ダウンライトの下で鈍く光を反射する鍵を、俺は食い入るように見つめていた。カウンターに置かれた小さな鍵を触る水木の指が、慎ましくいじらしい。このホテルの玄関に飾られている真っ白な胡蝶蘭のように、薄暗いバーの中で水木の姿は目を引いた。
「上に部屋を取ってあるんです」
水木の低く小さな声が耳朶を打つ。バーの趣味の良い音楽もグラスの音も遠ざかり、すべての神経が水木に集中した。カウンターに腰掛けた男は、出会った日と同じ和装姿。暗い室内でもはっきりと分かる整った顔立ちをしている。不安そうに伏せた目の傷もアルコールで色付いた耳の傷もけして魅力を損なわない。水木は鍵を掴んで俺を見た。
「厚かましいのは重々承知の上です。どうか僕と」
それ以上は言葉にできなかったのだろう。水木は口を閉ざした。初めて会った時からいじらしい男だと思ったが、今夜はなお一層俺の心を掴んでくる。オープンしたばかりのホテルは周囲の宿泊施設より景観で劣っているらしい。弱点を補うように内部設備を充実させたらしいが、俺は客室の眺めを確かめたくて仕方がなくなった。水木を連れていればきっとみすぼらしい夜景も美しく変わるだろう。
しばらく黙っていると水木がカウンターから離れようとした。肩に手を置いて引き留めると不安そうな目でこちらを見てくる。俺は水木が欲している言葉を与えることにした。
「お前の願いを叶えてやろう」
「……本当ですか、僕の私利私欲の願いを叶えてくださるのですか」
「もちろんだ」
俺は滑るようにスツールを降りて水木の隣に並んだ。
「案内してくれるか」
ぱっと顔を輝かせ水木が頷く。白茶の羽織をなびかせ、緋色の鼻緒が映える雪駄を滑らせて歩いていく。時折こちらを振り返り、はにかんでまた前をいく。水木の指がエレベーターのボタンを押す。最上階を目指し登っていくエレベーターの中で俺の気持ちも高ぶっていった。
水木と出会ったのは妖怪たちが通う小料理屋だ。小粋な女将が切り盛りする店は手頃な値段でうまいものを出す。酒は妖怪のものも人間のものも幅広く取りそろえており、飽きることがない。知り合いから店の話を聞いて、ものは試しと暖簾をくぐった。テーブル席はどこも埋まっており、カウンターでおしぼりを受け取って品書きを眺めた。季節だという秋ナスの田楽を頼もうかと思った時に、カラカラと戸の開く音がした。
「ごめんください、よろしいですか」
耳に響く心地の良い声。思わず振り向くと白茶の羽織に同じ色の単衣を着こなした男が立っていた。妖怪の店では珍しい人間の男。俺はつい目で追ってしまう。
「あら水木さん。今日は一人? 鬼太郎は家にいないのかい」
女将の口調から察するに常連なのだろう。水木という男は一つ隣の椅子を引く。
「鬼太郎は依頼で留守にしているんです。今日は寂しい一人酒ですよ」
微笑んだ男はしなやかな動作で椅子に座ると懐から煙草を取り出した。手慣れた様子で煙草を口にくわえ、懐を探って、眉を寄せた。
「失礼ですが、火を持っていませんか。ライターを忘れてきたみたいで」
水木が煙草を指に挟み会釈をしてきた。手首を傾け愛想良く微笑む様子につい引き込まれる。本来であれば人間の頼みを聞くなど俺にはふさわしくない。それでも、温情をかけてもよいと思える魅力があった。
「これで良ければ貸してやろう」
火遁の術で右の人差し指に火を点す。一族も俺も水を扱う事を得意とするが、不得手な事でも多少の術であれば使いこなせる。水木は顔を傾け煙草に火を付けた。近づいた横顔の美しさに胸がざわつく。唇から紫煙を吐き出して水木が言った。
「ありがとうございます」
目尻が下がり笑みが浮かぶと、それだけでほんのりと色気が漂う。じっとこちらを見つめる瞳の奥に熱を感じる。テーブルの方から、ヒョエ、ヒィと息を飲む音がいくつか聞こえてきた。音の視線を向けると真っ青な顔で老人火がぶるぶる震えていた。俺がうらやましいのだろう。水木は整った目鼻立ち以上に相手を引きつける不思議な魅力がある男だ。
