ながひさありか
2026-02-13 00:18:22
7268文字
Public STR-Phaidei
 

香りの記憶

0回目→一ページあと。最初の思い出と今、プロポーズ。
一ページ周りはかなりふわふわ。捏造・曲解・拡大解釈が過分に含まれています。

「どうした新兵、休む気にはならないのか」
 何度目かの寝返りの気配に、モーディスは背後の簡易テントを見ずに声を上げた。ごそごそと身じろぐ音と衣擦れの音が聞こえていたが、それがぴたりと止み、あたりには焚火の爆ぜる音だけが響いた。
 一時針ほど前、寝ずの番を交代した男は緊張の解けない顔をしたまま「おやすみ」とモーディスに告げてテントに入っていたが、神経が昂っているのか、はたまたなにか不安でもあるのか定期的に音を立てていた。
 モーディスの問いかけにしばし沈黙を返したのち、テントの入り口が開かれ、静かに男が顔を出した。「約束が違うな」と片方の眉を下げてつまらなそうに零した男にモーディスは一瞥をやり、茶を飲むために沸かしていた湯を火の上から取り上げた。
「お前のように戦場慣れしていない男を救世主とは到底呼べまい、――新米救世主。休める時に休んでおけ」
「言ってくれるな。大体、君の見張りじゃ不安だから眠れないのかもしれないじゃないか」
「ハ、」
 ファイノンの言葉に、モーディスが鼻で笑う。ファイノンを振り返ったモーディスの皮肉そうな美貌が炎に照らされ、金色の髪が毛先の炎と同化するように輝いていた。ファイノンは魅入られたように一瞬視線を取られたが、すぐにハッとし、誤魔化すために眉間に皺を寄せる。
「この俺の見張りでさえ不安になるのであれば、貴様が安眠を得られる地などこの世のどこにもないだろう」
……………………
 モーディスは傍らの茶器に沸かしたばかりの湯を注ぐと、空いた鍋に羊乳といくつかの香辛料と砂糖、蜂蜜を入れて火にかける。匙で中身をかき混ぜているモーディスの隣にファイノンが無言で腰を下ろし、じっと炎を見つめる。青い瞳には陽炎が映り、ファイノンの不安や緊張を代弁するかのように、ゆらゆらと揺れている。
 二人の耳には、ぱちぱちと炎の爆ぜる音と、少し離れた場所にある兵士たちや避難民たちのテントから聞こえるいびきが響いていた。
「数刻もすれば、戦力も物資も揃ったまま聖都へ帰還するだけだ。幸いにも重症者はいない。なにを懸念している」
 こぽこぽと泡のたちはじめた鍋を火から外し、モーディスは静かに傍らの男へ声をかけた。避難民を誘導している間はそれなりに見所のある凛々しい顔をしていたが、とモーディスは失望とまではいかずとも、多少なり意外に感じていた。聖都の女主人が評する「無欠の救世主」とは程遠い姿は、戦いには慣れていても、戦場経験は薄いようで、やはり新兵と呼んで差し支えないように思えた。
「いや……、君が不安がないと言うのならないんだろう。ただ、なんだか落ち着かないんだ」
…………………
 ファイノンは炎から視線を外さず、モーディスへ答えた。昏く沈んだ瞳は相変わらず不安そうに揺れていて、情けなく眉も下がっている。
 捨てられた犬のような顔をするやつだな、とモーディスは杯の半分に茶を注ぎ、その上から温めた羊乳を注いでファイノンに差し出した。
「救えなかった者のことを考えるのはいい。だが、あと数秒早ければ救えたかもしれないなどと、くだらん仮定で自身を責めるのはやめろ」
 休息をとる前、暗黒の潮の造物により失われた民の墓を兵士たちと立て、簡易的に弔っていた。それにはファイノンとモーディスも参加しており、ファイノンが時折、ほんの一瞬眉を寄せていたのをモーディスは知っている。
「くだらないって、」
 杯を受け取りつつ眦を釣り上げた男に首を振って制し、モーディスは言い聞かせるように淡々と続けた。
「くだらん。貴様がいくら考えようとも、救えなかった者は救えなかったのだ。後悔したところで死者は蘇らない。その事実を受け止め、己の力量を見誤るな。驕るな。貴様も俺も、今はそこまでなのだと自覚しておけ。――俺が言うとかえって説得力に欠けるかもしれないが」
 俺は帰ってこられるからな、と熱い杯に口をつけたモーディスに、ファイノンは呆れた顔を見せた。
「君、笑っていいのかわからない冗談を言う奴だって言われないか?」
「言われたこともあったが、今はもういない」
 モーディスのどこか懐かしむような表情に、ファイノンは口をへの字に向けて眉を下げた。今はもう、と言うことはきっと、亡くなった友人なり忠臣なりがいたのだろうと推測はできたが、そんな過去について聞くには、まだこの王子のことをよく知らない。
……それ、昔のことを聞いてほしくて言ってるのかい? それとも天然?」
「? どういう意味だ」
「ああ天然か……、ならいいよ」
 ファイノンは不思議そうな顔をするモーディスに首を振り、飲める程度には冷めた杯へ口をつける。甘さの強い茶だったが、ほっとする香りが鼻を抜け、ふぅ、と息を吐く。
「お喋りする元気があるのは僥倖だが、それを飲んだら寝ておけ。お前の不安が的中しないとも限らん。寝不足が理由になれば後悔が深くなる」
……それって経験則?」
「残念だが、聞いたことがあると言うだけの話だ。俺自身は特に困ったことはない。柔な鍛え方をしていないからな」
「僕だって、」
「新米救世主。――俺にそう言われたくなければ、張る必要のない意地を張るな」
 モーディスは静かに首を振り、杯を傾けて焚火を見つめた。話はこれで終わりだ、とでも言うような横顔に、ファイノンは黙って茶を飲み干すことにする。

