エスパーとは言葉どおり超能力のことで、シンは他人の心を読むことができる。ラジオのチャンネルを合わせるみたいに、周波数がぴたりとあった人間の心の声が聞こえてくるのだ。
ラボにいた頃手に入れたこの力は、その時からずっとシンとともにある。つまりはシンは周りの人間が何を考え、どう行動するのか、他人よりも察しやすい状況ばかりを生きてきた。
だから避けたいと思ったときは大抵うまく避けることができたし、知りたいと思っていなかったことでさえも知り得ることができた。それでも人生は思う通りにいかなくて、たまに見えない力が働いているのではないかと思ってしまうくらいだ。
「じゃー、俺と付き合えばいいじゃん」
「……え?」
まさに青天の霹靂、寝耳に水。あとは、なんだっけ。まあとにかくそれは、シンにとって思ってもみなかった言葉だった。今までの俺の話聞いてた?と問い詰めたくなるほどに、斜め上からブッ刺された。どうやら人間とは、自分の思ってもみないところから刺されると、思考を停止してしまう生き物らしい。
1.曖昧な言葉を口にするほど
窓の外を見ると、この季節には珍しく雲ひとつない晴天だった。位置の低い太陽からは柔らかな光が差し込んでいるが、きっと外で過ごすには暖かさが少し足りない。でもそんなことシンにとっては関係なかった。だって、今は暖房がガンガンにかかった講義室にいるのだから。
大講義室の大体真ん中あたりにある窓際の席は、シンが好んで座る場所だった。だから今日も変わらずそこに腰を下ろし、周りにはなんだかんだ一緒にいることが多い編入試験組が座っている。真冬は隣で退屈そうボールペンの芯を出し入れして遊び、前の席では加耳がその音に顔を顰めて真冬を見ている。晶と虎丸はシンの後ろで真剣に話を聞いているようだ。
別に退屈なわけではない。自分から進んで学んでいるのだから、有意義に過ごさねばとも思う。こんな風に思考がとっ散らかっているのは単純に眠たいからだ。太陽の優しい暖かさと、ともすれば暑いような暖房の風がシンを眠りへと誘う。教師の声なんて、もう随分と前から耳には届いていなかった。
「じゃあ今日はここまで。また来週」
うとうととしているとチャイムが鳴り、ビクッと肩を震わせた。タイミングよく講義は終わったみたいで、静かだった周りは授業終わり特有のざわめきで満ちていた。
やべ、一瞬意識飛んでた。真冬には気づかれなかったみたいで、シンの様子を気にすることなく教材を片付けている。涎垂れてないよな……?と口元をパーカーで拭っていると、後ろからトントンと肩を叩かれた。
「シンくん寝てたでしょ〜」
「げ、バレてたか」
「バッチリ。そんな興味なかった? 他の授業ならまだしも、殺し屋心理学けっこう面白いと思うんだけど!」
「虎丸ちゃん、興味あるなしの差がすごいよね」
「晶が真面目なんだよ〜!」
虎丸はいつもグイグイくるので、シンとしても話しやすいし、つい話し込んでしまうことも多い。眠気と戦っていたことがバレていたのは少々恥ずかしいが、虎丸だって興味のない授業はずっと推しである坂本の話をしてくるので同じだ。まあ坂本の話をされたらシンも乗っかってしまうのだが。
「なーシンくんもう行こうぜ」
「おー。って言っても俺次空きコマだからよ〜」
「待って待って。真冬も聞いてってば」
「なに、今おれ忙しい」
「だからさっきの授業だって! ハニトラってどう思う?」
「しょーもない。以上」
「もー真冬!」
どうやら先程の授業、殺し屋心理学ではハニトラを題材に扱っていたらしい。そういえば授業の初めにそんなことを言っていた気がする。
ハニトラ。ハニートラップ。色仕掛けによる諜報活動のことで、相手を好きにさせて情報を抜き出したり、時には身体を使って親しい仲となり相手をハメたりすること。殺しの手法としてよく聞く名前だ。
実際に殺し屋として働いていたことのあるシンも、それを目の前で見たことがある。同じ組織に、情報を持っているという男に近づき、逢瀬を重ね親しくなり最終的に骨抜きにした状態で、あらゆる情報を手に入れていた女がいたのだ。だからなんとなくその方法も、相手を好きにさせる心理も理解できる。心を読めるなら尚更だ。
「相手を好きにさせるって難しそうですよね……」
「晶なら可愛いから男なんてイチコロだって! アタシは坂本以外の男にメロつくところが想像できなくてさ〜」
「メロつく必要はないんじゃね? だって自分は相手のこと利用してるだけだし」
「そうかもだけどー、もしかしたら好きになっちゃうかもしれないじゃん?」
「なー、もう俺行くけど。シンくんも行こうってば」
周りを見渡せば、すでに講義室からは人がいなくなっていた。前の席にいた加耳もいつの間にか姿が見えない。
「え〜まだ話そうよ! 恋愛って、どう思う? シンくんって好きな人とかいるの?」
「……話変わってね? まあいないけど」
「つまんない! じゃあ真冬は?」
「俺もいない」
そう口々に答えた二人に虎丸がさらに何か言おうとして、予鈴のチャイムが講義室に鳴り響いた。いつの間にか短い休み時間は終わりに近づいていたらしい。次の講義が実技の晶は急いで講義室を出ていき、虎丸と真冬も「やばい!」と焦りながらその後に続いた。手を振りながらなんとも慌ただしい同輩たちに苦笑いをしたあと、シンも教材を片付けてバッグに雑に突っ込むと、講義室を後にした。
シンはこのあと空きコマで、午後の最後の講義までいくらか時間がある。さて今日は何をして過ごそうかな、とポケットから紙を一枚取り出した。"学校あるある"と書かれたそれは、シンが最初坂本と共にJCCに潜入した時に作ったものだ。短い間だが初めて通う学校というものにテンションが上がり、調べた限りのことをそこに書き記した。そして再度、大切な人たちを守るために強くなりたい。その気持ちで学びにきたJCCで、今度こそそれを制覇するつもりでいた。学びと遊びは両立して然るべきなのである。
「朝倉くんじゃん、やっほ〜」
「先輩、ちわっす!」
「今度手作りお菓子あげるから食べてね」
「毒殺科の手作りはやめとけって聞いたのでいらねっす」
「えぇ〜、残念」
紙を見ながら廊下を歩いていると、つい先日潜り込んだ毒殺系の授業で知り合って先輩に声をかけられた。本来三年生以上しか取れない授業だが、興味があったので受けてみたのだ。こっそり忍び込んだことがその先輩にバレ、黙ってもらう代わりに手作りお菓子試食を要求されている。今のところ回避しているが。
その後も何人かに声をかけられながらも軽く躱し、それからやっとリストを上から眺めた。"購買ダッシュ"と"上級生にシメられる"、"授業さぼってトイレでタバコ"は前回の潜入時にクリアしていたので、今はその続きを着々と進めているところだ。ちなみにあれから項目はどんどんと増えていっているので、今のところ終わる見込みは立っていない。
とりあえず今すぐに埋められそうなものはなさそうだ。仕方がない、今日はまだ探検しきれていない北の方を攻めるか。そう思いシンは北館の方へと足を進めた。
中央の建物を出ると、強い風がシンを襲った。手が悴んでしまうような寒さに、肩を思わず強張らせる。やはり太陽の光があっても、この寒さには勝てそうにない。それでも意地で足を進めて、すぐ近くの建物の軒先に入った。近くにあった扉を開けようとして、ガチャン、と無情な金属音が鳴った。そりゃそうか、使わないところには鍵がかかっている。当たり前のことだ。ふらりと脱力して、シンは扉に背をつけて座り込んだ。壁が風を遮り、直接あたるよりはいくらかマシだ。むしろ冷たい風が頭を覚ましていいかもしれない。
はあ、と白い吐息が空へと昇る。それを眺めながら、シンはふと先程の虎丸の言葉を思い出していた。「恋愛についてどう思う?」なんて、学生らしいその問いに、シンはうまく答えることができない。
シンは幼い頃から殺し屋として働いていた。成り行きとはいえ、自分の選択で就いたその職業は、おおよそ平凡とは言い難い生活だった。学校だって通ったことないし、好きだと思えるような人はできたことがない。ただ、自分はエスパーで、それから汚い世界をたくさん見てきた。だからこそ殊更、恋愛というものがどこか別次元の存在に思えてしまう。自分には経験することがない、普通の人間だけが経験することのできるものなのだと。
「恋愛か〜」
何度考えても分からない。自分が誰かとそういう関係になっているところが。たとえば坂本と葵のような関係性を誰かと築くところを、シンは一つも思い描くことはできなかった。
ぶるり、と体を震わせる。思っていたより時間が過ぎていたようだ。冷えてしまった手を擦り合わせて暖を取ろうにも、なかなか体温は戻らない。今日は北側を探検するつもりだったのに、なんでこんなところで立ち止まってしまっているのだろう。次の授業までは少し時間があるが、戻るか。そう思って中央にある本館へと向かう。冷たい風はいくらかマシになっていたが、それでも寒いものは寒い。
本館へと入れる裏口のような引き戸に体を滑り込ませる。暖房はない廊下でも、外の空気とは全く違っていた。手に息を吹きかけながら歩いていると、廊下の先、曲がり角から見覚えのある顔が見えて、シンは逡巡ののち「よっ」と軽く声をかけた。
「くそエスパーじゃん。何してんの?」
出会った時とあまり変わらない、余裕そうな表情でゆっくりと歩いてくる夏生も、シンの声に応えて右手を軽く上げた。
勢羽夏生は、過去に一度戦い、JCCで再会した男だ。スラーの部下としてラボを占拠していた一味の一人が、まさかJCCに通う学生だとは思ってもみなかった。思ってもみなかったけれど、今こうして二人は友人とも呼べる関係を築いているのだから、縁とは不思議なものだ。
自他共に認める武器科のエースは、シンの目の前で立ち止まりポケットに手を突っ込んだ。いつも着ている武器科のジャケットは、冬に着るには薄くて見ているだけでも寒そうだ。
ところでなぜシンが先程、恋愛について考えを巡らしてしまったかというと、それは目の前にいるこいつに原因がある。
「特に何も。セバはこんなとこで何してんの? お前の生息地南館じゃん」
「てめーのこと探してた」
「何か用でもあった?」
何かセバと約束でもしていただろうか。グローブは特に壊れていないし、そもそも武器科にはつい先日顔を出したばかりだ。理由を考えていると、夏生が手を突っ込んでいたポケットから小さな袋を取り出すと、シンに差し出してきた。
「はい、これ」
「なんだこれ、チョコ?」
思わず受け取ったそれは、どこにでも売っていそうで、見たことのない味のチョコレートだった。なんなんだ、スパイシースイートちんすこう味って。スパイシーなのかスイートなのかちんすこうなのかどれだよ。そもそもちんすこう味のチョコレートってなんだよ。
「そー。購買で買ったんだけど、お前の好きそうな味だなーって思ったから、差し入れてやろうかと」
「俺のことなんだと思ってんだ? 突然だな」
「お前の学校あるあるリストにあったろ。お菓子を分け合うって」
「あったあった。でもあれだいぶ前に真冬たちとクリア済みだぜ」
「でも俺とはまだじゃん。だから一緒に食べよーぜ」
たとえば今日は晴れてるねとか、昨日のドラマ見た? とか、いつも通りの日常みたいな顔をして、夏生がそう言い放つ。一瞬だけ言葉に詰まったシンは、だけどなんでもないようにそのまま言葉を繋げた。
「……そ、そういえば最近よく廊下でも会うよな!」
「単純接触効果って知ってる?」
「しらね。なにそれ」
「簡単に言えば会う頻度が高ければ高いほど、相手に好印象を抱くってことなんだけど」
「……。へ〜」
だから、それを俺に言ってどうしたいんだ⁉︎ とは、口に出せなかった。黙ってしまったシンに、夏生が一歩近づいてきた。グッと近づいた二人の距離は多分数十センチもなくて、シンは一歩後ろに下がった。ムッとした顔の夏生が、また一歩距離を詰める。これではチョコレートを一緒に食べるどころの話ではない。
だけどどうすれば良いのか分からない。夏生が何をどうしたいのか、シンに何をさせたいのか。分かるようで分かりたくないのだ。
「あ、いたいた朝倉ー!」
そんな沈黙を切り裂いたのは、廊下の角から走ってきた暗殺科の同輩だった。二人してそいつが現れた方向を振り返る。廊下に充満していた空気はいつの間にか離散していた。
シンと夏生の目線を同時に浴びて、そいつはビクッと肩を震わせた。断じて睨んでいるとかではない。
「っ、なに?」
「えっと次の授業、第三講義室から第五講義室に変更だってよ。お前通知メール見てないと思って探してた」
「え、まじ? サンキュー助かる。明日メシ奢るわ」
「お前有名人だからすぐ探せるし、どーってことないって。ほら行こうぜ」
「おー。じゃあなセバ、チョコさんきゅ」
「まあいーや。食ったら感想教えて」
「まかせろ!」
軽く片手を上げて、シンはその場を離れた。背中にずっと視線を感じたまま、廊下の角を曲がるとそれもなくなる。同輩が隣で何かを話しているが、シンの耳には一つも入っていなかった。ぐるぐるぐるぐると、ここ最近何度も何度も繰り返し考えていることが頭の中を駆け巡る。
シンの専らの悩み。それは武器製造科のエース、勢羽夏生の言動だった。先程みたいに、真っ直ぐなようで曖昧なやり取りを、もう数ヶ月ほど続けている。その度にシンは躱して、その度に夏生がまた投げつけてくる。
端的に言えば、やけにグイグイくるのだ。武器科のエースが。
夏生がフードをあまりかぶらなくなったのは、いつ頃のことだろうか。シンはそれまであまり深く考えていなかったので、その時期を明確に示すことはできない。だけど多分、シンがJCCに入学して数ヶ月が経って、もう蝉の声も聞こえなくなってきたくらいの季節だったと思う。
武器製造科の研究室に週三の頻度で遊びに行っていたシンは、その日たまたま手が空いた夏生から、学校あるあるの制覇を手伝うと提案されたのだ。
「お前のやりたいことリストに付き合ってやるよ。何からやる?」
日頃からそのリストの存在を夏生に話していたので、シンはすぐその話題に飛びついた。一人で制覇していくのも良いが、協力者がいればもっと進みが早くなるし、楽しくもなるに違いない。
「学校あるあるリストな! じゃあ学校案内してくれよ。漫画によれば隣の席のやつがしてくれるって話なんだけど、入学してからけっこう経ったのに誰も案内してくんねーんだよな」
「それ転校生の場合だろ。お前今回は普通に入学してんじゃん」
「そーなの⁉︎」
「そーだよ」
そう言って夏生は立ち上がると、フードを自身の頭にかぶせた。そのフードはシンにしか効果のない夏生の発明品だ。武器と言えるかどうかも正直微妙なそれは、かぶった人間の心を読むことができなくなる脳波遮断フードだった。夏生はいつも持ち歩いていて、ふとした瞬間にかぶる。むしろかぶっている時の方が多いくらいだ。それに対して何かを思ったことはなくて、むしろ自分のエスパーにこんなにも有効な対抗策を打ち出してくるその姿勢に感銘さえした。心を読めない奴は今までも何人かいたけど、読ませないために自分の得意分野に全力を出す奴は初めてだった。
「そのフード本当にすごいよな〜。お前ってやっぱり頭良いんだ」
「そりゃーまあ、武器科のエースだし?」
「自分でそれ言い出した時はどうしてやろうかと思ったけど、事実だったから何も言えね〜」
夏生は校内では有名人だ。その類稀なる武器製作の才能と、それを生かすために努力を惜しまない姿勢は、武器製造科で十五年ぶりのヨツムラ賞という栄誉をもたらした。それに加えてイケメンで、頭が良くて、運動もそれなりにできる。「ナツキ? あの生意気な態度さえなけりゃな〜」とは、とある武器科の先輩の言葉である。その先輩も武器を溶かされては、夏生にその技術を褒められ許してしまっているのだが。
校内を案内すると言ったとおり、夏生と北館から南館まで、順番に歩き回る。西側にある中庭は、夕方に猫が集まりやすいからオススメ。体育館はいくつかあるけど、学部生が使うのは主にここで冷暖房の効きが悪い代わりに置いてある道具の数が多い。飛行機の発着場は割と近くまで行けるから、乗り物好きに人気。奥の森は演習場として使われることが多いから、安易に入って死ぬ奴が年に何人かいる。
そんなことを隣でボソボソと話すので、それを聞きながら歩くと、また違った景色になって面白い。でもなんか、俺が思ってたのと違うんだよな……。
「これ学校案内なのか?」
「そーだよ。俺的ホットスポット巡り」
「もっとこう、メジャーな図書館! とか、屋上! とか、保健室! とかかと思ってた」
「屋上とか都合良く鍵開いてるわけないだろ、ドラマじゃないし。てめー何年ここ通ってんだよ?」
「まだたったの数ヶ月ですけど⁇」
「そーいえばそーだった」
お前、ずっと前からここにいる気がしてたわー、なんて夏生が珍しく朗らかに笑うので、シンは思わず目を瞬いた。いつもは片方の口角を上げて意地悪く笑うか、人を馬鹿にした顔しかしないのに。
そんなシンの思考が伝わったのだろうか、フードから覗く夏生が少し気まずそうな顔をして、それを誤魔化すみたいに「そういえば、なんだけどさ」と声を出した。
「お前のこと好きって言ってる奴いんだけど、どーする?」
ぐん、と周りの空気が冷えた気がした。蝉の声は聞こえなくなっても、まだまだ汗を流してしまうくらいの季節なのに。でもそれは自分の中でだけで、別に世界は何も変わっていなくて嫌になる。
「あー……。なんか上手いこと言っといてくれよ」
「なに、付き合ってる奴でもいんの?」
浅く笑うシンに、夏生がじとりと目を投げつけてくる。何だその目は、と思いながらも、律儀に答えてやる。
「いないけど、別に誰かと付き合うつもりとかねーし」
「ふーん。……まあ適当に言っとくわ」
多分、最初はここだ。珍しいなと思ったことを覚えている。突然そういうことを言ってくるところもだが、夏生みたいなタイプならもっと揶揄ってくるか、逆に自分で断れと手を離すかどちらかと思っていたから。今考えれば、この時からシンの恋愛観や今の状況を探られていたのだろう。
その話題はそこで終わって、校内を粗方巡ったということで解散になった。
その次に引っかかったのは、食堂で昼食を共にしている時だった。JCCの食堂は食券制で、レーザー銃で当てた的の食べ物を購入できる。それなりに射撃術の得意なシンは、かなりの確率で好きなものを食べることができる。平助がここに通っていた時はきっと無双していたのだろうな、と思うくらいには、皆一様にJCC丼を食べている。夏生も武器を作る側の人間として、それなりに武器の扱いは上手い。ただ透明スーツを使ってズルをよくするのでその実力は未だよく分からない。
シンと夏生は、この頃には時間が合えば一緒にご飯を食べるほどに親交を深めていた。シンが研究室を訪れて夏生を誘い出すのと同じくらい、授業終わりを突撃されて食堂へ連れ出されることが多くなった。受け身で生きているように見えて、意外と自分から友達を誘うタイプみたいだ。ほぼ毎週同じ曜日は夏生と食べているので、今日もいるかなと思っていたら案の定講義室の外で夏生が待っていた。一緒に授業を受けていた暗殺科の同輩と別れ、二人で食堂に向かったのだ。
シンは海鮮丼を、夏生は刺身定食を頬張りながら、いつも通りくだらない話をする。シンにとって学校とは未知の世界で、それを率先して教えてくれようとする夏生と過ごす時間は素直に楽しかった。
「あー、ナツキとシンくんじゃん」
「ほんとだー、相変わらず仲良いねえ」
「ねね、ナツキ今度外遊びに行こうよ」
「行かねーよ」
「えー残念!」
