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バレンタイン

輝薫 付き合ってない



 色とりどりの包装紙。百貨店の人混み。スーパーやコンビニの特設コーナー。そしてそれらを目にするずっと前から企画書として舞い込んでくるあれやそれ。
 「この仕事をするまで、バレンタインがこれほど重要なイベントに据えられているとは思わなかった」
 マグカップに注いだ紅茶は、まだ桜庭の手元で薄らと湯気を立てている。ふぅ、と吐いた息が白く揺らめくそれを散らした。今も、視界の隅のテレビからはチョコレート特集の音声が流れている。
 「けど、桜庭も貰ったことはあっただろ?」
 「否定はしないが」
 「ホワイトデーは三倍返し?」
 「義理の範囲内だ。返せないものは受け取らない」
 桜庭らしいなぁ、と嘆息する。それと同時に、俺の知らない桜庭のバレンタインを想像した。気づかない内に本命だって混ざってたかもしれないぞ、とはあまりに意地が悪くて口にするのは憚られた。実際そうだったとして、気分を逆撫でされるのは桜庭よりも寧ろ俺の方だ。
 思いついた意地悪を言わないままで、熱い紅茶と一緒に流し込む。スッキリとした香りが漂ったところで、飲み込んだ苦味はそう簡単には消えてくれない。
 「ま、今は完全に仕事になっちまってるからなぁ。貰う量は格段に増えたけど」
 「どういう理由であれ、仕事に繋がるのは有難いことだ。僕たちは、仕事で返す他ない」
 「そうだな」
 桜庭の目線がぼんやりとテレビに流れている。つられて画面に目をやると、テレビの中では、つやっとしたチョコレートがいくつも箱に鎮座して輝いていた。
 「……あれ美味そう」
 「有名パティスリーのものなら、味は保証されているだろうな」
 そう言いながら、桜庭はマグカップを口元に運ぶ。今日出したのは、最近よく買っているティーバッグのシリーズの季節限定もの。いつも珈琲ばかりも面白みがないかと増やしてみた選択肢の中で、桜庭の反応が一番良かったやつ。彼の知らないところで勝手にお気に入り認定にしてしまったそれは、今回も桜庭の口に合ったらしい。
 「こうやって特集されると食べてみたくなるよな」
 「君も簡単に乗せられるクチか?」
 はぁ、と呆れたような目線とため息。なんだよ、いいじゃねぇかとは俺の言だ。口を尖らせてみるも、桜庭はまた画面に目を戻して、人混みの百貨店を冷めた目つきで眺めるだけ。
 「ここまで取り上げる意味が分からない」
 「……桜庭の言うことも分からなくはないけどさ」
 否定の言葉を挟みたくなったのは、言い訳のしようもなくただ自分のためだ。
 チョコレート、渡してみようか。別に誰に渡したっていいわけだから、同じユニットのメンバーである彼に渡すのだって、特段おかしくはないはずだ。義理チョコっていうのも味気ないけど、日頃の感謝ってことにすれば受け取り拒否まではされないだろうという目論見だって一応あった。
 そうやっていろんなサイトを開いたり、チョコレートが展開されるコーナーを横目で見たり。うだうだと悩んだここ最近の俺の時間を否定されるのは寂しいなんて、そう思ってしまったから。
 「バレンタインだからって言葉が最後の後押しになることもあるんだよ。渡す方も、貰う方も」
 特別な想いを伝えるのにも、日頃の感謝を受け取るのにも、バレンタインという大義名分が役に立つことはあるものだ。普段どれだけ思っていても、きっかけがないと形にしてやり取りするのが難しいことだってある。
 それでも俺にはあと少し、振り絞った勇気が足りなかったが。今日だってせっかく桜庭が家に来てくれたというのに、何も用意しないでここに座らせている。意気地無しの俺にはバレンタインは青い芝生だ。
 桜庭は俺の言葉に耳を傾けて、ゆっくりと固いものを飲み込むみたいに間を置いた。
 「そういうものか」
 頷きを返すと、桜庭はまた唇の上に無言を結ぶ。俺が勝手にかけた時間を慮ってくれとは言えないけれど、知ってくれるだけでいいと思った俺の寂しさを、桜庭は隣に置いて物珍しげに観察している。
 テレビの向こうと、目の前の俺と。桜庭は瞬きと一緒に何往復かを繰り返す。しばらくして、桜庭はその手触りを確かめるようにポンと言葉を浮かべて俺に投げた。
 「君は、僕がバレンタインだからと言えば受け取るのか」
 ふわりとした構えから、豪速球。今紅茶のカップを手にしていたら、間違いなく服も机も大変なことにしてしまっていた。
 嫌に心臓の音が早く聞こえる。指先は固まって、口元も引き攣る。体の至る所が異常を知らせているのに、頭の中の一部分だけはひどく静かだった。
 仮定のそれが桜庭のどんな思いを形にしたものだったとして、バレンタインという免罪符がないと受け取ることもできない男だと思われるのは癪だった。現実にはそれよりもっと情けないのが俺の姿だったとしてもだ。
 桜庭は涼しい顔を崩さない。大して興味はないみたいな温度のままで、それでも目の奥はじっと俺を見つめて離さなかった。
 「バレンタインじゃ、なくても」
 ようやく絞り出した一声は、二人の間にゴトンと落ちた。
 今までの会話を全部台無しにするような俺の発言に、桜庭はぱちりと瞬きを落とす。
 「やはりその程度のものじゃないか」
 桜庭は、俺の返答にもう興味を失くしたように目線を解いた。拍子抜けだと言わんばかりの声音は、俺の心音を焦らせる。俺は間違えたか、形だけでも取り繕うべきか。唇を湿らせた俺を尻目に、桜庭はカップに添えていた指を静かな仕草で動かした。
 机の真ん中に、茶請けにもならないけど、と気持ちばかり置いた菓子の箱。薄っぺらい紙の箱から一つ小さな包装を取り出し、ピリ、と破る。袋の切れ目から顔を出したチョコレート菓子は、申し訳ないけどさっき見た高級店の堂々たる姿には及ぶべくもない。
 けれども桜庭は、一個数十円の塊をひょいと口の中に放り込む。そうして数回咀嚼したあと、丸ごと綺麗に飲み込んでしまった。