宇宙移民の計画は、狂気的に増えすぎた人口を抱えた人類にとって急務であった。地球上の自然体系が破壊され、星一つが潰れる愚挙だけは回避するためである。
西暦の時代――やがて銘打つ宇宙世紀を前にして、地球連邦政府がまず行なったことは、言語の統一だった。
しかし、地球にはおおよそ七〇〇〇種類もの言語が存在しており、膨大なそれらを統合することは困難を極める。そのため、もともと公用語とされていた英語をベースに、各地での言語政策が強行された。要は「なるべく公用語で話せ」という政令である。
宇宙へ移民する人々が、言語の違いで意思疎通が図れないとなればコロニー内の運営が滞る。互いの軋轢のもとにもなるだろう。そのため、言語政策は宇宙世紀に移行するまで続けられた。結果として、人類の大半が公用語を身につけ、国家も人種のルーツも様々な人が交流できるようになったことは、紛れもなく連邦政府の偉大な成果であろう。
一方で、公用語が浸透し、普遍化していく中で各国の固有言語は時代に置き去りにされるかたちとなる。決して、その言語で話すことが禁じられたわけではない。しかし時の流れとは無情なもので、世代の交代を繰り返せば人々の意識から少しずつ失われていたのも確かであった。
◆
「『――――』」
聞き慣れない音の羅列が後ろから投げ掛けられる。意味のわかる言葉としては認識できなかった。しかし、自分に向けられたのだと感じて、アムロ・レイは振り返った。
「…? 何か言ったか?」
「いや?」
後方には茶髪の男が立っている。自然と人目を集めるような精悍な顔立ち。伸びた髪は緩やかにウェーブし、うなじでひとつに括られて背中に垂れていた。その眼孔には透き通った青いまなこが嵌め込まれているが、今はブラウンに色付いたカラーレンズに隔たれて色はわからない。額の中央に刻まれた古い傷痕は、深めに巻かれたバンダナに隠されており、今はアムロしかその存在を知らない。
男の名はシャア・アズナブル。すっかり変装が板についた男である。
アムロは彼の飄々とした返答に、不満を露わに口をへの字に曲げた。奥歯にものが挟まったような、真意が見通せないことにかすかな苛立ちが募る。
シャアは時々、こうしてアムロに向けて奇妙な発音――おそらく、アムロの知らない言語を投げかけることがあった。
(悪い意味ではないんだろうけど……)
悪意や敵意があればアムロは気付く。怨嗟にしてもシャアの表情は穏やかだ。おそらく、アムロに伝えるつもりのない、独り言に近いものだろう。しかしアムロに向けて放たれている言葉であることは確かだった。なんとなく察しているからこそ、わからない言語がもどかしい。
言いたいことがあればはっきり言えばいいのに、と素直に思う。
(……今更、隠し事も何もあったもんじゃないのに)
「レイにいちゃん?」
「ん、…ほら」
「すげー! ほんとにランタンになった!」
「見せて見せて!」
「似てるけどけっきょく紙なんだから火に近付けるなよ」
「はぁい!」
きゃあきゃあと子供たちが駆けていく。その手に持つのは、空箱を工作して出来上がった厚紙のランタンだ。暇を持て余した近所の子供たちは、いつ頃からかアムロが営む小さな修理屋に顔を出すようになった。今回は菓子でも詰められていた空箱を持ってきて、何か作ってほしいと無邪気に頼まれたものだから、アムロはせっせとランタンを作ったのである。彼らにとって、アムロは近所にいる構ってくれる気のいいニイチャンなのだ。
「器用なものだと言ったんだ」
「……そうは聞こえなかったけどな」
少しばかり棘のある声が出る。シャアが話しているのは知らない言語だとアムロは察していて、それをシャアも気付いているだろうに、彼はいつも雑に誤魔化す。フン、と鼻を鳴らして、アムロはくたびれた修理屋のカウンターを通り過ぎ、奥の住居へと引っ込んだ。
宇宙世紀〇〇九五――第二次ネオ・ジオン抗争、あるいはシャアの反乱、そう称される争いから既に二年が経つ。
アクシズを包んだ不可思議な光の中心地にいた二人は、代わりとばかりに地球の重力に捕まったらしく懐かしき水の星に墜落していた。