夏生といるとよく他の生徒に話しかけられる。それは男子生徒よりも女子生徒の方が割合が多く、大抵が毒殺科だ。というのも女子生徒の多くは毒殺科か諜報活動科に属しているのだ。バレンタインに毒入りのチョコをもらったり、知らない間に自分の情報が売買されていたりするらしい。
今話しかけてきたのは毒殺科の生徒だろう。シンの偏見だが、毒殺科の女子生徒は明るい性格の者が多い気がする。夏生とはどこで知り合ったのだろう。こいつ、武器科が住処ですみたいな顔してんのに、意外と知り合いが多いんだよな〜。
「じゃあまた実験に付き合ってね」
「付き合ったことねーだろ一回も」
「あはは、シンくんもいつでも協力待ってま〜す! じゃあね」
手を振って去っていく数人の後ろ姿を眺めながら、タレがたっぷりとかかった鯛を口に運ぶ。やっぱりJCCの海鮮丼、美味い。
「おい、あいつらから何か貰っても絶対口つけるなよ」
「毒殺科だから?」
「そー。少し仲良くなったが最後、ずっと狙われ続けることになる。気づいたら後ろにいたりするし」
「なにそれ怖い、一種の怪異じゃん」
「先輩からのありがた〜いアドバイスな」
もぐもぐと口を動かしながら夏生が嫌そうな顔を浮かべた。なるほど、どうやら今までにいろいろあったらしい。
「セバって交友関係狭そうなのに、意外なタイプとも仲良いんだな〜」
「偏見?」
「ちげーけど」
「まあ俺は心が広いんで。誰かさんがせっかく渡した武器ぶっ壊したとしても怒ったりしね〜し」
「そっれはぁ……! 悪かったって謝ってんじゃん!」
少し前、暗殺科に入って初めての校外学習で、調整してもらったグローブを破壊してしまったことがある。単に限界が来たのか、酷使してしまったのかは分からないが、腕も赤く腫れ上がるし、夏生には怒られるしで最悪だった。さすがに反省したので、今ではかなり頻繁にメンテナンスをしてもらっている。夏生曰く、武器職人としてのプライドらしい。
「せ、セバってさ、さっきの毒殺科の子みたいな子がタイプだったりして! セバと仲良い子みんなあんな感じだし!」
「……別にそういうのじゃねーし」
「へ〜、そうなんだ〜?」
「話題のすり換え下手くそかよ」
またぶり返して怒られるのは勘弁だ、と違う話題を慌てて口に出したのだが、どうやらバレバレだったみたいだ。黒目がちな瞳でジトっと睨みつけられる。「じゃあさ」と、夏生が何でもないように言った。その視線は目の前の刺身にあって、シンにはない。
「お前の好きなタイプって、どんな奴なの。女子っぽいやつ? それともやっぱり坂本みたいな感じ?」
「俺? あんま考えたことないなー。そりゃ坂本さんは格好良いし、あんな風に強くなれたらなとは思うけど……」
確かに坂本さんは格好良いし、JCCにいた頃はかなりモテていたらしい。それよりも南雲の方がチョコをもらっていたというのは信じられないけど。太っていても格好良いからな〜坂本さんは。でも恋愛として見たことはないから、タイプと言われてもピンとこない。
「じゃあたとえば、黒髪でそこそこ背も高くて、そこそこ運動もできて、それなりに頭がいい奴とかは?」
「かなりモテそうな奴じゃん」
「で、どーなの?」
「そりゃそういう奴がいれば誰でも好きになりそうだけど」
「お前も?」
「そーなんじゃね?」
珍しくグイグイと詰めてくる夏生に少し鬱陶しさを感じたシンは、適当にそう返事を返した。なにが聞きたいんだこいつ。気づけばあと一口分しか丼が残っておらず、スプーンでご飯をかき集めてそれを口に放り込んだ。海鮮丼のタレってなんでこんなに美味しいのだろうか、なんてどうでも良いことを考えていたら。
「ふーん。じゃあ範疇外ってわけではないんだな」
思ってもみなかった反応が返ってきて、シンは思わず夏生を凝視した。今、確実に何かを測られた。夏生が意味分からないことを言うのはいつものことで、それはシンをバカにしている時が多い。だけど、今のこれは違う。バカにしているわけではない。夏生の意図が分からなくて視線を彷徨かせた。夏生の頬がほんのりと赤くなっていたことには、気づかないふりをした。
なんていうか、セバみたいな奴だな。と、話を聞いた時に口に出さなかった自分を褒めてやりたいと、今は思う。
それからも時折、「ん?」と思うようなことを突然口にしたり、気づいた時には肩がぎりぎり触れ合わないくらいの距離にいたりと、疑問に思うことが増えた。人間の目線は雄弁で、その人が何を思っているのか、心を読めなくても何となく察することができたりもする。だからそれが勘違いなのか、そうじゃないのか測りかねていた。
心を読めば良いことは分かっていたが、読んでしまったら、全てが終わってしまう気がして嫌だったのだ。だからシンは、もうすっかりフードをかぶらなくなった夏生の思考を読んでしまわないよう、意図的にエスパーを使わなかった。チャンネルが合いそうになるたびにそれをずらし、その目線の語る意味を考えないようにしていた。
だから確信を得てしまったのは、学校あるあるリストの一つ、"夜のプールに忍び込む"を実行した時だった。暑かった夏が終わりを告げ、ひんやりとした空気を感じるようになったその季節に、二人は警備員の目を盗んで忍び込んだ。
あとほんの少し季節が進めば、きっと寒くてプールになんて入れないだろう。だけど今はまだ、ギリギリ冷房が必要なくらいの気温なので、試すには最適だった。つい先週最後のプールの授業が行われたらしいそこはまだ水が張ってあり、充分に使えそうだ。プールの授業といっても泳ぐのではなく、水中での戦闘訓練なので、水深は五十メートルほどあるらしい。暗殺科の必修授業ではなかったので、シンは今年はとっていない。
「おー、すげー! 夜のプールだ!」
JCCは海に浮かぶ孤島で、高い建物も、空を覆い隠すような煙も出ていない。だから見上げた空には星が瞬いていて、月が燦然と輝いている。それがそのまま水面に映り込んでいて、太陽を受ける海みたいにキラキラと揺らめいていた。
「あっ、おいくそエスパー!」
バシャン、と大きな水音が響いた。シンはウズウズとしてしまって、その感情に正しく従い水面へと飛び込んだ。身体中に水がまとわりついてきて、ぐう、と水中へと沈む。使われなくなったプールには藻が多い茂り濁るというが、このプールはまだきれいで、ただ水の冷たさだけが染み渡った。
空気を求めて水面へと顔を出す。ぷはっ、と大きく息を吸うと、うっすらとした塩素の香りで肺が満たされた。
「なにやってんだよくそエスパー!」
「ははは、つい!」
焦ったような、呆れたような顔をして夏生がため息を吐いた。黒髪黒目で、服まで黒っぽいから、月が出ていなかったら夏生は闇に紛れてしまいそうだ。
「セバも入ろうぜ、冷たくて気持ちいい」
「やだよ濡れたくないし」
「……誰かいるのか?」
二人しかいなかった空間に、突然知らない声が入り込んだ来た。次いで懐中電灯らしき灯りが、フェンスの向こうからシンたちを照らそうとゆっくりと差し込まれた。まずい! 二人顔を見合わせて、きっと同じことを思った。夏生が音もなく水中に入り込み、そのまま息を吸って水中に潜った。それを真似して、シンも大きく息を吸い込んで水の中に顔をつけた。
水の中は暗くて冷たくて、抵抗があるからいつも通りに動けない。口の隙間から空気が抜け、泡となって水面へと向かう。それを眺めていると、ぐい、と腕を引かれた。いつの間にか近くまで来ていた夏生が、シンを見ていた。
頭上では人工的な光がシンたちを探して揺らめいていて、だけどそれはここまで届かない。音もなく見つめてくる夏生に驚いていると、腕を掴んでいた手がシンの手の甲を撫でた。思わずそちらを見る。手の甲を撫でた指はそのまま指先まで泳ぎ、それからそっと指を絡ませてきた。ともすれば恋人繋ぎのようなそれは、凡そ友人にするような行動ではない。
すりすりと感触を確かめるように、夏生が手のひらを握り込んでくる。冷たい水の中なのに、そこにある熱を確かに感じて、声を出してしまいそうだった。実際には口から音が出ることなく、空気の泡となって昇っていく。目が合った。黒い瞳が、真っ直ぐにシンを見ていて、それで。……限界だ!
シンは夏生の腕を振り解くと、勢いよく水面へと上昇した。元々そんなに深く潜っていたわけではないので、顔が空気に触れたのはすぐのことだった。
「ぷはっ! っはあ、はあ」
新鮮な空気を肺に取り込み、大きく喘ぐ。いつの間にか警備員はいなくなっていて、辺りは月明かりだけが照らしていた。続いて夏生が水面に顔を出す。「セーフ」なんて呑気に話しているけど、シンはそれどころではなかった。
「……俺、もう帰る!」
「あ、おい!」
制止する声を無視してプールを上がり、そのままプールサイドを駆けた。普通の学校ではプールサイドを走ると怒られるらしい。安全に守られた中で泳ぎを習得する必要はあるのか、と戦う者の視点で思う。まだ昼は暑いけど、濡れていたら夜はさすがに寒い。シンの走り去ったあとには、水の跡が落とされていて、きっと追いかけられたら場所は割れてしまう。
それでも夏生が追いかけてくるとは思わなかった。最後、どんな顔をしていたのかは見ていない。だけど分かってしまった。どうしよう。
はあ、はあ、と自分の呼吸だけが聞こえる。寮の自室がやけに遠くて、息切れは治りそうもなかった。
読んでしまった思考は、思っていた通り読みたくなかった思考で。セバのこと、嫌いじゃないけど、でも。確信を得てしまった今、シンには逃げることしかできなかった。
「つまりすれ違い様に刺すことによって人の目を誤魔化すことができ、効率的に殺すことができるということです」
「せんせー、そうじゃないと思いまーす。僕だったら人目自体を避けますよ。そうしたらそもそも誤魔化す必要とかなくないですか?」
はっ、と夢から覚めたようだった。考え事に没頭し過ぎていた。第五講義室では暗殺科目の授業が行われていて、先ほど呼びにきてくれた同輩と共に受けている途中だった。講義室に入り授業が始まるや否や、夏生の行動について考えを巡らしてしまい、気づけばかなり時間が経っていたようだ。
教壇の前では教師と生徒がなにやら言い合いをしている。授業が潰れるのが嬉しいのか、周りはなにも言わない。シンもまたそれを聞くことなく頬杖をついた。
結局あの日はあまり寝付けないまま朝が来た。次の日は夏生を避けるように動いていたが、元々行動は筒抜けなのだ。いつも通り「よ〜」とゆるく話しかけてきた夏生に混乱しながらも、シンから昨日のことに触れることはなかった。
もしかして、読んでしまったことがバレていないのだろうか。いやでもあの行動は分からせにきたのだと思うけれど。無意識? 分からない。
バレているということを分かっていないのか、それとも分かった上で接しているのか。分からないけれど、夏生がいつも通りの言動をとるならば、シンが取るべき行動はひとつ。
気づいていないふりをする。シンが気づいていないふりをしていることを夏生が分かったとしても、それはそれで答えとして受け取られるだろう。そう思っていたのに、夏生の行動は止まらなくて、時折ドキリとする言葉を投げかけてくる。
それはいまの今までずっと続いていて、シンは曖昧な態度を取り続けている。大抵はこうして躱わせばどうにかなるのに、あの武器科のエースはそうはいかない。とてもグイグイくる。だけどそれに触れられるほど直接的な言動をとるわけではなくて、近づいてきたと思ったら離れるの繰り返しだ。直接言葉にされていないことに対して、断りを入れることもできない。そして壊したくなかったものが現状壊れていないので、シンもそれに倣っている。
"恋愛って、どう思う?"
虎丸の言葉がリピートする。
「分かんねーよ、恋愛なんて」
そう小さく呟いて、机の上に顔を伏せた。
▽
今日は朝からツイていなかった。かけたはずの目覚ましは、スマホの充電が切れていたことにより鳴らなかった。慌てて準備をしたが、一限の授業を十五分ほど遅刻した。こっそりと講義室の後ろから入ったのに先生にバレてしまい、みんなの前で怒られてしまった。
昼ごはんの時はいつも通り海鮮系のメニューに狙いを定めていたのに、撃つ瞬間隣の人とぶつかってしまいいつぶりか分からないJCC丼となってしまった。同期たちが美味しいものを食べている中、JCC丼は屈辱だった。まあ残さずしっかりと食べたけど。
それからは特に何事もなく進み、その日最後の授業である暗殺技術演習に臨んだ。暗殺技術演習は暗殺科の必修で、その名の通り実践形式の授業だ。一対一のトーナメント戦をする時もあれば乱戦をする時もあり、その内容は多岐に渡る。
今日は乱戦の日で、自分以外が全員敵であるという設定だった。武器の使用が可であったため、シンはいつも使っている夏生印のグローブを手に敵を躱し、順当に倒していく。怪我をさせないように、でも確実に相手の意識を刈り取っていると、グローブからバチバチ、と電気が走った。
意図しないタイミングで、想定していない発動。え、と思う間もなく、軽い爆発音を立ててグローブがクラッシュした。手首に痛みが走る。見れば赤くなっているようで、シンは心の中で舌を打った。このタイミングで故障かよ!
敵役の同期たちは立ち止まったシンに、ここぞとばかりに猛追を仕掛けてくる。武器が使えなくなったからと言って、戦えなくなったわけではない。シンはこれ以上壊れないように素早くグローブを外しポケットに仕舞い込むと、素手になってしまった拳を強く握りしめた。
そこまで、という教師の声が響いて、実技演習が終了した。結果、意識は落ちなかったにしてもシンはかなりボロボロになってしまった。なんせグループの中に大鎌を使う奴がいたのだ。授業なのに真剣ってどうなのか、と思わないでもないが、自分も威力抜群のグローブを使っていたので口には出さない。
真冬たちも無事授業を終えたようで、皆同様にボロボロだった。唯一綺麗なのは晶くらいか。保健室に行くほどではなかったので、演習場のベンチに用意してあった救急箱で簡単に処置をする。本当は今日これから学校あるあるリスト制覇のために真冬たちと遊ぼうと思っていたのだが、疲れ切った顔をしていたので辞めておいた。
暇になってしまった放課後に、さて何をしようかと頭を巡らせて、それからポケットに仕舞い込んだ存在を思い出した。あー、これ。直してもらわないといけない、よな。
別に避けているわけでもないし、会いたくないというわけでもないが、自分からそいつを訪ねるのは久しぶりのような気がする。そう思いながらシンは、JCCの南館、武器製造科の扉を勢いよく開いた。こういうのは何事も勢いが大切なのである。
「……あれ?」
いつもであればたくさんの人の声が響き渡り、機械の音や武器製造の音が鳴っている部屋の中は物音ひとつしなかった。辺りの思考を読んでも何も引っかからない。……もしかして誰もいない? 珍しいこともあるもんだな〜と、シンは近くにあった椅子に腰をかけた。
壊れてしまったグローブを片手でプラプラと動かす。これを使い始めてもう二年ほど経つ。JCCに編入し、たまたま敵だった奴と再会し、たまたま目的が合致したおかげで手に入れたこのグローブは、今やシンの生命線だった。フィジカルが弱いことは自分が一番よく分かっている。だからこそそれを補ってくれるこいつに頼ってしまうのだ。
ピーン、と思考に声が引っかかった。それはよく聞き馴染んだ声で、シンが反応するより先に研究室の扉が勢いよく開かれた。
「お、くそエスパーじゃん。何してんの?」
「セバ待ってた」
「……へー。なんか用ですか?」
「グローブ壊れちまったかも」
「まじ? 見せて」
ボン、と爆発してからうんともすんとも言わなくなったグローブを夏生に渡す。夏生はそれをしげしげと見つめると、「ここの回路がイカれてんな……」と小さく溢した。やっぱりこいつすげーな、見ただけで分かるんだ。
夏生は自席に腰を下ろし、そのまま道具を持ってグローブを弄り始めた。早速直してくれるようだ。シンは椅子のキャスターを使って夏生に近づき、後ろからその作業を覗き込んだ。
正直なところ、夏生の作業を見ても何がどう繋がっているのかシンはよく分かっていない。だけど何かを創り出すその手を、真剣な眼差しを見るのが好きだった。かつて自分の近くにいた研究者みたいな、その姿を。
しばらく眺めていると、ふと夏生の思考が流れ込んできた。
"……ちけぇな"
あ、と思った。また距離感を間違えていた。夏生の脳内を読みさえしなければいつも通りだから、シンもつい油断してしまうのだ。そんなこと考えているようには見えない夏生は、変わらず作業を続けている。シンはすぐに身体を離すと、何事もなかったかのようにそのまま話し始めた。
「なんで今日誰もいないの?」
「今日はみんな実技場で大規模実験してるんだよ。たくさん爆発するやつ」
「たくさんばくはつ」
「そー。あちこちでボンボン言ってた」
「セバは参加しねーの?」
「俺の出番は終わったから帰ってきただけ」
「ふーん」
武器科っていつ来ても面白い。予想外のことをしているし、シンには思いつかない武器をたくさん作っているから。今度大規模な実験があるときは教えてもらって見学に行こう、と密かに決める。夏生が教えてくれなくても、先輩たちの誰かは絶対に教えてくれる。意外と馴染んでいるのだ、シンは。
そうしているうちに修繕が終わったようで、夏生は道具を机に置くとシンにグローブを差し出した。破れかけていた布は綺麗に貼り直され、どことなくしていた焦げついた匂いはもういない。
「さんきゅー! さすが早いな」
「……お前手大丈夫だった?」
「え? うん。ちょっと痛めたけど別に全然」
「それならいーけど。……けっこう調整したつもりでもまだ痛むんだな」
「前よりマシだぜ? お前ってやっぱすげーよ」
そう言いながら新しくなったグローブに右手をはめた。
シンがJCC内でそれなりに顔が広いのは、前回の編入試験で一位だったことと、持ち前の明るさと、あともう一つ理由がある。それは"あの勢羽夏生と仲の良い奴"という何とも微妙な気持ちになる立場ゆえであった。
勢羽夏生は有名人だ。それはもう、格別に。武器科のエースってことで知られているし、ヨツムラ賞っていう賞を受賞したことも相まってその名前を知らない奴はほぼいない。それに加えて、夏生はモテるのだ。そのルックスからか、気怠げな雰囲気──シンから見ればただのクソ生意気なガキなのだが──からか、よく女子生徒に声をかけられている。JCCの中でこれだ。きっと本土に出たらさらにモテるに違いない。
そんな夏生と仲の良い奴、というのがシンの立ち位置だ。再会後、頻繁に武器科に遊びに行くようになり、いつの間にか一緒にいることが普通になっていた。一人で歩いていたら「今日ナツキは?」と聞かれるし、先生から言伝を預かることも少なくない。
不思議なもんだな、と思う。まさか敵だった奴と、こんなにも真っ当な関係を築くことができるとは思っていなかったから。
右手を二、三度握っては離しその感触を確かめる。拳を作った時に、手首にできる隙間が気になってそこに指をかけた。
「緩くしすぎたか? わり、調節する」
「あ、うん」
その仕草を目敏く見つけた夏生は、道具を持ち上げると、そのままグローブを弄り始めた。心臓が少しだけ跳ねる。シンの手のひらの輪郭を確かめるよわうに、夏生が指を動かす。触れた手が、少しだけ熱い気がした。シンはグローブをつけたままで、夏生はそんなこと気にしてないと言わんばかりに、そのまま作業を続けている。気にしてないわけないのに。
なあ、セバ。俺、心読めるんだぜ。
つけ込まれる隙を見せなかったから、今までの関係を保っていられるのだと思う。直接的な言葉にしない夏生と、知らないふりをするシンでは明確な溝がある。シンが知らないふりをする限り、その夏生の気持ちをシンが知ることはないから。
