この日になるとH.A.N.D.内部も俄かに浮き足立つ。昨日まで確かにあったはずの徹夜が続いた倦怠感とか、残業不可避な業務量に対する鬱屈した感情はどこへやら、空気が切り替わったように周囲はそわそわしている。
「わあぁ! これ全部、食べていいやつ?」
その空気の主犯ともいえる大量の箱を前に、蒼角は嬉しそうに目を輝かせている。悠真はそれを遠目で眺めながら、うわあと眉を顰めた。大量の箱の正体は、全てチョコレートだ。ファンから届いたプレゼントを総務部が選別し、問題ないと判断されたものだけが六課に届くのだが、それでもまだデスクから溢れるほどある。
「今年もチョコレートだけを食べる修行か……」
「ちゃんとご飯も食べてくださいね、課長。こっちは浅羽隊員の分です」
「うわぁ……」
去年よりもまた増えている気がする。男の悠真よりも蒼角の方が多いのは、悠真宛のプレゼントは特に厳しく選別されるというのもあるが、彼女が何でも美味しく食べてくれることを知っているファンの皆様が「蒼角ちゃんのお腹を満たさなければ!」という使命感に燃えるからである。
選別されてもなお、紙袋はパンパンだった。包装が大部分を占めることは分かっているが、その箱の中に全て甘ったるい物体が入っていると思うと気が滅入る。
「なるべく食べて、コメントが欲しいとのことですよ」
「えぇ~、これも広報に使われるんですかぁ~?」
「今回の修行も、なかなか厳しい戦いになりそうだな」
各々ぼやきながら紙袋を持ってデスクに戻る。どす、とデスクチェアに腰掛けた悠真は、袋を膝に乗せてはぁと息を吐いた。
(……アキラくんやリンちゃん、食べてくれるかな)
一応選別されたチョコレートなので安全なはずだ。そうと決まれば、と悠真は紙袋をデスクの上に置き、スマホを掴んでノックノックを開く。帰りにビデオ屋に寄ることを書きこんでアキラに送信すると、彼の返事も待たずにスマホを鞄の中に滑り込ませた。
六分街に向かう間も、その道のりは一筋縄ではいかなかった。他の執行官から声を掛けられたかと思うと追加のチョコレートをいただき、六分街の顔見知りからも「さすがねぇ」とからかわれる。へらへらと愛想笑いを見せながらようやく辿り着いたビデオ屋の扉を開けると、店の中はいつもと変わらない。バレンタイン一色の街の中を潜り抜けて来た悠真は、ここに来てようやく一息つけた心地で息を吐いた。
「あ、悠真! いらっしゃーい。これあげる!」
カウンターの近くで作業をしていたリンがとことこと悠真の元に近付いてきて、ディニーの形のチョコレートを差し出してきた。何これ、と受け取ると、彼女はにっこりと笑って「1ディニーチョコだよ!」と答える。
「この時期だけ出てくるんだよね。ご近所さんの間では『ご利益チョコ』とか言われてるよ」
へぇ、と言いながら悠真は紙袋にそれを入れるのを躊躇う。他の見知らぬファンならともかく、リンから貰ったものを他と同等にしたくはない。だけど手に持ってると溶けるし、と逡巡していると工房からアキラが顔を出し、紙袋を見て苦笑した。
「いらっしゃい……すごいな、それ」
「とか言って、あんたも結構もらってるんじゃないの~?」
「いや、ご近所さんと常連さん、あと友人から少し貰った程度だよ」
その友人は本当にただの「友人」のカテゴリに居る人物だろうか。わざわざ店に来てチョコレートを渡すくらいだから、そこに気持ちが込められていないとも限らない。もや、と胸中で渦巻く嫉妬を押し込んで、悠真は紙袋に視線を落とす。
「僕一人じゃこんなに食べられないからね。というわけで、お裾分け。リンちゃん、欲しいのある?」
「えっ、いいの? ちらっと見たら結構お高いブランドのもあったよ?」
「胃の中に入れば何でも同じでしょ。それに、僕は甘いものはなるべくご遠慮したいし……」
大量摂取により、体が不調になることだけは避けたい。それなりに食べるものには気を配ってきているのだ。それなら、とリンはうきうきと紙袋の中を漁り始めた。悠真はリンから貰ったチョコレートを本物のコインのようにピンと弾いて空中に投げ、手の甲に落ちた瞬間にもう片方の手で隠す。隣にやってきたアキラに裏と表どっちだと思うか尋ねると、裏、と即答された。
「あ、すごい。裏だ」
「ふふ。悠真、その裏を見てごらん」
言われて、首を傾げながらひっくり返すと、今見たものとそっくり同じ絵柄がお目見えして悠真はつい声を上げてしまった。
「えっ、こっちも裏!?」
「本物そっくりに作ったら怒られるからね。販売者も気を遣ったんだろう」