詳細は定かではない。二人ともに、気付けば見知らぬ医院のベッドの上だったからだ。医療者たちは明らかに訳ありな二人が目覚めても何も詮索することなく治療を施した。ただ「あなたたちの治療を望んだ方の依頼なのです」とだけ言う。何もかも予定調和みたいに、退院時には偽造された別人の身分証まで渡された。
レイ。それが今のアムロの名だ。シンプルでありきたりな名前は、かつては彼の姓でもあった。あえてその名前にしたのは、アムロが間違わないように配慮してくれたのかもしれない。
二人を保護し、医者を手配して、別人としての未来まで用意してくれた命の恩人。なんとなく察していたけれど、治療が一段楽して退院する頃にアムロにだけ伝えられた「兄君をよろしく頼みます、とのことです」という医者の伝言でその正体を悟った。アムロは苦笑する。一緒に渡されたいくつかの金塊を見たシャアも、恩人の正体を察したのかもしれない。
一年ほど地球で暮らし、その後は宇宙へ出た。各地を転々として、今はサイド6にある農業コロニーのひとつに居を構えたところだ。居住区域に空いていた古ぼけたテナントを借り、修理屋として開業してから、そろそろ一年経つ頃である。近場には技術職がいないのか、家電製品から小物まで、そこそこ修理の依頼は入ってきて軌道に乗っていた。
「アムロ、忘れものだ」
「…いいよ、家の中ならいらないだろ」
「また転んでも私は支えられないぞ」
呆れたようにそう言われるとムッとして、アムロは差し出された杖を大人しく受け取る。
「………ほとんど片手で俺を抱えたくせに…」
「鍛えたからね。…『――――』」
ボソリと付け足された言葉は聞き取れない。また違う言語だろう。
借りたテナントは、年季の入った古い建物だった。二階のない平屋で、道路側になる表が商業用に使える店舗として改装されており、奥に住宅が繋がっているタイプである。修理屋を営むとなった時、この構造が借りる決め手となった。工房となる店舗と住居が繋がっていることで移動距離が短く済み、ついでに階段を登る必要がない。
アムロはつい先日のことを思い出す。躓いた際にシャアが右手を出して支えようとしたが失敗し、二人揃ってバランスを崩して転んだのだ。その後シャアが左腕でアムロを抱え起こしたのも記憶に新しい。
かつん、と手渡された屋内用の杖をつく。
――地球に墜落した時、互いに満身創痍で、決して五体満足とは言えなかった。命は繋いでも、二人には障害が残ったのである。
アムロは左足が不自由になった。おそらくコクピット内の機材に挟まれでもしたのだろう。傷痕もひどく残り、よたよたと歩けるものの、走ることはできない。普通に歩くには一生、杖が必需品である。
シャアは右手だ。複雑な骨折をしていたと聞く。骨はどうにかなったものの、神経に障ったのか麻痺が残り、曲げ伸ばしは出来ても握力は弱く、ペンも満足に持てない。
しかし双方共に全身の骨という骨が折れて、人の手を借りなければ寝返りどころか排泄すら出来なかった身である。欠損がないだけマシなのだろう。
「逃げないのか、シャア」
「逃げてほしいのか? もう私を捕まえられないくせに」
「……だから聞いてるんだよ。俺じゃあ無理なんだから」
「……今更逃げないさ。それに逃げたところで、……私に出来ることはなくなった」
――当時のシャアは、自分の腕が満足に動かないことを自覚してから、随分と荒れていた。自暴自棄というのか、退廃的というのか。やり場のない苛立ちや怒りを最大限の皮肉に変えて、アムロや医療者たちにぶつけていたものだ。しかしその感情すら燃え尽きたのか、やがては活気を失い、無気力な様子が目立つようになった。片手が満足に動かなくとも、『シャア・アズナブル』であれば出来ることなど五万とあるだろうに、そんなものはないのだと吐き捨てる。
それだけ、彼の中で……パイロットとしての『シャア・アズナブル』が大きく占めていたのだろう。