本当は突き離してやることが、夏生のためになるのは分かっている。分かっていて、シンはこの関係を崩したくなかった。お互い遠慮なんてなくて、ただの同級生みたいに笑えるこの関係を、ずっと続けていきたいだけなのだ。
曖昧な態度を取り続けることは、酷いことだとは思う。だけどやっぱり、自分が誰かと、夏生と付き合うという想像をすることは難しかった。
そんなシンの心情とは逆で、夏生はこの状況をどうにかしたいみたいだった。だってずっと、流れ込んでくる。夏生の思考が、余すところなくシンの脳みそを侵すのだ。
夏生の脳内はもうずっとシンでいっぱいで、グローブの調子がどうだとか、武器職人としてのプライドがとか、そういったことの全てが今は、『シンのため』ただそれだけに帰結している。
夏生の作ったこのグローブは、シンの要だ。まるで自分のために作られたみたいにしっくりくるその性能と使い心地は、シンにとってなくてはならないものになっている。それを夏生も知っている。知っているからこそよく忠告されるのだ。
武器にはメリットとデメリットがあって、グローブは正直デメリットの方が大きい。未来視がないと使えないし、そもそも発動回数にも限界がある。腕が使えなくなったらどうやって戦うんだ、先を考えろ。そんなことをたくさん言われた。
今も夏生の脳内は同じようなことで占められている。距離が近い、心臓が痛い、武器を使ってくれるのは嬉しい、でも怪我をしてほしくない、どうすれば伝わるんだろう。なんて言葉を尽くせば良いのだろう。
──言わなくても伝わってる、と口にすればよかったのだろうか。夏生の心配も、言動の意味も、もう充分に伝わっている。だけど伝わっていることを、夏生に知られるわけにはいかない。気づいていないふりをしていることを知られるわけにはいかないのだ。
そういうことをずっと考えていた。だからだろうか。二人きり。静かな研究室。隠すことなく漏れ出ている夏生の思考。いつもなら絶対に言わない言葉が、滑るように口からこぼれ落ちた。
「セバさ、フード被れば?」
最初に隙を見せたのは、間違いなくシンの方だった。
別に何か意図して言ったわけではなかった。ただ、いつも思っていたことが不意にこぼれ落ちただけだった。流れ込んでくる夏生の思考に応えることができないから、じゃあ夏生が前みたいにフードを被れば良いのでは、と思っただけだ。だけどそう口に出した瞬間、空気が肌に張り付いた気がした。
ずっと動かし続けていた手を止めた夏生が、ゆっくりとシンを見る。真っ直ぐなその視線に灼かれそうだ、と思った。今まで見たことないくらい真剣な顔で、お前そんな顔できたのかよ、なんて茶化したくなる。でも今そんなことをしたら夏生の思う壺なので、シンは口を噤むしかないのだ。
「なんで?」
「なんでって……なんとなくだけど」
「答えになってね〜よ小学生か?」
「……」
「ま、いーけど。てめーから触れてくれて助かったぜ。正直ここからどう攻めるかな〜って悩んでたから」
黙りこくるシンに夏生がふう、と息を吐いた。左手でシンの手を掴んだまま、右手で自身の髪の毛をぐちゃぐちゃに撫で付けると、覚悟を決めたようにシンに視線を向けた。ドキリ、心臓が鳴る。それが良い予感なのか悪い予感なのか、シンには予想がつかなかった。ただ、今明確に、夏生の中で何かが動いたことだけが分かった。
「……おい、セバ」
「遅かれ早かれこうなると俺は思ってたぜ?」
「待てって、頼むから」
「エスパーのくせに肝心なところは鈍感だからよ〜。つまり、何が言いたいかって言うと」
「セバ!」
止まらない夏生の言葉にシンの口から飛び出した声は、空気を振動させて部屋の中へ鋭く響き渡った。シンの反応が意外だったのか、夏生が目を少し大きく開いてシンを見る。その瞳に自分の顔が映っているようで嫌だった。
「まず俺の話から、聞いてくれよ」
そうだな、たとえばのはなしをしよう。たとえばだけど、人付き合いをするにあたって、常に前向きで良いことばかりを考えているわけではないだろ? 満員電車で隣に立った人が少し汗臭かったらどうしても嫌な顔をしてしまうし、待ち合わせで長時間しかも寒い中待たされたらさすがにイライラするだろ。それってまあ、普通の人間なら当たり前のことで、別に変なことじゃないよな。でもさ、自分がいざそういう場面に立ち会った時、自分が思っていることが全部他人に筒抜けだったら、相当嫌じゃないか? 自分の感情のちょっとした動きとか、自分でも思っていなかった言葉が心の中で生まれた時とか、多分そういうのって自分以外の誰にも知られたくないだろ? エスパーって、ラジオのチャンネル合わせるみたいにコツがいるから、いつもいつも読んでるわけじゃない。でも周りに人がいる時とか、警戒してる時とかは普通に読むし、そうじゃなくてもふとした瞬間にチャンネルが合うことってあるんだよ。だからいつどこのタイミングで自分の思考が読まれているから分からない状態で、どこまで人付き合いをできるのか? ってことを言いたいんだよ俺は。もちろんエスパーであることは気に入ってるし、それを受け入れてくれる人たちがいることも知ってる。嬉しいとも思ってる。でもさ、誰かと深い仲になった時ってそれとは別じゃん? 例えば仕事で疲れて家に帰って一休みって思った時に、家にお化けがいたら落ち着けないだろ? そういうことだよ。いや、俺は別にお化け信じてるわけじゃねーけど。得体の知れないもんっつうかさ。そういえば前坂本さんたちと遊園地行ったんだけどよ、初めて行った時は殺し屋が襲ってきてそれどころじゃなかったけど、改めて行ったら超楽しいのな。お化け屋敷もディテールとか暗影とか音楽とか凝っててすげーの。小さい子供ならかなり怖がっても良いのに、花ちゃんは元気だし、ルーとへーすけは逆に怖がりすぎて面白かったんだぜ。お前もマジ行った方がいい。おすすめ。……ああ、いや、そうじゃなくて。
「だからさ、えーっと。その」
「お前が話の要約もできない、あちこち話題が飛ぶバカだってことはよく分かったよ」
「さすがにひどくね⁉︎」
つらつらとなぞるように話すシンに、夏生が鋭い一言を投げつける。確かに取り留めのない話をしてしまった。言いたいことの半分も言葉にできなかった気もする。伝わっただろうか、シンの思っていることは。
「じょーだん。……つまりてめーは、自分がエスパーで、人の思考を読めるから恋人として誰かと付き合うことはできないって言いたいワケだな?」
伝わっていた。遠回しなシンの気持ちは、確かに夏生に理解されていた。は、と少し肩の力が抜ける。分かってもらえているなら、いい。どう足掻いても夏生に対して明確な答えを出すことができないシンは、その事実に安心してしまった。
だけどそれもすぐに無かったことになる。
「セバ……お前天才か? そーいうことだよつまりり。だからさ、」
「じゃー、俺と付き合えばいいじゃん」
静かな音が研究室の中に落ちる。誰もいない部屋の中で、シンと夏生は二人きりだった。
夏生は今までと全く同じ顔色で、今日の天気の話とか、昨日見たドラマの話とかをする時と同じような、平坦なトーンも変わらない。だから、夏生の言葉を理解するのに時間がかかってしまった。
「……え?」
「なに?」
「俺の言いたいこと理解してんだよな?」
「うん」
「ならなんでだよ?」
「読めば分かるんじゃねーの」
「っ、」
「読んでいーよ、ほら」
頭を指差して、いつでもどうぞと言わんばかりに夏生が頭を近づけてくる。ぐわっと全身の血が沸騰したように体内で蠢いているようだった。
まさに青天の霹靂、寝耳に水。あとは、なんだろ。普段使わない、でも知識として知っている言葉たちが頭の中を駆け巡る。まあとにかくそれは、シンにとって思ってもみなかった言葉だったのだ。今までの俺の話聞いてた?と問い詰めたくなるほどに、斜め上からブッ刺された。どうやら人間とは、自分の思ってもみないところから刺されると、思考を停止してしまう生き物らしい。
もうあと一歩の距離にいる夏生を、ドンと強く押した。よろめくことなく後ろに下がった夏生に、訳のわからない怒りが浮かんでくる。夏生の視線はどこまでもまっすぐで、シンの心臓まで貫かれてしまいそうだった。
「……っ、読むわけねーだろ、ばーか!」
シンは夏生にそう吐き捨て、脱兎の如く研究室を逃げ出した。勢いよく扉を開けて、そのまま廊下を走る。後ろから足音は聞こえなかったけど、シンは走ることをやめられそうになかった。
長く殺し屋をやっていて、引退してからも鍛錬は怠っていなかった。JCCに来てからは殊更体を動かすようになって、シンの体力は無尽蔵に近いと思っていた。吸って吐く、ただそれだけの間隔がどんどんと短くなっていく。冷たい空気が喉に染みて仕方なかった。
廊下にはシンの足音と、荒い息だけが聞こえる。まだ夕方であるはずなのにJCCには誰もいなくて、まるで世界に取り残されたみたいだった。
2.色濃く突き刺さる
まだ殺し屋をやっていた時代に、一人の女の子と仲良くなったことがある。確か坂本がシンの前からいなくなってから、二年ほど経った頃だったと思う。シンは坂本といた時と同じ会社に身を置き続け、ボスからの依頼をこなして生計を立てていた。エスパーという能力はこの世界では重宝されるものだということもよく分かった。
殺し屋稼業というものは有限で、その頃には半分以上がシンのエスパーを知らない人間で構成されていた。理由は知らないがボスが目をかけている子どもとして、シンはその立場を持て余していた。実際にボスからかわいがられていた事実はなく、仕事のない時は雑用をこなし、エスパーが役立つ依頼の時だけ顔を出す。そういう生活をしていたら、まあ、ボスの稚児だなんだという声も出てくるのも仕方のないことなのだろう。シンはそんなことあまり興味がなくて、ただひたすら一人になってしまった現実とこれからどう生き抜くかという問題に立ち向かわなければならなかったので、たいして気にしていなかった。
「自分のことなんだから、ちゃんとした方が良いよ」
そう言ったのは、JCCという殺し屋養成機関からインターン生として会社にやってきた、一人の女の子だった。
元気で明るくて、その子はすぐに会社の人気者になった。ボス曰くJCCでもかなりの成績優秀者らしく、殺し屋ライセンスの仮免を取ったばかりだと言う。プロの仕事の仕方を覚えるために皆の仕事についていき、それがない時は雑用をこなす。1番歳下で、かつ下っ端であるシンが雑用を教える係になるのは必然だったのだろう。
「よろしくね、シンくん」
何が面白いのか、楽しそうに笑う彼女は、親を見つけたばかりのひよこみたいにシンの後ろをついて回った。シンと歳が近かったというのもあるし、自分より先に働くシンを先輩だと思っていたというのもあるのだろう。
殺しの報告書は三日以内に総務に提出すること、掃除は若い者で持ち回り、道具の手入れは決まった時間にすること、労働保険の申請は却下されがちなので他の書類と紛れさせておくと良いこと。雑用なのかどうかも分からないようなことまで、聞かれるがままにシンは答えた。彼女はやっぱり楽しそうに笑って、シンの言葉を忠実に守った。
「あいつ、またボスの部屋行ってたぜ」
「結局なんであの子どもがここにいるのか分かんね〜」
「やっぱりボスのアレって噂マジなのかな?」
「や、それはウソって話もあるけど、実際のとこ分かんねーよなー」
ウソに決まってんだろ。そんな誰でも聞けるような場所でそんな話すんじゃねーよ。シンは掃除道具を抱えてその場に立ち尽くしていた。トイレを出てすぐの曲がり角、廊下の中央でたむろする男数人に心の中で毒を吐く。あちらからはシンは見えていないようで、いまだにその話題に花を咲かせている。気まずい。
「その話! やめてもらってもいいですか!」
どうしようかと思案していると、明るくて高い声がその場を支配した。チラリと顔を覗かせると、聞き覚えのあるその声の持ち主は彼女で、腕を腰に当て、立腹である様子を隠すことなく男たちを睨みつけていた。
「実際にどうだか分からないのにそういうこと言うの良くないのではないでしょうか! 本人に聞くべきです!」
「はあ? お嬢ちゃん、ちょっと優秀だからってよォ、職場の先輩にそれはないんじゃね〜の?」
「ちょっとこっち来いや」
「離して!」
シンは音もなく駆け寄ると、持っていたモップを思い切り投げつけた。それは綺麗に男たちに飛んで行き、鈍い音を立てて顔にぶつかった。
「っ、何しやがる!」
「こっち」
一瞬怯んだ男たちから彼女を奪うと、その手を引いて走り出した。あとで報復があるかもしれないが、エスパーの使えるシンにとってはそんなこと屁でもない。建物内をぐるりと回り、誰も来ない屋上へ続く階段近くに辿り着いた。後ろで息を荒げる彼女に、シンは怒鳴りつけた。
「お前バカかよ! 放っておけばいいんだよあーいうのは」
「っふふ、あは、……あはははっ、面白すぎるっ。シンくんさいこ〜じゃん!」
「おい笑ってんじゃね〜よ」
「でもあの話、ウソでしょ?」
何が楽しいのか大声で笑っていたと思えば、突然切り込んでくるその表情には確信が宿っていて、シンはたじろいでしまった。
「そうだけど。別にいいんだよ、放っておけば」
「ダメだよ」
二人だけの廊下に、静かな声がこだまする。
「自分のことなんだから、ちゃんとした方が良いよ」
シンと彼女はそれなりに仲が良くて、彼女がインターンに来てから一週間ほどで、彼女が隣にいることに違和感を覚えない程度には、その存在に馴染んでいた。でもシンが明確に彼女を認識したのは、今この瞬間で、その時までは面倒を見なければいけない有象無象という位置付けだったのだ、とあとで言えば彼女は頬を膨らませて怒りを露わにした。
殺し屋の世界には数少ない、素直な人間だったように思う。
「ねえシンくんってどうしてこの世界にいるの? まだ幼いのに」
「この生き方しか知らねーから」
「ふーん。JCCに来ればいいのに。楽しいよ」
「そんなことより、一昨日行ってた現場の報告書出したのかよ。おれ知らねーぞ」
「あっ、やばい出してない!」
呑気に頬張っていたレーションをそのまま口に放り込むと、彼女は慌てて席を立った。駆けていく後ろ姿を眺めて、それからシンはバカだな〜、なんて呑気に思った。
自分より歳上だけど、どこか抜けている彼女に情のようなものが生まれたのか、ただ単に歳が近いだけの友情のようなものを感じていたのか、今でも分からない。彼女の脳内と口に出る言葉はほとんど一致していて、居心地が良かった。自分を救ってくれたあの憧れみたいに、とはいかないが、それでもシンにとってその一致はある種の救いだった。
「ねえシンくん」
ある日彼女が深刻そうな顔をして、シンに話しかけてきた。楽しそうに笑う顔とはかけ離れた表情で、ドキリ、と心臓が音を立てたのが分かった。
「シンくんって、人を殺したこと、ある?」
目の前がチカチカと点滅して、脳内をたくさんの絵が駆け巡った。豪華客船、ずっと探していた父親、たまたま出会った殺し屋、爆弾、それから飛び散っていく火花。
「……あるよ」
あるよ、人を殺したこと。腕に広がる衝撃に、火薬の臭いが鼻についた。あの時引き金を引いて、それからシンの人生は定められたようなものだった。何も思わないわけではない。でも何かを思うより先に慣れてしまった。
「そっか……。実は私、仮免は持っているけど、実際に殺したことはなくて。インターンに来てからも、まだ、なんだ。……いつかそうなるかもって思ったら、怖くなっちゃって」
「……そっか」
肩を震わせる彼女に、かけるべき言葉を見つけることはできなかった。ただその肩をそっと撫で続けることしかできない自分に、不甲斐なさを覚える。だけど彼女は、それをシンの優しさと取ったのだろう。嬉しそうに笑って、シンの胸に額を預けた。
「ありがとう、シンくん」
「…べつに」
ぶっちゃけて言ってしまえば、彼女が持つシンへの気持ちには、随分と前から気がついていた。たまたま読んでしまったのだから、仕方のないことだ。彼女はシンのエスパーを知っていて、それでも気持ち悪がることはなく、その奥底にある気持ちも変わることはなかった。正直、悪い気はしなかった。シンがポロッと溢した彼女の本音を、シンくんには伝わっちゃうから隠し事はできないね、なんてたいして困ってもいないように笑う。
敵意と悪意に晒され続けるこの場所で、その素直な思いは確かにシンの支えとなっていた。別に彼女のことを、そういう意味では好きだったことはない。ただ勝手にその気持ちを拠り所にしていたのだ。どうせあと少しで学校に帰るから、と応える気はないくせに、その気持ちを読んではどこかで安心していた。
だからきっと、バチがあたったのだ。
「触らないで!」
その日、彼女はいつもと同じように殺しの現場へと出かけて行った。いつものようにその背中を見送り、シンも自身に当てられた任務をこなす。いつも通りのはずだったのだ。
夕方を過ぎ夜が来て、そういえば今日帰ってくるのが遅いな、と初めて意識した。それからエスパーを使って、彼女がすでに帰ってきていることを知ったのだ。
聞こえてくる声はずっと手洗い場から動かなくて、シンはその場へ向かった。彼女は手を洗っているようだった。暗い廊下の中、一人月に照らされながら手を洗い続けるその行動は、明らかにおかしかった。だからシンは肩を叩き、声をかけたのだ。そうして、彼女から先ほどの言葉を叩きつけられた。
「あ……」
ハッとした表情の彼女と、カチリ、目が合う。そうして流れ込んできた情景と心情に、シンは「ああ」と思ってしまった。
彼女は今日、初めて人を殺してしまったらしい。そうして汚れた手がいつまでも綺麗にならなくて、何度も何度も洗っていた。だから、シンの手も血塗れに見えてしまうことは何ら不思議ではない。いつもと変わらないシンの手は、いつもと変わらない殺し屋の手であることに間違いはないのだ。
そう認識し、それから自分がそういうふうに思ってしまったことをシンに読み取られたことさえも察し、彼女はひどく傷ついてしまったようだ。
殺し屋の世界には向かない、心優しく真っ直ぐな少女。自分の思考が誰かを傷つけてしまったことに真っ先に気づくような、そんな人間は、きっとこの世界に足を踏み入れてはいけなかった。その次の日、彼女は会社を去った。インターン期間は残すところあと一週間というところだった。聞いた話によると、それからしばらく経ってJCC自体辞めてしまったらしい。それからの彼女の行方は知らない。
だけど思い出してはゾッとしてしまうのだ。
誰かを好きになったとして、その人も自分のことを好きになってくれたとして。それはとても嬉しくて、そしてとても怖いことなのだ、と。
自分が良かれと思ってしたことを、相手は実は嫌だと思っているかもしれない。相手がふと考えてしまった、自分には知られなくないことを勝手に読み取ってしまうかもしれない。そうすることで、誰かを傷つけてしまうかもしれない。自分の思考がシンを傷つけたことに対して傷ついてしまうような人間には、特に。
そう思ったら、怖くて怖くて仕方なかった。エスパーであることを嫌に思ったことはない。エスパーで自分が傷つくことは別に良いんだ。だけど、エスパーで大切な誰かを傷つけるのだけは嫌だった。朝倉のおっさんからもらったこの力を、嫌いになりたくなかったのだ。そんな利己的で傲慢な自分に、恋愛なんてできやしない。──しては、いけない。
そう思って、シンは夏生にメッセージを送った。
お前は悪くない、悪いのは全部俺で、お前にはきっともっと素敵な人がいる。全力で愛してくれて、擦れ切っていない素敵な誰かが。だからごめん。友達としてなら、これからも仲良くしてくれたら嬉しい。そんなことをひたすら打ち込んで、よく読み返すこともせず送信した。その次の日、メッセージを送った本人から怒鳴り込まれることなんて知らずに。
