普通の恋がしたかった。普通に好きになって、普通に付き合って、普通に楽しくて、普通に結婚して。未来のあるような恋が、したかった。普通に無理だった。
魔法はいつか解けてしまうから綺麗で大切。最悪の解け方をしたけれど思えばもっと前から自分できちんと解いていたのに、ずっと見ないふりをしてきた。
10年付き合った彼氏が「別れよう」と頭を下げてきたとき、九十度に折られた腰を、つむじを見ながら、気が抜けたような解放感があった。もう自分を嫌いにならなくてすむ。そしてこの人を嫌いになれる。魔法はいつしか呪いになっていた。この人が好き。好き。好き。
何度も家族になることを想像だってしたのに。
ずるずる引き延ばされていてももう次に行くのが面倒で、どうせ私から言わなければ別れることも結婚することもないとたかを括っていた。
好きな人ができたの?と聞いた。首を横に振った。じゃあ私のことが好きじゃなくなったの?と聞いた。顔を上げて、そんなことはない、と言った。嘘つきで最低だった。よくもぺらぺらとこれまでの薄っぺらい思い出なんて語れるものだ。今までありがとうって、自己完結しちゃってるし。
彼の言葉を右から左に聞き流しながら、そうか、ずっと恋なんてされていなかったのか、とようやく気づいた。
好かれてはいた。愛されてはいなかった。彼のことが恋人として好きだった。愛していなかった。怖くて愛せなかった。未来がずっと怖かった。
ずっと、いつかいなくなるんだと、本当はちゃんと気づいていたのか。
「もういいよ」
2人分の荷物が詰まった部屋を私に残してどこにでも行けばいい。どうせすぐ走っていなくなってしまうのだ。速すぎて背中なんかすぐに見えなくなる。
「嘘つくなら最後まで突き通せば良かったのに。それもしんどくなったの?」
「いや、今からもっとしんどくなることにした。甘えててごめん。ありがとう」
甘えていたのか。逃げ場にはなっていたのか。ちっともうれしくなくてびっくりした。
別れ話も終わって部屋を出て行こうとする彼の手には何もなかった。この部屋にある彼のものは、ここからの彼には必要の無いもの。
「がんばってね」
後ろ姿に向けて言う。
「おつかれ」
と笑った顔を見てはじめて腹が立った。
最後にちゃんと最低だと恨ませてくれるところまで含めて、恋人になんてする奴じゃなかった。あの頃好きだったひとつひとつが全部嫌いになっていく。
普通ではない恋だったのに、終わりは呆気ないほど普通だった。恋なんていつか鮮度がなくなって、緩やかな下降をたどりながら、ある日突然のように終わる。そういうところだけ普通で嫌になる。部屋の中でだけ寄り添うように散らばっている彼の物を一晩かけて全部捨てた。
いやに元気だった。別れちゃった、って友達に言って回るところを想像したら少し笑えるくらいだった。
きっとみんながドン引きするような話がたくさんある。言わないでいたのは彼のためではなく、自分の呪いに気づかないためだった。もう解き放っていいのだ、自由で不自由だった恋も無意識のバリアもなにもかも。
部屋が少し広くなった気がした。
※※※
いつもは通らない道を選んだのはほんの気まぐれだった。そういう心持ちの日。理由はよく分かっている。
平日はマンションと会社の往復で、休日に出掛けるときも、駅から電車に乗って別のもっと大きな、人も建物もひしめき合うような場所に行く。
私の住む街は駅前はそれなり栄えているけれど10分も歩けば商店街や個人商店や住宅街があるような、賑やかで落ち着いた街だった。
こんなところにお弁当屋さんがあったのかとか、パン屋さんがあったのかとか、自転車屋さんって確かにこの街では需要があるなとか、そんなことを思いながら歩いていた。こじんまりとした飲食店が多く、わざわざ電車に乗らなくったって事足りることに気づけなかったのはもったいなかった。
目につく建物の前でいちいち足を止めて、これは何のお店だろうかと外観から予想する。