片腕が使えなければパイロットとしては死んだも同然だった。もちろん、世の中には欠損を含めた身体の後遺症を抱えていてもモビルスーツを巧みに操る者も少数いる。
だが、シャアはこれまで五体満足で、自らの身体を思うがままに使い、自由に戦ってきた。全盛期とも言えるその輝かしい記憶がある限り、不自由な今の自分を受け入れられないのだ。
一方のアムロは、自分に残った障害については不思議なほどすんなり受け入れていた。人より優れたパイロット技能はアムロの中の矜持のひとつだったが、もう戦わなくていいのならそれはそれで彼にとっては幸いでもある。元来、アムロは戦うことが好きではない。軍人になったのも現地徴兵の結果で、退役出来なかったのは軍上層部の意向。
……もうひとつ、アムロが軍を辞めなかった理由の男は、同じ医院のベッドの上でくさくさしている。フィフス・ルナの件でたくさんの命を奪った暴挙は許さないが、今後妙な企みをしないのなら、もうアムロが彼と戦う必要はない。力なき正義は無力だ――軍人でなければシャアを止められないから、アムロはグリプス戦役のあとも軍人を続けていたのである。
アムロはこれまでガンダムに乗り、パイロットとして戦争をしてきた。撃墜数はそのまま彼が奪った命の数だ。そう考えれば、足一本など安いものだろう……これは報いなのだ、と思ってしまえば、辛くとも、気持ちの整理がつくのは早かった。
リハビリだのなんだのと促されれば促されるまま動くけれど、シャアは日がな一日、ぼんやりと病室で過ごしていた。「バーンアウトなのかもね」と痛ましそうに言ったのは、二人の主治医であった医者である。
「彼のしでかしたことに思うことはあるさ。まあ…治療に個人の思想は介入すべきじゃないからねぇ……虐待するような親でも、自殺志願者でも、…犯罪者でも殺人者でも、病院にいる限りは治療するものなんだよ」
初老にさしかかる年代の医者は、普段の穏やかな面立ちから表情を消し去ってそう続けた。その変化に彼の中の葛藤を感じてアムロもまた目を伏せる。
いっそ死んでいたらよかったのかもしれない。少なくともアムロにはその覚悟はあった。
ガンダムの力は信じていたけれど、アクシズを押し返すことなど土台無理な話だと頭の片隅では結論が出ていたのだ。それでもただ見ていることなど出来ず、少しでも軌道が逸れたら良いと、そんな気持ちだけで立ち向かった。
死ぬだろうな、と思ったから――――あの時、手のひらの中にいたシャアも、道連れにしてやったのに。死に損なってこの有様である。
退院の話が出た時、アムロはすっかり腑抜けた男も連れて行くことは出来るかと相談した。医者たちは顔を見合わせて悩み、返事は後日と言われる。おおかた、命の恩人に相談するのだろう。この頃には、アムロは命の恩人が医者たちを動かせる立場にいることくらい悟っていた。……彼女なら、身内の責任だとシャアを飼い殺しにするのかもしれない。それならそれで構わなかった。
ただ、責任があるのだ。二人のあらゆる糸が拗れてしまったはじまりは、みどりの目をした女の死だった。殺したのはアムロだった。彼女を戦場に連れて来てしまったシャアのせいでもあった。二人の心には、ララァという同じ傷がある。アムロはシャアに対して、シャアはアムロに対して、互いにその傷をつけた責任があった。
話し合いの結果、アムロはシャアを連れて行って良いと許しをもらう。そうして、伝言と共に金塊や別人の身分証を受け取ったのだ。それが最後まで顔を見せなかった彼女の――セイラからの、餞別だった。
◆
さて、シャアがアムロの知らない言語を話し始めたのは、二人がまだ地球にいた頃である。
無気力な彼を引っ張り回すうちに、ぶつくさと文句を言うようになったのがきっかけだったように思う。
餞別として受け取った金銭で当面は生活できたとしても、働いていない者にはやはり疑惑の視線は向けられやすい。アムロはシャアを連れていくと決めた時点で、連邦軍に戻るつもりはなかった。先の抗争の戦犯であるシャアを隠し通すことに決めた。そのためには慎ましく静かに暮らさなければならない。