「……本当にご利益あるの? これ」
「さて。こういうのは楽しんだもの勝ちだからな」
そういうものか、と思いながら包みを剥がし、円盤のチョコレートをひょいっと口の中に放り込む。特に何の変哲もなく、板チョコ同等の味だ。甘ったるさだけが残る口の中、悠真はアキラの横顔をちらりと窺う。
本当にご利益があるのなら――あわよくば彼からチョコレートを貰えないだろうか。そんな期待をしてしまう自分に対し、別に付き合ってもいないのに、と悠真は自嘲気味に口の端を歪ませる。
悠真が持ってきた紙袋を見ても顔色一つ変えなかったアキラが、まさか自分のために何かを準備しているなど甘い考えだ。悠真だってあえて用意するのは思わせぶりになってしまうだろうか、と考えあぐねた結果、催事場へ足を運ぶこともなくこの日を迎えたのだ。相手にだけ期待するのは虫のいい話だろう。
「はい、じゃあこれだけ貰う! へへ、ありがとね、悠真」
気付けばリンはしっかりとブランドもののチョコレートを選別し、自分の両手の上に大量に乗せていた。こちらはこちらで遠慮がなく、ふは、と笑う悠真とは対照的にアキラは顔をしかめている。
「リン、君、この時期はあまり食べないようにするって言っていただろう」
「それは『自分では買わない』って意味だもん。賞味期限切れで捨てられるかもしれないチョコレートを救うのは、間違いじゃないでしょ?」
「また屁理屈を……」
「あーもう、そんなこと言うお兄ちゃんには分けてあげませんよーだ」
べ、と小さく舌を出すと、リンはそそくさと二階に行ってしまった。蓄えを巣に運ぶリスのようだ。微笑ましく見送る悠真の前で溜め息を吐くと、アキラは真剣な顔をこちらに向けた。
「うちの妹がすまないね」
「ええ? 僕だってあんたらに食べて欲しくて持ってきたんだから、なーんにも悪いことはないよ」
「そうは言うけど……しかし君、これ全部食べるのかい?」
紙袋の中にはまだ大量にノルマが残っている。その現実を目の当たりにして、悠真はげんなりと肩を落とした。
「なるべく食べろって言われてる。はぁ……どうしたものかなぁ。こんなに食べると栄養偏りそうだし」
「……溶かしてホットチョコレートにするのはどうだい?」
アキラの提案に、え、と悠真は彼を見る。紙袋の中身をじっと見つめているアキラは「一度溶かすのは不誠実かな」とぼやいていた。
「いや、さっきも言ったけど、胃の中に入れば何でも一緒でしょ。ホットチョコか、なるほど。そのまま食べるよりはいいかも」
「じゃあ準備してくるよ。これ、持って行ってもいいかな」
「え……あ、アキラくんが作ってくれるの?」
願ってもない。むしろ「この日に彼からチョコレートを貰う」という淡い期待を半分ほど満たしてくれる提案である。
「これだけあるから、三人分くらいにはなりそうだし。消費するならここでもいいだろう?」
「それはありがたいけど、本当にいいの?」
「何を遠慮しているんだ。構わないよ。できるまで、僕の部屋で待っていてくれ」
そう言い残すと、彼は紙袋を抱えて奥に行ってしまった。置き去りにされた悠真はただ、そわそわする浮き足立つ心地を覚えていた。H.A.N.D.の本部で感じたげんなりとした空気を自分が醸し出しているという状況に居た堪れなくなり、小走りで彼の部屋に向かう。
充電が終わったイアスを揉み回したり転がしたりして遊んでいると、トレーに湯気の立つカップを二つ抱えた彼がやってきた。もみくちゃにされたイアスを見て「ほどほどにね」と釘を刺しながら、コト、とテーブルの上にシンプルな赤いカップを置く。
「わ~……甘そう」
「なるべく甘さ控えめになるよう調整したつもりだけれど、元がチョコレートだからね。君、食べられないわけじゃないだろう?」
「甘いのはたまに食べるからいいんだって。……ま、今がその『たまに』だからね。有り難くいただくよ」
カップに手を伸ばし、そっと口に運ぶ。熱さを警戒しながら少しだけ口に含むと、途端にじわりと予想通りの甘さが広がった。しかし甘いだけではなく、ほんのりビターで、洋酒の濃厚さを感じる。彼が調整してくれた、というのは本当のようだ。
「……うん。美味しい」
「そうか、良かった」
ほっとしたように目尻を緩め、彼も自分のカップに口をつける。うんうん、と満足そうに頷いている様子に、素材提供者として鼻が高くなる。
「結構消費できた?」
「九割ほど、かな。あと少し残っているけど、持って帰るかい?」
「んー……いいよ、摂取するってミッションはこれで果たしたわけでしょ。アキラくんが食べてよ。作業の合間にでもさ」