 時間をかけて杯を空にすると、「ありがとう」と小さく、口の中で不鮮明に呟き、腰を上げた。
「救世主」
 そそくさと立ち去ろうとしていたファイノンを引き留めるかのように、モーディスが声を上げる。ファイノンは足を止め、彼が懐から小さな香炉と香を取り出し、火をつける姿を見つめた。
 ふっ、と息を吹きかけて香の火を落としたモーディスは香炉へそれをしまい、「入口付近にでも置いておけ。中には入れるなよ」とファイノンへ香炉を差し出した。
 燻されたような深い木の香りに、先ほどモーディスに差し出された茶のような、様々なスパイスの香りがふわりとファイノンの鼻腔を刺激した。甘い茶を飲んだからだろうか。香りが妙に馴染んでくるような気がし、ファイノンは香炉を受け取ってしばらく、、手の中にある小さなそれを見つめていた。モーディスはさっさと焚火へ目を向けており、もう、ファイノンの動向に興味はないのか、つれない美貌を炎に揺らめかせている。
……おやすみ」
「ああ」
 いらないよ、とも、どういうつもりだ、とも、君の好きな香りなのかい、とも、どれも尋ねることはできなかった。ファイノンは自身の胸の内に沸き上がったあたたかな感情に混乱し、モーディスに背を向けてテントへと戻る。
 蹴とばさないように慎重にテントの入り口のわきに置き、少しだけ、煙が入ってこられるように隙間を開けておく。内部の簡易窓を開けて空気の通り道を作ると、香りが微かに漂っているのを確かめて横たわり、深く息を吸った。
『俺自身は特に困ったことはない』。それが真実であるならば、何故こんなものを携帯していたのだろう。
 戦場暮らしの長い戦士特有の無意識の常識なのか、はたまたあの態度の偉そうな王子の優しさなのか、ファイノンにはまだわからなかった。判断するには、まだ彼のことを殆ど知らないからだ。
 瞼の裏で、ファイノンは香りの先にいる、焚火の前で茶を入れていたモーディスの姿を思い描いた。理由もわからず張りつめ、ささくれていた精神は温かいお茶と深い香りでいつの間にか穏やかになっているのを感じ、小さく、ため息をついた。
 この穏やかで深い香りが、嫌味なほど彼に似合っている。

   *

……なんだか懐かしい香りだ」
 ファイノンは部屋の隅に置かれていたやや大きめの香炉から立ち上る煙をふんふんと嗅ぐと、顎に手を添え、果たしてこれはいつの記憶だろう、と首を傾げた。香りに敏感なモーディスのプライベート・ルトロはいつ訪れても微かにいい香りがしていたが、輪廻によって彼の好みが少しずつ違っていたのを覚えている。
 自分より先にピュエロスから上がったモーディスは優雅そうにベッドに身を横たえていて、ファイノンの言葉が聞こえていないのか、はたまた興味がないのか、なにやら分厚い本を持っていた。クレムノスの民とオーリパン王、ゴルゴー王妃と共に先に故郷へ帰った友人が最近上梓した歴史書だとかで、近頃熱心に読んでいる。
 ファイノンはまだ痕の残るモーディスの肌と香炉を交互に見つめ、しばし考えてから寝台へ近づく。
 うつ伏せで本を読んでいるモーディスの後ろ髪を鼻でかきわけ、項を探り当てると、キスをしてから匂いを嗅ぐ。もしかして石鹸の香りだっただろうか、と考えていたが、部屋に満ちるものとは種類が違っていた。
「鬱陶しいぞ」
 本に目を落としたまま、モーディスはファイノンの体を軽く叩き、首を緩く振る。モーディスの声音は別段苛立ったものではなく淡々としていた。「今夜はもう少し読書をしたい」と言っていたモーディスをどうにか丸め込んでセックスに持ち込んだせいか、ピロートークに付き合うつもりはないようだった。
 ファイノンは大人しくモーディスから離れると、読書の邪魔をしない代わりに、隣に横たわって肘をつき、読書をする横顔を眺めることにした。
 飽きるほど眺めた筈のモーディスの横顔だったが、気を抜けば溜息が零れそうな程の美貌を「見飽きる」ということはなかったらしい。読書に夢中になっている長い横髪を耳にかけてやっても、モーディスは視線すらファイノンに向けない。
 そのつれなさは、あまり嫌いではない。