とりあえず、何かと目立つ男の金髪を染めようと市販のヘアカラーをいくつか買って来て目の前に並べた時に、不機嫌そうに何事かを吐き捨てられたことは覚えている。おそらく『センスが悪い』とか『これでは余計に目立つ』みたいなことだろう。流石に、真紅のヘアカラーはお気に召さなかったらしい。
無難に茶髪に染めた彼は、それから「君に計画性はないのか」「もう少し変装に気を使うべきだ」「生活習慣どうなっているんだ貴様」など、放浪生活の中でもいろいろと苦言を呈するようになった。小さなことで口論になることも多い。時々、試すように「ここで私が逃げても、貴様は追って来れないな」とアムロの足を見ながら言うこともあった。そのくせ、アムロが躓いたりするとすぐに駆け寄ってくる。
なんとも表現し難い距離感だった。踏み込みすぎると相手が離れ、遠すぎると相手から目を離してしまう。障害を負う二人はどちらも互いを見捨てられない。離れる機会はいくらでもあったけれど、けっきょく、距離感を測り損ねながらも彼らは共に生きる道を選んでいた。
(たぶん、お互いに欠けたから…なのかな)
キュ、と蛇口を閉める音が響く。アムロは滑らないように気をつけながら風呂場の手摺を持ってゆっくり立ち上がった。
腕と足が、それぞれ満足に動かないからか、二人は自然と互いを補い合うようになっていった。
両手を使う修理屋はアムロが主になって営む。細々とした家の修理も、ジャムの瓶の蓋を開けるような小さなことも、アムロの役割としていた。シャアは遠出が難しいアムロの代わりに買い物などを行なうようになった。屋内でも何かと片足でバランスを保持できないアムロの動きを助けようとする。風呂場のものをはじめ、家の中に手摺を取り付けた時も、シャアがアムロを支えながら作業をしていった。キッチンで食材を切ったり和えたりするアムロの隣で、味付けをするのはシャアの役割だ。
シャワーを浴びたアムロを支えて寝室に連れていくのもシャアだ。ちなみに放っておくとそのまま寝ようとする彼を毎回シャワー室に押し込むのも彼である。
寝室は別だったのに、いつの間にか共に寝るようになったのは、半年前くらいからだろうか。
(いや、なんでだ…?)
今日も今日とてベッドに押し込められる。最初はシングルサイズで設置していたアムロの部屋のベッドは、現在は作業部屋に仮眠用としてリユースされている。代わりにシャアが用意したのはダブルサイズだ。本気で共寝をするのかと訝しみ「男二人で…? 正気か…?」と言ったことも、もはや懐かしい。
「……寝起きに転ぶ君がうるさいからだよ」
「それは…ごめん、つい……杖を忘れて…」
「私は何度も言ったが君は改善策すら出さない。だからもう一緒に寝ることにした。その方がいろいろ手っ取り早いだろう」
長年潜伏し、各所のお偉いさんと縁を繋いでは、政界の狸に絡まれたり腐敗を目の当たりにしてセンチメンタルになることもあったシャアである。なんやかんやと多くの経験を積んでいる上にもちろん教養もあり、人身掌握もお手のものであるシャアに、正直、アムロが口で勝てることはあまりない。
つまり共寝は決定事項となった。
実際、アムロが起きてすぐに杖を忘れて歩き出そうとして転ぶことも減り、ついでに人肌効果なのか入眠も早くなったので、「おかしいな…?」と思いつつもずるずると共寝は続いている。
この時期からも、シャアの別言語が増えていた。最初に聞いたものとちょっと質が違う気がする。
寝る間際、目覚めた時。それから、うとうとしている時には、びっくりするほど柔らかい声で、何かを囁くのだ。
「『――――』、」
アムロはいい加減、彼の言葉を知りたかった。彼が何を思い、あえて知らない言語を使い、アムロに伝わらないとわかっていながら伝えようとするのか。
調べるのも必然である。直接本人に聞くのはなんだか負けた気がして、それとなく、シャアを観察するようになった。彼が言語を変えるタイミングは様々だ。共通するのは、アムロに向けた言葉であること。
「……『――――』」
(イ、ヒ?)