最近は美容系なのかカフェなのか分からないお店が多いけれど、その喫茶店はどこからどう見ても喫茶店で、そこだけ時代から置いてけぼりにされたような重々しい色の外壁だった。何があっても立派に建ち続けていられるような、時代を経た重さがある。
いつの間にか時間は14時を回っていた。歩き回っていたせいでお昼を食べ損ねていたので喫茶店のドアを開けると、ゴウンゴウンと頭上で厳かとでもいうようなベルが鳴った。想像もしていなかった音量に肩をあげ足を止めた私のことなんて、店員さんしか気にしていなかった。
店内は思っていたより広く、常連らしい年配の方や、意外にも制服姿の高校生が楽しそうにおしゃべりをしていた。
店員さんに案内されたのは壁際の二人席。隣は二人組の男性客で、こちらもなにやら楽しそうにおしゃべりしていた。テーブルに備えられたメニュー表を見ながらなににしようか考える。悩んでいる合間に隣の会話が耳に入ってきて、思っているよりテーブルとテーブルの間隔が狭いのだな、と腰を浮かせて壁にくっついた。
トガシさん、と聞こえた。偶然にも1年半前に別れた彼氏と同じ名字だ。10年付き合って、同じ街に暮らしていたけれど、別れてからは1度も会わなかった。見かけることもなかった。元々生活時間帯が微妙に違っていたのだから、そういうものだろう。そう思っていたから引っ越しもしなかった。向こうのことは分からないけれど。
まあでも引っ越しなんてしてないだろうな。そこまで彼の中に残っている自信はない。
メニューから顔を上げて店員さんがいるカウンターに目をやると、すぐに気づいて注文をとりにきてくれた。良かった。こういうとき声を上げるのは苦手なのだ。
テーブルとテーブルの間にするりと体を入り込ませた店員さんにホットコーヒーとピザトーストを注文する。半端な時間だったからランチは終了していたし、かといって甘いものを食べたい気分でもなかった。それに喫茶店のトーストが好きなのだ。シナモントーストと悩んだけれど、お昼の代わりだと思うとやっぱり甘いものではなくしょっぱいのがいい。
店員さんがまたするりと器用に体を捻ってカウンターに戻っていく。やっぱりテーブルとテーブルの間が狭いんじゃないか。顔を戻す一瞬、横目に隣のテーブルに座る男性が見えて、思わず二度見してしまう。
いや、元彼じゃん。トガシくんじゃん。
ぎこちなく首を動かし、閉じていたメニュー表をまた開いた。真剣に読み込もうと思うのに、突然のトガシくんに動揺してしまい、頭が文字を読み込まない。
ちらりともう一度目線を隣のテーブルに向ける。横顔だけれど10年見たのだから間違えるはずもない。というか声がトガシくん。
前の席には年下の男の子が座っていて、2人の前にはコーヒーカップが置かれていた。
コーヒー、飲めなかったじゃん。だから私とはカフェ行かなかったのに。
「樺木くん」
と、トガシくんが目の前の男の子を呼んだ。メニュー表に顔を戻す。
いや、いやいやいや。今どこから声出した?そんな甘い声聞いたことないけど?しつこいようだけど10年、10年一緒にいて、私の前では一度も聞いたことのない声だった。いや、1度だけある。テレビで動物の赤ちゃん特集してたときだ。この人にもこういう人っぽいところあったんだな、という思いと、それなら結婚して子どもができても可愛がってくれるのかな、という、今にして思えば真逆の思考を混在させながら私も隣でかわいいね、と言ったのだ。
今また隣で聞くことになるなんて。そうしてまた私には向けられていないなんて。
してもらえなかったことばかり思い出し始めたのでゆるく頭を振っておでこに手を添えた。
そんなことより好きな人できたのかよ。そういう感情、ちゃんとお持ちだったんですか。知らなかったー。
樺木くん、樺木くんね。年下って可愛いよね、分かる。私も会社の後輩可愛い。で、なに?好きになっちゃった?へえ?10年一緒にいた恋人は好きじゃなかったのに?