窓の外を見ると、今にも落ちてしまいそうな枯葉がひらひらと風に揺られていた。朝起きてまずその寒さに身を縮こませ、教室に向かうまでの間に二、三回ほどくしゃみをしてしまった。真冬がいたらきっと「きたね〜!」と嫌そうな顔をするだろうけれど、生憎今日の一限を受けるのはシン一人だけである。
歩きながらポケットに突っ込んでいるスマホにそっと指を忍ばせる。昨日から一切震えないそれは、今も沈黙を保ったままだった。
寒いから、となかなか布団から出れなかったせいで、いつも座っているお気に入りの席には他の人が座っていた。仕方なくその近くの、窓際の席に腰を下ろし、そのまま頬杖をついた。講義が始まるまでの数分間、そうして過ごしていた時だった。
「おい、くそエスパー!」
少し遠くで、昨日も聞いた声が耳に飛び込んできた。そんなあだ名で呼んでくる奴なんて、この世に一人しかいない。驚きのままそちらに目を向けると、扉の近くに、この講義に出るはずのない武器科のエースが立っていた。
脇目も振らずズカズカとシンの元まで来た夏生は、苛立ちを隠すことなくスマホをシンの目の前に突き出した。
「てめー、良い度胸だな」
「せば、なんで」
「なんでもクソもね〜よ。なにこれ」
そこには昨日確かに自分が打ち込んだ文章が表示されていて、シンは目を逸らした。
「べつに、そのまんまの意味だけど」
昨日の今日で、何かリアクションがあるとは思っていなかった。ただ、シンは少しだけ期待していた。あのメッセージを読んで、また元通りに戻れるかもしれないという、残酷で淡い期待を。
だけど夏生はそんなこと知らないと言わんばかりに、シンへ突撃してきた。普段の冷静さからは考えられない行動だった。夏生からどんな返信が来るのか分からなくて怖かったからスマホの通知をオフにしていたのに、まさか本人が乗り込んでくるとは。
「ほんっと人の話聞かね〜よな〜、くそエスパーって」
「それはセバの方だろ?」
「俺の言ったこと、信じてないんだろお前」
これ見よがしに大袈裟にため息を吐かれて、思わずムッとする。こっちだってため息吐きたいのは同じなのだ。シンは言葉にしたし記録にも残した。それなのに夏生は一切聞いてくれやしないではないか。
教室にいる何人かがこちらを見ている気配がする。突然現れた武器科のエースに驚いているのか、朝から言い合いをする自分たちに呆れているのか。それでもシンは、目の前に立ち見てくる夏生から目を離せなかった。昨日見たばかりの、まっすぐな目線がシンを貫く。
「まあ。いーよ別に、信じられなくても。……その代わり隣で証明していくから、ちゃんと見てろよ」
ごう、と強い風が吹いて、窓が軋んだ。外は寒くて仕方ないはずなのに、シンの手のひらにはじっとりと汗が滲んでいた。
▽
「なーシンくん、兄貴にケンカ売られたってマジ?」
「何の話だ?」
真冬はなんてことないようにシンにそう告げた。もちろんシンは知らない話である。疑問符を浮かべていると、真冬は面倒臭そうに話を続けた。
「そこら中でウワサだぜ。武器科のエースと編入試験一位入学がケンカしてるって」
ずるっと麺を啜る。JCCはラーメンも美味い。たまに大ハズレな時もあるが、大抵は学生が好きそうな濃い味をしている。シンももれなくそのラーメンが好きでよく餃子をサイドにつけて味わっている。真冬は汁飛ばすなよっと睨んでくるが、こちとら坂本と毎日一緒に居るのだ。汁を飛ばさず食べる方法など熟知している。まあ坂本は気にせず食べているけれど。
「別に、喧嘩なんてしてないけど」
「そうなの? 教室で口喧嘩してたって聞いたぜ」
「あ、あー……。あれはセバが悪い」
昨日の夏生の行動を思い出して、思わず眉間に皺を寄せる。昨日の今日でもう噂が回っているのか。夏生は武器科のエースで有名人だから仕方ないとは言え、今は自分たちのことが学内の話題に上ることは避けたかった。
そんなシンの様子を見て、真冬も同じように眉間に皺を寄せた。シンとは違って面倒臭そうに、だが。
「喧嘩してんじゃん」
「喧嘩はしてねーけど、セバが悪いことに変わりないから!」
「俺が何って?」
ぽん、と軽く肩を叩かれて、シンは大袈裟にびくついた。勢いよく振り返るとそこには案の定夏生が立っていて、シンは思わずたじろいだ。夏生はそんなシンに興味なんてないみたいに真冬に話しかける。
「どーせ変な噂でも回ってんだろ」
「兄貴も知ってんじゃん。二人とも喧嘩すんなよな〜」
「喧嘩じゃねーよ。まああえて言うなら、宣戦布告?」
「喧嘩じゃん」
「じゃねーって」
先程も聞いたような会話が頭の上を飛び交う。なんだかんだ仲の良い兄弟はシンのことを忘れているみたいだ。シンはその場から抜け出そうとそろりと腰を浮かした。だけどグッと肩を押さえつけられて、立つことは叶わなかった。
じろり、と夏生の黒い瞳がシンを睨みつける。
「でも悪いのはこいつだぜ」
「兄貴もシンくんも同じことしか言わねー。気まずいから早く仲直りしろよ」
「へ〜へ〜」
真冬が砂を噛んだように渋い顔をしてそう言ったのに、夏生が面倒臭そうに答える。シンは目を逸らして何も答えなかった。
「シンくんそろそろ行こうぜ〜」
「おー」
次の授業に向かうため、真冬とともに席を立つ。夏生は手をひらひらとさせて二人を見送ろうとして、「くそエスパー」とシンのことを呼んだ。
振り返ると、数メートル後ろにいる夏生が、シンの方を真っ直ぐ見つめていた。途端に、周りの人の気配が膜に包まれたみたいに遠ざかっていく。
「昨日言い忘れたんだけどさ、いつでもいーから」
「……なにが?」
「俺の頭の中。いつでも読んでいいから。それだけ伝えとこうかなって」
「……あっそ」
シンは短くそう答えることしかできなかった。
宣言通り、それから夏生はフードを一切被らなくなった。常に着けてはいるけれど、それを頭の上に乗せることはしなくなったのだ。それが、夏生の言葉を誠実に物語っているような気がして、シンは結局何も言えないままだった。
そしてここから、夏生の猛攻が始まった。
シンは特別友人が多いというわけではない。ただ普通に暮らしていればそれなりに顔見知りはできるもので、放課後の過ごし方はまちまちだ。同じ暗殺科の奴とゲームをする日もあれば、編入試験組とダラダラ喋る日もある。校舎裏にある空き地で猫と戯れる日もあれば、違う科の先輩に呼び止められてそのまま立ち話する日もある。
まあつまりは、いつもいつも武器科の研究室に顔を出しているわけではない、という話だ。なぜこんなことをつらつらと述べているかというと、理由は簡単。とある武器科のエースに「最近研究室来ないじゃん、なんで」と詰められたからである。長々と別に意識したわけではなくたまたまだと説明したシンが、「じゃあ今日は来るよな」と夏生に言われたのがつい三十分ほど前で、だけど今シンはなぜか研究室ではなく夏生の工房のソファに腰を下ろしていた。
「研究室って言ってなかった?」
「よく考えたら先輩たちたくさんいてうるせーから、今日はこっち」
「いつものことじゃね?」
半ば無理やり連れてきたくせに、シンに構うことなくノートに何か書き込んでいる夏生をじとりと見やる。夏生は小さくため息を吐くと、目線はそのままに呟いた。
「別に、変なことする気はないけどよ」
「? おー」
「下心ありきで誘っただけ。最近あんま二人になれてないじゃん」
「……そうか?」
「そーだよ。どっかの誰かさんが逃げ回るから」
「別に逃げ回ってはねーけど……」
嘘だ、自覚はある。夏生と二人きりになるのをなるべく避けるために、わざわざ誰かとの約束を放課後に入れたり、用はなくとも訪れていた研究室に足を運ばなくなったりしていた。それでも構わずとってもいない授業に突撃してきて隣を陣取ったり、なぜか昼ご飯を食べる時に同じテーブルに座っていたりしたので、夏生が気にしているとは思っていなかった。
なんとなく申し訳なさを感じて、シンは目を伏せた。夏生はそんなシンに気づいているのかいないのか、「そこにある武器好きに使ってていーよ」と床に置いてある箱を指差した。
退出しようかと思ったが、箱の中にある武器が気になってしまったため、シンはそのまま箱の中を覗き込んだ。前も見たスクリームガンや光る剣の他に見たことのない方をしたペンや、靴、一体何に使うのか分からない謎の物体など実に様々なものが入り乱れていた。
「整理整頓しろよ」
「いや〜苦手なんだよな。暇なら適当に棚に並べといてよ」
「人遣い荒いな〜。ま、いいよやってやる。その代わりなんか奢りな」
「がめついやつ」
「なんとでも言え〜」
夏生といるとつい肩の力が抜けるというか、夏生の気持ちを忘れてしまいそうになる。夏生がシンに好意を伝えてきてから、一ヶ月ほどが経とうとしていた。その間に新年を迎え、短い正月休みにシンは坂本商店へと帰省した。久しぶりに会う坂本や平助達と存分に話し遊び、有意義な時間を過ごした。夏生と真冬はJCCで年を越したらしい。年が明けて数時間後、夏生が一枚の写真を送ってきたから知っている。真冬と、同じく帰省はしなかった周と加耳の四人が炬燵で寛いでいる様子の自撮りは、シンを笑顔にさせた。仲の良いその様子をちゃっかりアルバムに保存していることは誰にも言っていない。
ふとした瞬間にシンへの好意を見せてくるくせに、普段は何も変わらないいつもの夏生で、シンはそのギャップにいつも振り回されている。今だってほら、二人きりになってしまったけれどいつもと変わらないノリに、シンもいつも通り接してしまう。人との距離感が上手い奴だと思った。つかず離れず、かといって攻める姿勢は崩さなくて、どう足掻いたって対人関係のレベル差に勝てそうにない。
そんなことを考えながら言われた通り素直に箱の中身を棚に並べていると、一番下に見たことのない武器が紛れていた。
「なにこれ、メガホン?」
「ん? あー、それな。超小型広範囲拡声器つたわるくん」
「つたわるくん」
「まあ普通のメガホンよりもめちゃくちゃ声が伝わるっていうだけ。手のひらサイズ。本当は聞いた人に強制的に行動させる機能つけようと思ったんだけど無理だったから、マジでただでかい声が出るだけ」
「へえ〜。これ借りても良い? 今度の演習で使いたい」
「壊すなよ」
「もちろん」
夏生の武器は多種多様だ。シンが使っているグローブみたいに攻撃性の高いものから、何に使うんだと疑問を覚えるようなよく分からない武器まで、壁なんてないみたいにジャンルを問わない。ほとんどが失敗作だというそれらは、夏生の持ち得る全てを注ぎ込まれた、人生そのものみたいなのだろう。ネーミングセンスは正直ないけれど。
コンパクトなメガホンをトートバッグに入れて、シンはそのまま棚に背を預けて座り込んだ。当たり高くない天井に届きそうな棚の中にはたくさんの資料とたくさんの武器たち。並べられた箱には夏と書かれていて、それが思ったよりも丸っこくてなんだか意外だ。
いつも騒がしい研究室は、機械音や先輩達の話し声で溢れている。だけど今は夏生が鉛筆を動かす音だけが部屋の中を支配していて、自然と肩の力が抜けた。
「静かだなー、ここ」
「そりゃ俺とお前しかいないし」
「誰も来ないのか?」
「みんな場所すら知らないんじゃね? ……言っとくけど工房に入ったことあんの、お前だけだぜ」
「……そーなの?」
「あ、うそ、訂正。あの変態ドM野郎は入ったことあるわ」
「誰だよ」
夏生が椅子をくるりと回してシンの方を向く。
「ほら、あの妙な催眠術使う奴だよ。真冬の件で、ここ使って交渉したんだよ」
手をパンと鳴らすその仕草に、生徒達を洗脳してきたスラーの仲間を思い出した。生徒だけじゃなく周まで洗脳したせいで大変だった。夏生だって洗脳されたふりをして無茶振りをしてきたのが懐かしい。
「あー、いたな、お前俺のエスパーに頼りすぎなんだよあの時。てかそーだったんだ、ここでも戦ったんだ」
「うん、だいぶ荒れちまったけど、もう元通りになった。てかあいつ敵だし別にノーカンでいいか。やっぱりお前だけだよ、ここ入ったの」
「決め顔されてももうおせーよ」
クサイセリフを言いながら、全く似合っていない、そのツラを存分に生かした表情を浮かべる夏生に思わず笑みが溢れる。くすくすと笑うシンに何を思ったのか、夏生が急に立ち上がり大股でシンに近寄ってきた。予想外のその動きに反応が遅れ、恐る恐る見上げると夏生が真顔でシンを見下ろしていた。影落ちた瞳が、じいっとシンを見つめる。
「な、なに……」
夏生がシンに対して酷いことをするとは思えない。だけど意図が読めないその表情に、声が少し震えてしまった。夏生はシンの心を知ってか知らずか、ニヤリ、と笑った。
「なんもしねーよ、後ろの資料取りたかっただけ」
「あっそ!」
宣言通り後ろの棚に手を伸ばしてファイルをいくつか取る夏生に、顔が熱くなる。勘違いしてしまった。ふい、と顔を逸らしたシンに、夏生が弾んだような声を出した。誰かを揶揄うのが楽しいと言わんばかりの、明るい声だ。
「……なんだよ、なんか期待した?」
「はあ? 期待ってなんだよ」
「……たとえば、こんな感じ?」
そう言って、夏生がシンの頬に手を伸ばした。親指で膨らみをなぞり、そのまま耳の縁に沿って指を滑らす。思ってもみなかった刺激に身体がぴくりと反応した。軟骨をくにくにと折り曲げ、耳たぶの柔らかさを堪能するように捏ねる。
自分の心臓の音が憎らしい程にうるさかった。目の前で見つめてくる黒い瞳から目が逸らせなくて、夏生の指に抵抗することもできない。されるがままのシンに少し苦い顔をした夏生は、指を唇へと滑らせた。ふに、と独特の柔らかさを持つそこを親指で押す。乾燥気味で少しだけ剥けている皮を労うように撫で付けられた。夏生の顔が近づいてくる。いつの間にか息を止めていたみたいで、どんどん苦しくなってきた。……いや、ダメだろ!
パシン、と乾いた音が部屋に落ちた。
「あ、わり……」
「いや、こっちこそ。……ちょっと調子乗ったわ」
手を叩いてしまったシンから、夏生は気にすることなく距離をとった。足りていなかった酸素を補うみたいに深く息を吸う。呑まれていた、完全に。
夏生はそのまま椅子に戻ると、シンへと背中を向けた。
ドッドッと心臓が跳ねている。抵抗しなければならないのに、黒い瞳に見つめられて動けなかった。なぜだろう。夏生が真剣な顔をしていたからだろうか。それとも、慣れない触れられ方に動揺していたからだろうか。脳に酸素が回って思考が動き出す。だけど自分の行動の意味を理解できそうにはなかった。
もう興味を失ったのか、夏生がノートに鉛筆を滑らせる音が再び響き始めた。その音を聞きながらソファへと腰をかける。夏生の作業用デスクの近くには休憩用のソファとテーブルが置いてあるのだ。気まずくなるかと思ったけれど、夏生はあまり気にしてないみたいだ。
「俺まだここで次の武器の案出しするけど、お前は好きにしていーよ。工房出るならちゃんと扉閉めろよ」
「……うん。でもあと少しここにいる」
「ふーん」
なぜかこのまま帰るのはもったいない気がして、課題でもして帰ろうと、トートバッグに手を入れた。カサリ、と紙の擦れる音が聞こえる。手に触れたそれは、もう随分と開いていなかった学校あるあるリストだった。そうだ、久しぶりに更新するか、とペンを手に取った。
購買ダッシュはこの間加耳とやっただろ。図書館で昼寝もやったな〜。いつの間にかセバが隣に座ってて驚いたっけ。あいつあの時何してたんだろ、特に本は開いてなかったし。あと放課後にたこパもやった。虎丸が張り切って、晶といろんな具材用意してくれて楽しかった。真冬は既製品しか食べないからって、わざわざ溢れにくいお菓子とかも用意してやったし。あいつなんだかんだ文句言いつつ参加するんだよな。
終わったことには線を引いて、やりたいことを新たに書き加えていく。
シンの学校あるあるリストはもうかなり埋まってしまった。その満足感から、線の多く引かれたその紙をじっと眺める。そして徐に裏返し、小さくため息を吐いた。このリストを作った最初の頃に書いた、今はもう見ないようにしている項目。上から塗り潰すように線を何度か引かれたそれを見ないふりをして、シンは目を瞑った。脳内に浮かぶ後ろ姿を掻き消すために、テーブルに頭を伏せる。グルグルといろんな感情が全身を駆け巡って眩暈がしそうだった。瞼を閉じる。
どうにかしないとダメなのは分かっている。だけど、どうにもならない。──どうにもしたくない。
「おいくそエスパーこれ見ろよ。次すんげぇ武器できるかも」
「……」
「おい。無視すんなって」
「……」
「……静かだと思ったら……。寝てんのかよ」
テーブルに身体を預けてすやすやと眠るシンは、いつからその体勢だったのだろうか。うっすらと涎の後がついているし、頬には紙の皺が移っている。夏生は小さく溜息を付くと、ソファに置いてある仮眠用のタオルケットをそっとシンにかけてやった。
そのまままた作業に戻ろうとして、足がぴたりと止まる。振り返ってシンの顔を見る。むにゃむにゃと口を動かしながら、気持ちよさそうに眠るシンに一歩近づく。顔にかかっている髪の毛を避けてやろうと指を伸ばして、だけどそれはシンの頬に触れることはなかった。一瞬、躊躇うように視線を彷徨わせ、触れる直前に指を止める。
「……さすがにずるいか」
夏生は伸ばした指をそのまま自分の眉間に持っていき、ぐりぐりとほぐすように強く押した。目を開くといくらか良好になった視界に、やっぱり変わらずよく眠るシンが飛び込んできて少し口角を上げる。そしてふと、シンが今まで何を書いていたのか気になり、下敷きになっていない紙を手に取った。
「学校あるあるリスト、ね」
そのリストを夏生が読み込んでいたことを、眠りに落ちているシンは知らなかった。
3.甘い外側、苦い内側
お菓子作りはとても繊細な作業である。坂本商店で坂本たち家族と共に暮らし始めて、シンは料理をよく作るようになった。最初は葵の手伝いとして簡単なことを自ら志願してやっていたのだが、次第に楽しくなってきて今では一人の時でも自炊をすることが多い。JCCには食堂があるので、こちらに来てからはあまりできていないが。
その一環でお菓子作りもするようになった。花ちゃんと一緒にケーキを焼いたり、ウータンにやる気を出させるためにクッキーを手作りしてみたり、色々と挑戦している。
している、けれど。
「この状況、まじで何……?」
JCCの東棟にある、いわゆる家庭科室。シンはそこで、クッキーの生地を捏ねる作業に徹していた。
手のひらがバターと小麦粉まみれになる数十分前、シンは真面目に講義を受けるために教室へと向かっていた。程よくサボり程よく学ぶのが大切だ、と坂本も言っていたし、自分なりに取捨選択して学生生活を満喫している。勉強は得意ではないシンがJCCに戻ってきた理由の一つは強くなるためであり、役に立ちそうな授業は積極的に取っていきたいところである。だから、ちゃんと授業を受けようと思っていたのに。
「あー! シンくんいいところに‼︎」
突然目の前に現れた虎丸がシンを指差し、それに驚いているうちに引っ張って連れてこられたのが家庭科室だった。JCCって家庭科室あったんだと思っていたらあれよあれよといううちにエプロンを着せられ、漫画でしか見たことない三角巾を頭に乗せられ、現在に至る。
「すみません、急に連れてきちゃって……」
「別に全然いいんだけどよ〜、急にどうしたんだ?」
疑問を覚えながらも生地を捏ねるするシンの隣では、晶がナッツを刻んでいた。混ぜ込んでナッツクッキーを作るらしい。美味しそうだ。
