雪華
2026-02-12 23:20:07
12550文字
Public オルサイ
 

【オルサイ】見えない首輪【Dom/Subユニバース】

#olberusweek Day4.AU
以前から書きたいと思っていた、Dom/Subユニバースという設定のオルサイを書きました。
甘やかしたいDomのオルベリク×無自覚甘え上手なSubのサイラスです。
書きたいところだけ書いたので、唐突に始まって唐突に終わります。

街に唯一の酒場はほぼ満席状態で、大いに賑わっている。八人は円卓を囲み、各々雑談しながら食事をとっていた。雪豹のリンデだけはハンイットの足元に伏せて、彼女用に分けられた肉を噛み締めている。

「ん! このお肉のパイ包み美味しい~! ジューシーで、野菜の甘味もあって……いくらでも食べられちゃいそう」
「トレサなら本当に一ホール食えそうなのがな……
「さすがにそんなには食べないわよっ」
「なかなか手が込んでいるな。このソースもまた美味い」

リンデを除けば、男が四名、女性が四名とバランスが取れた比率だ。――肉体の性だけ見れば。男女性が肉体に宿る性ならば、ダイナミクスは精神に宿る性と呼ぶべきだろうか。ダイナミクスは支配欲求を持つDomと、被支配欲求を持つSubの二種類に分類されるが、そもそもダイナミクス自体を持たない者が大半だ。
オルベリクは珍しいことにDomである。そして仲間内に同じくダイナミクスを持ち、かつ対の属性であるSubがいることも知っていた。先程からオルベリクの手元を凝視する視線に応えるように、横目で見遣る。

……なんだ? サイラス」
「そのパン、美味しそうだね。一口分けてくれないかい?」

低く柔らかい声だ。学者であり、教師でもあるサイラスの声は普段から耳に心地良いが、その要求はまた格別にオルベリクの心を掴む。頭で考えるより先に返答している自分がいた。

「ああ、もちろんだ」

自分が歯型を付けているのとは反対側をちぎり、彼の手元の皿に乗せる。別段、特別に美味いパンではない。極々普通のありふれたものだ。誰も手を伸ばそうとしなかった最後のひとつを、たまたまオルベリクが取っただけである。それでもサイラスは眦を柔らかくした。

「ありがとう、オルベリク」

感謝の言葉とともに嬉しそうに微笑まれると、胸が満たされてゆく。やはり、と確信を抱くのももう何度目になるだろうか。彼は――サイラスは、間違いなくSubであった。
本人の口から聞いたわけではないが、共に旅を始めてすぐに気が付いた。何故なら、彼のこういったささやかな要求はオルベリクの心を鷲掴みにし、叶えてやった時の礼は全身に快く響く。理屈や理論ではなく、もっと根本的な、本能とか根源とかそういったところで、オルベリクは彼がSubであることを感じ取っていた。そして恐らく、サイラス自身もオルベリクのダイナミクスを察していることだろう。

「先生、またオルベリクさんからもらってるの? 足りないならもうちょっと頼む?」
「いや、大丈夫だよ。ほんの一口で充分なんだ。それにほら……人が食べていると、満腹でも食べたくなったりしないかい?」
「そういうこともありますよね。わたしもトレサさんを見ていると、もう一口、もう一口……と、ついつい食べ過ぎてしまいます」
「何にせよ、食べられる時にしっかり食べておくのは大切だな。……リンデももう少し食べておくか?」

トレサが『また』と称したように、サイラスがこのような要求をするのは、いつも決まってオルベリクだ。年少の仲間にはできない甘えがあるのかもしれないが、さすがにそれだけでは説明がつかない。そんなことをぼんやり考えながら、残ったパンを口に放り込んでエールで流し込んだ。
食事を終えると宿屋に向かい、宿泊の手配をした。今日は二人相部屋となり、女性陣が部屋割りについて相談している一方で、オルベリク達はいつしか定番となった組み合わせで鍵を割り振った。歳が近いほうが何かと気安いからと言っていたのはサイラスだったか、それともアーフェンだったか。少なくともテリオンではなかったはずだ。