「『――――』」
(アーク…いや、マーク、か…?)
「『――――』」
(リ、…違う。ディ、ヒ…かな)
一番よく聞く単語の音は、わからなくても自然と覚えてしまう。知りたいと思えばより一層気になって、彼がそっと呟くその音を聞くたびに、うずうずと好奇心が湧き出す。
何度もアムロに伝える言葉は、何を意味しているのだろう。例え悪い意味であったとしても、アムロは知りたかった。
(イッヒ・マーク・ディッヒ)
綴りも知らないその音の意味を。
◆
「図書館に行って来る」
シャアの言葉の音を覚えたアムロは、遠出のためにそう告げた。農業コロニーと言えど、人口はそこそこ、おおよそ二十万人ほどは住んでいる。中心都市は学校などの教育機関もあるため、図書館ももちろんあった。アムロの修理屋は農業地区に近く、都心部に行くとなると距離がある。「珍しいな」とこぼしたシャアに、「ちょっと調べたいことが出来たんだ」と返す。
「夕方までには帰ってくるから」
続けて、着いていくと言われる前に先手を打った。シャアは何かとアムロの世話を焼きたがる。それこそ、共寝をするようになった頃から率先的に。
しかしアムロの足は不自由でも、杖などの支えがあれば十分に生活は可能なのだ。シャアの細々とした助けはありがたい。ただ、無くてもどうにでも出来る。
寝起きで杖を忘れて転んでも、アムロはひとりで立ち上がり、いつも通りの日常をはじめられるのである。そんなこと、シャアだって知っている。
「……わかった、気を付けるように」
「うん」
何か言いたげではあったが、結局、シャアは口を噤んでアムロを見送った。
エレカに乗って辿り着いた図書館で、アムロが向かったのはもちろん、言語に関する書架だ。
宇宙世紀になってそろそろ一世紀。公用語が人々に浸透して久しい。それでも各国で永く紡がれてきた言語は、忘れ去られることはない。書架の一角を埋める背表紙の文字を追う。しかし、問題がひとつ。
「……どれだ…?」
アムロはシャアの言葉の音を覚えたけれど、それがどこの国の言語なのかまではわからないのである。少なくとも公用語の基礎となった英語ではなさそう、という程度だ。
「うーん…」
「何かお探しですか?」
「!」
書架の前をうろうろとしていたためか、本棚の整理をしていた司書らしき職員が話しかけてきた。優しげな面立ちをしたふくよかな女性は、目尻に皺を寄せて微笑んでいる。
「あー……ええと、昔の言語の本を探してて…」
「あら。どこの国の言葉でしょう?」
「いや……それがわからなくて…」
「? …あ! もしかして、聞いた単語の意味を知りたいとかですか?」
「……意味…ああ、はい、それに近いですね」
「ふふ、それならいいものがありますよ」
司書に連れられてやってきたのは、読書スペースから少し離れた場所にある、コピー機や検索端末のある区画だった。
「公用語が広まる前は、当たり前ですけど各国の言葉で本はつくられていましたから。簡単なものですけど、各言語の翻訳や検索が出来る機械が導入されたんです。流石に専門分野の用語は難しいですけどね」
コンピューターの前まで案内され、意気揚々と操作の説明をされる。図書館などミドルスクールに通っていた頃くらいしか行ったことがなかったけれど、知らないうちに随分と発展しているようだった。「音声検索も可能なんですよ!」と自慢げに語る女性はきっと、この機能を図書館の名物にでもしたいのだろう。苦笑しつつ、アムロは彼女に感謝を伝えて、ひとりコンピューターと向き合う。
「……イッヒ・マーク・ディッヒ」
図書館の静寂を壊さないように、なるべく小さな声で音声検索を行う。データを検索してローディングスピナーが回るのを、じっと見つめた。
やがてパッと画面が変わって、検索された言語が表示される。
――「ドイツ語」