「何、これくらいかまわん」
「お礼になるか分かりませんが、一杯おごらせて頂けませんか」
「では田楽に合うものを」
水木は嬉しそうに俺の隣に座った。ヒェと老人火が胸を押さえて椅子から転げ落ちた。テーブルの方から他の妖怪たちの強烈な視線が刺さる。見目の良い男を隣に侍らせている。湧き上がる泡のように俺の自尊心が満たされていった。
水木は聞き上手で俺は長いこと彼と話し込んでしまった。鬼太郎という幽霊族の末と結婚してから、水木は妖怪の世界に関わるようになったそうだ。親元を離れて見識を深めている最中だという俺の話を立派なことだと相槌を打つ。酒で湿った舌が出来すぎた兄と無関心な父へ少し言及してしまったが、水木は共感をしめし深入りしなかった。本当に話しやすい男だ。そして俺の一挙手一投足を見逃すまいと視線を向けてくる。
「すっかり話し込んでしまいましたね。……また僕と会ってくださいますか」
熱を隠しきれない目線を浴びながら杯を傾ける。この男、夫がありながら俺に気があるのだ。人間は多情な生き物だから、定めた一人では飽きるのであろう。まったく手の施しようのない愚かさだ。
「夫がいると聞いたが、いいのか」
「知り合いに会うだけですから。ああ、でもあいつには今日のことは秘密です」
うっそりと笑う水木をアテに酒をあおる。純潔にはさほど興味はない。他人のものに手を付ける妄想に気分が高ぶる。明後日美術館で会おうと約束して別れた。
それから数日おきに水木と会った。水木は中々に洒落た男で、人の世界に出かける時はモノトーンの隙のない洋装をぴしりと着こなし、妖怪に近しい場所では小粋な色をあわせた羽織と単衣に博多帯を締めてくる。俺も水木に合わせて人の世界では身体を人に変化させてた。水木は俺の人の姿に驚いて益々入れあげたようだ。人の世界でも妖怪の世界でも道行く者がよく水木を振り返る。連れ歩く俺は口元が緩むのを堪えなければならなかった。
「水木、こちらへ」
「はい」
絵画を眺めていても、食事をしていても呼べば必ず俺を見つめ柔らかな声で返事をする。ピタリと隣に寄り添いうっとりと俺を見つめる目に応えてやろうと腰に手を回す。水木は猫のように、するりと逃げ出す。
「……これ以上は勘違いしてしまいますから」
憂いを隠すように微笑んで、しかし隣を譲らぬ強情さ。惹かれているのに慎ましくいようとするもどかしさに俺は何度も唾を飲んだ。手を握ろうとすれば離れていき、肩を抱こうとすればすり抜けていく。少し離れた場所からじっとこちらを見る眼差しの熱に背中が痺れた。日も暮れて、さて別れるかという時に俺は水木に情けをかけてやることにした。
「何か欲しいものがあるのだろう」
水木がぱっと顔を上げそれから視線をそらした。傷のある耳に朱が乗って愛らしい。
「厚かましい願いを口にしても構いませんか?」
震える声で前置きをして、水木がホテルのバーに誘ったのは当然のことと言える。夕暮れの町を水木を侍らせて歩けば、星空の上を散歩するような浮かれた気持ちを抑えきれなかった。
ホテルのエレベーターは空調が効いて快適だった。わずかな浮遊感と共に音が鳴り、上階に着いた。水木の後を追って廊下に出る。装飾されたバーやラウンジと違い無機質な階だ。
「こちらです」
水木は殺風景な扉の前に立つ。鍵を回してドアノブをひねると、途端ビル風が吹き込み水木の羽織をはためかせた。どうにも客室ではないらしい。
「……屋上か?」
都会の夜空は明るすぎて星が数えるほどしか見えない。扉の先へ出ると大型の室外機が並び低い音をたてている。従業員しかこなそうな場所だ。こんなところに部屋などあるのだろうか。
「本当に部屋があるのか?」
「ええ。実はこのホテルのオーナーにツテがありまして、この先に特別な部屋を用意して貰ったのです。あなたのような方を、人間が使うつまらない場所に招く訳にいきませんから」
