ステダニ|ひととせ

ウルトラショートショート 増えます

✴︎2月14日

 彼から手渡されたカップから漂う香りは、いつもの苦味を想像させる香ばしいものではなかった。甘いにおい。自分が片眉を歪ませたことは、相手の表情からすぐに察せられた。「たまにはいいでしょう。糖分補給も大事ですよ」そう理由付けしてカップに口をつけるスティーブンも、同じものを飲んでいるのだろう。倣うように口元に運ぶと、香りと同じく甘い。甘い、チョコレートの味がする。立て続けに起こっていた事件に疲れた身体にはうってつけだった。滑らかなチョコレートドリンクが舌の上を通り、喉の奥へ。ただ、ダニエルは黙って飲みながら、考えた。今日の日付、日系の同僚が話していたこと。それは東国の文化。「あなた、甘いのものダメでしたっけ?」考え込んだことで、ダニエルが顔を顰めていたのだろう。スティーブンの問いかけに、もの思いに耽るのをやめた。そして、相手を見れば、眉尻を下げて困ったような顔をしている。バカなやつめ。この、何が起こるか分からない街で、おれが用心もせず、寄越された飲みものに口をつけている意味を。そのたいそうな頭で、考えてみせろ。「きらいじゃねぇよ」甘いものは嫌いじゃない。甘すぎるのは、どうかと思うくらいで。



✴︎ 2月22日

 分署の近くでよく見かけていたねこが、ボロボロになって、道の隅に転がっていた。おそらく人間か、ビヨンドの憂さ晴らしの相手にされたのだろう。ダニエルは血の気が引いていくのを感じつつ、どこか冷静に目の前の現状を分析していた。「どうかしました?」急に立ち止まったダニエルを訝しんだような声が後ろから届いても、つい反応が遅れてしまう。男はダニエルの肩越しにネコを見たようで、「ねこ?」と呟いた。「野良だよ。よく署員が餌付けしてた」自分もそのうちの一人だった、とは言わなかった。それを言えば、愛着があったことを認めてしまう気がして。認めたら、悲しみが湧いてくる気がして。行こう、と歩みを戻そうとしたダニエルだったが、それよりもスティーブンが動く方が早かった。彼はぼろぼろの塊に近づいて、しゃがみ込む。「……この子、まだ息がある。病院に連れて行こうか」節くれだった手が躊躇うことなく汚れたねこを拾い上げると、懐に抱え込んだ。上等なスーツに、血や埃がつくことも厭わないといった態度は、出会った頃には考えられなかった。数日後、ねこは元気に分署の近くのベンチで昼寝をしていた。上等なスーツのスラックスを枕にして。



✴︎ 3月3日
 特徴的な癖のある髪型は、男の顔の右側を覆い隠しており、あまり見えない。なので、隠れた耳にあるピアスホールの存在にスティーブンが気付いたのは、出会って随分と経ってからだった。「開けてるんですね」そういって自分の耳たぶを指すと、ダニエルはすぐに何のことだかを察した。今は軽い雑談ぐらいなら、付き合ってくれる。「あぁ、昔な」「ふぅん。なんか意外です」「そうか? そういうおまえは……」「ないよ。つけたくても……ね」スティーブンが放つ、全てを凍てつかせる妙技は、その零度が己に降りかかることもある。金属類を身につけていると痛い目を見る、と同胞等から口うるさく言われてきた。幼い頃から、ピアスとは自分にとって『タブー』だとよく理解していた。なので、開けようと思ったことさえない。身近な者たちも似たような理由からか、開けている者は少なかった。ピアスホールを目の当たりにして新鮮な気持ちになったのは、それ故だろう。「今度つけて来てくださいよ」ただの軽口のつもりだった。「それは、プライベートで?」だがダニエルの問い返しに、答えられなかった。その瞬間、己が彼のパーソナルに踏み込もうとしていたことを自覚したのだ。