――「Ich mag dich.」
「……ああ、そう」
アムロは、画面に表示された文字をなぞる。
その意味を持つ言葉が、自分に向けられていたことに大した衝撃はなかった。不思議と動揺もせず、すとんと納得するような気さえする。
「そっか……」
思い返せば、ああ、確かに、あの男はそんな顔をしていたのかもしれない。アムロに向ける眼差しに宿る温もりは、そんな色を灯していたのかもしれない。
「はは、情けないやつ…」
直接言えよ馬鹿、と口の中だけで呟いて、アムロはコンピューターを操作する。検索するのは別のドイツ語だ。
「俺も、そうか」
ずっと聞き流してきてしまった彼の言葉に、返答をしなければならない。
どうせなら、同じ言語で。
――「Ich mag dich.」
――「意味:好きです」
◆
はじまりは、ただの八つ当たりだったのだ。
『偽善者め』
『腹が立つ』
『なぜ殺さない』
『皆、死んでしまえ…』
己の中に残るちっぽけな矜持が、口汚く罵ることを躊躇した。代わりに思い出したのが、幼い頃に学んだ言語である。
サイド3に住まうスペースノイドは、ドイツにルーツを持つ者が多かったらしい。公用語が浸透した今となっては廃れた過去の言語のひとつであるドイツ語は、いつの頃からか、サイド3の中で権威のひとつとして語り継がれるようになった。
過去を想い、遺されたものを守ることに労力を割けるのは、生活に余裕のある者たちだけだ。日銭を稼ぐことに精一杯な人々は、もはや何の役にも立たない言語を覚えようとは思わない。だからこそザビ家やダイクン家などのサイド3内で権威を持つ者たちは、ドイツ語を学んだ。それを学ぶ余裕があるという事実が、彼らの自尊心を満たすからだ。
かつてのキャスバル・レム・ダイクン――シャアもまた、そうである。頭の片隅に詰め込まれ、これまで使うこともなかった言語は、今になって、隠れ蓑として活用されている。馬鹿らしくて笑ってしまう。
結局、シャアの作戦は失敗した。
アクシズは落ちず、地球には今日も蚤のように人間たちが蠢いている。アムロを撃墜することも出来ず、互いのモビルスーツの破損具合を思い出せば、シャアの負けと言えるだろう。おまけに無様に生き延びて、右手は思うように動かなくなった。仮にネオ・ジオンに舞い戻ったとしても、シャアは以前のようにモビルスーツの操作も出来ない。
何一つ上手くいかなかったのだ。シャアは、自分の心の芯がぽっきりと折れたような気がした。
気鬱になっていた自覚はある。アムロがドイツ語を理解していないことはわかっていた。後から思い出しても恥ずべきことに、それは確かに八つ当たりだったのだ。
「……『私と一緒に来なかったくせに』」
医院からシャアを連れ出してあてどなく放浪するアムロの背中に、鬱憤をぶつける。あの時、彼が自分の手を取ってくれていたら何か変わっていたのかもしれない……たらればに意味などなく、これはただの恨み言だ。そんなつまらないことをする自分も、惨めで仕方がなかった。
――けれども、それもまた、シャアには必要な時間だったのだろう。気持ちを声に出すことで感情の整理に繋がるように。
アクシズ落としを失敗した以上、ネオ・ジオン軍の再建は難しいだろう。しかしスペースノイドにシャアのシンパは多い。かつてそうしたように、時間をかけてもう一度、今度は違う計画を練り直すという道も、確かにシャアの前にあった。足に障害が残ったアムロには、シャアを追うことは難しい。きっともう、彼もモビルスーツには乗れない。乗ったとしてもシャアと同じく、全盛期の白い悪魔と称された素晴らしい操縦は出来ない。……シャアの前に立ちはだかる強敵足り得ない。
邪魔がいなくなって喜ばしいことのはずなのに。アムロという壁がいない道を、シャアは選べなかった。
「『君を撃ち落としたかったはずなのにな』」