水木が俺の手を引く。緊張しているのだろう。手のひらがほんのり湿っている。
「無理強いはできません。まだ僕に温情をかけてくれるのなら、どうかこのまま」
震える声で懇願されては嫌とは言えぬ。まして一度誘いに乗っておきながら逃げるなど俺のプライドが許さない。
「水木のしたいようにしろ。俺が許したのだ」
腕を絡めたまま歩き出す。水木がもう片方の手を首元から袷に差し入れた、隙のない装いからわずかに肌が見える。人よりずっと夜目の利く俺には胸にある大きな傷跡が見えた。この傷が水木に俺との接触を避けさせるのだろう。気にすることはないと部屋に着いたら慰めることにした。
大型の室外機が並ぶ先へと水木が手を引いていく。角を曲がると水木が微笑んだ。
「さあ、着きました」
小さな社があった。白木造りの真新しい社がぼんやりと浮かび上がっている。これが部屋かと問うより先に、液体が顔にかかった。
「ゔ……おぇ!」
口に少し液体が入っただけで強烈な酒精が漂いめまいに襲われる。ふらふらと座り込むと手の指が四本に戻ってしまう。
「水木……一体、何を」
水木が懐に入れていた手には小瓶が握られていた。あの中身を振りかけられたのだと気がつく。
「おや。もうお忘れで?」
水木が社の下に置いてある酒瓶を取った。ぺたぺたと雪駄を擦る音がする。ぐるぐる回る視界に緋色の鼻緒が飛び込んでくる。
「言ったじゃないですか。上に部屋を取ってあると」
肩を蹴られて仰向けにひっくり返る。水木が愛想良くニコニコを笑いながら酒瓶の蓋を外す。
「僕の私利私欲を叶えてくださる。そう、約束したはずだ」
ポンと小気味の良い音、続いてボタボタと液体が垂れる音。水木が酒を俺の顔に容赦なく振りかけていく。
「ぐぁ……やめて、やめてくれ!」
粘液に沁みるだけで身体を刺すような痛みが襲う。もんどり打つ俺を水木は熱の籠もった目で見ていた。あの熱心な眼差しは獲物を見定める目だったのだ。獲物が仕掛けた罠に飛び込む瞬間を待ちわびる熱望だ。酒をぶちまけられた顔から四肢から変化の術が解けていく。身体が一回り小さくなると水木は酒瓶を置いた。
「さあ、お部屋へどうぞ。ごゆっくりおくつろぎください」
足首を掴まれた。ずるり、ずるりと引きずられていく。身体が動かない。大の字になったまま為す術はない。ああ、俺はあの社に封じられるのだ。
「オーナーが張り込んだ一級品です。本物の神使をお招きできると喜んでいました。毎日お酒を供えてくださるそうだ。修行に励んでくださいね」
「ひっ……」
喉からひゅうひゅうと息が漏れる。突っ張ろうと手を床に付けたが、粘液で覆われた指が無慈悲に滑るだけだ。俺は喉を震わせて叫んだ。
「いやだ! いやだ、誰か助けてぇ!」
水木は俺の身体を社の前に置いた。社の扉が開き鏡に俺の姿が映る。びくりと身が震えた。蛇に睨まれたカエルとはまさに俺のことだ。
「ひいぃ!」
鏡が輝き身体が引き寄せられる。栓を外した風呂のように容赦なく身体が鏡に吸われていく。
「嫌だ! こんなところに入りたくない!」
水木が口角を引き上げ朗らかな顔で俺に手を振る。熱心に俺を見つめる目の奥は打算と懐柔と鋭い知性がきらめいていた。すべて計算のうち。手の平の上。声帯を操って労いに擬態させた声を発する。
「大丈夫ですよ、神酒に見合うほどの力を得れば出入りも叶います。応援していますよ」
神使の修行が嫌だから家を飛び出してきたというのに。まさか、こんなところで社に封じられるなんて。
「うっうう、嫌だぁ!」
必死で腕を伸ばす。水木は冴え冴えとした目で俺を見下ろしていた。風になびいた羽織を掴もうと指を開き、肩が外れそうになるほど手を伸ばす。四本の指が布に触れる直前、上から何かが降ってきた。
「あ」
ぱしり、と手が弾かれる。上から落ちてきた塊からぎょろりとした目がこちらに向いた。縞柄のちゃんちゃんこ、コンクリートを打つ下駄の音。鬼太郎だ。冷えた目が俺を射貫く。
