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篠
2026-02-13 20:28:25
8397文字
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Filo Rosso
黒鋼先生にカーディガンを編むファイ先生/堀鐔・2026VD
「黒たん先生のセーターでも編もうかなぁ」
休日の昼食を食べ終えたあと、湯呑をちびちびと傾けていたファイが唐突に言った。黒鋼の淹れた緑茶が入った淡い青色の陶器は、袖を伸ばした両手に包まれている。
この隣人が突拍子もないことを言い出し、あまつさえ止める間もなく行動するのは今に始まったことではなかった。職場ではあの古典教師兼理事長と結託し、常に黒鋼の頭を悩ませている姿の印象が強い。だが一人であっても充分すぎるほど、その薄っぺらな身体に滅茶苦茶を詰め込んでいる。
「ああ?」
今回も例によって脈絡のない発言だが、まだ理解できる内容ではあった。聞き返す黒鋼に構わず、ファイは頬に細い指先を当て真剣に思案しているようだ。こうして一度思考に没頭し始めると、周りの話など全く耳に入らなくなる。今までの付き合いからそれを重々承知している黒鋼は、不本意ながら口を噤んだ。無駄なことに体力を使うべきではない。
自分と大して歳の変わらない成人男性のくせに、少女めいたポーズが妙に似合っている。違和感がないのがおかしいのだと、柔い頬に沈む指先を見ながら漠然と考えた。
もう一人の隣人であるユゥイは、朝から件の理事長に連れられ一日不在にしているらしい。休日まで付き合わされているのは心底同情するが、まぁあの弟なら大した苦労もなく過ごせるだろう。魔の手がこちらに伸びなかったことだけを素直に喜ぶこととする。
腹も満たされ珍しく隣人が静かな昼下がりは、眠気を誘うように長閑だ。我ながら上手い具合に入った緑茶を啜り、髪よりも濃い金色の睫毛が数度瞬いたのを見終えたころ、ファイはぱっと顔を上げた。
「オレちょっと隣戻って見てくるねー」
「おい」
「んー
……
。そんな場所取るものじゃないしこっち来るときまとめて持ってきた気がするんだよなぁ」
会話というより自問自答をしながら、ふらふらと頼りない身体が部屋を後にする。黒鋼はため息をつくと、重い腰を上げその背中を追った。
「っと、危ねぇだろうが」
「
……
ん? くろさまー?」
案の定、クローゼットの奥にしまわれた収納ボックスを積み上げたまま引っ張り出そうとしている横着者を咎める。仕方なく上から順に下ろしてやると、ファイは「ありがとー」とへにゃへにゃ笑った。持ち上げた箱は大した重さではない。面倒くさがって危ない真似をする前に、最初からきちんと荷物を出せばいいだけだ。その無駄に回る頭で計算できないはずがないだろうに、目を離すとすぐこういうことをしでかす。
「あっ、やっぱりあったー!」
同居人が増えたせいかいくらか手狭になった室内を眺めていると、ファイが弾んだ声を上げた。半透明のケースに、何やら細々とした道具が収まっている。楽しそうな様子で中身を改めているが、黒鋼にはこれが目当てのものなのかすらわからない。
「
……
見つかったのか」
「うん、ちゃんと一式揃ってるねー」
おざなりに周りのものを片付けたファイは、ケースを持ってテーブルへと向かった。机の上にそれを置くと、今度は近くにあったタブレットを手に取り、ああでもないこうでもないと操作をしている。
少なくとも不意に崩れ落ちてくることがないよう、黒鋼は把握している限りクローゼットの中を整えた。今は目の前の興味を惹く物事に夢中だが、元々整理整頓ができない人間というわけではない。落ち着いた頃に本人が、もしくは帰ってきた弟が元通りに片づけるだろう。とはいえ、それまでにケガでもされてはかなわない。
こちらを、正確にはこちらの上半身を見つめたファイは、ペン型のマウスでタブレットに直接何かを書き付けていた。黒鋼には未だ操作方法がわかりかねる板を使いこなしながら、蒼い目が好奇心のままに爛々と光る。
