めーぷるしべりあ
2026-02-14 20:47:07
4343文字
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+2℃

りかいお
バレンタインの話。付き合ってるし甘々(当社比)。ほんのり背後注意。
チョコレートの融点は大体34℃らしい。

 真冬の五時であっても自然と目が覚めた。二度寝をするような愚か者ではないが、それでもこの寒さは身に堪えるもので温もりが恋しい。
 ササっと起きて部屋を出た途端、廊下には甘いチョコレートの香りが漂っていた。正面を見遣れば、いつもは閉じている向かいの部屋の扉は半開きになっていた。隙間からは蹴飛ばされたままのタオルがはみ出していた。
「ったくもうだらしがない」
 独り言を零しつつ、私は向かいに行きタオルを拾い上げた。その拍子に部屋の中も覗いてみたが誰もいなかった。案の定布団もぬいぐるみも乱雑に投げ出されている。
 洗面所に行くと、予想通り洗濯機も回っていた。私よりも早く起きて家事に勤しむのは結構だが、自分のことには無頓着なのはいただけない。こういうところは変わらないのだ。
 ダイニングへ続く扉を開けると、チョコレートの香りが押し寄せてきた。右手の台所以外は明かりも点いていないので薄暗い。早朝のまだ寝静まった共用スペースは、落ち着くというより寂しげに思える。
 私は彼がいるであろう台所に向かった。オーブンの前でじっと屈みこむ後ろ姿を見つけて、「おはようございます、依央利さん」とカウンター越しに声をかけた。
「おはよー。そろそろ起きる頃だと思ってた。白湯入れるね」
 くるっと振り返った依央利さんは笑顔でそう返すと、軽快にコンロへ向き直った。もう沸かしてあったらしく、すぐに薬缶から白湯が注がれる。
「はいどうぞ」
「ありがとうございます……ってそうではなく。依央利さん、あなたという人は本当に」
 どうせ私より寝るのも遅かったのにここまでするなんて。私はあえて不満を隠さずに依央利さんを見遣った。
「え~だって今日はすっごい大事な日なんだもん。今年も朝四時に起きてたっくさんチョコレート作って……
「言い訳するつもりですか。いくらバレンタインだからって」
「そう! 今日は年に一回のバレンタインデー! ルリホ~!」
 私の言葉を遮って、依央利さんはクルクルと鼻唄混じりに小躍りを始めた。彼にしか理解し得ないメロディーで、それはもうとても楽しそうに。あんまり幸せそうなので、私もそれ以上問い詰める気もなくなりカウンター席に腰をかけた。溜め息で湯吞みの中の水面が震えた。
「あれ? 理解くんまだ眠いの? 目がとろんとしてるけど」
「はっ、べ、別に眠くないですよ。それより依央利さんもこちらに来て座りませんか」
「何? 隣に来てほしいの?」
「いやっ、だからその……立っててもしゃがんでても疲れるし、ここならオーブンの様子も見えるかと思っただけで……
 何を動揺しているんだろう。それが大前提としてあるのだからきっぱりと言えばいいのだ。別に依央利さんと隣でお話したいだけが理由じゃないと、そう表せばいいものを。
「えー素直じゃないなー」
 あなたには言われたくない! ムッとしてつい湯呑みに力を込めてしまった。
「あっっあっつ⁉ はーっはーっ」
「もー何してるの。大丈夫? 火傷してない?」
「大体依央利さんがっ」
 前を向いても誰もいなくて、隣を振り返った途端目の前に依央利さんの顔があった。「いけないんでしょう」と続くはずだった口は半開きのまま止まり、無為な母音を続けるほかなかった。
 チョコレートと柔軟剤と、それからほんの少し漂う依央利さんの匂い。普段はこの家の匂いの影に隠れているのだが、ある時は彼自身の芳香が強くなる。それを知っているのは私だけで、彼もまた唯一、私の匂いの在処を知っている。
 不意にそんなことが頭に浮かんだのは、彼が私の視界の大半を占めるほど傍にいるせいだ。あるいは、私の手に彼の手が触れたからだろうか。湯呑みを掴んだ私の掌をじっくりと舐め回すかのように、細くささくれ立った指が這う。
「平気そう。あれ? 今度は熱でもあるの?」
「いっ、あ、い、依央利さん……さっきからその、ち、近いです……
「え? あ、あぁごめん……
 パッと手を離した後、依央利さんは素早く正面に向き直った。やや伸びてきた紺色の隙間から真っ赤な耳が覗いている。あんなことをしておいて、こんなに恥じらうなんて。
「かわいい……
「何か言った?」
「かわいいって言いました。あっ……!」
 しまった、と口を覆ったときにはもう遅かった。心の中だけで留めておくつもりが漏れ出てしまったなんて。私たちの仲だからって、男でかわいいと言われて良い気分になるかと言われたら……
「え~? 理解くんの方がよっぽどかわいいと思うよ? いつまでも初心だし、デレデレなのめっちゃわかりやすいし」
「わ、私はいつだって誠実なだけだ! それに私はそんなだらしない姿を晒した覚えはない!」
「ふぅん……
 依央利さんはまるで信じていないとでもいうような様子だった。それでも、軽薄な表情の割に黒目勝ちな瞳はうるうると輝いていた。あぁ、きっと依央利さんの目にも私がそういう風に映っている。言葉で表し切るのも足りないほどの感情で潤っている。
「ところで、今年はどんなチョコレートを作ったんですか?」