「それじゃあ、みんなゆっくり休んでくれ」
「はい、おやすみなさい」
「おやすみ~。ふあぁ、今日もよく働いたぜ……
「お前の薬や治療にはいつも助けられている。また明日も頼むぞ」
「任せとけ! ま、怪我がねぇのが一番だけどな」

からりと笑って、アーフェンは手元で鍵をいじりながら廊下を歩いていく。その視線の先には、就寝の挨拶を無視して既に歩き始めていたテリオンの姿があった。女性陣も部屋割りを決めたのか、それぞれロビーから客室へと移動していく。全員の背中を見送ってからようやく、オルベリク達も居室へ向かった。
オルベリクが部屋の扉に鍵を差し込んで開く。扉を押さえている内にサイラスが先に入室し、机上のランプに火を灯す。これもまた、ここ最近の暗黙の了解だった。寝台が壁際に二台と、小さな書き物机に丸椅子があるだけの簡素な内装がランプの明かりに照らされる。

「オルベリク、どちらの寝台を使うか選んでくれるかい?」
「では、お前が奥側を使ってくれ」
「分かった」

寝心地に大して違いがあるわけでもない。これは特に意味のない選択だ。しかし、そんなことでも委ねられるのが心地良い。それは相手がSubであるサイラスだからに他ならなかった。
床に荷物や剣を下ろし、籠手や手袋を外す。今日は少し早めの解散になったから、眠るまでは少し時間がある。鍛錬でもするか、それとも連日となるが剣の手入れでもするか。明日の予定については食事中に打ち合わせたばかりだが、向こう暫くの旅程をサイラスに相談するのも良いかもしれない。思い付くままに過ごし方を考えていると、不意に名を呼ばれた。

「ねえ、オルベリク」
「どうした?」
「私とのプレイに興味はあるかい?」

一瞬、何を言われているのか分からなかった。思わず体ごと彼に向き直るが、そこには涼し気な微笑を浮かべる男がいるだけだ。

……どういう意味だ?」
「分かりづらい質問だったかな……確かにダイナミクスについて言及したことはないが、私が感じているようにあなたも察しが付いているはずだ。私はSubで、あなたがDomであるとね。もしもあなたも望んでくれるのなら、プレイをしてみるという選択肢はあるかと思ったのだが」

絞り出すようなオルベリクの声に対し、相変わらずサイラスは淀みなく喋る。初めて彼が自分のダイナミクスを打ち明けた場面だったが、やはり衝撃はない。同時に、彼がオルベリクをDomだと断定したことについても、さしたる驚きはなかった。ただ、プレイをするか否かについては、いささか発想が突飛すぎると思う。

「俺が望むならと言ったが……そもそも、お前自身はプレイに合意するつもりがあるのか?」
「もちろんだとも。そうでなければ、端からこんな提案はしていないよ」
……何でまた急に、そんなことを言い出した?」
「以前から興味はあったんだ。欲求自体は薬で抑えてあるものの、より自然な方法があるなら試してみたいと思っていた。ただ……それは相手が誰でも良いわけではない。友人として、そしてDomとしても信頼の置けるあなただからこそしている話だ」

サイラスが何でもないことのように言うから、オルベリクは頭を抱えそうになった。プレイとは、DomとSubが行うコマンドを用いたコミュニケーションのことだ。コマンドとはDomが発する、Subに対する命令のようなもので、平たく言うと強制力を持つ言葉である。
一般的にはプレイは定期的にするほうが望ましいとされていて、長期間プレイを行わないことで精神の均衡に異常をきたす場合もある。しかしコマンドによる命令は非常に強く、場合によってはSubの意思とは関係なく隷属させることすらできる危険なものだ。そのためダイナミクスを持つ者の中には、コマンドに関する欲求を制御する薬を服用する者もいる。