「よし、じゃあ大体目途は立ったから毛糸買い行こう!」
「今からかよ
……
」
「特に何の予定もなかったしいいじゃんー。黒たん先生はどんなのがいい?」
「普通でいい」
「やっぱりあざといふわふわ真っ白ラメ入りモヘアのオーバーサイズニットかな?」
「やめろ!」
正直なところ何を言っているかほとんど理解できなかったが、嫌な予感だけはひしひしとする。全身で拒絶する黒鋼を見て、ファイは心底おかしそうに笑ってから身を翻した。
「んもぅ、冗談だよ。黒ぽん先生のサイズでオーバーサイズにしたら、毛糸いくつ必要になるかわかんないし」
そう言いながら掛かっていたコートを羽織る。あっという間に外出の支度を終えたファイが、上機嫌に隣に並んだ。室内に居てもひんやりとした指先が、そっと黒鋼の左手の中に納まる。
「黒ぷー先生のお部屋に寄って、しゅっぱーつ」
「
…………
ハァ」
額に右手を当て、大きく息を吐く。頭が痛むのはこの状況に対してか、それとも左隣の化学教師に振り回され続けるのを良しとしている現状か、未だにはっきりとしないのだった。
巨大なこの学園都市の中に、これまた立派な手芸店があるのは知っていた。学園祭の準備などで、この店の領収書を経費として確認した覚えもある。ただ完全に私的な用事で足を踏み入れることになるなど思いもしなかった。
柔らかな色彩と温かな雰囲気、そして多種多様な商品が細やかに陳列されている店内は、明らかに黒鋼とは正反対の女性客を歓迎している。正直なところ大変居心地が悪い。なぜかそんな場所にも無理なく溶け込んでいるファイは、エレベーター付近のフロア案内を目にしてから、迷いなく歩き出した。
「黒ぽん先生、編物関係は3階だって」
「おう
……
」
こうなるとなるべく存在を消して後に続くしかない。階段を上った先には説明通り、所狭しと棚に毛糸玉が詰め込まれていた。見慣れない光景に圧倒される。ファイは真面目な顔で店内を見て回っているが、何を探しているのか、そもそも何が違うのか、黒鋼には皆目見当がつかなさそうだった。
一人暮らしをして困らない程度の裁縫は叩き込まれたが、それ以外の手芸に関する造詣があるわけもない。家庭的な母は針仕事を好んでいたし、冬場は編み物もしていた気がするが、所詮その程度の認識である。
可愛らしい字で書かれた店頭広告が、じわじわと黒鋼の気力を奪っていく。上着に手を突っ込み他の客の邪魔にならないよう心を無にして立っていると、奥の方で商品を見ていたファイが振り返り、そして小さく手招きをした。
「ね、これどうかなー」
ファイが差し出したのは先ほど言っていた純白などでなく、落ち着いた臙脂色の毛糸だった。
「
……
まぁ、良い色ではあるんじゃねぇか」
「だよねー。黒ぽん先生の目の色にも近いのもなんだけど、学園の制服に感じが似てない?」
「ああ、道理で」
いやに見覚えのある色味の正体がわかり、相槌を打つ。ファイは満足げに頷くと、黒鋼がぼんやり想像していたものより巨大な毛糸玉をいくつもカゴに入れると、会計の列へと並んだ。
「こんなに要るんだな」
「まぁ大目には見積もってるけどね、買い足したくないし」
「? なんでだ」
「ロットが違うと色が変わっちゃうことがあるから」
「
……
? 同じ色の毛糸買えばいいんじゃないのか」
「もちろん色番号は一緒だよ、でも毛糸って染めるときの釜によって微妙に色が変わるんだよね。それをロットって呼ぶんだけど、そこを揃えておきたいってこと。後から買いに行ったときにその在庫がなくなってるかもしれないし」
教師をしているだけあって、こういう時の説明は立て板に水のようだ。黒鋼はなんとなく理解した気がしたので、なるほど、とひとつ頷いた。
「あと下の階でボタンも買わないと」
「セーターって言ってなかったか」
「最初はそう思ってたんだけどー。黒様の性格的に、カーディガンの方が脱ぎ着しやすくて楽でしょう」
反論はなかったが、こちらを見上げる訳知り顔が気に入らない。柔らかい金髪を乱暴にかき回すと気の抜けた抗議の声が聞こえて、多少溜飲が下がった。さすがにここで学園内のような追いかけっこを始めるわけにはいかない。