「虎丸ちゃんが女子会で食べるお菓子作ろうって」
「なるほどな〜、良いじゃん楽しそうで! でもなんで俺?」
「先輩に聞いたからだよ〜! シンくんお菓子作り得意だって!」
「先輩……?」
「あれ、もう始めてるの? ごめん遅くなっちゃった」
「あ、先輩!」
明るい声とともに入ってきたのは、いつも声をかけてくる毒殺科の女の先輩だった。シンを実験台にしようとしているところを除けば、面倒見が良くて優しい先輩だ。先輩は参加しているシンを不思議そうに見て、笑顔を浮かべた。
「朝倉くんいるじゃん。なに、手作りのおかし食べてくれる気になったの?」
「だから食べねーって。今日は虎丸と晶に連れてこられたんすよ」
「そうなんだ。まあいつでも言ってね、大歓迎だから」
「こえ〜。てか先輩と晶たちって仲良かったんだ?」
「うん! 前に授業で知り合ってから仲良しなんだ〜、よく女子会してるよ!」
「へえ、知らなかった」
意外な繋がりに驚きながら、捏ね終わった生地にナッツを混ぜ込み、形を作っていく。今回のクッキーは型抜きでもアイスボックスクッキーでもなく、手で形成するらしい。適当に掴んだ生地は量が多かったのか、かなり大きめのクッキーができてしまった。まあいいか、と晶とともに生産していく。
虎丸と先輩はチョコレート生地のクッキーを作っているようで、よく購買で見るような模様のものが次々と出来上がっていく。
そうして生地が出来上がり、オーブンに入れたらあとは待つだけだ。軽く片付けを終えたシンたちは焼き上がりまで時間を潰そうとおしゃべりに興じた。変わらず話の主導を握るのは虎丸で、彼女の話題は多岐に渡りなかなか尽きそうにない。それが虎丸の良いところで、誰とでも打ち解けられるその明るさは、彼女の周りに多くの人がいることから良く分かる。
晶が話す日常もかなり面白い。なんせJCCの教師の半分ほどが晶に敬語を使うのだ。なんでも過去を思い出すから……とのことらしいが、側から見たらそのギャップに毎回笑ってしまう。晶が慌てふためいているから余計に。
先輩は変わらず毒の話が多いけれど、タメになるのでつい聞き入ってしまう。飲み物にこっそり毒を混ぜてこようとすることさえしなければ良い先輩なんだ、本当に。
そうやって楽しんでいたシンに、突然ぶっ込んできたのは虎丸だった。
「そういえばさ、真冬のおにーちゃん。ナツキくん、すごいシンくんにアピールしてるじゃん。あれどうなの?」
「ごふっ」
「シシシシンさん! 大丈夫ですか⁉︎」
思ってもみなかった言葉に、ちょうど飲み込もうとしていたコーヒーが気管に入りかける。
「なっ、なんで虎丸が知ってんだ⁉︎」
「あ、それ私も知ってる。学校中ですごい噂だよねえ。武器科のエースが、暗殺科の編入試験一位入学にものすごいお熱だって」
「先輩まで……。まじか……」
夏生から告白紛いの暴露をされたのがつい数ヶ月ほど前なのに、まさか学校中に話が回ってるとは思っていなかった。そんなに騒いでいるつもりはなかったけれど、やはり有名な武器科のエースのせいだろうか。時が経つにつれてどんどん遠慮がなくなってきている気がする。最近ではもう夏生がいつの間にかシンの隣に居て授業を受けていても驚かないし、放課後に研究へ連れ込まれるのも、休日に拉致られて島外へ遊びに行くのも慣れてしまった。
神妙な顔をしている間に、三人の会話は盛り上がりを見せる。
「た、たしかに、暗殺科の教室に普通に居座ってますもんね……」
「クール系かと思ってたのに意外と熱い男なんだね!」
「私たちの代からしても勢羽くんって昔から有名だし、モテてるから余計に話題になってるのかもね」
「やっぱりモテてるよね⁉︎ そんな雰囲気する〜まあ推しには負けるけど!」
「だからこそ、シンさんへの対応がイメージとは違ってて驚きました」
「だよね⁉︎ いいな〜恋してるんじゃん! 真冬のおにーちゃん格好良いしさ〜、シンくん的にアリなの? ナシなの?」
「え⁉︎」
ポンポンと交わされる会話を聞いていたら、突然矛先がこちらへと向いた。女子同士盛り上がっていたので油断していた。
虎丸が興味津々な顔でシンを見つめる。晶も先輩も虎丸ほどではないがシンの返答に興味があるようで、同じ顔でシンを見てくるので思わず変な汗が背中を伝った。
アリか、ナシか。
勢羽夏生という人物は、はっきり言ってしまえば、普通に人間として好ましい。生意気でムカつくけど、努力家で熱いものを胸の内に秘めているところはシンプルに尊敬している。
だからこそ築き上げた友人という関係を崩したくないし、これからも夏生と関わり合っていきたいと思っている。アリかナシか、そんな簡単なことさえ考えるに至っていなかったことに、シンはようやく気がついた。
「い、やー……どうだろ」
「なになにその反応⁉︎」
歯切れの悪い言葉尻に、虎丸が飛びついてくる。ほんのりと香る甘い匂いを感じながら、残り少なくなったコーヒーを一口飲み込んで、シンは口を開いた。
「……セバがなに考えてんのか分かんないんだよなー。だって俺、一回断ってるのに」
「一回断ってるのに諦めないって、相当シンくんのこと好きってことじゃん!」
「……そうなのかな」
「そうだよ、それに不安なら読んでみれば良いじゃん!」
「え」
閃いたと言わんばかりに瞳を輝かせて虎丸が人差し指をピンと立てる。夏生の気持ちを読んでしまったあの夜から、シンは夏生に対してエスパーを使わなくなった。今の関係を壊したくないし、何より夏生の気持ちが変わる様を、意識の底にある言葉を見たくなかったから。
「シンくんエスパーなんだし、ナツキくんの頭の中読んだら解決じゃない?」
「……でも、それってズルじゃね?」
「そうかなあ?」
納得のいかなさそうな虎丸が首を傾げる。シンも釣られて首を傾げると、隣に座っていた晶が勢いよく手を上げた。
「ああああの! その、エスパーはシンさんの持ってるものなので、別にズルとかじゃない……と、オモイマス」
「……そーだよな! ありがとな、気遣ってくれて」
いつの間にか甘い香りで、部屋中が満たされていた。スン、と鼻で吸うと胃の中に砂糖とバターの香りが入り込む。うん、美味しそうだ。なんとなく晴れやかな気分になって、シンは顔を上げた。
「でも実際あれだけモテる人があんなにアピってきたらもうオチると思うんだけどな〜」
「え、まだその話する?」
もう終わったと思っていた話題を、虎丸が再び始める。今なんか良い感じに終わらなかったか?
「私なら多分オチるよ」
「先輩ももうやめてくださいって…」
「実際勢羽くんの元カノ、私の同期にもいるし」
「え」
シンが言葉を続けようとした時、ちょうどピーとオーブンが鳴った。
「あ、焼けたみたいです!」
「開けてみよ! 早く食べたーい」
「ふふ、そうだね」
女子達がわっとオーブンの周りに集まり、クッキーの様子を見る。綺麗な色に焼けたクッキーたちは、見事成功したようだ。シンはそれを横目に見ながら、今胸をよぎった何かを掴もうとしたが、甘い香りを嗅いでいるうちにそれはどこかへと消えていった。
出来上がったクッキーは綺麗な色をしていて、聞かなくても成功していることが窺えた。シンが作っていた生地は、ナッツやチョコと合わさってとても美味しそうに進化していた。透明な袋に入れて、リボンでラッピングする。かわいいシールも置いてあったのでついでに袋の端に貼って置いた。立派なクッキーの完成である。
「じゃあ私たちはこれから女子会するから。朝倉くん手伝ってくれてありがとうね」
「なんならシンくんもくる〜? 大歓迎だよっ!」
「いや、俺はいーや」
出来立てのクッキーを一枚、味見と称して口に入れる。サクサクでホロホロと口の中で解けて、うん、甘くて美味しい。ラッピングしていないものはお皿に積まれていて、きっとそれらでこれから女子会を開くのだろう。
シンに釣られて他の三人もクッキーを味見して目を輝かせている。それを見ながら、そろそろ帰ろうと席を立ち上がった。
「そうだ。今度毒殺実践演習で最近作ってる薬使うつもりだから朝倉くんも来なよ」
「まさか俺を実験台にするつもりですか?」
もぐもぐと忙しなく口を動かしながら、先輩がシンに声をかける。
「そういうわけじゃないけどー。みんな力作の毒とか薬持ってくるから勉強になるかなーって。ほら、そういうの興味あるって前も言ってたし」
「確かに興味あるけど……それ俺が参加しても大丈夫なやつ?」
「大丈夫大丈夫! 発表会みたいなもんなだから毎年いろんな人が見学しにくるよ〜。そうだ、せっかくなら勢羽くんと来なよ!」
「なんでセバと」
「え? だって二人って、……ねえ?」
ニヤニヤと笑う先輩に、虎丸までもが同じように笑い始める。
「そうだよシンくん! ナツキくんとデートがてら行けば良いじゃん」
「デートって……ただの授業だろ?」
「恋を盛り上げる秘薬とかあるかもよー?」
「なっ……!」
「あはは、冗談だよ。いや本当にあるかもしれないけど。とにかく普通に遊びにおいでよ」
「……まあ、気が向いたら。じゃあ俺はこれで」
綺麗にラッピングできたものを数個掴むと、家庭科室を後にした。廊下を出て数歩、シンは立ち止まると袋のうち一つだけの口を開けて、クッキーを口に放り込んだ。やっぱり美味い。適当に取ったから三袋も持ってきてしまったけど、あと二袋はどうしようか。二袋くらいは自分で食べれば良いけど、もう一袋は誰かにあげるか。
そう思って歩いていると、後ろから「あさくらー」と声をかけられた。振り向くと、同じ学科でよく連んでいる友人がこちらに向かって手を挙げていた。
「何してんの、てかさっきの授業来いよ、俺隣の席取っといたのに」
「まじ? わりーな」
「ま、いーけど。お前これから暇? このあと暗科の奴らでゲームしよって話になってんだけど」
「おー、いいな。なんのゲーム?」
「あのゲーム機、抽選当たったんだってよ」
「もしかして、倍率すごかったあれ?」
「そうそう。だから今から初プレイってわけ」
「楽しそうじゃん、いつもの部屋?」
「うん。じゃーまたあとで」
いつも気軽に話しかけてくる同期はもう一コマ授業があるらしく、シンに背を向けた。編入組であるシンたちを快く迎え入れてくれるくらいには、暗殺科の同期たちは気前がいいのだ。と、その背中を見ながら、自分の手に持っているクッキーを思い出した。そうだ、余ってるんだしあいつにあげればいいや。いつも席とっててくれたり講義室の変更教えてくれたりするいい奴だし。
そう思って、シンはもうすぐ角を曲がりそうな後ろ姿に声をかけた。
「あ、おい待てよ、これ……」
余ってるんだけどいらない? という言葉は、結局シンの口から紡がれることはなかった。声をかけてよく見えるように掲げようとしたそれは、胸の位置から動かない。いや、動かそうとしているのに、透明な何かに腕が掴まれているかのように動かせないのだ。
透明になれたとしても、音や気配、空気の動きなどは簡単には消すことはできない。それが目下の課題であり、どうにか改良しようと試行錯誤しているらしいことは本人から聞いていた。
「なんだよ、セバ」
バチバチ、と火花が散って、誰もいなかったはずの廊下がぐにゃりと曲がった。そして霧が晴れるみたいに現れたのは、思ったとおりの武器科のエース、勢羽夏生だった。
「なにしてんの?」
「俺のセリフな。腕離せよ」
いつもと変わりない表情で、だけど構内で透明になっているのを見るのは久しぶりな気がした。そういえば、と廊下の先に目をやるも、当然同期はおらず渡すはずだったクッキーだけが手元に残っていた。
「それ」
「ん?」
「あいつにあげようとしてたの?」
「そーだけど」
いまだ掴んだままの腕は無視して、夏生がじとりと睨んでくる。睨まれる覚えはないので思わず首を傾げた。
「俺のは? おかしくね、あいつにあって俺にないの」
「別に約束してたわけじゃないし、おかしくはないだろ」
というかなんでクッキー作ったことを知っているんだ、と言えば、虎丸に聞いた、と小さく返ってきた。なるほど、虎丸は完全に応援側らしい。軽く腕を振れば、今度は簡単に振り解くことができた。夏生の視線がクッキーに落とされる。
「なに、ほしいの?」
「……別にそういうわけじゃないけど。……まあお前がどうしてもって言うならもらってやらないこともねーというか」
「え、お前めんどくさ……」
「てめーマジで男心勉強しろよ、チンコついてんのか?」
「あ゛? クッキーやらねーぞ、おら」
煽られたので夏生の横腹を肘でぐっと押す。指一本分だった距離が手のひら分ほどに離れて、視界が広がった。シンの怒るポーズに、夏生がヘラヘラと笑う。
「まじすんません、よっ! 男の中の男!」
「……なんか怒る気力も失せたわ……」
はあ、とため息を吐いて、クッキーを夏生に押し付けると、顔を明るくした夏生がそれをそっと受け取った。
「さんきゅー」
「もう一袋あるからやるよ。真冬にでもやれば」
「あいつが人の手作りのもん食うかよ。……いやお前ならワンチャン……?」
「ないだろ」
「ないな」
真冬が手作りのクッキーを美味しそうに食べているところを想像して、あまりにも現実味がないそれに思わず笑ってしまった。夏生も同じことを考えたみたいで、同じように笑っている。脳内の真冬が「兄貴もシンくんも、勝手に想像で笑ってんじゃねー!」と怒ったので、シンはさらに笑みを深くした。
「んじゃ、いただきまーす」
「ここで食うのか?」
「え、だめ?」
「だめじゃねーけど……」
手に持ったままパシャリと一枚だけ写真を撮った夏生が、躊躇いもなく封を開けた。なぜかドキリとしてしまって待ったをかけたが、確かにダメな理由なんて何も思い浮かばない。不思議そうな顔をした夏生は、けれどもそのままクッキーを一枚、口の中に放り込んだ。
その所作の一つ一つを、目に焼き付けるように見つめる。夏生の口が何度か動き、ゆっくり咀嚼しているのが分かる。そのまま何も言えず見ていると、夏生がふ、と頬を緩ませた。
「ん、うまい」
「……そっか、良かった!」
気がつかない内に肩に力が入っていたみたいで、夏生の言葉を聞いた途端に身体が軽くなった。夏生はそんなシンを気にしていないのか、次々とクッキーを食べている。一袋がもう終わってしまう。言葉に偽りはなさそうで、もう一度「良かった」と小さく口にした。美味くないわけがない、みんなで作ったんだし。
「これ天才的に美味いよ、くそエスパーお前才能あんじゃね」
「まじ? 将来お菓子屋でも開こうかな」
「そん時は働いてやってもいーぜ、クレープ担当してやんよ」
クッキーが最後の一枚になってしまい、夏生はそれを摘んで取り出すと、顔の前に持って行ってじいっと見つめた。まるでもったいないとでも言わんばかりのその視線はいつも通り真っ直ぐで、黒目がちな瞳がまつ毛の影に縁取られていた。
"元カノ、私の同期にもいるし"
先輩の言葉がふいにリピートする。だから、自然と口から疑問がこぼれ落ちたんだ。
「セバってモテんの?」
「……あー、まあそこそこじゃね?」
「ふーん」
もちろん確認するまでもなく、モテることは知っている。元カノが何人かいることも、そのうち数人とは今も仲が良いことも。いまの今まで何とも思っていなかったその情報が、意味を持ってシンにのしかかってくる。
そんなモテる男が、シンのことを好きだと言う。口には出していないけど、態度や目線でこれでもかと言うほどに伝えてくる。ただのクッキーを、大切なものであるかのように噛み締めて食べるのだ、この男は。
だから、ふと魔が差した。
そんなに言うなら読んでやろう、と思った。だって、いつでも読んでいいと言ったのは夏生だ。隣で証明していくと言っていたけど、そんなことできるわけない。人間は誰しも自分が気づいていない言葉を胸に秘めているもので、それは夏生だって同じに変わりないのだから。
ピーン、とラジオのチャンネルを合わせるように、夏生に波長を合わせていく。その作業に、随分と久しぶりだな、なんて場違いな感想を覚えた。少しずつ周波数を合わせていくと、次第に夏生の心の声が、シンの頭の中に響き始めた。
『クッキー嬉しい。こいつの手料理食べるの初めてかもな〜。お菓子作りとかかわいーとこあるよな。てか明日はどうやって攻めようかな〜、くそエスパーまじでくそだから逃げ回るばっかりだしよ。まあ別に全然良いけど』
『それにしてもクッキー美味い。料理もできんのかよこいつ、なんかムカつく。属性過多なんだよそもそもよ〜』
『こっちめちゃくちゃ見てくるじゃん。目デカ。でかいのに黒目は小さめだから、つい目線の先追っちゃうんだよな〜こいつは全然気づいてないだろうけど。……なんかこいつ顔赤くね?風邪か?春に向かってるとはいえまだ寒いしな……あったかいもんでも今度奢ってやるか』
──なんで、とは口には出せなかった。ただそれは、ストン、とシンの中に真っ直ぐ落ちてきた。
こいつ、本当に俺のこと好きじゃん。
夏生の思考を読んで、分かったのは結局それだけ。
黙りこくってしまったシンに気付いたのか、夏生が目線だけで「なんだよ」と伝えてくる。実際は思考を読んでいるので、頭の中でも「なんだよ」って言っているのは分かっているのだが。
喉の奥が渇いて張りつきそうになっているのを無視して、シンは掠れた声を出した。
「じゃあ今度工房であったかいココアでも作ってくれよ」
夏生の方を見ることができなくて、目線はずっと窓の外を向いていた。外はひたすら明るくて、少しだけ残っていた雪が、太陽に反射して鮮烈な光を帯びていた。あと二ヶ月もしないうちに、学年が一つ変わる。関係性は何も変わらないけど、取り巻く環境は季節みたいにどんどんと変わっていくのだ。
「え、うん良いけど。……もしかして今、俺の頭ん中読んだ?」
「えっ……うん」
素直にそう答える。だって読んでいいと言ったのは夏生の方だ。
「……まじか〜」
そう言って夏生が勢いよく座り込んだので、シンは思わず肩をビクッと揺らした。逸らしていた視線が目の前と定まる。顔を手で覆って表情が何も見えない夏生が、大きく息を吐いた。
「なんだよ」
「いや良いんだけど、お前全然読まないからちょっと油断してた。……クッキーもらえたのが嬉しくて、デレデレしてたかも」
ちら、と指と指の隙間から、黒い瞳がシンを突き刺した。ほんのりと赤く染まった頬と耳は見慣れなくて、なぜか良くないものを目にしてしまったような気になった。
自分のことを振り向かせるために、時間さえあれば同じ空間で過ごそうとして、近づいては離れ、離れたと思ったら近づいてきて、ずっとずっとシンを振り回してくる。そもそも最初、シンは明確に拒否をしたのに。それなのに、夏生はシンに関わろうとしてくる。追いかけて、手を掴んで、その心を伝えようとしてくるのだ。
シンの不意な一言に思わぬ反応を見せるような甘さのある夏生の言動に、心臓がグッと締め付けられる。クッキーもらっただけで喜ぶなんて、思ってもみなかった。奥の方から何かが溢れ出てきそうで、それを押さえつけるように胸元を強く掴んだ。
「っ、おれ約束あるから! じゃーな!」
このままこの場所にいるのはまずい気がして、シンは夏生に答えることなく背を向けて走り出した。後ろから聞こえてきた呼び止める声は無視して、廊下の角をいくつか曲がり、階段を駆け下りて外に出る。
はあ、と息を吸い込んだ。途端に冷たく澄んだ酸素がシンの中に入り込んできて、頭の芯が冷えていく。だけど身体の中はずっと熱くて、うるさくて仕方なかった。握り込んだ指先が震えている。視界の端がチカチカと弾けている。蹴り上げた地面は溶けた雪でぐにゃぐにゃで、だけど足は止まることはなかった。
なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ!