(サイラスとの、プレイか……

合意のないプレイはSubの精神を大きく傷つける犯罪行為だ。しかしDomとSubの間に信頼関係があれば、Subはコマンドに従うことに充足感を抱き、Domもまたコマンドを受け入れられたことで満たされる。
サイラスの提案はまさに青天の霹靂だったが、もしも彼と自分がプレイに及んだのならば、間違いなく後者になると断言できる。二人の間には既に、友人として強固な信頼関係が構築されていた。その上で、オルベリクは言葉を探しながらぽつぽつと言った。

……実を言うと、俺はもう何年もコマンドを使用していない。薬を飲まなくとも、欲求は……今のところ落ち着いている」

正直なところ、Domとしての欲求は消え失せたと思っていたくらいだった。故郷が滅びたあの日から、そういった欲が自分の中で灰のように燃え尽きて崩れたと知覚している。しかしサイラスと出会ってからは、それらが蠢き、再び形作ろうとしているのもまた感じ取れていた。現状は落ち着いていると言ったのも、今のところはと注釈を付けたのも、どちらも嘘ではない。
今後もコマンドを使用しないことで自分の心身に異常をきたすことは、全く構わない。その点について恐れはない。しかし、自制が利かなくなった時に、もしも手近にいるSubを――サイラスを傷付けてしまったらと思うと、底冷えするような畏怖が這い上がってくる。そうなる前にプレイを試みることは、悪い選択ではないように思えた。

「必ずすべきかと言われると、そうではないが……お前から向けられる信頼を心地良く思っていることも、また事実だ。……互いに合意できるのなら、試してみてもいいと思う」
「前向きな回答をありがとう。お互いの合意できる地点を探すという意味でも、ある程度の約束事を決めておく必要があると思うんだ。まずはそこからはじめてみないかい?」

頷くと、サイラスは普段から持ち歩いている手帳を開く。白紙の頁を開いて机に置き、利き手でペンを取った。オルベリクを見上げる眼差しに宿る熱は色っぽいものではなく、洞窟にある壁画や、遺跡内の柱の装飾に飛びついた時と同じ色をしていた。サイラスにとっては、未知の体験を得る絶好の機会というわけらしい。彼にも利があることに安心したが、同時に少し落胆したのは何故だろうか。
サイラスはオルベリクの胸中など知らずに、ペンの持ち手を軽く自身の顎に当てて考え込んでいる。

「では……あなたの意見から聞こうか。したいことや、反対に、したくないことはあるかい?」
……ひとつ、必ず守ってほしい約束がある。もし承諾してもらえないのなら、この話はなかったことにしてくれ」
「もちろんだ。互いに合意できないプレイなどは意味がないからね。……言ってみてくれ、あなたの希望を聞きたい」

ひとくちに支配性と言っても、Domの趣向は人それぞれだ。どのような行為で自分が満たされるかというのは、歳を重ねていく中で自然と気付く。もちろんその過程で、己の心身を傷つける結果となる行為もまた知ってゆく。オルベリクは僅かに緊張しながら、自分の要求を口にした。

「俺に、暴力を振るうことを求めないでほしい」
――……
……意外か?」

想像だにしていなかった言葉なのだろう、サイラスは目を丸くしていた。しかし彼が言葉を失っていたのはほんの数秒のことで、さほど間を置かずに淡く色付いた唇が開く。

「そうだね……。そういった行為を好まないDomがいるとは知っていたが、あくまでも好みの度合いの話で、完全に拒否するとは思わなかったよ。素手でも、道具を使ってでもかい?」
「どちらもだ。どれだけ望まれようとも、無抵抗の相手に暴力を振るうことは……耐え難い」