その後どちらが代金を支払うかで多少揉めたが、なんとかこちらで半額出すことを了承させた。以前騒いでいたオープンしたばかりの甘ったるい匂いのするカフェに立ち寄ったのも、気まぐれということにしておく。
かくして化学教師は、満を持して編み物に熱中し始めた。
手芸店から帰宅しそのままカーディガンに取り掛かるのかと思いきや、まずは試し編みとやらをするらしい。棒やらコードやらを取り出し毛糸を巻き付けている時点で未知の領域だったため、大人しく買ったばかりの雑誌に視線を向ける。少し経ってからふと顔を上げると、既に糸が模様を描く一片程度にはなっていて、黒鋼は密かに驚いた。表面は素人目に見てもきれいに揃っている。
掴みどころがなく適当でいい加減でへらへらと手が焼ける教師だが、器用に何でもこなすのもまた事実だった。物静かな弟もあれでいてスポーツを含め多芸なあたり、血筋なのかもしれない。
当然のように黒鋼の部屋を占領するファイは、黙々と作業を続けている。尖った針先が往復するたびに一段、また一段と臙脂色の面積が増えていくのは、単純ながら面白くはあった。
気づけば日も落ちかかっている。明日も休日ではあるものの、黒鋼は朝早くから部活動に顔を出すため、別々に寝ることになるだろう。
昨夜の晩酌が盛り上がりすぎたのがよろしくなかったな、と思う。あれはあれで悪くなかったが、泊まりこんだ時点で相手も嫌ではなかったのだろうし、昨晩のうちに抱いておけばよかった。今日こんな流れになるとは予想できなかったので、今更言っても後の祭りではあるが。
不承不承立ち上がって台所へ向かい、唯一置いてある紅茶の缶を取り出した。もちろんファイがティーポットで淹れるような代物ではない。黒鋼ができることと言えば、せいぜい湯を沸かしマグカップを温め、ティーバッグを突っ込むくらいだ。両手に持ったそれを、わざと音を立ててテーブルに置く。
目を丸くしたファイが、いそいそと製作途中の一式を横に置き表情を緩め近寄ってきた。湯気を立てる液体は自分の舌でもファイが淹れたものとの風味の違いがわかるほどだ。それでも肝心の本人は、黒鋼に寄りかかりながら嬉しそうに適当極まりない紅茶を啜っていた。
とりとめのない話し声に耳を傾ける。聞けば試し編みとやらはそろそろ終わるので、水通しをしたあとに何かを計り、ようやく実物を編み始めるらしい。
……
こいつ、下手したら熱中しすぎて食事まで抜くんじゃねぇか?
迎えに来た弟に連れられて帰っていくまで、黒鋼の上半身をメジャーで測ったりタブレットに向かい合ったりと忙しなく過ごしていたファイの後ろ姿を見ながら、黒鋼はそんなことを思った。
明くる週、昼食を並べ科学準備室でへらりと笑いかける部屋の主は、一見何も変わりがないように見える。だが黒鋼からすれば、ただでさえ白い顔がいつも以上に色を失くしているのが一目瞭然だった。
「おい」
「わー黒様先生、お顔がこわーい」
「本気で怒鳴られてぇか?」
「えっと
……
、ごめんなさい。気をつけます」
「最初からそう言ってりゃいいんだ」
黒鋼の懸念通り、昨日一日休みなのをいいことに大いに熱中していたのだろう。こんな性格ではあるが、仕事に手を抜くような人間ではない。普段通り準備に時間を割く以上、一番に削られるのはファイ本人の食事や睡眠の時間だ。
「こちとら朝見た時から気づいてんだよ」
「すごいねぇ、野生のカンだー」
「開き直んな。
……
弟は止めなかったのか」
「ユゥイも気をつけてとは言ってくれてたんだけど、今日の準備があったから早く寝て早くに出ちゃったんだよね」
ファイ曰く、つい先ほどまで生徒たちの昼食作りを含めたクラス合同の調理実習があったのだという。言われてみれば今日は朝から顔を見ていない。
「自分でもそろそろ寝なきゃとは思ってたんだけど、久しぶりにやったら楽しくなっちゃって」
いつもより少なく見える弁当を手早く食べ終えたファイは、ごそごそと何かを取り出した。
「じゃーん、結構進んだと思わない?」
一昨日目にした糸が、気づけばしっかりと模様の編み込まれた面になっている。明らかに本人には大きすぎる身幅の作品を掲げ、嬉しそうに笑うファイにそれ以上の説教もできず、適当に相槌を返した。そのまま作業を始める科学教師を向かって声をかける。
