花咲く日まで ~蕾
霞んだ薄い色の空から、淡い光が緩やかに降りてきていた。庭に面した窓にもその光が差しこんでいる。
窓から暫く外の景色を眺めていた胡蝶が「外に、出たい」と言った。
冷たい風の中に柔らかな暖かさが混じり始め、深く息をしたくなる、そんな日のことだった。
幾月も生死の境を彷徨っていた胡蝶が目を開けたのは、今から一年近く前のことだった。その年の桜はとうに散り、葉の緑が眩しい季節になっていた。
「桜は散ったのですね」
意識を取り戻して少し経った頃、胡蝶が独り言ちた。
「どうせなら、もう一度だけ桜が見たかったです」
哀しむ彼女に「来年、また見られる。一緒に見よう」と言うと、彼女は「私に、来年があるのでしょうか」と寂しそうに言って目を伏せた。彼女はベッドに寝たまま窓から見える桜の枝を見て毎日ため息をついていた。
胡蝶の容態は一進一退をくり返し、その度に俺は「もう少しで桜が咲くぞ」と言って励ました。それしかできない自分をもどかしく思いながら。
そして。
長い一年が過ぎた。
胡蝶はゆっくりと回復していて、今ではベッドに体を起こし、椅子に移って座れるまでになっていた。
桜の蕾が膨らみ、ほんのりと色づき始めた春のはじめ。
「外に出たいです」
それまでほとんど部屋から出ることをしなかった胡蝶が、自ら外に出たいと言った。彼女の頬には赤みが差し、口元にはそれまで見せなかったほほ笑みが浮かんでいた。
驚くと共に、その驚いた様子を決して彼女に見せぬようにして、俺は小さく頷いた。
嬉しかった。
それまでどこか『生きること』を諦めたようだった胡蝶の中で、何かが変わった瞬間だと思った。
彼女を抱き上げ、外へと向かった。
戸を開ければ春の匂いを含む風が頬に当たる。胡蝶は淡い光に眩しそうに目を細め、幾度かまばたきをし、それからゆっくりと空気を吸い込んだ。
体中で、生きていることを噛みしめるように。
「寒くないか」
「はい」
一緒に庭の桜の木を見上げる。
「まだ蕾は硬そうですね」
「そうだな」
「いつ、咲くでしょうか」
「じきだ」
「そうですね」
「もうすぐ見ることができる」
「見られますか?」
「見られる、絶対に」
胡蝶の目に涙が浮かび、頬に流れた。
長い一年だった。
彼女の涙の理由をすべて知ることはできないが、それでも言葉にすることのできない想いが溢れ出ていることはわかった。
「一緒に見よう」
彼女と共に蕾を見上げ、一日でも早く桜の花が咲く日が来ることを願った。
花咲く日まで ~綻ぶ
「外に行かないか」
何度も何度も声をかけられ、窓から覗くだけだった外へ出たくなったのは、日差しが温かいと感じた春の日のことだった。
目を覚ますまで一年、目が覚めてから一年
——二年以上出ることのなかった外の世界は、私には眩しかった。
その日から毎日のように冨岡さんと外に出ている。
サナトリウムの庭にたくさん植えられている桜の木の蕾が膨らみ、空は霞がかったようにほんのりと薄紅色に染まっていた。よく見ればほろりほろりと、いくつかの蕾が綻び始めている。
「もう、じきに咲くな」
車椅子を押しながら、彼が空を見上げた。
なぜこの人が私の元へ来るのだろうか、毎日見舞いを持って。そのことが、ずっと不思議でならなかった。
人里離れた山のサナトリウムの、暗い部屋のベッドでずいぶん長い時間を過ごした。
自分がここにいて、生きている理由がわからなかった。
なぜなら私は、あの無限の城での戦いの時に
——
自分が生き残る可能性など、自分が一番考えられなかったというのに。
目覚めた時、傍らに彼がいた。そして目を開けた私に「よかった」と、確かに言ったのだ。深青の目に薄っすらと涙を浮かべて。
そのことがとても、不思議でならなかった。
「寒くないか」
膝に置いたブランケットが落ちないか確かめながら、彼は肩腕で車椅子を押す。ゆっくりと。
「里は花が咲いた。ここもじきだ」
春は里から来る。だから山にももうじき春が来る、そう言いたいのだろう。相変わらず言葉の足りない人だ。
「冨岡さん、なぜですか?」
そんな彼に、やはり聞かずにはいられなかった。
「なぜ、私のところに来るのですか?」
彼は足を止めた。それから一呼吸遅れて、車椅子の車輪が軋んだ音をたてて止まる。
「なぜ、とは?」