いったいどんな運命でこんな場面に出くわすのだろう。いい気分で散歩して、素敵なお店を見つけたと思ったのに。
別に悲しいわけじゃない。どうしてって思いは付き合っているときにさんざん味わった。もう好きじゃない。恨み続けてもいない。
でも、それだけでいられるわけでもないし。
もう付き合っているんだろうか。トガシくんが片思いしてる姿なんて想像できなくて、好奇心が顔を出す。聞いちゃダメだと思うのに体全部が意識してしまって、隣のテーブルの会話がやけに大きく耳に入り込む。
同じ空間にいて話をしないことを、しっくりとはきっと言わなかったのだ。だって樺木くんと話すトガシくんは楽しそうで、嬉しそうで、甘えているのだとしたらこういうふうだと思う。
私の席からは樺木くんがよく見える。トガシくんの話にうんうん頷いていたり、自分の話をしたり、妙に噛み合っていないことをとりとめもなく、まるで終えたら息ができなくなるのだというように話し続けている。はー、好きだな、これ。まごうことなき恋だ。
ピザトーストとホットコーヒーが運ばれてきた、その一瞬だけピザトーストが世界の中心になる。美味しいものは偉大だ。そんな偉大なものを、トガシくんと分かち合うことはほとんどなかった。厚めのトーストにのったたっぷりのチーズが伸びていくさまに一生懸命になれるのは友だちといるときだけ。トガシくんの体を作るのは糖質や脂質じゃない。
いつの間にか映画もカフェも友だちとだけ行くようになって、私たちはいったいどんなデートをしていたんだ、と思い出そうとするけれど、家でゾンビ映画見ながら、どう見てもそんな場面じゃないのにニヤついていた口元しか思い出せない。
伸びていくチーズに耐えきれなくなったピーマンがお皿に落下する。隣ではまさにそのゾンビ映画をトガシくんがおすすめしていて、樺木くんのことが可哀想に思えた。
ああ、あのとき私がどんなにトガシくんを罵っても暴力をふるっても、傷ひとつつけることはできなかったんだ。私に興味がなくて優しい人だったから。
ピザトーストのチーズに苦戦しながら食べ終え、ホットコーヒーを飲む。入り口のドアには小さな窓がついていて、私の席からは窓から差し込む日差しがよく見えた。黄色く染まる空間を見ながら、ひとりでだってこんなに満たされるのに、と思った。
誰かに恋されているっていうそれだけで頭が痺れる感覚がある。そういう刺激だけで生きていけるわけじゃないのに、いつまでもずっとピカピカしていて、忘れられないから困る。
樺木くんはどうですか?目の前の人が発光しすぎて訳わかんなくなっちゃってない?よくない、よくないよ。トガシくんはよくない。
ブー、という無骨な音で思考が途切れる。テーブルに置いたスマホが振動しながら小刻みに移動していくのを捕まえ、何やってるんだ、と思った。
樺木くんを止めたところで過去の私が変わるわけでもない。妄想で自分を救ってもあとに残るのは現実だから、どちらかと言えば隣にいるのに気づかないトガシくんに対して、あーやっぱり駄目だこいつ、と思っていたほうが軽くいられる。
本当はもうちょっとのんびりしたいところだけれどそろそろ帰ろう。残っていたコーヒーを飲み干し、伝票を摘もうとしたら指先が当たってひらひら落ちていった。さっきまでお互いしか目に入っていません、という雰囲気だったのに樺木くんが伝票に気づいて私より先に拾い上げ「どうぞ」と渡してくれる。ありがとうございます、と受け取った私の目線は樺木くんだけを見ていたのに、あれっと大きな声が隣で聞こえた。あー、馬鹿、なんで最後の最後に。
気づかないふりして立ちあがろうとしたのに樺木くんが「知り合いですか?」と聞くから首を動かすしかなくなって、1年半ぶりにトガシくんを真正面から見た。
気まずいという感情を持ち合わせていないのか、それともそんな気持ちになる理由がないのか、トガシくんは本当にただ驚いたという顔をしていた。
「久しぶり」
なんとかそう伝えると、「うん、元気だった?」なんて笑う。でもすぐに目線は樺木くんのほうに戻って、「高校の同級生」と私のことを説明した。その説明になぜか樺木くんのほうが眉を寄せ、何かを考えるような顔になった。トガシくんは首を傾げてそれを見守る。ものの1分で答えに辿り着いたらしい樺木くんは、思わずというように「あっ」と短く声を上げ、それから丸く開いた口を気まずそうに閉じた。
え、なに?なんでその表情?
