2月14日、空中庭園の人工太陽は律儀に朝を演出していた。商業エリアには期間限定の装飾が施され、甘い匂いが風に混ざる。軍人であろうと構造体であろうと、今日ばかりはどこか落ち着かない——そんな一日である。
だが今の私にはそんな余裕はない。目下、全力疾走中である。理由は単純明快。遅刻寸前だからだ。
空中庭園軍事部所属、グレイレイヴン隊の指揮官。戦場では沈着冷静、勇猛果敢と評され、数々の功績を残す人物。人類の希望とまで称されるその人物が今、パンをくわえて猛然と走っている。
「……た、大変だッ!!」
片手には小さな紙袋。もう片方には、つい一口かじってしまった、まだ温もりの残るクロワッサン。
合理性は皆無かもしれない。だが、朝というものは概して理性を失わせるのである。新装オープンした本格かまど焼きベーカリーの早朝限定商品に釣られて寄り道をしたなどとは、決してレイヴン隊の面々に知られてはならない。特に、ある男性構造体には。
――え? この状況で目立たないのかって?
目立つに決まっている!! だがしかし、今はそれどころではないのだ。
目前に曲がり角が迫る。
視界を遮る白い壁面。足音が軽快に石畳に跳ね返る。減速すべきだという理性の声は確かに存在していた。いたのだが、それを採用する余裕が今の私にはなかった。
全速力のまま、私は身体を傾けた。遠心力がかかる。紙袋が揺れ、小さな赤いリボンが空中を切る。口元のクロワッサンが危うく滑り落ちかけた。カーブを曲がりきる、その瞬間。
目の前に誰かの影が差した。光を弾く金色の髪が視界の端で揺れる。青い瞳がこちらを正確に捉えた。刹那にも満たない間に、ひとつの確信が脳裏をよぎる。
――避けられるはずだ。
この距離、この速度、この角度。彼ならば、横に半歩ずれるだけで衝突は回避できる。だが、その身体は動かなかった。むしろ、わずかに腕が開いた。
衝突。
硬い衝撃が上半身に走る。しかし弾かれる前に、身体ごと抱え込まれた。ぶつかったはずの相手は一歩も退かなかった。衝撃を受け止めるように広がった両手。腰へ回された腕が前へ流れる私の重心を支え、彼の胸元にしっかりと固定された。装甲越しの硬質な体温。均整の取れた体幹。呼吸が一拍、遅れる。
だが、忘れるなかれ。その間にもクロワッサンがスローモーションで宙へ解き放たれている。それは放物線を描き、地面へと向かう――はずだった。
瞬きの間に形の良い長い指が、正確にそれを掴み取っていた。僅か一秒未満の出来事だったが、私の心臓はその数倍の時間をかけて鼓動していた。
「ッ、リー!?」
超至近距離。視線を上げれば、澄んだ青い瞳とぶつかる。リーは私を片腕で支えたまま、もう一方の手に無傷のクロワッサンと紙袋を保持している。……なんて器用なのだろう。まるで当然の結果であるかのように金色の髪をなびかせて、青年構造体は静かに長い息を吐いた。
「あなたは、本当に困った人ですね。走行速度と周囲確認。どちらも著しく不足しています」
淡々とした指摘だったが、その視線の先は僅かに落ち着かない。
「今日は、転倒事故で話題になる日ではないはずです。……でもまさか、こんな場所で古典的事象に遭遇するとは思ってもみませんでした」
甘い匂いとは別の熱が、空気に混ざっている。その余韻に浸る間もなく、打ち破るように通路の向こうでひそひそ声が上がった。
「ねえ、あれ……」
「リーさんとグレイレイヴン指揮官じゃない?」
「え、ちょっと距離近くない?」
足を止めた通行人の視線が集まる。精鋭小隊の隊員とその指揮官。平時でも目立つ二人が、朝の商業エリアでこの距離である。誤解が生じない方が難しい。
「ここは目立ちます。移動しましょう」
低い声で囁きながら、リーは宙で掴んだクロワッサンを手際よく紙袋へ戻した。
「ほら、限定品。無事です」
私の手に紙袋を収めてから、小さく息を吐く。
「……次回からは走行禁止です。あなたをキャッチするのは問題ありませんが、公衆の面前では誤解を招きます」
理路整然とした声音。ようやく足元の感覚を取り戻しながら、私は慌ててそれに問い返した。
「――ご、誤解!?」
じっとその青い瞳を見つめてから問う。
「さっきの、君なら避けられたよね……?」
一瞬の沈黙だったが、リーの視線が僅かに逸れた。
「……接近音であなたと判断しました。歩幅、足音の間隔、呼吸の乱れ。全力疾走中であることも把握済みでした」
一拍置いて。
「無論、回避は可能でした」
即座の断言だった。論理も状況分析も隙はない。だが、その視線はわずかに逸れた。通路の向こうでは容赦のない証言が続いている。
「ねえ、あれ絶対そうだよね」
「今日バレンタインだし……」
「あれ、でもリーさん絶対指揮官が飛び込んでくるの待ってたよね?」
「うん。両手広げてたの、私も見た」
人工太陽の光が妙にまぶしい。私がリーの顔を覗き込むと、目を閉じて咳払いを一つした。その頬にじわりと熱が広がる。
回避は可能だった、はずなのに。超高精度演算機構を搭載し、熱エネルギー循環制御においても空中庭園最高水準を誇る構造体である。にもかかわらず。至近距離接触後、頬部に局所的な温度上昇が確認された。
原因は明白だ。――精神的負荷。つまり、照れている。
私がファウンス士官学校首席的明晰頭脳で演算(?)を弾き出している間も、受け止めるために広げられたリーの腕は未だそのままで。思わず口元がむふふふと緩んでしまう。
「……なんて、顔をしているんですか」
説得力はどこにも見当たらなくて。私は空いた両手でペタペタと彼の顔を触りながら、小躍りしそうな胸の内をグッと堪える。困ったように眉根を寄せ、されるがままのリーの綺麗な顔が目の前にある。
「熱循環システムに異常を起こすのは……、あなたにだけです」
「さて、それはどうかな?実証が必要だと思うんだけど」
悪戯っぽく小首を傾けて顔を寄せる。渋々といった様子で大型の猫のような彼の唇が私の頬に軽く触れた。
――え? 公衆の面前でイチャつくなって? これは不可抗力です。
その後、まことしやかにレイヴン隊指揮官とその隊員の構造体の噂で持ちきりになったのは言うまでもない。
おしまい。
Happy Valentine♡
♡♡♡
おまけ
「前に本で読んだよ。猫にチョコレートは食べさせちゃいけないんだって」
「あなたはチョコレートより甘いので。今日は美味しくいただきますね」
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