「それなら有り難く貰っておくよ」
家で黙々とチョコレートを消費するよりも、静かにホットチョコを飲みながら彼と雑談をする方が何倍も良い。やっぱりビデオ屋に来て正解だった、と思いながら飲み切った悠真は、カップを下げようと腰を上げたアキラを制して「お礼に洗う」と提案し、トレーに空になったカップを二つ乗せて部屋を出た。
そういえば彼は、三人分、と言っていた。きっとリンの分も作ったはずだ。隣の部屋の扉をコン、とノックすると、入っていいよ~と中から間延びした声が聞こえて来た。そっと扉を開けると、テーブルの上にチョコレートを並べてにやにやしているリンが居た。
「あ、なんだ悠真か。えっへへ、本当にありがとね。どれから食べるか迷っちゃう」
「喜んでもらえてよかったよ。そのカップ、空なら持っていくよ」
「悠真が洗ってくれるの? ありがと!」
テーブルの端にあるカップに手を伸ばすと、リンが「そういえば」と顔を上げた。
「お兄ちゃんから貰った? チョコ」
ぴたりと動きを止めて彼女の顔を見る。無言のまま固まってしまった悠真を見て、リンは不安そうに首を傾げた。
「あれ? お兄ちゃん、あんたにあげるチョコ選んでたみたいだけど……」
「いつ?」
「え、えっと、一週間くらい前かな。私がチョコレートの催事場に行くって話をしたら、珍しく自分も行くって言いだして。真剣に悩んでたよ? 結局、洋酒入りのビターチョコを買ってたけど……」
洋酒入りのビターチョコ――ホットチョコレートを口に含んだ時に感じた味だ。口を押さえて難しい顔をする悠真に何かを察したらしいリンは「洗い物、私しよっか?」と気を遣ってくれたが、軽く頭を振って彼女のカップをトレーに置き、悠真は部屋を出た。
キッチンで三つのカップを洗いながら、悠真はそこに放置されたいくつかの箱と、紙袋を見る。大量に消費されたチョコレートたち。洗い物を済ませると悠真はその箱を一つずつ検分し、洋酒入りの箱を探す。悠真が苦いものを好むことを知っている相手は少ない。しかもアルコール入りのチョコなど、悠真の病状を知っている本部の連中は「渡さない」に選別するに違いない。したがって、紙袋に入っているはずがないのだ。
ようやく見つけた箱の中には、一粒だけチョコレートが残されていた。箱を手に持ってキッチンを出た悠真は、真っ直ぐ彼の部屋に向かう。
「お帰り、はるま……っ、君、それ」
悠真の手にした箱を見てアキラが一瞬固まった。ビンゴだ、と推測を確信に変えて、悠真はアキラに詰め寄る。
「これ、アキラくんからのチョコ?」
悠真の声と言葉から、何もかもを悟られていることに気付いたのだろう。アキラは小さく息を吐くと「そうだよ」と呟いた。
「その紙袋を見ていたら申し訳なくなってしまってね……消費も大変そうだったし」
「でも、アキラくんはこれを僕にあげたくて買ってくれたんでしょ?」
「それは……そう、だけれど」
「どうして?」
我ながら意地が悪い自覚はある。だけどどうしても、彼の口から言わせたかった。アキラはしばらくすると、俯いた顔をそろりと上げた。その頬にはほんのりと赤みが差している。
「……き、君に好意を持っているから、と言ったら、笑うかい?」
ぶわ、と胸の中で花が咲いたような心地だった。いやいやいや、と頭を何度も横に振って、はあぁ、と悠真は深く息を吐き出す。
「ね、アキラくん。これ食べさせてくれない?」
自分の中に溶けてしまった欠片たちとは違い、最後に残された形を持った一粒。彼を促すと、戸惑いつつもアキラはその一粒を指につまみ、恐る恐るという様子で悠真に差し出してきた。悠真はそれをつまむのではなく、彼の指ごとぱくっと直接咥え込んだ。びく、と震える彼の指をぺろりと舐め取って、彼のチョコレートを口の中で転がす。先ほどよりも濃厚なビターチョコと洋酒の味に、自然と笑みが浮かぶ。
「はっ、悠真、君な……!」
「一方的に人の中にあんたの気持ちを流し込んでくれたお礼だよ」
「それはまぁ、ずるかった自覚はあるけど」
「ね、アキラくん。……教えてくれない?」
――あんたの気持ち、全部。
態度と声で丸わかりではあっても、やはり直接言葉で聞きたい。にこりと一切逃がすつもりのない悠真の顔を見たアキラは、やれやれと肩を落として落ち着きを取り戻すと、常と変わらぬ穏やかな笑みを浮かべ、静かに口を開いた。
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