分からない。分からないから、早く消えて無くなればいい。だけどそれはそれで少しもったいない気もして、もう少しこの熱に浸っていたい気もする。いつも通り振る舞いたくて、だけどこのままふわふわとした心地に触れていたい気もする。曖昧で矛盾する自分の思考に、どうしたらいいのか、迷子になった気分だ。
息を吸って、吐く。吸って、吐く。冷たい空気をどんどん取り込んで、早く冷静になりたかった。見上げた空は青くて眩しくて、シンはそのまま真っ直ぐ走り続けた。
それからというものの、シンはふとした瞬間に夏生の思考を読むようになった。なってしまった、と言った方が正しいかもしれない。どんなタイミングで、何度読んでも夏生の思考は何も変わらなかった。
もちろんその時々で考えていることは違う。だけどそれら全ては、『夏生はシンのことが好き』という簡単な結論に至ってしまうのだ。
シンが思考を読み始めたことに、夏生は早々に気がついた。おそらくクッキーを渡した日から、頑なに読もうとしなかった思考に意識を向け始めたのを察したみたいだった。だからだろうか、夏生はシンが読んでいることを前提に思考を乗せてくるようになった。
一日会っていなくて、廊下でたまたま遭遇した日は、『今日も会えて嬉しい』なんてすれ違いざまに伝えてくる。こちらを一切見もしないくせに、思考だけ飛ばしてくるのが小賢しい野郎だ。こちらを向いていないのでシンが反応するわけにもいかず、一緒にいた級友たちに不思議がられることも多々あった。
研究室や食堂で、大人数でいる時にも困らせられた。夏生がじっと見つめてくるので、「なに」と聞けば「なんでもない」と返される。んなわけねーだろ、と流れるように思考を読むと、『笑ってる顔が一番いいな』なんて恥ずかしげもなく思っているので、つい体温が上がってしまったのは仕方ないことだと思う。風邪引いたのか、と周りに心配されたのでその日は早めに切り上げて自室へと帰った。
たまたま二人になった時、こいつ今何考えてるんだろ、と思って覗いた思考は武器のことでいっぱいだった。四六時中シンのことを考えているわけでもなく、夏生には夏生の生活があって他のことを考えている時間ももちろん多い。何を言っているのか分からないその思考にどことなく安心感を覚えてBGMのように聞き流していると、シンの意識が明後日の方向へ向いていることに気がついたのか、夏生が腕を引いてきた。なに、と口に出す前に、夏生の思考が頭に流れ込んでくる。
『今俺の脳内読んでる? ちょうどいーや。今からお前の好きなところ十個挙げてってやるから聞けよ』
「いやいらねーよ!」
「そっか、残念。聞きたくなったらいつでも言えよ」
「言うかばーか!」
と、いう感じで、とにかく夏生はずるいのだ。シンがあまりそういうことに慣れていないのが分かっていながら、大勢でいる時でも二人でいる時でも、変わらず無防備な思考を曝け出してくる。心が読めるシンを厭うことなく、いつ読まれても良いという宣言通りフードをかぶることもせず。
読んでも読んでも、夏生の思考は変わらなかった。読まなければ良かった、なんて思うようなこともなくて、なんで今まで隠せていたんだと思うくらいに夏生の心のうちはシンへの感情で溢れていた。何度も読んでは、伝わってくる暖かさにずっと触れていたくなる自分に気づかないふりをした。
読むのはやめよう、と思ったのは最初の方だけで、もはやシンは夏生の心の声にすっかり慣れてしまった。口に出してくる言葉もストレートに磨きがかかっている気がする。内側と外側の両方から放たれる夏生の声はシンの中に溜まり続けている。
▽
「今日暇だろ? 放課後デートしようぜ」
「は? 暇じゃねーけど」
「授業終わり迎え行くから待ってろよ」
「おいまて、話聞けよ!」
勢羽夏生は案外人の話を聞かない男である。真冬という我儘な弟の兄貴である故か面倒見はいいのに、先輩達に囲まれて学生時代を過ごしたからか妙に子どもっぽいところがあるのだ。長男なのに。気まぐれに他人の武器を溶かしてみたり、気まぐれに絡んでみたり。とにかくそういう男だから、シンが何か話しかけても聞いていないということがよく起こる。
だけど今のはあまりにも意図的に人の話を聞いてなさすぎる。反射で答えたので別にシンは放課後用事があるわけではなくてむしろ暇ではあるのだが、それにしたって突然なんなんだ。遠くの方にいるな〜と思っていたらズカズカと近寄ってきて、澄ました顔で言ったのがあのセリフだ。
そしてシンの話を聞かないまま、またズカズカと歩いてどこかへ行ってしまった。残されたのはシンと、偶然隣を歩いていた加耳である。
「……シン、もしかしてあいつと付き合ってるのか……?」
「付き合ってねーから! 馬鹿なこと言ってんじゃねーぞ加耳!」
「わ、悪い」
加耳が真顔でとんでもないことを言い出したので、思わず声を張り上げてしまった。シンの勢いに驚いた加耳は、しどろもどろに謝罪する。
だいたいなにが放課後デートだ。勝手に言ってきて約束取り付けた気になってるのおかしいだろ。確かに夏生と過ごすのは楽しいし嫌いなわけではないが、改めてデートという言葉を使われると否定したくなる。デートではないだろ。たとえ夏生がシンを好きだろうと、シンが夏生の脳内を読んでいようと、ただの友人間の交流である。
ふん、と憤りながら歩き始めたシンの後ろで、加耳が夏生が去っていった方向を見つめる。
「あいつ、心臓の音すごかったな……」
加耳が呟いた言葉は、運良くシンには聞こえなかった。
言葉通り授業終わりに教室の前で待ち伏せされていたシンは、そのまま夏生に連行された。普段から放課後は夏生と過ごすことが多いので諦めて引っ張られるがままに歩く。そして連れて来られたのはあまり来たことがない棟の端っこで、古びたドアには『映画研究会』と書かれたプレートがぶら下がっていた。
「ここなに?」
「映画研究会の部室。たまに映画流してくれるからJCC生のデートスポットになってる」
「え゛」
驚くシンに夏生がニヤリと笑った。
「放課後デートって言ったろ?」
映画研究会はその名の通り、世界中の映画を見て表現方法や撮影方法を研究したり、自分たちで脚本から演技、演出までを手がける一本の映画を作成したりする同好会のようなものらしい。
映画研究会が作った映画は定期的に公開される。その人気は意外と高く、生徒の半分以上が観に来るそうだ。今回は殺し屋アクション映画らしく、公開が始まってから一週間ほどだがそれなりに評判が良い、と夏生が説明してくれた。
「全然知らなかった。こんなところあったんだ」
「一年生にはあんま話し回ってねーかも。あんまやり過ぎると教師に怒られっから」
「ふーん」
少し固そうな音を立てながら、夏生が扉を開ける。普通の教室二つ分ほどの広さのそこには、椅子が二つだけ並べられており、窓には暗幕がかかっていた。黒板の前には大きなプロジェクターが掲げられていて、そこに映画を流すであろうことは分かった。
「?」
疑問を覚える。人気だと聞いていたが、用意されている椅子はこの広い空間に、たった二つ。スタッフであろう生徒の人数も二、三人ほどで、他には誰の姿もない。
「人少なくね?」
「あー、なんかたまたま二人らしいぜ、今日」
「まじ? ラッキーだな」
そんな幸運なことあるんだな、と普段見ない非日常な空間を思い出して、シンは少しだけ胸を躍らせた。エスパーであるため、あまり人の多い映画館は得意でない。人が少ない朝早くか、夜遅くにしか観に行かないのもそれが理由だ。
映画を見るのも久しぶりだし、それもオリジナル映画だ。学生のクオリティがどれほどかは分からないが、あまりしたことのない体験は素直に楽しみだった。
夏生が受付に何か紙のようなものを見せ、受付の人はそれ見て頷くと座席の方を指差した。ほら行くぞ、と夏生に言われるがままその席に着く。目の前のちょうど良い位置にスクリーンがあって、なんとも観やすい席だ。
「そういえばチケットとかあんの? 俺なんもしてないけど」
「映研に知り合いいるから融通してもらった」
「まじ。お金とかかかってたりする?」
「いや、全然」
こちらを一切見ずにそう言い切るので、シンは仕方なく脳内を読む。ピーン、ともう読み慣れたチャンネルを合わせると、すぐに夏生の思考が流れてきた。
『融通というか、頼み込んで武器の受注製作と引き換えに貸切にしてもらったんだけどな〜。こいつ映画好きって言ってたし、二人なら周りのノイズも無しに見れるだろ』
思わず出そうになった声をなんとか押し込める。なんだよこいつ、嘘吐きじゃん。シンと映画を観るためにわざわざ貸切にして、それをシンには言わない、なんて。
体温が上がっているのが分かる。映画を好きという話をしたのだって、いつのことだか思い出せない。シンの記憶に残らないほど些細なことで、だけど夏生はそれを覚えていて、シンのために準備をしてくれていた。さらにはシンのエスパーも考慮して、わざわざ貸切にまでしてくれた。武器の受注制作なんて普段はぼ受け付けていないのも知っているし、確かにそれは夏生の交渉カードとして高い価値を持つのだろう。こんなところで使うものか? とは思うけれど。
それを本人が口にしないのもなんとなく分かる。勢羽夏生は自分がした努力を他人に自慢げに言うような男ではないし、一方で自分の有用性をしっかりと把握している男でもあるのだ。だからこそ、この思考をシンに読ませるつもりも読まれるつもりもない、夏生の本音ということをどうしても理解してしまう。
「? なに」
「や、別に……」
「なんかお前……」
黙ってしまったシンを不思議に思ったのか、夏生が顔を覗き込んでくる。どうしよう、体温が上がっている今、顔を見られたくない。そう思った瞬間、フ、とあたりに暗闇が落ちた。
司会が何やら喋り始めて、どうやらそろそろ上映が始まるみたいだ。助かった。隣から何か言いたげな気配がするが、シンは気づかないフリをして前を向いた。何が助かった、なのかは考えないことにした。
そしてスクリーンが明るくなって、ついに映画が始まった。
映画は聞いていた通り殺し屋が様々な依頼人から暗殺依頼を受け、スタイリッシュに殺していくというアクションがメインのものだった。殺し屋養成学校の生徒が作成しているからか、やけにリアルな描写と、既存映画の影響を受けているようでしっかりとオリジナリティを落とし込んだ表現に引き込まれていく。
最初はうるさかった心臓は、次第に違う意味でドキドキハラハラしていた。いやそこで主人公が、うわそういう展開あり⁉︎ 嘘だろ黒幕お前だったのか……。まさか時折隣の席から視線を向けられているとは思わず、シンは夢中になって映画に齧り付いた。
「いや〜、めちゃくちゃ良い映画だった!」
先程の映画を思い返しながら、足取り軽く廊下を歩く。もらった映画のパンフレットは、部屋に帰ったらじっくり読もう。二時間半にわたる超大作のエンドロールが終わる頃には、すっかりシンはこの映画のファンになっていた。また次の新作が完成したら絶対観に行くつもりだ。
上機嫌で廊下を歩くシンに、夏生が同意する。
「思ったより面白かったな」
「ほんと! あそこで主人公がまさかペンを武器に立ち向かうと思わなかったぜ! 坂本さんみたいだった」
「実在の殺し屋を何人かモチーフにしてるって言ってたから、もしかしたら坂本もそうなのかも」
「いや坂本さんはもっと格好いいから」
「あ、そう……」
呆れた顔で夏生が見ているが、あえて無視してシンは映画の感想をつらつらと述べる。それに対して夏生が相槌を打ったり、ツッコミを入れたりしていると、もう少しで寮の門限であることに気がついた。まあ門限と言っても守っている奴なんてほぼいないのだが。
「そろそろ部屋戻る? 今目的あって歩いてるわけじゃねーし」
「じゃあその前に自販機のとこ行こうぜ、喉乾いた」
「あ、俺も喉乾いてるわ。行こーぜ」
外に出た途端冷たい風が頬を撫でつけてきて、シンは肩をすくめた。春に向かっていると言えど、夜はまだまだ肌寒く、パーカーしか着てこなかったことを少し後悔した。夏生も寒そうにJCCジャケットを首元までしめてその中に顔を埋めていた。
「まだ少し寒いな」
「早く春になってほしいけど、そしたら次花粉の季節だしな〜」
「なにセバ、花粉症なの?」
「いや別に」
「じゃあなんで嫌そうなんだよ」
笑いながら肩を軽く殴る。夏生も珍しく声を出して笑っていて、その温度感が心地よい。棟と棟の間に設置された自販機置き場は、三つほどメーカーの違う自販機が並んであって、近くにベンチが置いてある。時間も時間だから誰もいなくて、二人分の足音だけが響いていた。
白く光るディスプレイを見ながら、まあ寒いし順当にコンポタかなとボタンを押そうとして、横から伸びてきた指がその隣のボタンを押した。
「あ! オイコラ」
「わり〜手が滑った〜」
「せめて心込めろよ」
「込めてるって。はいコレ」
「さんきゅ、ってなにこれ、鶏白湯スープ?」
手渡されたのはデカデカと鶏白湯と書かれた缶で、飲もうと思っていたコンポタには程遠い。他人の金で遊びやがって。まあいいけど、温かいし。シンが缶を睨んでいると、夏生も自分の飲み物を買ったみたいで、ガコン、と鈍い音が聞こえた。自分はちゃっかりコーヒー買ってやがる。
「てめー、自分だけ普通の飲み物買いやがって」
「まあいいじゃん。自分じゃ飲まないだろ? てか鶏白湯はまだ良いけど、この学校って誰が買うんだって商品地味に多いよな。スパイシースイートちんすこう味とか」
「確かに。JCCの特色か? パンフに載せよーぜ、他では食べることのできないものが食べられます!って」
「JCC丼とか?」
「いやアレはどう足掻いても宣伝にはならねー!」
ははは、と勢いよく笑った声が夜空に溶けて消えていった。ベンチに座り、プルタブを開けて一口飲み込む。温かいスープが喉を通っていって、身体の芯から温もりが宿る気がした。コンポタが良かったけどこれはこれで美味い。はあ、と吐き出した白い息に電灯が反射して、シンは少しだけ目を細めた。
夏生も同じようにベンチに腰掛け、コーヒーを傾ける。その距離は拳一つ分で、触れそうで触れない肩に意識が集中した。映画の時は何も気にならなかったのに。
「……ありがとうな、誘ってくれて。映画久しぶりだったからすげー楽しかった」
「楽しんでくれたなら良かった。今度は普通に有名どころ観ようぜ、俺サブスク入ってるし」
「楽しそう、ポップコーンもつけようぜ」
「あとはコーラも?」
「もちろんいるに決まってんだろ」
「りょーかい」
また一口、スープを口に含む。指先にじわじわと温度が移る。冬の夜は静かだ。もう少しで春とはいえど隅に残っている雪が音を全て吸収しているのか、それとも冬の空気が音を感じさせないのか、分からないけどとても静かだと思う。一人でいるとどこかもの寂しくて、二人でいると誰かの奏でる音が気になって仕方がない。吐息だけが緩やかに昇っていって、この世の全てが集まっているみたいだ。
夏生が飲み終わった缶をベンチの端に置いたのが横目で見えた。飲み終わるの早いな、コーヒーは水分補給にはならないが、きっとこれから研究室に戻るのであろう夏生にはちょうど良いのかもしれない。
ギシ、と木が軋んだ。え、と思う間もなく、手持ち無沙汰だって右手が、何か温かいものに包まれた。
「っ、なに」
何か温かいものなんて、今隣にいる夏生の何かしかなくて、シンの右手に夏生の左手がそっと重ねられていた。ドッと心臓が動き出す。
「……手、繋いでみた」
真っ直ぐ前を向いたまま、夏生がなんでもないように言う。思わず手を引こうとしたことに気づかれたのか、ただ乗せてあるだけだった手のひらが、押さえ込むように強く握られた。夏生の手のひらはじっとりと熱を帯びていて、温まっていた指先よりも熱かった。その熱が血流に乗って全身に巡っていく。
「な、んで急に……」
「繋ぎたくなったから? なんか寂しそうに置いてあったし」
「……っ」
「嫌なのかよ」
「……別に、嫌、なわけじゃ、ねーけど⁉︎」
「はは、動揺してんなー」
軽く笑われて、イラつきが込み上げてくる。嫌なわけではない。単純な接触ならグローブを見てもらっている時や普段過ごしている時にも普通にあった。だけど、こんな、熱の籠った接触は久しぶりだった。それこそ、夏生が自分のことを好きだと認識したあの夜のプールの日以来だ。あの時も水中で同じように手を握られた。水の中で温度なんて感じないはずなのに、確かにあった体温が甦る。
夏生の親指が、すり、とシンの手の甲を撫でる。少しカサついた指先は硬くて、丁寧に武器を作っている指先を思い出した。ぐう、と喉の奥が唸る。
どうすれば良いか分からなかった。夏生の気持ちを暴露されてから、直接的な接触は今までほとんどなかった。たとえば引き止めるために腕を掴んだり、武器の調整のために触れたり、それくらいだ。シンと夏生の距離はいつも正しく拳ふたつ分で、それを居心地良いと感じていたのは確かだ。ドキッとする発言はするしシンを見つめる瞳には熱が宿っているけど、不用意に飛び越えてこない夏生に助かっていた。だってシンは飛び越えさせる勇気も、自分が飛び越える勇気もない。今のままが良くて、だけど拒絶もできなくて、結局こうして今手を握られている。
「そんなフツーに……なんなんだよお前、本当に!」
「別にフツーじゃねえし。心読んでみれば?」
「誰が読むかよ!」
「ふーん、じゃあ、はい」
ぐい、と手を引っ張られ、その勢いに従って視界が斜めになる。え、と思う間もなく右側に何か固いものがぶつかった。嗅ぎ慣れた匂いと、甘いコーヒーの香り。いつもブラックコーヒーを飲んでいるこいつにしては珍しい、おそらく微糖だ。その香りに気を取られていると、夏生の右腕がシンの背中に回され、シンはすっかり夏生に囲われてしまっていた。ぐわ、と顔に血が昇る。
「な、っにすんだよ!」
慌てて離れようともがくと、斜め上から微かに笑う声が聞こえた。意味が分からなくて、笑っているのもやめて欲しくてシンが腕を外そうと躍起になると、それに合わせてどんどん腕の力が強くなる。シンの方が体術は得意だし、体力も力もあるはずなのに、なぜか抜け出すことができない。心臓が脈を打つ。夏生も汗ばんできたのか匂いが濃くなってきてクラクラしてしまいそうだった。まだ春はもう少し先で、寒いはずだった身体は全力疾走したように暑い。
ギュッと目を瞑って視界からの情報を断つ。自分の内側から聞こえてくる音の他に、それよりも早い間隔で鳴る何かを見つけて、シンはふ、と肩に入っていた力を抜いた。ドッドッと力強く駆け抜けていくその音は、自分の右耳から聞こえていて、右側にいるのは夏生で、シンの耳は夏生の胸にピッタリとくっついていて。
「え、何コレ太鼓?」
「聞こえた?」
思わず顔を上げる。見上げた先には夏生の顔があって、その近さに驚くよりも、ほんのりと赤くなっている耳と頬が先に目に飛び込んできた。そうして先程の音が何か思い当たって、ぱっと目を逸らした。
勢羽夏生は、朝倉シンのことが好きらしい。本人から直接そう伝えられているし、シンもそのことを理解している。していると思っていた。熱い視線にさらされて、言葉と行動でその熱意を伝えられてはいても、夏生はいつも飄々としていた。だから、思ってもみなかった。夏生の心臓が破裂するのではないかというくらいに、早く動いているなんて、シンは想像もしたことがなかったのだ。
ずっと掴めずにいた空想上の何かが、急に輪郭を現したように目の前で形作ろうとしている。夏生はずっと、等身大のまま、そこにいたんだ。
「……俺、別に緊張してないワケじゃねーから。てめーの手握ったあたりからずっとこうだぜ」
「分かんなかった……」
「そりゃ格好つけてたし」
「なんで……」
「なんでって……言おうか?」
「や、やっぱりいい!」
「なんで?」