「? …何か言ったか?」
「……黒髪の君は見慣れない、と言った」
「そうか…? まあ、変装だから」
地球を放浪している期間、真っ先に二人は髪を染めた。シャアは暗めの茶髪、アムロは黒髪。髪の色を変えるだけで印象は変わる。染めてもふわふわと変わらない天然パーマの姿に慣れるまで、意外と時間がかかった。
「アムロ」
「…おい、間違っても人前で呼ぶなよ」
「わかっている。君こそどうなんだ」
「スバル。……うん、慣れないな」
スバル。シャアに与えられた別人の名である。おそらくキャスバルから取ったのだろう。彼にとっては利用できる名前が増えただけで何の感慨も湧かない。
アムロはその名を呼ぶ時、いつも苦いものでも噛んだような顔をした。その後、口直しみたいに誰もいないところで小さく「シャア」と呼ぶ。そんな些細なことが、不思議とシャアの胸の内を温めたことを、覚えている。
「シャア」
今では、二人の暮らす家の中で、アムロだけに呼ばれる名だった。
彼に好意…のようなものを抱くようになったのは、はたしていつからだったのか覚えていない。純粋な好意と称して良いものかもわからない。ララァに向けたものとも異なる。
ただ、彼がそばにいる日常を手放したくないと思った。
もうライバルにすらなれない男と過ごす、起伏の少ない安穏とした隠遁生活。目標もなければ、他人の期待もない。率直に言えば、つまらない日々。それでもアムロがいたから、どうしても離れがたかった。
自分でも判然としないもどかしい感情。それに決着をつけたくて、無理やり理由をつけて彼のベッドに潜り込んで共寝をした朝。無意識のうちに抱き込んだアムロの寝顔を見た時に、シャアははっきり自覚することになる。
「アムロ……君が、」
――ああ、私はこの男が欲しかったのか。
しかし面と向かって好意を伝えることはできなかった。シャアとてこれまで酸いも甘いも噛み分けてきた大人の男なので、それなりにプライドは高いのである。そして自分の容貌は自負しており、男女関係で大きな失敗はしたことがない。ついでに、男に情愛を告げた経験はない。……つまり、臆病風に吹かれていた。
断られたら。侮蔑の目で見られたら。今の関係が変わってしまったら。そう考えて、尻込みしてしまったわけである。
けれども自覚した想いを押し込めるには、十四年以上紡がれてきた二人の宿命がこんがらがりすぎて無理だった。アムロに向ける感情は本当にしっちゃかめっちゃかしているので。
うんうん悩んで導き出した苦肉の策が、かつてシャアの罵詈雑言をうまく隠してくれたドイツ語だった。天啓である。シャアは己の中にあふれる気持ちを溜め込まずに思う存分吐き出せるようになった。『好きだ』『好き』『可愛いな』『心配だ』『どこにも行くな』『私を見ろ』『好きだ』『ここにいて』『おやすみ』『幸せだ』『アムロ』『好きだ』――――それでよかった。今の穏やかな関係を壊したくなかったから。
だから返答があるなんて、本当に考えてもいなかったのだ。
◆
図書館から帰ってきたアムロはいつも通りに見えた。
キッチンに立ち、すっかり慣れた共同作業で作る夕食。他愛もない会話をしながら過ごす時間。シャワーはシャアが先。物臭なアムロをシャワー室に押し込み、終わった後は彼を支えてそのまま寝室へ行くルーチンが出来ているからだ。
アムロをベッドに下ろして、シャアも彼のそばに横たわる。二人分の体重を受けたベッドのスプリングが軋んだ。ベッドサイドのナイトライトだけを残して明かりを落とせば、しんとした静寂が部屋に満ちる。
「おやすみ」
「ああ…おやすみ」
ごそごそと互いに背を向けて、小さな声で挨拶だけを交わす。
寝起きは温もりを求めて互いの腕が巻き付いていることが多いけれど、寝入りはいつも背中合わせだった。