   *

 オンパロスが新生し、「一ページ」――オクヘイマで人々が目覚めてから暫くが経過していた。
 ファイノンの両親や村の人々は先々週にエリュシオンに戻っており、ファイノンも一度村に帰って、しばらくはのんびりとした平和を味わうつもりだった。彼らと一緒に帰郷しなかった理由はと言えば、帰郷するファイノンの両親に挨拶をしに来たモーディスに、「もうしばらくここにいろ」と本当に珍しく、乞われたからだ。理由を尋ねれば、「俺に挨拶に来るのが遅かったからだ」と拗ねられ、「クレムノスも最早お前の故郷だろう」と斜め上のクレームをもらう。
 クレムノスが僕の故郷だって? と困惑するファイノンに、モーディスは眉を寄せ、ため息をついた。
『お前は何度も「紛争」を継ぎたがっていた。俺も、お前が「紛争」を継いでも構わないと何度も言ったように思うが』
『うん? まあ確かに、二千五百万回くらいはそんな話をしたかもしれない。だけど、結局僕は紛争を継ぐことはなかっただろ。いつだって僕は試練に失敗してしまっていたから』
『それでもだ。お前は俺に「紛争」を継いでもいいかと尋ね、俺は了承した。恐らく二千五百万回はな。……つまり、お前はもうクレムノスの男でもあるだろう。違うのか? だから図書館の鍵もお前の手の中にあると言ったんだ』
……………なるほど?』
 そう口にしつつも、ファイノンは「いや、その発想は本当に全然なかったな」、とも感じていた。しかし、眼前で腕を組み、拗ねた顔で違うのか? と眉を跳ね上げているモーディスの機嫌を、更に損ねるようなことをわざわざ言いたくはなかった。
『それに、俺の両親に挨拶をしたいと言うのも、俺と生涯を共にしたいと言う意味だろう。懐かしい故郷を見に行くなとは俺も言わん。だが先にす――
『え?』
『なんだ?』
『ああえっと……、いやその……、待ってくれ、今、大事なことを先に言われてしまった気がする』
『? なんだ?』
 腕を組んだまま不思議そうな顔をするモーディスをちら、と見やり、ファイノンは「だからその……」と落ち着きなく視線を彷徨わせたあと、覚悟を決めたように深呼吸を数度繰り返し、彼に向き直った。
 モーディスは既に腕を下ろしており、ファイノンをいつもの、感情の読みづらい凪いだ美貌で見つめている。実のところ、モーディスは穏やかな男だ。為政者としての振る舞いは威圧的に見えることも多いが、それが立場からくるものなのだとファイノンはもう、嫌と言うほど知っている。彼は本当に優しい男なのだ。でなければ、彼が人々に食事を作って振る舞ったり、子どもたちのごっこ遊びに付き合ったり、引き返してくれと希う部下の声を無視し、共に死出の道行きを歩みはしないだろう。
 果たしてこの男と肩を並べるのに相応しい生き方をしてこれたのか、ファイノンには今も疑問だった。それでも。
 ファイノンはモーディスの烈日のような眩しい金色の瞳をまっすぐに見つめ、息を吸った。
――僕と結婚してくれないか? 本当に君と一緒にいたいんだ。今まで何度も君にそう言ってしまいたかったんだけど、勇気が出なくてさ。その、勿論君が良ければだけど……
 最後までしっかりしろよ、くそ。
 ファイノンは段々と自信なく尻すぼみになって行く自分に、心の中でそう叱咤するが、考えれば考えるほど情けない気持ちが強くなっていた。
 断られはしないだろう、と言う確信は一応ある。生涯を共にしたいと言うことだろう、とモーディスから言ってくれたのだ。
 それなのに堂々と言い切れなかったのは、何度彼に赦されようと、赦された数だけ、彼の胸を貫いたのもまた事実だと分かっているからだった。
 ハ、と小さく息を吐くモーディスの声が聞こえ、ファイノンは一度、しっかりと瞬きをする。
 眼前のモーディスがほっとしたように肩を落とし、ふ、と眦を緩めてはにかむような微笑を浮かべている。黎明のミハニの強く眩しい光ではなく、本物の太陽のやわらかな陽光が、モーディスに注がれていた。
『またくだらん事を考えているようだが、お前に話したことが全てだ。俺の図書館の鍵は既にお前の手に渡っている。つまりは、お前にはすべてが開かれていると言うことだ。例えあと何億年輪廻を繰り返そうとも、お前が何に負い目を感じようとも、俺の決定は変わらない。何度出会おうと俺はお前に弱点を教え、お前を愛するだろう。だからお前は、お前の思う通り、正直に生きればいい』

