、今日は色々と珍しいな」
「あん?」
「読書もだが、それ」
言いながら食べかけのチョコレートの箱に視線を向ける。鬼龍は食べ物の好き嫌いのないタイプだし、蓮巳が好む激辛料理などでなければ何でも食べるようだが、こうしたチョコレートは珍しい。今までもバレンタインのあとは大量に貰ったものを少しずつ食べたりしていたけれど、これも貰い物だろうか。
「あぁ、仕事先で貰ったんだよ。ほら、事務所の先輩の……もうすぐバレンタインだからって、出演者とスタッフ全員に差し入れだってさ」
鬼龍がいう先輩は、有名なベテラン女優だ。鬼龍が個人で出演するバラエティ番組で、レギュラー出演している人。
紅月もユニットや個人の仕事で差し入れを用意することはあるし、今日も蓮巳家と神崎家が贔屓にしている和菓子屋でそれぞれ用意してもらったものを持って行ったはずだが。しかしまあ、ベテラン女優ともなると差し入れの規模も違うらしい。
蓮巳は菓子類にあまり詳しいわけではないが、箱に書かれているロゴを検索しただけで、関西の方にある有名店のものだと知れた。値段まで調べたりはしないが、見なくともそれなりに高価なのだろということはわかった。
「今まで食ったことねぇくらい美味いんだよ。なんかすげぇ高そうなやつって感じ」
鬼龍の説明に、蓮巳は思わずため息をついた。その感想はどうなんだ。食レポだって何度かやっているだろうが。まあ、美味しいということだけは伝わったが。
相手は多忙な女優なので同じ事務所でも滅多に会える人ではないが、もし会った時にあまり変なことを言わないように、礼の仕方を教えておくべきだろうか。それはさておき。
「そういえば、こんな話を知っているか?」
蓮巳が話を切り出すと、鬼龍は首を傾げた。
「昔、チョコレートは媚薬として使われていた、と」
「えー、ガキの頃から普通に食ってんだろ」
そんなことあるはずない、という風に顔を顰めている。
「現代ではな。昔はカカオは希少だったし、食べ慣れていないから強く感じたのかもしれん。元々はスパイスを混ぜた飲み物だったようだしな」
諸説あるし、本当に媚薬だと信じられていたとして、プラシーボ効果も含まれていそうだが。
ちなみにこれは、蓮巳が一人で出演したクイズ番組で触れられていた内容だ。バレンタイン付近で放送されるから、チョコレートやバレンタインに関する問題がいくつか出ていた。
鬼龍はチョコレートを見ながら何か考えている。
「んー、今でもいっぱい食えば何か効果あったりするのか?」
まだ箱にはチョコレートが残っている。が、この残りを一人で食べた程度で何か変わるわけでもないだろう。
「どうだろうな」
今そこにあるようなショコラティエが作った高価なものもあるが、チョコレート自体が希少品という時代でもない。コンビニに行けば売っている程度のものだ。大量に用意することは可能だろう。しかし、試すまでもなく、結果は見えている。
「多分、胸焼けしてそれどころじゃなくなりそうな気がするが」
「確かに……」
二人とも、嫌いではないが大量に食べたいと思うほどの甘党でもない。少しなら美味しく食べられるが大量にとなると、あまり考えたくはない。
「ま、何事も程々が一番だよな」
鬼龍がまた一つチョコレートを摘まんで、自分の口に入れる。その唇から、咀嚼して飲み込む喉の動きまでを、無意識に追ってしまう。こんな話をしていても、鬼龍は気にせず平然と食べている。まあ、蓮巳だって昔から何度も食べているし、ただの菓子の一つとしか思わないけれど。
鬼龍はじっと、蓮巳の方を見つめてきた。
「で、さっきからてめぇは何を物欲しそうな顔してんだ?」
「っ……」
そんな顔をしていたつもりはないが。つい鬼龍の方を見てしまっていたのは事実だ。いや、正直に言えば、その手元や唇を。鬼龍も気づいているのだろう。
「おまえが望むんなら、なんだって好きなものをやるぜ?」
鬼龍が距離を詰めてきて、指先で蓮巳の唇をなぞってくる。
「チョコか? それとも……」
そう言って口の端を吊り上げるから。心臓が煩く騒ぎ出して、視線を反らせなくなって。その強い視線に射貫かれたように、動けなくなってしまう。獲物を狙うみたいな、そんな顔を、しているから。
しばしそのまま、見つめ合って。それから。
「ふっ、ははっ、何固まってんだよ」
「うるさい」
不意に鬼龍が笑い出した。冗談のつもりだったのか。びっくりした。
心臓はまだ騒いでいる。
「……ん」
鬼龍は箱からチョコレートを手に取って、蓮巳の口元に押しつけてくる。口をあけると、そのまま中に押し込んできた。その瞬間に広がる、チョコレートの良い香り。濃厚なのに甘すぎず、食べやすい。確かに美味しい。
「で、満足したかよ? もっと欲しいか?」
挑発的な視線と口調。それはチョコレートの話だけでは、ないのだろう、きっと。
「チョコはもういい。美味かった、ありがとう。でも」
蓮巳は鬼龍の手を掴む。それから口元に引き寄せて、その指先に唇を寄せる。
「俺はまだ満足していないぞ。くれるんだろう? 俺の好きなもの」
鬼龍は今度は蓮巳のことを抱き寄せた。そして唇が触れそうな距離で呟く。
「甘いとか文句言うなよ」
「一緒だろう、俺も」
ふ、と優しく笑ったかと思えば、唇が重ねられる。柔らかく何度も触れて、強く抱きしめられて、それから噛みつくような口づけに変わっていく。
「ん……っ」
蓮巳はしがみつくように鬼龍の背を抱きしめた。
(俺にとっては、チョコレートよりもずっと……)
身も心も酔わされそうな口づけに、ただ静かに身を委ねた。
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