「違うんだ。俺は何も! 何もしていない! そいつに騙されたんだ!」
夫がある身で誘いをかけてきた人間の口車に乗せられただけだ。この性悪にだまし討ちにされただけだ。頼む、信じてくれ。万感の願いを込めて必死で言葉を発する。
「た、たすけて」
鬼太郎は無言で俺を見ていた。見ているだけだ。
「助けて! お願いです! 助けてください! 人間でも、妖怪でもいい! ああ、神様、仏様ぁ」
「神様はあなたが成るンですよ。お父上もお喜びになります」
あはは、と人間の笑い声が耳にこだまする。鏡の縁を持っていた指が滑り、身体が飲み込まれていく。海辺の懐かしい我が家。兄を気にかけ、力の弱い自分をあしらう父。でも、一度だけ兄に秘密で神社の祭りに連れ出してくれたっけ。
「たす……たすけて、」
ちちうえ、と最後の音は籠もって声帯を震わすことはなかった。
エレベーターが屋上に着く少し前、鬼太郎はねずみ男に呼び出されていた。水木に関する急ぎの用件だと言われ、一ヶ月近く泊まりがけになった依頼を済ませた足で来た。ねずみ男は路地裏にもたれかかり、新築のホテルを指差す。
「あそこで兄さんが蝦蟇相手に大博打の最中だ。様子を見に行った方がいいぜ」
「は?」
ねずみ男はがしがし頭をかいて目を細める。
「お前が留守にしてる間に兄さんとちょっと飲みに行ったんだよ。飲み屋にいた大蝦蟇が鬼太郎の悪口を言って兄さんがキレた。発言を撤回するしないで揉めて、大蝦蟇が兄さんに無理難題をふっかけた。この大蝦蟇ってのが神使をしてるんだが、末の息子がろくに修行しねえ。その性根をたたき直せるんだったら謝ってやってもいいと、まあそんな話になってんだよ」
鬼太郎は強く拳を握った。
「妖怪と揉めたなんて……どうして止めなかったんだ!」
大蝦蟇が力を振るえば水木はひとたまりもないだろう。鬼太郎の声にねずみ男が負けじと眉をつり上げる。
「俺だって止めようとしたさ! 兄さんだって弁えて下手打たないお人だろうが。その人が堪えきれねえほどのことだったんだよ!」
水木が耐えがたいほどの何か。鬼太郎は腹の底に重い石をいくつも入れられた気分になった。
「せめて僕にもっと早く知らせてくれれば」
鬼太郎の恨み言をねずみ男が一蹴する。
「俺はね、兄さんに耳寄りな情報をお持ちしては、しょっちゅうお駄賃貰ってるの。兄さんは毎回お駄賃をくれるけど、お前は文無しだろうが。ねずみ男様に働いて欲しければ銭もってこい! ……言っとくが、お前に伝えてやったのも、兄さんとの契約のうちだ」
ねずみ男は足を踏みならした。
「自分は頭に血が上っていかんから、やばいと思った時は鬼太郎に知らせること。そういう契約で銭貰ってんだ。分かったンならさっさと行け!」
「っ……あの人はもう!」
言いたいことは山ほどある。しかしすべては水木の無事を確認した後のことだ。ねずみ男が顎をしゃくってビルの屋上を示した。
「兄さんは屋上だ。そこで蝦蟇を社に封じる手はずをしている」
「分かった!」
鬼太郎はちゃんちゃんこを掴みしゅるしゅると広げた。ロープのように長く伸ばし、ホテルの配管に引っかけるとぐいと引っ張る。鉤縄のようにちゃんちゃんこを使い、するするとビルを登っていく。上に行くほど風が強くなり髪がなびく。早く早くと急く気持ちのままに鬼太郎はビルの壁を蹴った。屋上にある室外機の音が近くなる。鬼太郎は屋上の手すりを掴んで身を躍らせた。勢いをそのままに室外機に足をかけて飛び上がる。
敷地の一角に社が建っているのが見えた。水木はまさに蝦蟇を中に封じる寸前だ。鬼太郎に黙って妖怪相手にたった一人で戦っている。そうしないといられないほどの理由が彼にある。蝦蟇の手が社の中から水木に向かって伸びるのを捉えた。
「水木っ!」
鬼太郎は宙で身を返し、鋭く叫んだ。
蝦蟇が社に納まってすぐに、一陣の風が屋上に吹き込んだ。鬼太郎が水木をかばうように前に立つ。
「……これは一体どういうことか」