剣士として常に戦場に立ち続ける男から出たとは思えないような、弱気な言葉だ。我ながら笑えてきたが、サイラスは真剣な顔で頷き、嘲笑などする素振りはなかった。

「だが、Domのコマンドに当たる能力は、Sub側は持ち得ていない。仮に乞われたとしても拒否すればいいのではないかい?」
「もちろん理屈としてはそうだと分かっているが……Subの要求を一蹴するというのもまたストレスなんだ」
「なるほど……。自分の本意ではない行為でも、Subに乞われるとしたいという欲求が湧き上がって板挟みになるということか。それは辛いね」

叩く、殴る。時には鞭などの道具を用いて、殺傷するためではなくいたぶるために打つ。Subによってはそれ自体が飴にもなる行為ではあるが、主には罰や躾の一環として振りかざされることが多い。――戦場で相対した人間や魔物に対して剣を振るうことへは、一切の躊躇いはない。それは双方覚悟を持ってその場にいるからだ。しかし日常の中で故意に力を振るえと要求されることは、オルベリクにはとかく苦痛であった。

「俺にとっては譲れない一線だ。……呑んでもらえるか」
「ああ。こちらとしても、傷みを伴う行為は望まない。この取り決めは私としてはありがたい限りで、寧ろ安心したとすら言えるかな」

サイラスは手帳に短く、『暴力を振るうこと、要求することを禁ずる』と書き付けた。ようやく肩の力が抜けた気がしたが、それはまだ早いと思い直す。オルベリクの希望をサイラスは叶えてくれるようだが、自分が彼の望みを叶えられるとは限らないのだ。

「そう言うお前はどうなんだ。受け入れがたいことのひとつやふたつはあるだろう?」

てっきり、答えはすぐに返ってくると思っていた。しかしオルベリクの予想に反し、サイラスは考え込むように虚空を見上げている。

……言いづらいことか?」
「いや、自分が問われる立場になると難しいと思ったんだ。実は、そもそもプレイを行うのは初めてでね」
「な、……
「はは、今度はあなたが絶句する番か。別にプレイ自体を嫌っているわけではなかったのだが、身を委ねても良いと思えるDomと出会うことがなかった……ただそれだけだよ、深刻に捉えないでくれ」

サイラスが告げたことがあまりにも衝撃的で、二の句が継げない。ダイナミクスの有無を問わずに老若男女を虜にするこの美丈夫が、まさか誰のコマンドにも従ったことがないとは想像したこともなかった。それ程までに自分を信頼しているのかと思う反面、一体なにが彼の琴線に触れて、オルベリクに心を許したのか分からない。他の仲間と比べても過度に甘やかしたつもりはなく、普通の距離感で接していたつもりだったのに。
彼の言葉を脳内で反芻しながら立ち尽くすオルベリクに、サイラスは微笑みを向ける。いつも通り優しげでどこか甘やかなそれに、見惚れてしまいそうになる。

「経験がないことを過度に恥じるつもりはないけれど、無作法であなたには迷惑をかける部分もあると思う。申し訳ないが、色々教えてほしい……私が望むのはそれくらいかな」
「俺も慣れているとは言わんが……承知した」
「あとはそうだな……接触の範囲はどうする? プレイの内容には、必ずしも性的なものは含まなくとも良いらしいが」

幾重にも重たい衣を纏う清廉潔白な男の口から不意打ちのように出た単語に、どきりとした。プレイには性行為や、直接的に体を繋げなくとも、性的な接触を含む場合もある。未だにあまり実感はないが、眼の前の男相手に性的な接触ができるかというと――現状では何とも言い難い。確かにサイラスを魅力的だと感じる自分もいるが、それはあくまでも彼がSubだからで、オルベリクは自身を異性愛者だと思っている。肉体の性的趣向をダイナミクスが凌駕するかと言われると、疑問が残る。