2人分の訝しむ視線にたえられなくなった樺木くんは「あの、」と本当に気まずそうに口を開いた。
「トガシさんの、前の彼女さんじゃないかなと思って。トガシさんが高校の同級生とか覚えてるわけないですし、前、そういう話聞いたなー、っての、思い出して。ごめんなさい」
樺木くんは私に向けてぺこりと頭を下げる。樺木くんのつむじはなんだかあの日見たトガシくんのものとは似ていないのに素直で潔かった。
うん、まあ、そうなんだけど。全然、謝られることではないので。気にしないで。気にしないで、はちょっとおかしいな。トガシくんはまったく気まずそうでもなく、「俺ってそんなふうに思われてたの……」となぜか被害者ヅラしていたので、樺木くんに怒られていた。その被害者ヅラやめたほうがいいですよって。辛辣だ。
「俺、トガシさんの後輩の樺木っていいます」
「あ、ご丁寧にありがとうございます。トガシくんの高校の同級生です」
「それ引き摺らないでほしいんだけど」
「あの、樺木くん」
樺木くんが体ごとこちらを向く。私は自分の目の前の椅子、樺木くんにとってはちょうど真横にずれるだけのそこを両腕を伸ばして示し、「ここにちょっと来てもらってもいいでしょうか」と言った。樺木くんは頷くでもなくひょいと腰を浮かせて移動する。
「変なことしないでよ」
と、トガシくんが言うので少しイラッとした。
「なに、変なことって。しないよ」
トガシくんじゃないんだし。樺木くんはなぜとも聞かずに両腕を組んでテーブルに置き、私たちのやり取りを見ていた。
それが例えば昔の自分のためだとしても、いや、だからこそなんと言えばいいのか分からず、私も樺木くんと同じ体勢になる。体だけが前のめりでどう話そうか、なんと言おうかと思っているところで、樺木くんが笑った。
「やめとけって言いたいんですよね?」
「え、すごい。よく分かったね。どう言おうか悩んでたとこ」
「俺が分かりやすいですから。すぐ顔に出ちゃうんですよね、好きな人の前だと。あと、俺もあなたとの別れ話聞いたとき、ドン引きしましたもん。まさか好きになるなんて思ってませんでしたし」
おお、好きって言った。ちらりとトガシくんを見ると、こっちの話を聞かないようにか、スマホを操作していた。変なところで律儀な人だ。樺木くんの声は聞こえなかったらしく、それでも彼の言うところの変なことではあるだろうから、目いっぱいまで上半身を突き出して声を潜める。
「そこまで分かってる人に言うことでもないし、樺木くんのためじゃなくて、自分のためにって部分が大きいんだけどね、」
「まだトガシさんのこと好きってことですか?」
「いや、それはない。全然、まったく。連絡もしてなかったし、会ったのも別れて以来だよ。だからまだそうかなんて言えないんだろうけど、人ってそう簡単に変われないじゃない。私の知ってるトガシくんは恋にむかない。きっとたくさん腹の立つことがあるよ」
「でしょうね。そこは多分変わってないですよ」
でも好きなんですよね、となんでもないように言われて、あまりの眩しさに片手で目を覆った。か、かわいい。これは私がどこかに、もしかしたら高校の駐輪場に、置き去りにしてしまったきらきらの恋心だ。
なんだってこんなに素敵な気持ちを向けられているんだとトガシくんが憎らしくなってくる。樺木くんはトガシくんの欠陥だらけの部分も丸ごと包んでくれて、トガシくんがトガシくんであることに重きを置いている。求めるんじゃなくこういうものが彼には必要だったのかもしれないと思った。
「はあ、羨ましいなトガシくん。樺木くんはとっても良い子だね」
「どうでしょうね。全然片思いですよ、俺」
「え、そうなんだ。もう付き合ってるのかと思ってた」
だってトガシくんも樺木くんへの恋心を溢れさせていた。あれがトガシくんの人付き合いの通常だと思っているなら、早めにその誤解は解いた方がいい。おいトガシ何やってんだ。速いだけが取り柄だろう。