つむじ風と共に大蝦蟇がやってきた。腕を組み水木を睨みつけてくる。神使を務めるだけあって、息子の異変を遠方から察したらしい。大蝦蟇はカエルの本性はそのままだが、二本の足で立ち狩衣をまとっている。息子と違って粘液が衣を汚すことはない。酒場で会ったときは酒を飲み過ぎた茹でカエルかと思ったが、確かに力はあるようだ。
「ご覧の通り、ご子息は邸内社で修行に励まれております。新築のビルの商売繁盛、ホテルの宿泊客の安全守護のためにと、それは立派な心がけ」
「ぬかせ! 中から息子のすすり泣きが聞こえるではないか! 一体どんな手を使って社に閉じ込めた」
大蝦蟇の大音声が骨まで響く。隣に立つ鬼太郎は威嚇するように大蝦蟇を睨みつけている。水木はぐっと拳を握って一歩前に出た。ふつふつと煮えたぎる怒りを言葉に変えて一音ずつ吐き出していく。
「ご子息には僕の願いを叶えてくださると、お約束頂きました。ですから修行なさるのですよ。大蝦蟇様に頂いた神酒に見合う力を得られれば、ここから出られるでしょう」
腹の熱と反対に頭は冴えていた。水木は更に一歩前に踏み出す。そうすると鬼太郎が下駄を鳴らして隣に並び立つ。
「俺にそうしろと、あんたが言ったんだ。やれるものならやってみろと。だから死力を尽くして約束を果たしたんです」
「ぐ……」
大蝦蟇が身じろぎをする。ぎょろぎょろ目を動かし鬼太郎を指さした。
「き、鬼太郎! なぜこの人間の手綱を握らんのだ。あまりにも躾がなっとらん!」
旗色の悪さに大蝦蟇が矛先を変える。
「この人の矜持に関わることです」
鬼太郎が矛を瞬時にはたき落とした。
「神使相手にもめ事を起こしたのなら、咎められるべきはこの人だ。しかし、あなたが水木の矜持を踏み付けたのならその限りではありません。責めて取り上げるなど絶対にしない。奪っていいはずがない」
水木は鬼太郎の言葉に背を押される心地がした。大蝦蟇を睨み、鋭く問いかける。
「先日の言葉、撤回してくださいますね」
大蝦蟇が苦々しく顔を歪めた。
「っ……よかろう。もうあのようなことは口にせぬ」
大蝦蟇から言質を取り、水木はひっそりと息を吐き出した。怒りで抑えられていた恐怖が今頃やってきて、襦袢の下の足が震えはじめた。
『ちちうえ、父上……そこにおられるのですか』
社からか細い声が聞こえてきた。大蝦蟇が目を見開き、縋るように駆け寄ると小さな鏡をのぞき込む。
「おお、息子よ! このような狭苦しいところに閉じ込められてしまって」
『父上は私がお嫌いなのですか。だからこのような仕打ちを』
「それは違う! 儂はこの人間に……騙され……ごほん! いや、その」
元はと言えば酒を飲み過ぎた大蝦蟇が招いた結果だ。水木が冷ややかな目を向けると、大蝦蟇が小さく頭を下げた。
「すまない……儂が悪かった」
『父上に謝られたのは初めてです』
「聞いたか、鬼太郎。ひどい父親だなぁ」
追い打ちをかけるように声を出す。大蝦蟇は水木を一睨みしてから社に向き直った。
「お前を気にかけることが出来ず寂しい思いをさせた。何か欲しいものはないか」
『……時折訪ねてくださいませんか』
「もちろんだ。供え物にお前が好きな団子を持ってこよう。欲しいものがあれば何でも好きなものを言いなさい」
「物で釣るのか。ふうん……」
鬼太郎がぼそりとつぶやく。大蝦蟇の額から油がふきだした。額に懐紙を当て、油を拭き取る。蝦蟇の油売りが喜びそうな大粒の油をにじませ、息子の言葉を待つ。
『では、杯をください。父上と神酒を飲み交わせる日まで頑張ってみます』
「おお……そうか、そうか! では瀬戸大将に頼んでお前に見合う逸品を用意しよう。またすぐに来るからな!」
大蝦蟇は水木と鬼太郎を一瞥すると両手を打った。一陣の風が巻き起こり姿が消え失せる。社は長いため息の後に静かになった。水木は社の扉を閉めて後ろを振り返る。鬼太郎がじっとこちらを見ていた。
「助けにきてくれてありがとな」
「僕はいつだって水木の味方だ」