……正直なところ、現状では性的なことができるとも、できないとも言い難い」

悩んだ結果、その葛藤を短い言葉で素直に告げる。するとサイラスは表情を変えずに、両手を軽く肩の高さに挙げてみせた。

「ではとりあえず、接触の範囲を服から出ている部分に限定するのはどうだろう。実際にプレイをしてみて問題があれば範囲を狭めたり、逆に広くしたりすることも考えられるが、その際には都度協議をする」
「分かった」
「他に、事前に取り決めておきたいことはあるかい?」
「俺の方からは特にはないが……セーフワードはお前が決めてくれ」

先述の通り、Domの発するコマンドはSubを強制的に従わせるものだ。Subが従えないコマンドはそもそも使用しないのが鉄則ではあるが、万が一Domの支配が行き過ぎてしまった場合に、プレイの中止を求める合図――すなわち、セーフワードというものを決めておく必要がある。Subが言いやすく、そして日常的にあまり使わない言葉であることが望ましい。

「そうだな……単純で良いと思うんだ。『やめて』でどうだい?」
「お前が決めたことなら構わない。そう書いておいてくれ」

接触の範囲について、それからセーフワードについて、取り決めた事項をサイラスはさらさらと書き綴る。彼にとっては片手間に書き物をしながら喋ることは何ら難しいことではないようで、手元を見るのもそこそこにオルベリクに視線を遣る。

「まぁ、セーフワードを発さなければならないことを、あなたが私にするとは思えないが……
「いや、そういう先入観は危険だぞ。気軽に連発するようなものではないのは確かだが、万が一の展開は常に考えておいたほうが良い。無論、お前の安全は常に配慮するつもりではあるが、どうしても互いの間には力関係が生まれてしまう……。いつでも発せるよう意識しておくべきだ」
「ふふ、分かったよ。……あなたのそういうところに信頼が置けるのだと、再確認できた」

真剣に忠告したというのに、サイラスは楽しそうに笑うだけだ。それがDomを知らないゆえの楽観なのか、単に肝が据わっているのかは分からない。何だか毒気を抜かれたような気になり、短く息を吐いた。
サイラスは自分が綴った文章を目でなぞると、その下に署名をして、オルベリクに手帳とペンを渡してきた。話し合いの内容が簡潔にまとめられていて過不足は見受けられない。ここに記されたことを守るのはあくまでも、最低限の条件だ。Domであるオルベリクがすべきは、Subであるサイラスの心身の安全を確保し、互いに心地良い範囲内でのプレイを牽引することだ。その責任を持つことを胸中で誓い、サイラスの名の真下に署名した。

「よし、これで準備はできたね! ちょうど良い機会だから、少しコマンドを試してみるかい?」
「構わないが……お前は薬を飲んでいるのだろう? その状態で効くのか?」
「薬はあくまでも私の意思を補助しているだけだ。従う気になっていれば大丈夫だと思う……恐らくは。まぁそれも含めて、試してみたいというところかな」
……分かった」

こほんと小さく咳払いをする。コマンドを発すること自体、何年ぶりになるだろうか。そもそもきちんと効力があるのかも分からないものを口にするというのは、妙な気恥ずかしさがある。

……楽な姿勢でその場に座る。『お座りKneel』」
「う、」

背筋を伸ばして立っていたサイラスの膝がかくりと折れ、その場に座り込む。本人は呆然と自分の足元と床を交互に眺め、しみじみと呟いた。

「すごいな、本当に体が動くものなのか……
「大丈夫か?」
「ああ。他にも何かコマンドを出してみてくれ」
「そうだな……では、俺の目を見る。『見るんだLook』」

するとサイラスは弾かれたように顔を上げ、オルベリクの目を見つめた。普段から彼とはよく視線を交わし合っているがそんなさり気ないものではなく、真っ直ぐに目線が固定されている。空よりも純粋で、海よりも深い叡智をたたえる美しい瞳を見ていると、こちらの方が呑み込まれてしまいそうな錯覚を抱く。