「おい、口開けろ」
「
……
オレもう食べたよ?」
「明らかにいつもより少なかっただろ。午後もあるんだからちゃんと食っとけ」
「黒たん先生のが減っちゃう
……
」
「早くしろ」
一口大の煮物を口元に近づけると、ファイは観念したように口を開けた。大人しく咀嚼する姿は、教師のくせにどちらが子どもかわかったものではない。
「飯はちゃんと食え、睡眠も取れ。身体が資本だろ」
「体育会系の発言だー」
「体育教師に何言ってんだ」
何度かおかずを分け与えながら、残りの弁当を平らげた。弟の作る料理とは少しだけ違う、より黒鋼の舌に馴染んだファイの味だ。
毛糸の塊を指差し、帰り際一言残しておくのも忘れない。
「おまえ、それ晩飯のあと預かるからな」
「え?」
「持ったまま部屋帰ったらまた夜更かししかねないからな」
「さすがに平日はやらないよー」
「休日はまたやる気だったと」
「あ」
「信用ならねぇから没収だ! 手ぇ煩わせんな!」
そう怒鳴った黒鋼を一体誰が責められようか。
そんなやりとりを経つつ、ファイは着々とカーディガンを編み進めていた。もちろん実験準備のない休憩中や、健康を損なわない程度の自由時間内に収めさせている。各部位ごとに見知った衣服の形が出来ていくのは、何の知識もない黒鋼の目にも興味深く感じられた。それでもあの細かい作業を好き好んでやろうとは、とても思えなかったが。
どこから話が漏れたのか、科学準備室は今や臨時編み物教室となっているらしい。人好きのする化学教師に師事を受けようとする女子生徒たち、そして巻き込まれた一部の器用な男子生徒たち、その他諸々がひっきりなしに集まっていると聞く。時期がちょうどバレンタインの前というのも拍車を掛けたのだろう。
次の授業の準備があるかないかにかかわらず、先に弁当だけを受け取り体育準備室で昼食をとるようになった黒鋼は、実際にその光景を目にしたことはない。見に行くつもりも、もちろんない。
見覚えのある手芸店の紙袋を持った生徒たちがあちらこちらに居ようと、事あるごとに理事長から生暖かい目で見られようと、モコナたちに茶化されようと、黒鋼には一切関係ないという姿勢を貫いている。
そろそろ完成も近いという黒鋼の目からしてもそうとわかるカーディガンの原型を、指の動きが一度止まったところで取り上げた。夕食を作りに来た弟は三人での食事と片付けを終えたあと、既に隣の部屋へ戻っている。ファイは顔を上げて、不思議そうに首を傾げた。
「まだ早くない?」
目を丸くして壁に掛かった時計に視線をやり、そしてもう一度こちらを見上げる。黒鋼は慎重に作品を棚の上に置いてから、その問いに答えることなく隣人の口を塞いだ。早いどころか頃合いだろう。驚きからか小さく開いた唇を舐め、間から舌を挿し込み歯列をなぞる。少ししてから控えめに差し出された舌を、音を立てて散々嬲った。肺活量の差か、薄い身体が酸素を求めて身を捩る。反応した下半身を押し付けるころには、蒼い瞳は期待にとろりと蕩けきっていた。
「
……
黒様先生のえっち」
「先生はやめろ」
「はぁい」
一度身を引いてベッドに腰を下ろし促すように両手を上げると、おずおずとファイが膝の上に乗ってくる。普段はこちらの都合などお構いなしに飛びつき乗り上げ、年甲斐もなくじゃれているくせに、こういうときは変に恥じらいを見せるのがおかしかった。
もう一度深く口づける。同時に裾から手を入れて直接背骨を撫でると、腕の中の身体がびくんと大きく震えた。くぐもった嬌声と熱を持った咥内をひとしきり味わってから、力の抜けたファイを開放する。二人分の体液を飲み込むために、白い喉が小さく動いた。
「
……
っ♡ 今日、ちょっとせっかちだねぇ」
「誰かさんに放っておかれたもんでな」
「
……
えへへ」
「何笑ってんだ」
「なんでもない、ごめんね黒様」
唾液に濡れた唇を拭いもせず恋人が照れたように何度も己の名を呼ぶのを、黒鋼は満足感をもって受け止めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