鬼太郎は水木に近寄ると頭をこちらの胸に押しつけた。
「蝦蟇に手を引かれそうになったあなたを見て、肝が冷えた」
抑揚のない声に水木の胸がちくりと痛む。頭に血がのぼっていて冷静ではない自覚はあった。ねずみ男に頼んでおいて本当に良かった。
「ねずみ男から粗方事情は聞いている。どうしても許せないことだったと分かっているが、水木を失うかもしれないと怖かった」
水木は丸い頭をそっと撫でた。指を差し込むと柔らかい髪がさらさらと落ちていく。
「すまない……お前にひどいことをしたな」
「僕よりも水木だ。目元、ひどい隈じゃないか」
コンシーラーで隠しているが、鬼太郎にはすぐにバレた。
「そりゃ、ただの人間が、方々手を尽くしていたからなあ」
大蝦蟇に無理難題をふっかけられ、水木はあちこち駆けずり回る羽目になった。知己を訪ね資料を作り、大蝦蟇の息子を口八丁で丸め込み、眠る暇もない。それでも大蝦蟇の言った言葉をそのままにはしておけなかった。
「大蝦蟇は何を言ったんだ」
「……お前を不出来だと」
そう不出来だ。鬼太郎が水木から身体を離す。あの日を思い出すと怒りを抑えられない。
「大蝦蟇の野郎、鬼太郎が人間を婿にしたと馬鹿にしていた。人間の、しかも男なんてまあ馬鹿だと。だったらうちのアホ息子の方がまだ真っ当だとな。そんで、言ってはならんことまで口にした」
『こうも酔狂では、命と引き換えに産んだ母御が哀れでならん。あのような不出来な子供であれば産んだ甲斐がなかろう。産まれぬ方が良かったのだろうよ』
水木は苦々しさに舌打ちをした。あの言葉を聞いた瞬間、胃に熱した鉄を投げ込まれたような怒りが湧き上がり、椅子を突き飛ばすように立ち上がっていた。ねずみ男の制止する声も袖を引いて止めようとする手も振り払って相手の前に立った。
「産んだ甲斐がないだと? その言葉を聞いて許せるか? この世に産まれない方がいい命なんてあってたまるか。必死に産んだこと、生き延びてきたことを馬鹿にされてたまるか!」
爪が食い込むほど拳を握ると鬼太郎の手が伸びてくる。有無を言わさず指を解かれた。優しく握られてささくれた気持ちがわずかに落ち着く。
「うん、よく分かった。だから一人で喧嘩をふっかけたんだな」
聞き流した方が賢かったろう。しかし、あの言葉を放っておいたら水木の中の大事な部分が腐ってしまう。鬼太郎が矜持と言ったそれを捨てることは出来ない。
「本当なら地面に頭を擦り付けて詫びて貰いたいもんだったぜ。それでまあ、クソ野郎のアホ息子が修行を放棄して困っているから、それをどうにかやる気にしろと。そうしたら撤回してやろうという事になった」
水木は大蝦蟇から押しつけられた酒瓶を一瞥する。一升瓶の中にはまだ半分ほど酒が残っている。
「大蝦蟇に押しつけられた神酒だ。強い神気に満ちていて、並の妖怪や神使では一口飲むのも難しい。それをひょいひょい飲めるくらい鍛えてみせろと言われてな。社に蝦蟇を閉じ込めて、ビルのオーナーには毎日神酒を供えて貰うことにした」
昔勤めていた猫野不動産の猫又社長を頼り、オーナーに話を付けたのだ。最初は稲荷を祀ろうかと考えていたようだが、ホテルの顧客の渡航安全にカエルはどうかと提案し受け入れて貰った。
「本物の神使がいればきっとこのホテルは繁盛するな。いい修行になる」
「だろ?」
鬼太郎は小さく笑った。
「とは言えこんな大博打、黙っていられたら傷つく」
鬼太郎が水木の手を捧げ持つようにして額に付けた。
「僕ではきっとねずみ男のように立ち回るなんて出来ないんだろうけど、いつだって水木の力になりたい」
水木は鬼太郎のつむじを眺めて微笑んだ。
「矜持を踏み付けるなと言ってくれて、嬉しかった。お前が隣にいてくれてどれほど心強かったか」
鬼太郎の他者を尊ぶあり方に励まされ、この男に見合うような恥じぬ生き方をしたいと背筋が伸びる。鬼太郎は額を離すと水木を見つめてくる。幼い頃から変わらない曇りない瞳に自分の姿が映ると、まるで上等なものになった気分だ。