「そうだったらいいですけど。でも、今日で終わりにします」
トガシさん、と樺木くんが呼ぶ。トガシくんはスマホから顔をあげ、「ん?」と短く返事をした。めちゃくちゃ彼氏ヅラしてますけどこの人。
なんだろう、という2人分の視線を受けたまま樺木くんは笑う。その顔が少しだけ淋しそうで、思わず突き出していた体をもっと寄せてしまいそうになった。
「俺トガシさんのことが好きです。俺の恋人になってください」
「え、」
「ええ?」
ゴン、とスマホがテーブルにぶつかる音がした。絶対に喜ぶ場面のはずなのにトガシくんは戸惑ったままおろおろと両手をさまよわせている。なんだこいつ今更かわいこぶりやがって、うんじゃあ付き合おうかって、私の告白に対して言ってたあの余裕みたいなやつはどこいったんだ。樺木くんが不安になるでしょ。
トガシくんの二の腕に拳を2、3回打ち込んだらようやく意識が戻ってきたのか「俺も樺木くんのこと好きです」と本当に小さな、絞り出すような声で応えた。
ふうっと知らずにため息が出る。トガシくんの答えを聞いた樺木くんは私を見て、「ありがとうございます」と笑った。
「2人ってやっぱりちっちゃい癖とかが似てるから、俺はトガシさんの10年を知らないんだって思って焦りました。トガシさんがあなたと戻りたいって言うんじゃないかと思って」
「それはないよ、絶対ない」
「いや、それをトガシくんが否定するのは失礼だから黙ってて。今樺木くんは私と話してるの」
「あ、はい。すいません」
「でもそれはないからね。私は樺木くんが心配なだけで」
「え、すごい失礼なこと言われてない?俺」
また被害者ヅラしてるトガシくんは無視して、樺木くんに左手を見せる。薬指に嵌っている指輪は2ヶ月前にプロポーズされたときにもらったものだ。
もう明後日にはこの街を引っ越す。長く住んだ街だったから、最後に探検しようと思って歩いていた。この街のどこにもトガシくんとの思い出はなかった。ただ付き合っていた頃の2人が住んでいただけの街。私たちはそういう2人だった。それを知れただけでも良かったのに、樺木くんという最高に可愛い後輩と出会えたなんて、もっと良いことだ。だから、まあ、どろりとした気持ちも出てきかけたけど、ここでトガシくんと再会したのも多分良いこと。
樺木くんは目を丸くした後に、本当に可愛く笑った。
「おめでとうございます。ほら、トガシさんも」
隣だからよく見えなかったのか、トガシくんはわざわざ身を屈めて私の左手を覗き込む。それからほっとしたように「おめでとう。良かった」と言った。
外に出ると太陽が少しだけ下へ落ち始めていた。まだまだ昼間な気がするけれど、すぐに今日を終える準備が始まるのだろう。毎日がそうしてぐるぐる回ってくれていたおかげで、ここまで歩いてくることができた。あの視界が狭くなって、居場所も分からなくなるような別れも忘れさせてくれた。喉につっかえていた丸くて冷たい大きな塊も、いつの間にかなくなっていた。ちゃんと傷ついた私もこの街で立ち直った。
「それじゃあ、元気でね」
並んでいる2人に向けて手を振る。樺木くんは律儀にぺこりと頭をさげ、トガシくんはじゃあねと手を振りかえしていた。
トガシくんのカップにはホットミルクが底の方にほんの少し残っていて、変わってしまうばかりではないところが、人っぽくて面白かった。これからは樺木くんがこの人の隣にいるのだ。
不思議と明日も会えるような気がした。2人が街中のどこにでもあふれているような幸せそうな姿をしていたから。
だったらそういう予感に従うのも悪くない。
踏み出しかけた足を樺木くんに向け直し、「樺木くん、連絡先交換しよう」と言ったら、トガシくんが焦って止めようとするからおかしかった。見たこともないほどダサかった。
あなたも私も、まったく別の人と普通の恋をしているみたいだね。
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