「私が尋ねているのですよ」
「すまない」
「なぜですか?」
彼は車椅子の傍らに膝をついて座った。そして私の顔を見上げ「胡蝶が生きていることが、嬉しいからだ」と、当然の如く言った。
「私は
……」
「もう一度、胡蝶が笑ってくれるなら。それだけでいい」
冨岡さんがそんなことを言うとは、思いもしなかった。
以前、にこりとも笑うことがなかった人が。どの口が言うのかと、そう思った。
何も言葉が出なかった。
彼の言葉がじわりと胸の中に広がっていく。まるで心地いい温度の湯に浸かっているように、暖かさに満たされ、そして泣きたい気持ちになった。
悲しいからでも、苦しいからでもなく。
「胡蝶が、生きていてよかった」
彼の言葉に、頷いた。頬に流れる涙を、彼の手のひらが拭う。
長いながい時間だった。
「一緒に見よう」
もうすぐ桜を見ることができる。。満開の花を
——
花咲く日まで ~花冷え
雨が降っていた。しとしとと、静かに降る雨だった。ようやく開き始めた花びらが、雨を吸って重そうに項垂れていた。
ベッドの上に体を起こしたしのぶの顔色は、良いとは言えなかった。寒そうにすくめる肩に、義勇がショールを羽織らせた。
「寒いか」
「ええ。花冷えとは、よく言ったものですね」
今日か明日かと待つ花の満開はまだ先のようだと、二人は窓の外を眺める。
手元には団子、義勇が花見の為に買ってきた三色団子を、しのぶが一つ頬張った。
「美味しい」
義勇はしのぶの言葉に満足そうに頷くと、自分も団子を頬張った。
「美味い」
「前にも、お団子を食べましたね。一緒に」
「ああ」
「あのみたらし団子、とても美味しかったです」
「それなら次はみたらしを買ってくる」
「あのお店のですよ」
「わかっている」
「冨岡さんは、いつも娘たちにもたくさんお団子を買ってきてくださいましたね」
静かな雨の日に、思い出すのはかつての賑やかな春の日のこと。
——蝶屋敷の桜は、今年も咲いたでしょうか
懐かしい景色がしのぶの瞼の裏に浮かぶ。
小さな団子を一つようやく飲みこみ、しのぶは茶を啜った。
「ああ、美味しかった」
「そうか」
「お花見しましょうね、もちろんお団子を持って」
義勇を見上げ、しのぶは口元を緩ませて微笑んだ。
――一緒に
しのぶの小さな声が、雨音に重なった。
花咲く日まで ~春嵐
雨は嵐になった。夜の暗闇に、強い風と雨の音が轟々と渦巻き、激しく窓を叩いた。
胡蝶の息が荒い。熱が上がっていた。顔色は青白いほどだったが、唇だけは濃い紅をひいたように赤くなっていた。その唇がうわ言に「鬼が
……」とくり返している。
「鬼はいない」
彼女の額に水で絞った手ぬぐいを乗せた。触れた頬は驚くほど熱かった。手を握り「大丈夫だ」とくり返す。
無理をさせたか。
戦いの傷は深かった。サナトリウムで過ごしている彼女は、今も歩くことはおろか立つことも容易にはできないでいた。体調のいい時は車椅子で外へ出ることはできたが、体は疲れやすく、よく熱が出た。
あの頃と逆だと思った。
鬼殺隊で鬼を追う日々。怪我を負うことも、訳の分からない血鬼術で具合を悪くすることもあった。そんな時は蝶屋敷で静養することになり、ベッドで寝ていると胡蝶が心配そうに診にきた。
「また無茶をしたんですか」
「無茶ではない」
「無茶でしょう」
呆れながら処方した薬を差し出し「飲んでください」と言う。そういう時の胡蝶は、いつも笑っていなかった。
薬はとても苦かった。
今ならわかる。
それは心配していた故、だったのだと。
「鬼は
……どうなりましたか?」
薄っすらと目を開けた胡蝶が、不安そうに窓を見た。
「鬼はいない」
「鬼の声がします」
「風の音だ」
額の手ぬぐいを変える。まだ熱は高い。
「風
……花が散りますね。まだ全部咲いてもいないのに」
閉じた目尻から、涙が一筋流れ落ちた。
「せっかく咲いた花が」
彼女の涙を指で掬い、頬に触れる。
「大丈夫だ、花はしなやかで強い。多少の風には負けないほど。満開に咲くまでは、散らぬ。絶対に」
だから今日は何も考えずゆっくりと休めと、枕元のランプを消した。
「
……冨岡さん」
吐息に、細い声が混じる。
「今日は、帰らないでください」
彼女がそう言ったのは、初めてのことだった。
「嵐の夜は、一人は怖いのです」