「なんでって……」
「うそ、やっぱりいーよ。困らせて悪いな」
「……別に。そう思うなら離せよ」
「それはムリ。せっかくのチャンスだし」
夏生の腕にさらに力が入る。全く離してくれそうになくて、シンは溜息を吐いた。
「人来たらどーすんだよ」
「誰も来ねーよ、こんなとこ」
そうとは思えない。だってここは自販機が置いてあるし、JCCの生徒は大抵門限を守らない。だから今すぐにでも飲み物を求めて誰かが来るかもしれないし、このベンチが見える廊下の窓から教師が覗き込んでくるかもしれない。ドッドッと同じ音が二つ重なって聞こえる。シンは何も言えなかった。この温もりを、今手放すのは少し惜しい気がした。
お互い無言の時間が少しだけ続いて、静か空気が流れる。それを切り裂くように夏生が小さく息を吐いた。
「この状況になるにあたって、一個謝んないといけないことあるんだけど」
「……なに?」
「くそエスパーくんの学校あるあるリスト、勝手に裏も見た」
「っ、おまえ、いつ」
「前に工房で机に出したまま居眠りしてたろ? そん時」
夏生に連れられて工房へ行った日を思い出す。あの時も近くて、でもこれほどの距離ではなかった。擦られた耳を思い出して思わず指で軽く触れた。
「お前、恋愛に興味あるんだな」
「そ、れは……」
JCCに再度入学することが決まって、シンは潜入した時に書いた学校あるあるリストに、やりたいことを書き足した。学校内のあらゆるところに訪れてみたいし、秘密の扉なんかも発見してみたい。友だちを作って放課後に遊んで、テストで苦しんでみたり、教師にイタズラして怒られてみたりして、普通の学生のように過ごしてみたかった。シンはそれを経験するには歳を重ねすぎていて、だけどJCCに年齢は関係なかったから、夢を叶えられると思った。
そんな充実した日々を過ごせるのなら、もう一つだけ、シンには憧れがあった。脳裏に、坂本とその家族が思い浮かぶ。家があって温かいご飯と風呂があって、そこに大切な家族がいる。そんな生活を夢見なかったと言えば嘘になる。シンにはエスパーがあって、誰かが無意識のうちに考えてしまった、本人が自覚していない言葉を読み取ることができる。そうして、その誰かを傷つけてしまうことがあることを、知っている。
だから憧れはあれど、それを叶えようとは思えなかった。今自分を受け入れてくれている坂本たちと、平助とルーと、そんな関係を築けたこと自体が奇跡だから。
そう思いながら、無意識のうちに書いてしまった言葉に愕然とした。
好きな人ができたら、その人とたくさんの時間を過ごす。手を繋ぐ。ハグをする。そしていつか。──いつか、坂本さんと葵さんと花ちゃんみたいに、家族になる。
確かにシンの字で書かれた、シンの願望だった。消しゴムを掴む。ダメだ、消さなきゃ、また繰り返してしまう。そう思ったのに、なぜか手は動かせなかった。視線から消すように紙を折り、そのままカバンに突っ込んだ。
そうしてJCCに来て、授業に出て友人を作り遊んで、武器科の研究室で夏生と駄弁る。それが日常になっていた。
時間が経ち、シンの学校あるあるリストはもうかなり埋まってしまった。あの日だってそう。夏生がリストの裏面を見たという日も、シンは自分の感情に見て見ぬふりをした。頭の中には黒髪が浮かんで、すぐに消した。そうした方が良い、そうしなければならないと、ずっと思っている。
まさかそれを、夏生に見られているとは思いもしなかった。どうにかしないとダメなのは分かっている。だけど、どうにもならない。──どうにもしたくない。
「そこにあったじゃん。好きな人と手を繋ぐって。ハグもクリアだな」
「だからってなんでお前とっ」
「そりゃ、今のお前は俺のこと好きじゃないのかもしんねーけど」
夏生の腕にグッと力が入る。もうほとんど真正面から抱きしめられていて、シンの目の前は夏生の首筋と、いつも着ている作業着で占められていた。ほんのり甘いコーヒーの香りと、夏生自身の香りが混ざって、シンの中に入り込んでくる。服を隔ているのに、夏生が汗ばんでいることがなぜか分かった。
「まあ何が言いたいのかっていうと、俺のこと好きになればそのリスト全部叶えられるってことなんですけど。……どうですかね?」
「どうって……」
気がつけば随分と学校あるあるリストを叶えられてしまった。
いつかは自分だって、と思う気持ちと、誰かを傷つけてしまう可能性を天秤にかけ、いつも後者に傾いている。そちらの方がシンにとっては重要で、何度も線ででたらめに消した。
そんなシンの気持ちを知ってか知らずか夏生はゆっくりとシンの内側に入り込んでくる。ズカズカと線を飛び越えてくるわけではなく、ゆっくりと、少しずつ。勝手にリストを見たことを怒ればいいのか、叶えてやろうと健気にシンを追いかけてきているのを褒めればいいのか分からなかった。
だってこんなの、
「……っ、ずるいだろ……!」
夏生の思考を読む度に、その想いがシンの中にどんどんと溜まっていく。今だってほら、夏生はシンのことだけを考えている。好きだ、と思考が全てを伝えてくる。溜まり続けているそれが、もし器から溢れてしまったらどうなるのだろうか。コップから飛び散る水滴のように、シンの内側も飛び出してしまうのだろうか。
今の関係を変えたくなくて、壊したくなくて、シンは明確な答えを口にできない。シンは恋愛なんて苦手だし、夏生だってそれを分かっているはずだ。
結局シンは夏生を振り解くことができなくて、もう帰るか、と夏生が口に出すまで黙り込むことしかできなかった。ただ、触れた熱だけが、シンを蝕んでいる。
それからも夏生の内側を読むことはやめられなくて、もうほとんどクセみたいになっていた。読んで、変わらない夏生の熱に安心して、また読んで。もうずっと、そんなことを繰り返している。伝え続けてくれる夏生の気持ちに、胡座をかいていた。
──だからきっと、バチがあたったのだ。
「……せば?」
別によく見る光景だった。本人の申告通りモテる夏生は、よく女子生徒に呼び止められる。それは後輩だったり先輩だったり同級生だったりはたまた教師だったり。誰に対しても平坦で、興味のなさそうな対応をするのを隣で見てきた。対応が終わると毎回、今の人とは初めて喋ったから、とか、あの人は前に授業のグループが一緒でそこからたまに話すだけだとか、聞いてもないのに言い訳をしてくる。夏生の脳内を読めばそれが本当だとか分かるし、たとえ相手が何を考えていようが夏生がそう言うのなら信じようとも思った。
だけど、じゃあ、今のこれはなんだ。シンの立っている渡り廊下の先、階段の下に夏生と知らない女子生徒が二人で立っていた。別によく見る光景、何も気にすることはないのに、シンは目を離せない。だって、明らかに雰囲気が違うのだ。二人の間に流れる空気が、距離感が、ただの知り合いだとか友だちだとかそういうものに当てはまらない。なにより、夏生が笑っている。楽しそうに目を細め、笑っているのだ。
ここからは遠くて声は聞こえない。心を読んでしまえばいいけど、シンはその思考に至らない。
ぼう、と立っているシンに、一緒に歩いていた同期が声をかける。
「何してんのアサクラ、早く行こうぜー」
そんな声さえも、今のシンの耳には入らなかった。
4.世界は一体何色をしているか
勢羽夏生。JCCの研究員生で、武器製造科研究室所属。年齢はシンより少し下。百七十六センチ、六十七キロ。黒髪で目の下に特徴的なホクロがある。学部生の卒業制作でヨツムラ賞を受賞したことのある自他共に認める武器科のエースで、手を焼かされた透明スーツや、厄介な脳波遮断フード、シンにとって欠かせない膂力増強グローブの作成者。好きなものは自分の研究室で、嫌いなものはもの探し。普段から時間があれば機械いじりや武器作成をしていて、シンをよく昼ご飯に誘う。そっけないけど弟のことを大切にしていて、だけど他人を煽るときは意気揚々とガキみたいだ。低めの声は耳にすんなりと落ち着いて、誰が相手でも変わらない冷静さは知性を感じさせる。ノリが良くて、ポンポンと弾む会話は飽きがこない、友人としてこれ以上ないくらいシンの心のそばにいる男。
シンの知っている勢羽夏生はそれくらいで、だけどきっと、それは他の人も知っている勢羽夏生だ。
じゃあ、他の顔は? たとえば、恋人にしか見せない夏生の顔は、一体どんな顔なのだろうか。
「テメー、なんでいるんだよ」
「授業受けてるだけだけど」
「この授業は暗殺科が受けるもんなんだよ。テメーは武器科だろうが、セバ!」
大きな声を出すと目立つから、できるだけ小さな声でシンはそう叫んだ。巻き込まれるのはごめんだ、と少し離れたところに座った真冬が怪訝そうな顔でこちらを見ているのでそれは失敗かもしれないが、とにかくシンは夏生をそう咎めた。いくら武器科のエースとはいえ、全く関係ない授業に出席していたら教師に言及される可能性もある。ガバガバなJCCではあるが、今回の授業の教師はかなり厳しいで有名なのだ。
そんなシンを見て、夏生は何を思ったのかまるでここにいるのが当たり前とでも言いたげな顔で、背もたれに体重を預けた。ギシリ、と古い椅子が鳴る。
そのタイミングで教師が入ってきて、結局夏生は咎められることなく授業が開始した。シンは意識しないように黒板を見つめた。だけど、まあ無理な話で、どうしたって右側に座る黒色の男のことを考えてしまう。
夜を共にしたことがある男女は、そうと分かる距離感をしているらしい。前に何かの番組だか動画だかで見かけた説だ。明らかに他人の距離ではなくて、友人というには近すぎる距離。恋人だと言われたら納得できる距離。シンに絶賛アピール中である夏生に彼女はいないはずなので、あれはきっと、おそらく多分、昔の恋人だ。渡り廊下の先で話していた女の子は、綺麗な黒髪が胸の辺りまで伸びていて、夏生の肩までしかない身長で楽しそうに夏生を見上げていた。清純で、隣に立っていても違和感のない女の子だった。
もしかして先輩が言っていた『勢羽くんの元カノ』とやらが彼女なのだろうか。だって夏生はモテる。彼女の一人や二人くらいいてもおかしくないのは分かっている。だけど、普通元カノと仲良くするか? 別れた人間だろ? あんなにも脳内でシンのことを口説き、あんなにもシンのことを好きだという瞳を、他の誰かに向けていることに違和感を覚えた。
本人に聞けばきっと答えてくれる。聞かなくても、思考を読めば分かるのだろう。さっき読んだ時には特に彼女のことは考えておらず、放課後に作る武器のことで頭がいっぱいだったから、今はタイミングではない。あの女の子と話している時に、そっと近寄って読めば良い。そうすれば、何か分からないこの胸の詰まりも晴れるはずだ。
気づいたら黒板から目を伏せていた。するとふ、と視界に白い何かが入り込んでくる。そちらに目を向けると、まっすぐ前を向いた夏生が紙の切れ端をシンに差し出していた。
何だろう、と思いながら紙を引き寄せる。よくあるサイズのルーズリーフの左端に、小さくりんごらしき絵が描いてあるのが見えて、シンは小さく笑った。こんな仏頂面なのに、りんご。しかも丁寧に青虫っぽいものまで描いてある。意味は分からないがその意外性に口元を緩めていると、夏生が器用に左手で文字を書き込んできた。
“次はおまえの番“
なるほど。「ご」ときたらやはりアレだろうか。シンはシャーペンを握ると、夏生の描いたりんごの隣に黒い粒を三つほど書き込んだ。得意げにその絵を夏生に戻すと、夏生はそれを見て何か考え込んでいる。まさか分からないのだろうか。こんな簡単なのに。
しばらくして夏生が閃いた! と言わんばかりの表情を浮かべて、シンの絵の隣に何かを描き始めた。また紙が手元に戻ってくる。そこにはマイクの絵と、“分かりにくい”という文句がひとつ。
仕方ないだろ、ゴリラは難しくて描けないんだから。なんて言い訳を思い浮かべながら、次はクがつく言葉を探し始めた。思いついた絵を描くと、すかさず夏生が返してくる。
くま。マラカス。スイカ。カラス。スルメ。メス。寿司。シーラカンス。スパイ。椅子。スーツ。
ポンポンと進んでいく絵しりとりに次はなんて描いてやろうかと思っていたけど、スーツの絵を見た夏生がぐるぐるとペンで雲のようなものを描いたのでペンが止まってしまった。黒色の雲……雷雲……? いやでも『つ』じゃ始まらないし。考えても分からなくて結局小声で夏生に話しかける。
「なんだよそれ。うんこ?」
「ちげーよ、燕の巣に決まってんだろ」
「分かるわけねぇ〜⁉︎ そもそもだけど描けねえからって文字で補足するバカがいるか? シーラカンスとか。違う言葉にしろよ」
「お前のレベルに合わせてやってんだよ、察しろって
「うるせー! てか『す』で終わるもんばっか書くんじゃねーよ」
「ばれてら」
珍しく悪戯っ子のように笑う夏生が珍しくて、ついその顔を眺めてしまう。普段スカしているのに、思い切り笑う時にだけ寄る目尻の皺がなんとなく瞳の奥に残った。ひとしきり笑った夏生が、続きを促すように紙をトントンとペンで叩く。でもそれより先に反論しなければ。
「さすがに分かるって、『す』攻めされてることくらい。バカにしてんのか?」
「や、言ってくれるかなって」
「なにを?」
夏生は机に頬杖をついて、ニヤリと笑みを浮かべた。
「そりゃお前、夏生くん大好きだよ♡の『好き』に決まってんだろ」
夏生の言葉がただの音の羅列として耳に入り、一拍遅れてその意味を理解した。瞬間、ぐわっと体内が沸騰したかのように熱くなった。
「はっ⁉︎ おま、え、何なんだよ急に!」
「はは、動揺しすぎ。冗談だって」
「〜〜っ、ふざけんなよマジで! てか絵しりとりで言葉を発するわけねーだろ! 揶揄ってんじゃねーよ!」
「やべー、ばれた」
結局騒ぎすぎたシンと夏生は、教師に怒られ授業終わりに黒板消しを命じられた。奇しくもシンの学校あるあるリストに書いてあることだったので、余計に微妙な気持ちになりながらもしっかりと黒板を綺麗にし、リストに線を引いた。もちろん真冬からはさらに冷たい目で見られた。
黒板消しも無事終わり、ついでにと頼まれた資料も書庫へと持って行った。あれこれ仕事を投げてくる教師に目をつけられたらこんなにも面倒臭い。そう二人で愚痴りながら、次の講義室へ向かう。先輩から誘われた、毒殺実践演習がこの次のコマにあるのだ。発表会のようなものだし、言われたとおり少し前に夏生を誘っていた。夏生も興味があったらしく、即答で「行く」だったので誘って正解だったのだろう。今はなんとなく、少し気まずい気もするけど。
「毒殺実践演習一回出てみたかったんだよなー」
「へー、有名なのか?」
「まあそれなりに。毒殺科にツテはあるけど、実際演習に行くまではしたことなかったし。使えそうな薬とか毒があったら武器に組み込んでみたらおもしれーなって思うし」
「あー……。確かにな! 殴ったら針が出て麻痺する薬注入するグローブとか使えそう」
「自分に薬入れてドーピング状態にするとかでも良さそう」
「どっかのマッドサイエンティスト思い出すから微妙だな……」
「くそエスパーの人間関係どんなのだよ」
「これはどちらかというとお前の方なんだけど……」
講義室に着き扉を開けると、中はたくさんの人で溢れていた。隙間を掻き分けながら、空いている席を探す。有名というだけあって、一番広いはずの講義室なのになかなか空いている席が見つからない。話しかけてくる同じ暗殺科の奴や、たまに話す諜報活動科の奴、実験に付き合えとうるさい毒殺科の奴に軽く返し、結局席が見つからず後ろの空いているスペースで立ち見することになった。後ろになるにつれて高くなっているので、見る分には問題なさそうだ。周りを見渡しながら話を続ける。
「すげー混んでるな」
「思ったより多い」
「てかくそエスパー知り合い多過ぎ」
「そーか? お前の方が有名人じゃん」
「俺は知り合い以外とは話さないからいーの」
「俺だってそーだけど?」
隣の人と肩がぶつかり、一歩横へズレる。シンのすぐそばには扉があり、そこから人が出入りしているのだ。先程からバタバタと発表者であろう生徒が入ってくるので、それ専用の通路かもしれない。そう思ってもう一歩横へズレると、トン、と反対側の肩が夏生にぶつかり、シンは思わず顔を上げた。
「ん?」
少し上にある夏生の顔は、すごく優しい表情をしていて、ぶわ、と顔に熱が回る。シンは周りを見ていて、だけど夏生はシンを見ていた。たとえばずっと育ててきた植物に新しい芽が出てきたみたいな、そんな表情で。誤魔化すみたいに、パッと顔を逸らす。
夏生は、シンのことを好きだと言った。直接「好きだ」と言われたわけではないが、その態度が言葉が、瞳に宿る熱が、シンの全身に染み渡るくらいには好意を伝えてくる。シンが頭の中を読んでいることを知って敢えて読ませてくることもあれば、ふと読んだ瞬間に狙っていない素の言葉が溢れていたりもする。
その度にシンは心臓を跳ねさせ、変わらぬ熱に安心する。ダメだと分かっているのに、読むのをやめられない。やめようとしているのかさえ最近は怪しい。
だから今、夏生が何を考えているのかなんて正直読まなくても分かる。シンにしか見せない顔をして、シンにしか言わない言葉を重ねて──
「あれ、ナツキじゃん」
ふいに聞きなれない声が、シンの耳を貫いた。声を出すより先に顔をパッとそちらに向ける。夏生の顔を覗き込むように立っていたのは、前にも見かけたことのある女子生徒だった。
「え、なんでいんの」
「何でって、アタシ毒殺科だし。今日発表するんだよね」
「そうなんだ、何系?」
「いかに気付かれずに人の神経を麻痺させられるか研究した毒。じわじわう動かなくなっていって、摂取した二週間後に心臓まで至って殺せるやつ」
「こえ〜、性格出てんぞ」
「ナツキにだけは言われたくないんだけど! 前体内の水分沸騰させる武器作ろうとしてたくせに」
「いつの話してんだよ。結局作ってないし」
く、と夏生の口角が上がった。別によく見る顔だ。面白いと思ったことを堪えるように笑う時にする、微妙な笑い方。何度だってその表情を隣で見てきた。シンにだけする顔ではなくて、武器科の先輩や真冬にもよくしている顔。そのはずなのに、何かが違う。
"元カノ、私の同期にもいるし"
ドッと心臓が鈍く動いた。元カノとは前付き合っていた人という意味であることくらいシンだって知っている。前付き合っていたということは、つまり夏生の色々な表情を見ていたということで、それにはきっとシンの知らない表情も含まれる。だからなんだ、別に関係ない。だって、シンは夏生のことを友人と思っていて、友人に見せる顔と恋人に見せる顔が違うことくらい分かっているから。
「え、もしかして隣にいるの、例のアサクラシンくん⁉︎」
「へっ。あ、そうっすけど……」
「やば〜ホンモノ格好良い! 実際に会うの初めてだよねえ!」
バシバシと肩を叩かれる。その勢いに負けて黙っていると、夏生が彼女の手を取った。シンに再度触れることなく、彼女の手が下ろされる。へえ、触るんだ。てか例のってなんだよ。この人元気がいいな。余計なことばかりが頭の中を巡る。
「おいてめー余計なこと言うんじゃねえよ」
「ナツキは黙ってて、今アサクラくんと話してるんだから」
「そういうとこだぜ本当」
「だからナツキに言われたくないってば」
軽快な笑い声を響かせた彼女は、夏生の肩をバシンと強く叩くと、それから手をひらひらと振った。
「じゃあアタシ準備あるから行くね〜。ナツキはまた進捗報告よろ」
「うっせー、失敗しろ」
「はは、機嫌わる。アサクラくんも、またね〜」
言葉通り準備をするため、彼女は前の方の席へと段になった教室を降りていく。いまだにザワザワとしている顔室内だが、先程よりも静かで、どことなく気まずいと思ってしまった。
「あー、わりぃ」
「……なにが?」
