前宮と櫻井さん

ドッグタグ。

 今日も帰ってきてくれるかな。
 前宮は端末を見つめながら作りかけの文章を打ち直しながら考える。
 今日は出勤してから舞台装置の故障が判明してショーが中止、店は急遽休店となった。よって、前宮もいつもより随分と早い帰宅となったのだが、いつもであれば櫻井が送ってくれるために一応、念のため、調子に乗っていると思われてしまうかもしれないが、櫻井にはその旨を連絡しようと広場のベンチに座りながら文章を作っているところである。
(今日は早めに帰ることになったよ、哲彦くんは今日……
 帰ってきてくれる?
 そう、続けたいのだが、櫻井が自分の部屋に帰ってきてくれることを当たり前のように確認するのは、重くはないだろうか。きてくれる、という書き方すら気になって、前宮は同じような文章を作っては消してを繰り返している。
 櫻井が前宮の部屋に泊まってくれるのは週に半分ほど。警察官として忙しくする彼は、時折前宮の部屋から出勤してくれるようにもなった。これは前宮にとってとてもとても嬉しいことで、櫻井と一緒にいられる時間が増えたことは胸がむずむずして気恥ずかしいけれど、いつだってその時間が終わらないでほしいと願ってしまう。だから、今日のように一緒に帰れない日でも櫻井が自分の部屋に帰ってきてくれたら、と思うのだが、声音や雰囲気を感じ取れない文章では上手く訊ねることができずにいる。
 そんなに気にすることはないのだろうな、とは思う。
 前宮が意識しているほど櫻井が気にしているとは限らないだろうし、人当たりの良い彼ならば前宮にするように仲の良い相手も他に沢山いるだろう。もっと気軽に訊いて、だめならだめで仕方ないと切り替えていけばいいのだ。
(でも……
 それで重たいと、面倒だと思われて次の機会がなくなるのは嫌だ。
「うー……これがもう既に面倒くさいよねえ……!」
 思わず唸り、前宮は空を仰ぐ。
 この性格を変えたくていまの職場に就いたのだ。
 前宮は首元に手をやり、体温の移った小さなプレート、ドッグタグを握り締める。これは櫻井とお揃いで作ったものだ。初めて櫻井が自身のドッグタグを貸してくれたとき、前宮は嬉しくて嬉しくて舞い上がってしまった。その喜びがバネになったのか、ショーの練習をする際にも先輩に褒められて、以来とても調子がいい。
 いまは櫻井に返したドッグタグ。その二枚で一組であるはずの一枚を思い出し、前宮は難しい顔になる。本来であればどちらにも櫻井の名前が刻印されているはずのドッグタグの片方はSAKURAIとはあったが、続きがTETSUHIKOではなかった。一組にして普段から身につけているのなら、多分、家族のものだ。父か兄弟かは分からないけれど、相当大事なものであろうことは察しがつく。
 それを一時的にでも櫻井は前宮に渡してくれた。
「ん……よし」
 少しは自信を持ってみよう。そうでないと櫻井にも失礼だ。
 前宮はショーに出演するときのように深呼吸をして、端末に指を滑らせた。

