もしもタークスの人事評価基準に「製菓技術」という項目があったなら、シスネという優秀な元エージェントは、減給、もしくは何らかの懲罰処分を受けていたに違いない。キッチンという名の戦場において、彼女はあまりに無力だった。
ボウルは討ち死にし、床には返り血ならぬチョコの飛沫。完璧な任務遂行を誇るはずの彼女の指先は、今や見る影もなく茶色の泥濘に塗れている。コンロの上では、焦げた匂いを放つ鍋が無残な姿を晒していた。
「……あーあ。これはまた、派手にやったな、と」
背後から響いた軽薄な声に、シスネの肩がびくりと跳ねた。振り返らなくてもわかる。一番見られたくない男――レノが、リビングからひょっこりと顔を出しているのだ。
「来ないでって言ったじゃない……」
シスネは床にへたり込んだまま、膝に顔を埋めた。
「見ないでよ、もう、本当に最悪……」
絶望と羞恥、自分への苛立ちが絡まり合い、声が子供じみて震える。
「笑えばいいわ。どうせ私には無理だったの。今までみたいに、お店で買えば良かったのに……今年は、手作りしようなんて思うから……」
後悔と、それでも諦めきれない想いが、声の端に滲んでいた。
レノは笑わなかった。甘い匂いが充満するチョコの海を躊躇なく踏み越え、彼女の隣にどさりと腰を下ろす。靴裏にべったりと茶色がつくのも、気にする様子はない。
「いいじゃねぇか」
レノが軽く肩をすくめる。
「タークス史に残る天才がチョコに負けてるとか。俺以外に誰が拝めるんだよ、と」
大きな手が、シスネの腰を引き寄せようと伸びる。
「っ、待って」
咄嗟に肩を押そうとして、自分の両手がドロドロのチョコに塗れていることに気づき、シスネは息を呑んだ。彼の白いシャツを汚すわけにはいかない――その一心で、慌てて手を引っ込める。だが、その一瞬の躊躇を、レノが見逃すはずもない。宙で止まった手首を掴み、強引に引き寄せる。
「気にすんなって」
「……でも、あなたのスーツ、高いんだから……」
「そんなもん、おまえが今どんだけ美味そうかに比べりゃ、タダ同然だぞ、と」
レノは目を細めると、チョコにまみれたシスネの指を、そのままゆっくりと自分の口に運んだ。熱い舌が指先に絡みつく。
「……っ」
息が詰まる。挑発的で、けれどどうしようもなく熱を帯びた男の目がすぐそこにあった。
「……苦」
レノの舌が、シスネの指を丁寧に舐め取っていく。一本、また一本と、まるで慈しむように。
「でも、意外と悪くないぞ、と」
触れられるたび、心臓が大きく跳ねる。制御できないほどの熱が頬に集まり、頭の芯まで痺れていった。
「……レノ」
掠れた声が、やっと出た。
「掃除はあとで手伝ってやる。……ちょうどここに、上等な『雑巾』ができたしな、と」
ニヤリと不敵に笑い、今まさにシスネの腕で茶色く汚れ始めた自分のシャツを顎で示す。あまりにレノらしいその言い種に、シスネが毒気を抜かれたように瞬きをする。その隙に、彼は逃がさないと言わんばかりに彼女の腰へ腕を回した。
「だからよ」
顔が近づく。吐息が触れるほどの距離。
「大人しく、俺に食われとけって」
低く、甘く、身体の芯まで響く囁き。そのまま床に押し倒され、柔らかなマットの感触を上書きするような、レノの暴力的なまでの熱に思考が白く染まる。重なる唇から流れ込んでくるのは、カカオの苦味と、それを塗り潰す男の熱量。舌が絡み合い、チョコの甘さが二人の間で溶けていく。
シスネはもう、汚れを気にするのをやめた。自分を全肯定し、失敗ごと味わい尽くそうとするこの男に、ただ縋るようにその首へと腕を回した。
高価なスーツも、惨状と化したキッチンも、もはやどうでもいい。
服の隙間に滑り込んだレノの指先が、素肌をなぞる。チョコとは違う体温がじかに触れ、シスネは甘い戦慄に身を震わせた。首筋を這う吐息が、軽薄さを脱ぎ捨てた本気の熱を帯びていく。
「……今日のおまえ、甘いな、と」
ゴンガガの静かな午後。掃除という名の現実に戻るまで、二人は甘く湿った地獄の中で、どこまでも深く溺れていった。
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