「へえ、目が逸らせない……。面白い、これがコマンドなんだね」
……素直にきいているな。どんな感じだ?」
「なんと言うかな……。自分の意思に反して体が動いているのだが、違和感はあまりない。寧ろ、こうしている方が自然にすら感じるよ。もっとコマンドを出してみてくれ」

無邪気にねだられると、胸の奥がじんわりと優しい熱に包まれる。普段からサイラスに何かを頼まれるのは心地良いが、ことコマンドをねだられるというのはまた格別に感じる。左手を差し出しても、彼の視線はオルベリクの目を向いていた。

「視線は楽にしてくれ。『握ってGrip』」
「はい。こうしてあなたと握手をするなんて、出会った時以来だ」
「そうだな……。もう随分前のように感じる」

オルベリクの手を軽く握ったサイラスの指は、ペンしか持ったことがないかのように細い。彫刻のように白くなめらかな見た目だが、触れてみるとほのかに温かかった。日常の中では肩を叩いたり、腕を引いたりと触れる機会はあるが、素手同士を重ねるのは彼の言う通り久し振りだった。サイラスは瞼をゆっくりと閉ざし、記憶の中を探っているかのように語る。

「ここまで来るには色々あったからね。今の大所帯ももちろん楽しいが、トレサ君とあなたと三人で旅をしている頃も良かった。あなたは私達に、旅における危険や工夫の仕方を教えてくれたね……共に焚き火を眺めながら、オルベリクの話を聞くのが好きだった」

好き――何気なく発された言葉に、心臓が跳ねた。同時に、焚き火に照らし出された秀美な横顔が脳裏に鮮明に蘇る。共に旅を始めて間もない頃、野営の際は旅慣れているオルベリクが寝ずの番を買って出た。しかしサイラスがそれに付き合うと言って聞かず、結局夜半まで彼と共に火を眺めていた。眠るトレサを起こさないように、他愛もないことを二人でぽつぽつと喋ったものだ。思えば、あの頃からオルベリクの中でサイラスは少しだけ特別だったのかもしれない。

「お前や、アトラスダムにいる学者などとは比べ物にならないような拙い語り口だったがな……
「そんなことはないよ。あなたはいつも実直で、誠実な言葉選びを心がけようとしているのが伝わってきた。これまでも、そしてこれからも……あなたは私にたくさんのことを教えてくれる」
……そこまで持ち上げられると、さすがに面映ゆいな」
「ふふ、おまけに謙虚だ」

再び瞼を開き、サイラスはまたオルベリクの瞳を凝視する。その表情や仕草をつぶさに観察する――サイラスはコマンドを恐れることはなく、今も普段と同じ穏やかな面持ちである。このままプレイを続けても問題なさそうだ。
SubがDomの指示をこなせたら、今度はそれを褒めてやる必要がある。握られたままの手とは反対の手を持ち上げ、掌を見せた。

「頭に触れてもいいか?」
「構わないよ」
「では。……上手にできたな、『良い子だGood Boy』」
「あ……

二度、手の平を置くような弱く短い触れ方で、軽くサイラスの頭を撫でる。Subを褒めるのは、先程アーフェンに何気なく声を掛けたのとは明確に違う。言葉も態度も大きく変えたのは、それがサイラスにとって分かりやすく受け取れるようにと考えたためだ。するとサイラスは小さく声を漏らし、頭を垂れた。

「悪い、嫌だったか?」
「いや……なるほど、これがDomに褒められるということか……。あなたはよく私を褒めてくれるけれど、プレイの最中はまた格別に心地良い……

オルベリクの左手を握ったままのサイラスの指には、もう殆ど力は入っていないように感じる。彼の言葉に嘘や虚勢はなく、落ち着いた心理状態でいることに間違いないようだ。接触は服に覆われていない部分と取り決めた上で、更に触れる前に確認もした結果であるから当然だが、オルベリクは内心で安堵した。たとえほんの僅かでも、不安や不快感を与えたくなかった。――そう思うのは、サイラスがSubだからであるはずだ。