「ただいまー! 今日もめっちゃ寒かったね」
 くつくつ煮える鍋の前に立っていたときに鳴ったインターホン。火を止めて急いで玄関に向かってドアを開ければ、寒さにか鼻の頭を赤くした櫻井がいて、前宮は急いで「入って入って」と彼をなかに促す。それからまだ冷気を纏う櫻井に抱きついて「おかえり」と言えば、前宮から抱きつくことが珍しかったのか一瞬間を開けてから櫻井はもう一度「ただいま!」と言ってくれた。
「ふふ」
「なーに笑ってんの?」
「ん、哲彦くんがただいまって言ってくれるのが嬉しくて」
……そういうの言うの珍しいね」
……だめ?」
 櫻井は首を振り、がしっと全身を包むように前宮を抱き締めてくれる。飛びかかってくる大型犬のような抱擁が、前宮は大好きだった。
「俺もおかえりって言ってもらえんの嬉しい!」
 ぱっと明るい大きな笑みを浮かべる櫻井にほっとして、前宮も安堵に微笑む。
「そっか……うん、何度でも言うからね」
 迷ってから、前宮は「何度も言わせてね」とねだる気持ちを込めて櫻井の肩口に額を押し付ける。
……ほんとうに今日は珍しいね?」
 不思議そうとも怪訝そうともいえるような櫻井の声音に、前宮はじんわりと頬が熱を持つのを感じる。
……そうかもね。でも、いつも思ってるよ」
 それ以上言うのは照れてしまって、前宮は櫻井からぱっと体を離すと「今日はねー、カツカレーだよ」と言いながら台所へ向かう……向かおうと、したのだが。
「耳まで真っ赤になってる」
 後ろから伸びた櫻井の腕が、前宮の腹の前でしっかりと交差する。背中に聞いた櫻井の声はおかしそうに笑っているのにどこか低くて、ベッドで聞く彼の声を思い出してしまった前宮は熱くなった顔を俯かせて床を見つめる。一所懸命伝えていたのが伝わってしまって、恥ずかしくて視界がぐるぐるしそうなのだ。
「今日さ、帰るときなんかあった?」
 櫻井の声は低いまま。彼は警察官だし、前宮が悪いことをした人間ならばすぐにでも正直になにもかも白状していたことだろう。けれども、前宮には気恥ずかしさはあっても後ろめたいものはない。
「な、なんにもない……
「ほんと?」
「ほんとう……
 そっか、と頷いてくれたようなのに、櫻井は腕を解かなかった。
「いつも言わないことばっか言うからびっくりした」
……こういうの、嫌?」
「まさか! 可愛いなーって心配になっただけ」
「心配?」
 んー、と難しそうな声が耳元でする。耳殻に呼気を感じたときには、耳朶を強く噛まれていた。
「い゛……っ!」
「他の奴にも声かけられたりしてんじゃねえの?」
 耳に絡む低い声。
 櫻井は時折、やきもちを妬いているような言動を見せてくれることがある。だからといって気を引くための試し行為を前宮がしたことはないが、ふとした言葉や態度に嬉しくなってしまうのは本音だった。
 少しでも自分を意識してもらえたらいいなと思ってしまう。それがどうしてなのか、分かってはいるけれどはっきり言葉にするのはまだ怖い。
 でも、と前宮は身を捩り、正面から櫻井に抱きついて踵を上げて彼の唇にちゅっとキスをする。
「俺が声かけてほしいの、哲彦くんだけだよ」
 どきどきして櫻井の顔から目を逸らしそうになってしまったけれど、今日は勇気を出すと決めたのだ。じっと見つめる先で一瞬見えたのは櫻井の苦笑。ぼす、と肩にぶつかった頭と背中をぎゅうぎゅう痛いくらいに抱き締める腕。
「今日は威力でか過ぎ……マジでなんもないの?」
……この前、ドッグタグ貸してもらったから。まだ、勇気残ってるの」
 そっか、と呟いて櫻井が深々とため息を吐く。
……飯、あとでもいい? ベッド行こ」
 返事をするより早く、櫻井に運ばれて体が引き摺られていく。前宮はその乱雑なところを嫌だとは思わない。櫻井に求めてもらえることに胸がぽかぽか暖かくなって、ベッドへ転がされれば笑って脚を開いた。
 のし、と被さってくる櫻井の体。がぷ、と噛み付くようなキスと服の上から体を辿っていく大きな手。腰の痺れるような期待をしながら前宮は自分からも舌を絡めて櫻井を求める。
「ん……哲彦くん、あのね」
「なに? 今更やめねえけど」
「んーん……いっぱいしてほしくて」
 あ゛ー、と濁った声を出して櫻井が前髪をがしがしと掻き上げる。男っぽい仕草にどきどきしながら見つめていれば、櫻井は前宮の鼻先をぴんと指で弾いた。
「途中でへばるとか許さねえから」
……がんばる」
 ふ、と解けるように笑った櫻井が、その笑みに反して強い力で前宮の首筋を噛んだ。ぎちり、と皮膚に食い込んだ歯。首筋を伝っていくなにかはきっと唾液ではない。痛い。痛いけど、もっとしてほしい。
 は、は、と呼吸を荒げて見上げた天井は白くて狭い。けれども、広場で空を仰いだときよりも前宮の胸は晴れ晴れとしていた。
「ぅ……哲彦くん……
「もう黙っとけよ……調子狂うから」
「ん……
 口を閉ざし、前宮は言えなかった言葉の続きを考えるが、まだ具体的な言葉にはできなかった。
(いつか言えるかな)
 もっと勇気を出せば。もっと自信を持てれば。
 目を閉じた前宮の耳に、ドッグタグ同士がぶつかる音が聞こえた。
 いまは冷たいドッグタグはもうすぐ、お互いの体温で熱くなるだろう。