掛け時計の秒針の音が響く。ジャンク品として格安で売りに出されていたものをアムロが買って、器用に直した時計だった。この家の中には、そうやってアムロが直したものも多い。彼らしい家だった。
薄暗い部屋の中、シャアはぼんやりと時計を見上げる。なかなか眠気が来ない。長針が半月分動いた頃には諦めて、背後から聞こえる規則正しい寝息を確認する。
「……『好きだ』」
シャアが吐息に混ぜて囁いた。いつもの自己満足の言葉。直接寝顔に言えばよかったか、などと考える。――と、不意に「シャア」とやけにはっきりした声で名を呼ばれてびくりと肩が揺れた。
パッと肩越しに振り返れば、腕の力だけで身を起こしたアムロがシャアを覗き込んでいる。眼差しに眠気は見えない。つまり寝たふりをしていたというわけだ。予想外のことにシャアは固まった。
「な、んだ、アムロ…」
「イッヒ、リーベ、ディッヒ」
ナイトライトの弱い光源の中、アムロが笑ってそう言った。シャアが青い目を丸くする。
それは、敵兵を前に戸惑いと警戒を滲ませた顔でも、対峙した時の闘志に満ちた顔でもなく。近所の子供たちに見せる保護者然とした顔でもない。シャアが初めて見るアムロの表情だった。すっかり大人びた精悍な顔付きの奥、秘められた幼さが花開く。細められた瞳と弧を描く唇。
悪戯っ子のように楽しげに笑うアムロの顔に、シャアの心臓がどくんと跳ねた。
「な…」
「調べたんだよ。あまりにあなたが同じ言葉を言ってたから」
「は…? え……」
「だから、返事しないと駄目だと思ってさ」
「……うそだ」
「うそじゃない」
「嘘だ、君は私のことなど、」
「好きだよ、シャア」
遮る声はきっぱりとしている。シャアの唇が戦慄いた。
「気付かないもんだな。好きじゃなきゃ、あなたを連れて放浪なんてしないよ。最初はまあ、責任感みたいなものだったけど。それだけで一緒に住もうなんて思わないし、一人で出来ることは一人でしたいし。……そもそも好きでもない奴と一緒のベッドで寝るわけない」
アムロはシャアとの共寝が始まった頃「男二人で…? 正気か…?」「おかしいな…?」と思いはしたけれど、明確な拒絶はしていない。これが別の人間ならどうだろう。旧友であるブライトやカイたちなら、一夜くらいは一緒に寝るかもしれないが、それが連日となるならまっぴらごめんだと思う。もともとは内向的だったアムロのパーソナルスペースは狭いのだ。そこにするりと入り込んでおいて、その意味と抱く気持ちに気付いていないのは、――まったくどちらだったのか?
「ずっと前から、あなたのことが好きだったよ」
それこそ、初めて出会って、助けてくれたあの時から。あなたの純粋な優しさを忘れられないくらいに。
アムロがもう一度、覚えたてのドイツ語を繰り返す。シャアからすれば拙い発語。イントネーションも少しおかしい。
しかし、意味は伝わる。
ン、とアムロが両手を広げれば、シャアは惚けたように目を瞬かせた。一拍置いて察したらしく、そろそろと彼のそばに寄る。おそるおそる伸ばした左手が、アムロの脇の下を通り、肩を抱く。ぐい、と優しく引き寄せれば、アムロの身体は簡単にシャアの腕の中に収まった。信頼を示すように力を抜いた男の身体。ますますシャアの腕の力が増す。
「伝わったか?」
「ああ……ちゃんと、伝わったよ」
シャアもまた、アムロに同じ言葉を返せば、腕の中の彼がぎゅうと抱き締め返してくれた。
ぴたりとくっついた互いの胸の奥、異なる鼓動が響いている。アムロの体温はシャアより少し低い。けれど彼の腕の中にいれば、いずれは緩やかに混ざり、同じ温度になるのだろう。
「Ich liebe dich……」
――「意味:愛してる」
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.