学園内の雰囲気はすっかりバレンタイン一色に染まっていた。理事長本人が率先して先導しているのだから、当然の帰結だろう。行事にかこつけてチョコレートを用いた料理を彼女にねだられている、一名の男子高校生の悲鳴が今日も聞こえてくるようだ。
去年は弟がその純粋な性格を大いに発揮し、誤解を積み重ね小さな騒動になったらしい。今年はそんな様子もなく彼女と共に化学準備室での臨時編み物講座に参加し、お互いの完成品を贈り合う予定を立てていると聞く。
「片付けの手伝いありがとう、もう戻って大丈夫だよ」
この調理実習室もその流れを汲んで、今しがた終わったばかりのお菓子作りを名残を感じさせるチョコレートの香りに満ちていた。そう思うと、今年の弟たちのバレンタインはこの双子の教師にお世話になりっぱなしというわけだ。
「いえ、よければここに居させてください。弟の、二人の邪魔にはなりたくないので」
彼にとっての兄である化学教師の元で、小狼たちが編み物を習っているのも把握していたのだろう。ユゥイは小龍を一瞥すると、「お好きにどうぞ」とあくまで優しい声で言った。
残念ながら生徒である小龍には手を貸すことのできない、調理設備の片付けの音が聞こえてくる。さすが兄弟というべきか、化学準備室といい調理実習室といい、綺麗に整頓された様子はどこか似た雰囲気を感じさせた。
「あちらのお二人も、相変わらず仲が良さそうですね」
半ば独り言のような発言だったが、きちんと彼の耳には届いたらしい。ユゥイは今度こそ小龍をじっと見ると、小さくため息をついた。
生徒から人気の高い化学教師が、隙間の時間すら惜しみただ一着を丁寧に編み上げているのは周知の事実だった。そしてその完成品は今、当然のように体育教師の元へ渡っている。デスクワーク中の彼の大柄な身体を包むそれは、生徒たちの制服と似た色でありながら、既製品と見まごうひときわ洗練された出来栄えだ。
小龍がファイの編み物の腕を知ったのは、今回の事態が起こる前だった。ふとしたきっかけで、冬の間いつもユゥイの首元を温めているあの凝った意匠の白いマフラーが、彼の兄から贈られたものだと知ったのだ。あの時は器用さに感心こそすれど、こんなことになるとは思ってもいなかった。
当事者たちの認識がどうであれ、第三者が目にしたのは何日もかけて黒鋼のために熱心にカーディガンを編み上げたファイと、満更でもなさそうな顔でそれを律義に着ている黒鋼の二人である。おまけに弟をはじめとした生徒たちをも巻き込んで、この学園におけるバレンタインの空気を立派に作り上げてみせた。
この状況を総じて表現するならば、大変熱烈な「お二人」ということになるのだが、彼らにその自覚があるのかはわからない。名の通り向日葵のような笑顔で、「本当に仲良しなんだね」と他意なく感心していた少女を思い出す。
しかし渦中の二人と付かず離れずの距離を保つ
――
兄とは親密だが、対象が「二人」であるならこの表現が適切だろう
――
ユゥイは、小龍と似た感想を抱いている確信があった。
「ファイはともかく」
ユゥイがぽつりと呟いた。彼は特に隠すでもなく、そうであるのが当然とでもいうように兄に甘い。そのため矛先は当然もう一方へと向かう。
ただ実際のところ、小龍としても自然体にふるまう化学教師より、あの態度のまま特別扱いが察せられる体育教師の方が、周囲に与える影響は大きいのではないかと考えていた。おまけに無意識なのが厄介極まりない。
テーブルの向こう側で、調理実習講師は細い眉をひそめた。ファイによく似たユゥイの顔が、おそらくファイはしないような表情を作る。
「常識人に見えて、あの人って意外とそういうところあるよね」
平和な学園内、複雑な響きを内包した呟きを聞くのは、あいにく小龍だけだった。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
Filo Rosso:赤い糸
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