 甘くなり過ぎた空気を紛らわしつつ、私はずっと気になっていたことを問うた。
「えっとね、今オーブンで焼いてるのはフォンダンショコラ。冷蔵庫にはいつもの生チョコと、それとチョコプリンにチョコレアチーズにボンボンショコラに……
「それはまた、たくさん作りましたね……
 もう口の中が甘ったるい。それでも先程より和やかな雰囲気に落ち着いた。
「後でザッハトルテとチョコチップクッキーとブラウニーも焼くよ」
「そんなに作るんですか」
「そりゃバレンタインだからねぇ。これくらい作れなきゃ。あ、ちなみに理解くんには増量キャンペーンしてあげるからね」
「結構ですよ」
「何それ~前科一犯のくせに」
 まだそんな罪状があったのか。あれほど冤罪だと言ったのに全く聞いちゃいない。
 あの事件以来、年々私だけ貰うチョコレートは多くなっている。こういう時甘い物が大好きなふみやさんとか、チョコが主食と言っていた大瀬くんに分けたい気持ちもあったが、それはあまりにもあくどいことだろう。
 私はもう、二十五年分どころか一生分のチョコレートを貰っている。これからも貰い続けるのだろう。チョコレートに限らず、依央利さんに関するあらゆるすべてを。
「理解くんが僕以外から貰うはずないって頭ではわかってるんだけど、どうしてだか不安、なんだ」
 触れかけた湯呑みから手を離して、私は彼の方を見た。いつの間にか外は明るくなり始めていた。住人たちを起こす時間もとっくに過ぎていることだろう。しかしぎゅっと握り締めた笛は、そのまま私の掌の熱を奪うだけになった。
「では今日一日、あなたとずっと一緒にいます」
「えっ……! きゅ、急に何、一緒にいるって?」
「そのままの意味ですよ。今回もまたチョコを貰ってないかチェックするんでしょう。まあ当然依央利さん以外から貰うつもりは毛頭ありませんが、それであなたの不安が拭えるなら」
 依央利さんは暫く目を見開いたままでいると、「そういうところなんだって……」と顔を手で覆い隠してしまった。私はただ真剣に言っただけというのに。
「あぁですが、少しだけ付き合ってほしい所があります」
「ん? どこに?」
「後でわかりますよ」
 国や文化圏によって形態が異なること、日本では主に女性から男性へチョコレートを渡す習慣があることなど、知識では知っていたのだが、この家で暮らして初めて、私は身近にバレンタインデーを感じた。そしてまた、バレンタインデーは意外にも自由なのだということも知った。
 今年は私からも、依央利さんにプレゼントを贈ろうと考えていた。彼と結ばれて初めてのバレンタインデーでもあるから。お返しの機会はホワイトデーにもある。それでも私は今日花屋に行って、一番綺麗な紅い薔薇を贈るつもりでいた。
 こういうのは本人の目がないところで用意するのが正しいのだろう。でも、悪くないとも思う。花屋の前で首を傾げる依央利さんを想像したら、ふふっと笑いが零れそうになった。
「あー。何か変なこと考えてるでしょ」
「いいえ? ただ今日が楽しみなだけですよ。依央利さんのチョコレートも、バレンタインデーも」
「ほんとにー?」
「本当です」
 カウンターについていた依央利さんの右手に、私は左手を重ねた。依央利さんはもう片方の手で頬杖をつき、目線をあちらこちらに泳がせながらじわじわと右手を広げた。私の指が間に入っていき、直に密着した。指先の方からゆっくりと曲げつつ握り込んでいくと、彼の手は小さく震えながら応えるようにして受け入れた。やがて彼の指も私の爪を撫でるように動き始めた。耳元で彼の吐息まで聞こえる。私がそのまま顔を上げれば、きっと吸い上げてしまえる。
 テレレーと電子音が響き渡り、私たちは咄嗟に体を離した。どうやらオーブンの焼き上がった音らしい。続けて廊下の方からも別な電子音が聞こえてきた。あちらは洗濯機のようだ。
「わあぁいっけない! 朝ごはんの支度もしなきゃ! えっとその前にフォンダンショコラの出来を確認してそれから……
 依央利さんは慌てふためいて、ミトンをつけるなり片方に鍋、もう片方に洗濯かごを持ち始めた。
「落ち着いて依央利さん。私も協力しますよ」
「だめ! 絶対に! ってあーっ洗濯かご返せ~っ!」
「皆さんを起こすついでです。依央利さんは台所の方に専念してください」
「この! 分からず屋ー!」
 抗議を続ける依央利さんを置いて、私は扉を開け廊下に出た。朝一番に相応しい挨拶をするべく、思い切り息を吸い込んでいたところで「理解くん」と裾を引っ張られた。
 振り返ればミトンも鍋も置いてきたらしい依央利さんが、俯き加減に立っていた。私は息を吐き出して「何でしょう」と小さく返した。
「あれの続き、したいなら部屋で起きて待ってて。早めに家事終わらせるから」
 何の続き、と問い返そうとするより先に、首に依央利さんの腕が巻き付いてきて、ほんの一瞬だけ彼の香りが強く脳髄に回ってきた。
 唇を湿らすほろ苦い余韻と、脳裏に蔓延る甘い刹那。そればかりが私の意識を支配していた。あの隙に洗濯かごが奪い返されたことなどどうでもよかった。私は彼に花を贈り、彼は私にチョコレートを作り、その後までが決まったというだけのこと。あぁ、そうでも考えないと私は居ても立っても居られない!
 兎にも角にも、まずはハウスの朝を始めなければ。私は再び深く息を吸い込み、「おはようございます!」と声を上げた。