「恥をかかされたと大蝦蟇が嫌がらせをしてくるかもしれない。しばらくはゲゲゲの森で大人しくしてくれ」
「そうだなあ。もう喧嘩はこりごりだ。砂かけさんの不動産管理の手伝いでもするかな」
「そんなこと言って。また誰かが僕の悪口を言ったら飛んで行くくせに」
水木は拳を握って軽く振る。
「そん時は舅の目玉と俺で、どっちが先に相手を殴れるか競争するさ」
「まったくもう……」
仕方がない人と苦笑いする鬼太郎の手を取り腕を絡める。くつくつ笑うと、あやすように鬼太郎が背中を撫でてくれた。水木はすっかり怒りを洗い流し、機嫌良くエレベーターに乗った。
【月刊神使 十一月号】
《大蝦蟇様の今月のお話》
ある夜、主様がお酒を楽しまれている時のことです。主様は末の息子について悩んでおられました。末子はよく働く兄たちに尻込みして家を離れておりました。そろそろ修行をしなさいと手紙を出してもなしのつぶて。息子と離れた悲しみをぽつりぽつりと話しながらお酒を飲まれておりますと、一人の人間が近づいて参りました。
「僕に主様のご子息が独り立ちをするお手伝いをさせてください」
人間が無邪気に言いました。この人間は幽霊族の末と連れ合った男で、人の領域の外にもよく出入りをしておりました。それ故に主様にお会いできた喜びと、覚えめでたくなりたいという気持ちが押さえきれなかったのでしょう。人間には過ぎた振る舞いでしたが、主様はお怒りになりません。
主様はお優しい方ですので、人間の過ぎた振る舞いをたしなめることにしました。手元の神酒を一本差し出し、こう言いました。
「お前は儂の息子を修行させると言ったな。それはとても大変なことだと分かっているのか」
「はい」
人間は小さく頷きました。ただ真っ直ぐに主様を見つめています。主様は人間に神酒の酒瓶をお渡しになりました。一升瓶を受け取った人間はよろめきます。
「人間が飲めば、たちどころに胃が焼けて死ぬあろう。もしも約束を果たせぬ時は酒を飲み干しなさい」
人間はびくりと肩をふるわせました。もちろん、主様は人間を殺すことなど考えておりません。人間が己の振る舞いを顧みるための機会をお与えになったのです。
「お前の夫である幽霊族であれば飲み干すことができるであろう。ただし、ひどく苦しむことになる」
だから過ぎた真似はよしなさいと主様はたしなめました。しかし、人間はじっと考えたあとにっこりと笑い、酒瓶を抱きしめました。
「約束を果たせば、この酒はいかようにしてもよろしいのですか」
まったく懲りていないことに苦笑いしながら主様は頷きました。心が広い主様は人間が頭の中でどれほど冷徹な計算をしているのか気がつきませんでした。
人間は酒瓶を落とさぬよう、しっかと抱えて言いました。
「では、祝杯にいたします」
人間はにんまり笑ってお辞儀しました。ぺたりぺたりと雪駄を鳴らし鼻歌交じりに去って行きます。
この人間はとても狡猾でしたたかな男で、主様の末の息子をだまし討ちのように社に閉じ込め、無理矢理修行に取り組ませました。主様は息子に強いられたひどい仕打ちを嘆き悲しみましたが、人間を罰しませんでした。そう、主様は寛大なお方だからです。
主様は小さな社に押し込められた息子の元に駆けつけ何度も謝られました。末の息子はひどく傷ついていましたが、主様のお言葉に励まされ元気を取り戻しました。今は神酒で父と杯を交わす日を楽しみに修行に取り組まれております。
《今月の標語》
・酒は飲んでも飲まれるな
・ごめんなさいを言いましょう
・気をつけよう、売り言葉に買い言葉
-------------------
「お前あの祠壊したんか!?」を粉砕して「お前あの社建てたんか!?」がやりたかっただけです。
お付き合い頂きありがとうございました。
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