「それなら良かった。触れ方は嫌ではないか?」
「うん……寧ろ、もっとたくさん撫でてほしいくらいだ」
「そうか……

乞われるまま、形の良い頭を手の平でゆっくりと撫でる。サイラスの髪は絹のように細くてしなやかで、爪にでも引っ掛けたら切れてしまいそうだから、自然とオルベリクの手は慎重になる。細心の注意を払いながらも、それでも彼に触れていると不思議と心が安らぐ。サイラスは目を細めて、まるでうっとりしているかのように脱力して身を委ねていた。

***

鮮やかな柑子色をした丸いオレンジを、軽く布で拭く。昼間の内に市場で買っておいたものだった。宿の厨房から借りてきた皿の上で、ナイフを使って上下を切り落とし、皮を削ぐように切っていく。瑞々しい果肉が顕になり、狭い室内に甘酸っぱい香りが漂う。更にナイフを入れて一房ずつ皿に取り出して、果汁で濡れた手を拭いた。オレンジが乗った皿はベッド脇の背の低いチェストの上に、フォークと一緒に置いておく。
オルベリクが準備を終えるのとほぼ同時に、部屋の扉が二度叩かれる。訪問者が誰であるかは足音や叩き方で分かっていたから、短く答えた。

「開いているぞ」
「失礼するよ。……態々開けておいてくれたのかい?」
「まぁな。鍵をかけておいてくれ」

今日は珍しく個室が宛てがわれたから、サイラスに部屋を訪ねてもらう約束になっていた。日中は漆黒のローブを肩に掛けて規律と伝統を纏っている彼も、今はオルベリクと同じように身軽な寝巻き姿だ。サイラスは扉に鍵をかけて、そのまま部屋の入口で立ち尽くしている。

「オレンジの良い匂いがするね」
「ああ、市場で買っておいた。なんでも、最近流行っている甘い品種らしい」
「それは期待できそうだ。この間、見切り品で安価だったとトレサ君が振る舞ってくれたぶどうはとても酸っぱかったからね……
「あいつにしては珍しい失敗だったな。食べた時のリンデの顔と言ったら……可哀想だが、雪豹は表情が豊かだと感心したくらいだ」

他愛もない話をしながらも、サイラスはその場から動こうとしない。オルベリクは自分の荷物から布を取り出し、ベッド脇の床に敷く。炎のような赤い糸を使って織られたこの布は、サイラスを床に座らせることが心苦しくなったために買い求めたものだ。少しでも足の負担や冷えから遠ざけられたらと思って先日彼に見せたところ、嬉しそうに頷いてくれた。

「サイラス、『おいでCome』」

オルベリクのコマンドにより、ようやく彼は歩を進める。敷いた布の少し手前に立ち、次のコマンドを待つのもいつものことだ。

「『お座りKneel……そう、『上手だGood』」
「ああ……

サイラスは素直に従い、布の上に座り込む。その丸い頭を左手で軽く撫でると、淡く色付いた唇が感嘆の息を吐いた。オルベリクは彼を左手側に置くように寝台に腰掛け、利き手でオレンジの乗った皿を取る。

「用意してもらって悪いね、幾らだったのだい?」
「いや、別に代金は要らん。俺が勝手に買ってきたものだしな」
「それは申し訳ないよ。あなたが私を楽しませるために用意してくれることを、当然とは思っていない。旅の最中だとどうしても使える金は限られているのだし……
「サイラス、『静かにSh』。……気にしなくて良いと、前から言っているだろう?」
……