   *

――イノン、ファイノン」
……あれ?」
 肩を揺さぶられ、ファイノンの意識がフ、と上昇する。
 瞬きとあくびを繰り返す顔をモーディスに見下ろされていて、いつの間にか、読書灯の下ろされた室内は薄暗くなっていた。
「眠くなったのであれば寝ろ」
 モーディスは三つ編みの端を掴んでいたファイノンの指先を笑いながらそっと外し、足元にまるまっている掛布を腰の辺りまで引き上げた。
「もう少し君を見ていたかったのに……
 ふぁ、とあくびを噛み殺しながら、ファイノンはモーディスの頬に手を添え、目尻の赤い刺青を親指の腹で撫でた。穏やかで優しい表情をしているモーディスの唇にキスがしたい。そっと頬を引き寄せると、察してくれたのか、モーディスはやれやれと呆れたふりをして、ファイノンの望む通りにキスをしてくれる。
「寝ていたくせになにをわけのわからんことを言っている。さっさと寝ろ。明日、また好きなだけ眺めさせてやる」
 シーツの上に置いていた本を手に取り、寝台から足を下ろそうとしているモーディスの背中越しに腕を伸ばし、「行くなよ」と抱き寄せる。
 肩口に鼻を摺り寄せて甘えながら、ファイノンは睡魔でどうしようもなく重くなる意識に瞼を閉じた。モーディスを抱き寄せながら深く息をし、部屋に満ちたどこか懐かしい、重く甘い香りを肺腑の奥まで下ろす。燻したような木の香りとモーディスの肌から香る石鹸の香りとが混ざって、いい気分だった。
「本を置きに行くだけだ。角が折れては困る」
 ファイノンをあやすように髪を乱雑に撫でてくるモーディスの手に防具はなく、整えられた爪も指の形も美しい。果たして彼が素肌で触れる相手がこの世にどれほどいるだろう、とファイノンは確かな充足感を得、仕方がないな、とようやく腕の力を抜いた。
 もう一度、モーディスは宥めるようにファイノンの髪を撫でると、今度こそ寝台を降り、本が十数冊収められている本棚に本を戻してから、寝台へと戻ってくる。
「おかえり、遅かったじゃないか」
「お前が俺に挨拶に来るまでの時間を考えれば、ずっと早かっただろう」
……悪かったよ。ちょっと考えすぎてたんだ、もう許してくれ」
「フン、お前の繊細さは理解している。近頃はようやくマシになったかと思ったが、まだ時間がかかるようだな」
 寝台に身を横たえたモーディスを抱き寄せ、ファイノンは目許に何度も口付を落とした。いい加減しつこいぞ、とも言わず、モーディスは笑って口付けを受けながら、ファイノンの体をゆっくりと優しく撫でる。
「もう寝ろ」
 モーディスはいつまでも頬に唇を押し当ててくる男の唇に唇を重ねて離すと、それ以上余計なことができないように、両腕ごと抱きしめた。
「逆なんだよなぁ……
 モーディスは眠たそうな声で文句を言う男に笑いながら、片手で器用に寝台の分厚いカーテンを閉める。
 昼夜の訪れるようになったオンパロスでは、今やカーテンを閉めずとも夜の帳は下ろされるが、長年の慣習か、閉めずに眠りに向かうのは落ち着かない。
……思い出した」
 モーディスの鎖骨に額を摺り寄せ、ファイノンがくぁ、とあくびと同時に声を漏らす。
 モーディスはファイノンの髪に唇を下ろし、続けられるであろう言葉に耳をそばだてた。
「最初に君が、遠征地で渡してくれた香りだ」
 よく眠れた、と零された言葉に、モーディスも満足そうに瞼を下ろした。


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Ciphさんへ:お手紙でイメージ香水教えてくださりありがとうございました!
香水:Maison Margiela - Under the Stars


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