「わかった」
布団をかけ直し、手をしっかりと握った。
決して離れぬように、と。
「ずっと、ここにいる」
「風は止みましょうか」
「朝には止む」
「また、外に連れていってくださいね」
「ああ。早く熱を下げねば」
「はい」
「苦い薬を飲めばいい。胡蝶の」
「
……嫌みですか」
「いや、あれは良薬だ」
胡蝶の体から力が抜ける。口元が緩み、やがて寝入ったようだ。
風の音に、彼女の寝息が混じる。
嵐に耐える花の、夜はまだ長かった。
花咲く日まで ~桜花爛漫
山にもようやく遅い春が来た。
茣蓙の上に並べられたお重には、おにぎり、たまご焼き、たけのこの煮しめ、マスの塩焼き
——食べきれないほどのご馳走が詰められていた。
どれもしのぶの好きなものだった。
蝶屋敷の娘たちが、しのぶの為に届けてくれたという。しのぶは俵型に握られたおにぎりを一つ手に取り、口に運んだ。
「美味しいです」
懐かしい味だった。蝶屋敷の娘たち、一人ひとりの顔が頭に浮かび、どうしてか目に涙が盛り上がる。
「どうした?」
おにぎりを持ち、泣きながら食べている姿はおかしかっただろうか。心配そうにしのぶを見る義勇に「美味しくて」と言って泣き笑いの笑顔を返し、しのぶは空を見上げた。
空は一面桜色に染まっている。
花が満開に咲いていた。
「とても綺麗ですね」
「ああ」
――帰りたい、あの場所へ。みんなのところへ
しのぶの心に、そんな気持ちが湧いた。
義勇が茣蓙の上にごろりと寝転び「綺麗だ」と言う。それにしのぶが「本当ですね」と返す。ただそれだけのことが、今のしのぶには愛おしくてたまらなかった。
義勇の優しさや、笑顔。ただ傍に居てくれることがどれだけ嬉しいことなのかを知った。
「冨岡さん」
「どうした?」
義勇が、しのぶに手を伸ばす。
「疲れたか?」
「そうではなくて」
しのぶは、伸ばされた義勇の手を握る。
「帰りたい、です」
あの場所に。
みんなのところに。
しのぶは、ぽつりぽつりと言葉を繋いだ。
「冨岡さんと、一緒に。蝶屋敷に帰りたいです」
「帰ろう、一緒に」
「帰れますか?」
しのぶは不安そうな顔を見せた。生死の境を幾度も彷徨い、長い時間をかけてようやく外に出られるようになっても、まだ立って歩くことはできない自分は、この先どれほど生きられるのだろうかと思う。
そんなしのぶの胸の内を推し量るように、義勇がしのぶを胸に抱く。
「帰れる。一緒に帰ろう、家へ」
抱きしめられ、しのぶは義勇の胸にすがって泣いた。
――帰ることができる、家に
しのぶが顔を上げると、はらはらと流れる涙に桜の色が映った。
山に花が咲いた。
遠くで鳥が囀っている。
満開の花が、優しい風に揺れていた。
花咲く日まで ~花筵
鼻先を掠める風が暖かい日だった。
澄みきった空から明るい日差しが落ちる中、山から里へゆるゆると続く長い道を、しのぶの乗る車椅子を押しながら義勇はゆっくりと歩いていた。
「重くありませんか?」
小さな風呂敷包みを一つ膝に置いたしのぶが、片腕で車椅子を押す義勇を気づかった。
「重くはない」
丈夫で、しかも軽く動くように作られた車椅子は、体に大きな傷を負い立って動くことが難しくなったしのぶを案じ、しのぶの為にお館さまが特別に作らせ贈ってくださったものだった。
生きることを諦めていたしのぶに、山にある静かなサナトリウムで過ごすことを勧めたのもまた、お館さまだった。もちろんしのぶが元気になって戻って来る為に。
「お館さまも待っていると仰っていた」
「はい」
「皆も、待ちわびている」
帰りたい
――満開の桜を見て、しのぶがそう言った。待ち望んでいた春が来た。
生き残るはずではなかったと、残されたことに絶望し、長い時間何の希望も見い出せず、ただベッドで息をして過ごすだけだったしのぶが、しのぶのもとに通い続けた義勇と共に満開の桜の花を見て心を動かした瞬間だった。
帰ろう
――義勇は優しくしのぶを抱いた。
そして今日、二人は里へ続く道を下りていた。
家に帰る為に。
「すっかり花が落ちてしまいましたね」
満開になってから数日、桜の花びらは風に吹かれてひらひらと舞い落ち、今ではほとんど散ってしまっていた。
「葉桜とはよく言ったものですね」
「これはこれでいいものだ」
「そうですね、本当に」