言葉を遮られた学者は、不満げに唇を尖らせるのみだ。皿を膝の上に置き、フォークでオレンジを一房持ち上げて彼の口元に持っていくと、大人しく口を開いてみせる。
――旅が続く中、二人のプレイは繰り返し行われていた。内容自体に過激なものはなく、簡単なコマンドを使ったり、今日のように餌付けをしたりする程度で充分に満たされている。これまでにサイラスがセーフワードを使用したことはなく、順調に回数を重ねていた。

「もう喋って良いぞ」
……言っておくけれど、そんなコマンドはオルベリクだから許しているんだよ」
「そうだろうな。味はどうだ?」
「甘くて美味しいね。もうひとつ……

親鳥に餌を求める雛のように、また彼が唇を開く。再びオレンジを口元に運ぶと、微笑みを浮かべながら美味そうに口に含んだ。仲間達に長話を指摘されるほど饒舌なサイラスは、黙らせられるコマンドは好まないが、たまに戯れで使う程度は問題がないらしい。オルベリクだから許している、と呟く彼の声は甘く鼓膜を揺らした。

「口に合ったのなら良かった。たまに、酸っぱくて食えたものじゃないやつもあるからな」
「良かったら、あなたも食べてみたらどうだい? その口ぶりだと味見もしていないのだろう?」
「まぁ……確かに、食べてみるか」

しかし、借りてきたフォークはこのひとつきりだ。食器を一緒に使うことに自分は抵抗がないものの、サイラスがどう思うかは分からない。暫しの逡巡の後に一旦フォークは皿の上に置いて、素手で一房口に運んだ。舌に乗せた瞬間、爽やかな香りが鼻を抜け、軽く歯を立てると果汁が溢れる。甘味と酸味の調和が取れていて、流行するのも納得できる味だった。

「果汁が多すぎるぐらいだが、美味いな。我ながら良い買い物をしたものだ……サイラス?」

果汁で濡れた指を軽く擦り合わせていると、彼の視線がオルベリクの指先に向いていることに気付いた。コマンドがなくとも従順にオルベリクを見上げていることが多い彼にしては、珍しい。

「どうした? 『目を見るんだLook』、何が気になることがあったか」
……オルベリク」

美しい瞳は水面のように揺らめいていた。見つめられているだけで、何故か鼓動が高鳴ってくる。彼のほのかに赤らんだ頬を見ていると、自分の顔まで熱を持っていくような気がしてきた。

「私にも、あなたの手から食べさせてほしい……
「こ、こうか?」
「ああ、ありがとう……

サイラスの面持ちに動揺したせいか、考えるより先に体が動いていた。人差し指と中指でオレンジを取り、サイラスの唇に押し付ける。柔らかな笑みを浮かべてそっと果実を食むサイラスの唇が指先に触れた瞬間――何か、形容し難いような何かが、オルベリクを貫いた。一体それは何と名が付く衝動だったのか。しかしサイラスがオルベリクの手を握ったことで、その感覚の正体を探る間すら与えられなかった。

「あなたの手にキスしたい。……コマンドを出してくれるかい?」

――そのコマンドは、一度も試したことがなかった。確かに当初取り決めた約束の範囲内ではあるが、それはただの友人同士で行う行為ではない。オルベリクの理性はそう告げているが、心が彼の望みを叶えたいと切に訴えてくる。震える声でなんとか絞り出したのは拒絶ではなく、言葉の真を問う台詞であった。

……セーフワードは、分かるか」
「もちろん、分かっていて言わないんだ。……お願い、オルベリク」
「っ……!」

Subであるサイラスのおねだりはひたすらに甘く、抗いがたい魅力がある。コマンドを出したのは自分なのに、視線が逸らせない。輝石のように煌めく瞳に呑み込まれてしまいそうだ。
サイラスに枷をかけないように注意していたつもりが、いつの間にかオルベリクの方が首輪を着けられていたのかもしれない。二人のプレイは徐々に深度を増していて、気付かぬ内に、もう戻れない領域まで足を踏み入れてしまっていた。




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