道は落ちた花びらで染まっていた。
葉と葉の間を抜ける日が目に入って眩しく、義勇は目を細めて立ち止まった。
「汗が」
「ああ」
しのぶが義勇の額の汗をハンカチーフで拭く。
「お水、どうぞ」
手渡された竹筒から冷たい水を飲み、義勇は大きく息をついた。
「里までもう少しだ」
「冨岡さん、お疲れではないですか?」
「大丈夫だ」
「甘いものでも持ってくればよかったですね」
「桜餅なら道中で買えばいい」
「そうではなくて」
「甘いものなら、ドロップがある」
義勇は懐からドロップの缶を取り出した。果物の味をつけた色とりどりのドロップが缶の中でからからと音を立てた。
「いいですね」
「ああ」
蓋を取り、一つ手のひらに出したドロップを義勇が口に入れた。
「私にも一つくださいな」
「ああ」
「みかんがいいです」
差し出したしのぶの手のひらに転がり出たのは、白い色のドロップだった。
「あら、ハッカです。冨岡さんもハッカですか?」
「もうハッカしか残っていない」
「そうなんですか?」
「他のは、食べた」
「ハッカも美味しいのでいいです」
口に入れると、爽やかな味が鼻に抜けた。大きく息を吸いこむと、葉の香りとハッカの香りが混じる。まるで涼やかな風に包まれたようだった。
「そろそろ行こう」
「冨岡さん」
「どうした」
「少し、歩いてみたいです」
薄紅に染まった道を、しのぶは自分の足でここを歩きたくなった。
「草履、取ってくださいな」
草履の花緒を締めて、地に足を置く。義勇の手を借りてゆっくりと車椅子から下りると、しのぶは自分の足で地面に立った。
「ああ
……」
空を見上げる。懐かしい景色に見えた。
「ここからだと、光が眩しいですね」
しのぶは目を細め、眩しそうに瞬きをする。
「大丈夫か?」
「はい」
義勇の腕に掴りながら、よろけそうになる足に力を入れる。それからしのぶは、そろりと一歩を踏み出した。
「ふふ
……」
しのぶは、笑い出した。
「どうした?」
「いえ
……こんなに、まるで初めて歩いた赤ん坊のように膝が震えてしまって」
「長く療養していたのだから、仕方ない」
「ええ」
本当はもう諦めていたんです、すべてを
——しのぶは独り言のように言葉を落とした。
「こんな私でも、生きていていいんでしょうか」
膝から力が抜け倒れそうになったしのぶを、義勇が片腕で抱きとめた。
「皆、同じ気持ちだ。俺もそう思っていた。満足な体で残った者はいない。それでも、胡蝶がここにいて、また笑えるようになって、俺はそれだけで嬉しい」
「冨岡さん」
「共に
……生きてくれないか、俺と」
枝に僅かに残っていた花びらが、通り抜ける風にひらひらと舞い、二人の上に落ちた。
地面から湧き上がるような暖かさが二人を包む。
「
——はい」
涙混じりにしのぶはそう答えた。
そんなしのぶを義勇が抱きしめる。そして二人は、葉桜の下でそっと唇を合わせた。
優しい日差しと風の中で、ハッカの香りが鼻先に抜けていった。
花咲く日まで ~また来年の約束
「ほんとうに、こういう見立てはお上手なんですよね」
鏡に映る着物に、彼が選んだ帯はよく合った。
春しか着れないような模様と色合いは、もったいなくて私は選ばない。どの季節にも無難に合うものを選んでしまう。しかし桜の刺繍をとても気に入った彼が、どうし
てもこれがいいと言って仕立てたものだった。
桜は終わった。これからは追いかけるように藤が咲く。季節も間違いなく移り変わっていく。
いく季節を名残惜しみ、今日は最後に春の帯を結ぶ。
「やはり、よく似合う」
「あなたの見立てですから」
「簡単なことだ。しのぶに似合うものを探せばいい」
ああ、この人は真っ直ぐなのだ。
真っ直ぐに、私を想ってくれる。
だからこそ私は、この人と共に歩きたいと思ったのだ。
満足そうな彼の手を引き、手を重ねる。
「では、参りましょうか」
懐かしい場所へ出かける。
「しのぶ、その前に
——」
「忘れ物ですか?」
「ああ」
手を引かれ、彼の胸に抱かれた。
頬を撫でられ、口づけられ。
花の中にいるような、日だまりの匂いがした。
また来年、一緒に桜を見ようと約束をして。
了
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