「や、あいつうるさかったろ」
「別に。普通じゃん」
じゃあ、あの女子生徒との距離感はなんだ。それこそ、シンの知らない雰囲気で、知っているのに知らない顔で話すあれは。
ぐるぐるぐるぐる、思考が回る。ええと、何考えてたんだっけ、あれ、その。
「危ないっ!」
「──え?」
誰かの高い声が聞こえた。ぐい、と腕を強く引っ張られる。なんだ? と思う間もなく、頭と顔に何か冷たいものがかかった。反射で目を瞑る。口に触れた何かがジワリと沁みてきて、口の中に甘さが広がった。
運よく目には入らなかったようで、ゆっくり目を開ける。
「すすすすすみません!」
目の前に土下座せんばかりの勢いで頭を下げる人がいて、近くに転がっているフラスコから、ああこの人が何かしらをぶちまけたんだなと察した。服には薄ピンクの液体がついているし、頭から被ったせいか髪の毛も濡れている。ただ顔面にはそこまでかかっていないみたいだ。
「いて……」
「セバ大丈夫か?」
シンの腕を掴んでいる夏生がそう呟いたので、慌てて振り返る。庇ってくれようとしたらしい夏生は、シンを覆うように腕の中で抱き留めていた。だけどシンとは違って顔面から液体を被ったみたいで、目を強く瞑って袖で押さえている。近くにいた人がハンカチを貸してくれたので、夏生の目元にそっと添えた。
「ん、大丈夫っぽい」
「洗い流した方がいいよな?」
あたりがざわついており、ちょっとした騒ぎになっていることは理解しているが、如何せん自分たちが何をかけられたのかも分からないので、とりあえず水場に行こうと夏生の腕を引っ張る。ふると目の前で頭を下げ続けている男子生徒が、シンと夏生を呼び止めた。
「本当にごめんなさい‼︎ 急いでて前見てなくて、躓いてしまって……。あの、人体に害はないけど、一応自白剤の類なのですぐに洗い流した方がいいかも……! 自白剤というかちょっとだけ素直になれるお薬なんですけど……! いやもう本当にすみません!」
なんでんなもん作ってんだよ⁉︎ と罵りたい気持ちになりながら、二人は急いで近くのシャワールームへと駆け込んだ。
JCCは生徒数千人の全寮制の殺し屋養成機関だ。古い方の寮は風呂トイレが共同だが、築数が浅い寮は完全個室で、シンはこちらの寮に住んでいる。もちろん真冬も加耳もそうで、学年が一つ上の周は古い寮に入っている。混沌としているその場所は遊ぶのにかなり向いているので、仲の良い男子連中で集まる時は専ら周の部屋になることが多い。年下の部屋を溜まり場にするのはな、と思っていたが周も嬉しそうにしているのでもう気にしていない。
そんなJCCには大きなプールがあったり、ぬかるんでいる実習場があったり、わざと雨を降らせる訓練場があったりと、様々なシチュエーションに合わせた殺しを学ぶことができる。そのためそういった場所の近くにはシャワールームが完備されている。講義棟にはないが、寮に帰るよりは早い、とシンと夏生は近くのシャワールームの扉を開けた。
幸い、前に授業はなかったようで誰もいなかった。先ほどの騒ぎとは打って変わって、静まり返った室内に沈黙が落ちる。
「災難だったな〜、まさか変な薬かぶることになるなんてよ」
「……そうだな」
「でも近くにシャワールームあって助かった! 人体に害ないとはいえさすがにかぶったままはよくねーもんな」
「……まーな」
「なんか口数少なくね?」
「別にそうでもないけど」
「いやあんだろ、ムスッとしたツラしてるし」
「んだよ、やけに攻撃的だな」
「はあ? んなことねーよ!」
確かに少しイライラしている気がする。それは先ほどの光景が頭から離れないせいで、なんとなく気まずさを引きずっている気がするから。だからと言ってそれを夏生にぶつけるわけにもいかないし、だけど消化しきれないモヤモヤはいなくなることなくシンの心に居座っている。
それを拭い去るように、シンは自身の服に手をかけた。シャワールームに来たのはかぶってしまった薬を洗い流すためであり、それは服を着ていては成し得ないことだからだ。
勢いよくジャージを脱ぐ。それから着ていたインナーも脱ぎ去る。晒された素肌に冷たい風がぶつかって、ぶるりと身震いをした。寒い、早く暖かいシャワーを浴びなければ。JCCのシャワールームは半個室みたいになっており、一人分のスペースに入ってカーテンを閉めてしまえばほぼ一人の空間になれる。足元は見えているがそこは大して問題ではない。
そのままズボンも脱ごうとして、夏生が微動だにしていないことに気がついた。それどころか、先ほどまでこちらに向けていた顔を反対側に逸らしている。
「セバ、なにしてんの。脱がないのか?」
「……俺は後でいい」
「お前の方がガッツリ薬かかってるんだから早くした方がいいだろ」
そう言って一歩夏生に近づく。すると夏生も一歩横にずれる。距離は先ほどまでと変わらない。さらにもう一歩近づく。夏生もさらにもう一歩横にずれる。頑なにこちらを見ようともしない。近づこうともしない。ふ、と不安に襲われる。シンの身体はどこをどう見たって男のそれそのもので、あの女子生徒みたいな柔らかさなんてどこにもない。そう思い当たって、なぜかイライラがさらに募っていく。
「……なんだよ、男の身体は見たくないってか?」
「……はあ? さっきから何言ってんだよ、お前」
「じゃあこっち向けよ。てめーも脱げ」
「あとで行くから、お前先行けって」
「だからセバの方が優先だって言ってんだろ、早くしろよ」
「……」
「っ、だぁ〜〜、もう!」
頑固な夏生に痺れを切らしたシンは、猫背気味の肩をぐい、と掴んだ。夏生のバランスが乱れる。驚きで黒い瞳がこちらへ向き、それから右手が、肩のあたりを彷徨った。
──それは、まさしく衝動だった。何かを掴んで被ろうとするその動きに、シンの中の何かが爆発した。
「ふざけんなっ!」
夏生の胸ぐらを掴む。きぃん、と静かで無機質な部屋にシンの声が響いた。反響して、きっと外にまで聞こえている。だけどそんなこと、今のシンには関係なかった。胸の奥底から湧き上がってくる重たい何かが、するすると喉を通って外に出ていく。
「お前いつでも読んで良いって言ったじゃねえか! なにフード探してんだ、あれ嘘だったのかよ!」
「……ウソじゃない」
静かな声で夏生がそう答える。それが一層シンの血を頭に昇らせて、拳に力が入った。
「じゃあなに、あの時は本当だったけど今はやっぱり読まれたくないってことかよ。俺男だし。もしかして彼女でもできた? さっきも元カノと楽しそうに話してたもんな」
「は? おいくそエスパー落ち着けって、急になんの話してんの」
「急じゃない、最近ずっと思ってた」
「なにを」
「なにって……」
そんなの決まっている。そう言おうとして、だけど言葉は出てこなかった。
ピーン、と誰かの思考を読む時特有の耳鳴りがする。エスパーのチャンネルは意図しない間に目の前にいる夏生に合っていって、その思考が流れ込んでくる直前に、夏生が声を上げた。
「っ、やめろ!」
自分が考えていることを読まれそうになったことに思い至ったのだろう。夏生がシンの腕を振り解いて距離をとった。息が詰まる。それが、答えだと思った。
シンは振り解かれた手のひらをじい、と見つめた。針で刺すような痛みが、身体の中心から全身へと広がっていく。それなのにカッとなった脳内は全然冷めてくれなくて、頭と身体の温度差に眩暈がしそうだった。
一歩離れた夏生が、そのままの距離で焦りを滲ませた表情を浮かべた。
「ごめん、間違えた。……でも、今、フード被ろうとしたのは本当。だから、ごめん」
「ごめんじゃすまねえよ! 俺はもうずっと、お前のせいでぐちゃぐちゃなんだよ……っ。ズカズカ入り込んできて、証明するって言ってたくせに結局読まれたくないんじゃねぇか。じゃあ最初からんなこと言うなよ、ふざけんな!」
少しばかり感じていた春の陽気は引っ込んでしまって、窓の外では分厚い雲が空を覆っている。いつの間にか降り出した雨が、窓ガラスにぶつかり鈍い音を立て始めた。薄暗くなっていく室内に気持ちが引っ張られているのか、それとも天候がシンたちに引っ張られているのか。分からなけれど、今自分たちには明確な亀裂が入っていることだけは確かだった。
夏生は何も言わない。ぐぅ、と喉が唸る。絞り出すように、シンは俯いた。
「……っ、は、だから最初から言ってんだ、エスパーは恋愛に向かないって。誰かが無意識で考えたことまで、読まれたくないことまで読んじまうから……っ」
いつかの少女が頭をよぎる。もう声も覚えてない、顔すら曖昧だけれど。
静まり返った室内に沈黙が落ちる。聞こえてくるのは雨音だけで、夏生の思考も、もう読もうとは思わなかった。
沈黙は数秒も続かなかった。夏生が空気を吸い込む音が聞こえて、シンは思わず目を瞑った。
「……じゃあ、俺がお前のこと好きで、お前を性的な目で見てるってことを隠そうとせずに読ませれば良かったの」
「……え?」
だけど聞こえてきたのは思っていたのとは全く別の言葉で、シンは顔を上げた。いつも真っ直ぐ貫いてくる黒い瞳は、今は斜め下を向いていた。
「元カノのことは隠してるわけじゃないし、別に読まれてもいい。そうじゃなくて、俺はお前と付き合いたいと思ってるし、付き合うなら当然セックスとかそういうこともしたいと思ってんだよ。そんな状態で、裸なんて目にしたらそりゃ色々考えちゃうだろ。だけどやっぱり怖がるかなって思って隠そうとしたのに、お前がそれ言うんだ。俺が性欲丸出しにして、引かない自信あんの?」
「そ、れは……」
苛立たしげに、それでいてどこか諦観を滲ませた夏生が耳たぶを指差した。いつもと変わらない黒髪の隙間に、黒色のピアスが光っていた。
意図が分からず夏生の行動を見つめる。夏生はピアスに指を引っ掛けると、ゆっくりと耳から外した。リング型のそれを指先で弄ったかと思ったら、そのままパッと手を離した。落下したピアスが床に当たって、微かに金属音が鳴る。それは奇しくも、シンが思考を読み取る時の音と似ていた。
「これ。性欲減退ピアス」
その瞬間、シンの脳内に流れ込んでくる。赤くほてった肌、白いシーツに散らばる金髪、組み敷かれて影が落ちる頬、潤んだ瞳、赤い唇からはとめどなく甘い声が溢れていて──
バッと、思わず夏生がとった距離からさらに距離を取る。
"性欲減退"
その言葉が指す意味を、分からないとは言えなかった。昇っていた血はすっかりと下がり切り、今度は違う意味で昇っていっている気がした。
何度も夏生の思考を読んだ。数えきれないほど繰り返したその中で、夏生からそういった欲をぶつけられたことは今までたった一度もなかった。その考えに至ったことも、なかった。その理由を目の前に突きつけられて、シンは言葉を失った。
黙りこくるシンに何を思ったのか、夏生は顔を歪ませ、絞り出すように言葉を吐く。
「どーせくそエスパーのことだし、このままなあなあになって元通りになればな〜とか思ってんだろ」
そう言われて心臓が嫌な脈を打つ。だって本当にそう思っていたから。その感情が、表情に出ていたのだろうか。夏生の顔がさらに歪み、握り続けている拳から骨の軋む音が聞こえた。
「そっちこそふざけんな、俺の気持ちも言葉も行動も、全部無かったことにすんじゃねえよ!」
部屋の中に夏生の叫び声が反響した。空気に伝わり壁に跳ね返り、それからシンの鼓膜を揺らす。コンマ一秒もかからないその時間に、シンは立ち尽くすことしかできなかった。
雨の音が聞こえる。冷たくて暗いそれらは、本当に暖かい春を連れてきてくれるのだろうか。当たり前にくるその季節は、もしかしたら誰かの努力によって成り立っていたのかもしれない。目の前にいるこいつが、そうしてくれていたみたいに。
何かを言おうと思っても適切な言葉が出てこなくて、結局シンは一言も話せていない。声を張り上げた夏生は、は、と息を少しだけ吐いてそれから拳を緩めた。もう夏生の顔を見ることもできなかった。
「……あー。うん、ごめん。今のは完全に八つ当たり。お前は何も悪くねーよ、いつでも読んで良いって言ったの俺だし。隠そうとしたのも俺の都合だし、矛盾してるよな。分かってる。……分かってる、けど」
夏生が背を向ける。張り裂けそうな空気が、シンの肌を突き刺していた。
「俺、頭冷やすわ。……部屋でシャワー浴びるから、お前はゆっくりすれば」
止める間もなく、目の前から影が去っていく。ギィ、と古臭い音を立てて、シャワールームの扉が閉まった。その音を最後に人の気配がなくなってしまった空虚な部屋は、薄く膜が張っているみたいでどこか現実味がないような気がした。
どれくらいの間立ち尽くしていたのだろうか。ぶるり、と急に寒さを感じて、シンは緩慢な動作でズボンを脱ぐと、シャワースペースの扉を開けた。カラカラに乾いている床に、体がさらに冷えていく。一人がシャワーを浴びるには十分なスペースに入り込み、カーテンを閉める。古臭い蛇口を捻ると、すぐに水が出てきた。全体的に古さを感じる設備とは裏腹に、水はすぐに温水へと変わった。
頭から被ると、冷えていた肌に温かい水がパタパタとぶつかる。肌に当たらなかった水はそのまま真っ直ぐ床へと滑り落ちていき、床で跳ねた。外の雨音を打ち消すその音を聞きながら、拳を強く握った。爪がめり込んで、ポタ、と血が流れる。
相手がふと考えてしまった、自分には知られなくないことを勝手に読み取ってしまうかもしれない。そうすることで、誰かを傷つけてしまうかもしれない。分かっていたはずなのに。
黒い瞳を思い出す。真っ直ぐ見ることができなかったその瞳に何が浮かんでいたのか、シンは知ることができない。
シャワーから出ていた温かい水が、いつの間にかぬるくなっていた。古い給湯器はお湯を充分に温めることができなかったみたいで、どんどんと温度が下がっていく。
下を向いていると自分の髪の毛で視界が覆われて、こんな時なのに金とは違う色をした髪の毛を思い出す。
ただ、心臓が握り潰されているように痛みを訴えていた。
5.愚鈍な背景
失敗した。夏生が最初に思ったのはその一言で、そのあとすぐに自分の行動に後悔を抱いた。せっかく懐まで潜り込んで、信頼を得て、上手く関係性を築けていたというのに、きっと振り出しに戻ってしまった。
ショックを受けたような、信じていた仲間に裏切られたような表情を浮かべていたシンを思い出す。夏生だって、シンにそんな顔をさせたいわけじゃなかったのに。
自分が異性にモテる方であるということには、随分と前から気がついていた。特にJCCに入ってからは顕著だった。月に数度の呼び出しに、話しかけてくる名前も知らない女子生徒たち。同じ学科の奴にはかなり羨ましがられ、むしろ妬まれてさえいたけど、いじめられることなどはなかった。たまに裏で悪口を叩く奴もいたが、よくあることだ。特に気にしていない。
告白されて、なんとなく付き合って、それから別れる。大体は、「私のこと別に好きじゃないでしょ」もしくは、「私と武器どっちが大事なの⁉︎」がお決まりのセリフだった。
彼女たちが欲しい答えは分かっているのに、いざそう問われるとその答えを口に出すことは躊躇われた。口を噤む夏生に、呆れたと言わんばかりの表情で別れを告げる人もいれば、怒声を浴びせる人もいる。ごめん、の一言で全てを終わらせていた自分は、今思えば相当ひどい。良好な関係のまま別れた元カノとはなんとなく話したりすることもある。それがシンといる時に話しかけてきた毒殺科の奴で、研究熱心なところは尊敬もしている。
途中からはもう彼女を作ることさえ面倒臭くて、告白されても研究が忙しいことを言い訳に断るようになった。そう言えば、誰もそれ以上深く踏み込んでこようとしないからだ。そのうち勢羽夏生は武器製作にしか興味がないことが定説になり、呼び出しも随分と減った。まあいまだに何も知らない後輩から告白されることはあれど、言い訳を述べたらむしろ応援してますとまで言われる始末だ。
でもただそれだけで、誰かに告白されても誰かと付き合っても、何か特別な感情を抱いたり、胸が焦がれるような気持ちになることはなかった。
こんなもんか、と思っていたんだ。朝倉シンと出会うまでは。
朝倉シンと言う男は一見陽気で、誰彼構わず懐に潜り込めるような愛嬌を持っているように思う。実際にJCCにすぐに馴染み、武器科の先輩たちだけじゃなく他の科にも知り合いが多い。「アサクラー」「シン」「シンくん」なんて学内であいつの名前を聞かない日がないくらいに。
夏生のところにも、するりと入り込んできた。最初は敵として出会って、一度殺し合った仲なのに、まるでそんなことなかったみたいに共闘して、弟を託して。弟を救えたらそれで良かったはずなのに、どこかあの金髪がチラついてまた美術館の中に戻ってしまった。案の定ピンチだったシン達を救って、それからも数えきれないほどの関わりがあって今がある。
第一印象は、坂本のことを尊敬しているうるさい男。
最初に違和感を覚えたのはJCCで再会して共闘してからだ。それから再びJCCでシンと過ごしていくうちに、その違和感は確信へと変わる。
自己犠牲精神の塊である朝倉シンは、自分の命を勘定に入れない。誰かを守りたいと言う真剣な顔で、だけど自分のことは後回しにしてしまうのだ。
大切な人たちのために自らの手を汚す覚悟のできる人間が、善人であろうと努力できる人間が、他の誰かから大切に思われていないわけないのに。それをシンは知らない。いや、最近はなんとなく分かってきているのだろうが、どこかで「自分なんかが」という感情を拭いきれていないのだと思う。
客観的に見ればそれなりに強くて、動けて、頭の回転も決して悪くないのに。周りにいるのが規格外な奴らばっかりなせいか、シンは自分のことを足手纏いだと思っている節がある。誰かと楽しく過ごしているのに、どこか一歩踏み込ませない境界線がある。それは夏生に対しても同じで、するりと潜り込んできた楽しげな顔そのまま、するりと夏生の手のひらから零れ落ちていく。明るいだけじゃない、どこかほんのりと薄暗い影を待っているのが、夏生の知る朝倉シンという男だった。
それでも、シンが夏生にとっての太陽であることに変わりはない。
『真冬は任せろ』
その言葉と共に、トッと胸を突かれる感覚をずっと覚えている。その光に灼かれ、夏生の中に強烈に焼き付いてしまったから、もう仕方がないのだ。
自分の姿を見かけると話しかけてくるところも、楽しくなってきたら少しずつ声が大きくなるところも、セバと呼ぶ時に少しだけ語尾が伸びるところも、研究室で二人の時は案外静かなところも、ふとした瞬間窓の外を見つめているところも、言いたいことを飲み込んでしまう時があるところも、全てひっくるめての朝倉シンだ。最初の印象と今の印象と、多少変わったところもあるけど、何も変わらない。
夏生にとってシンは眩しくて目を細めてしまう太陽であり、夜道を照らす街灯であり、雨が降って濡れていたら傘を広げてやりたくなるような相手なのだ。
そう思うようになったきっかけはもう覚えていない。何かひとつのきっかけではなくて、少しずつ降り積もっていった結果弾き出された答えだったから。
他の誰とも違う感覚、感情。
まあつまりは、夏生はそれまで本気で人を好きになったことなんてなかったって話だ。
シンへの感情をようやく認めたのは、シンがJCCの生徒として戻ってきてから数ヶ月経った頃だった。夏生が胸を焦がし、頭をぐるぐるとさせていることにシンは一つも気がついていなかった。好都合なのか、タイミングが悪いのか分からない。エスパーのくせに、と責任転嫁をする日だってあった。
彼女ができたことがあるとは言え、きっかけは全て向こうから。遊びに誘うのも、そういうことをしようと持ちかけてくるのも全部向こうからで、夏生はずっと受け身だった。
端的に言おう。夏生は困っていた。今までの経験なんて何も役に立たなくて、夏生なりに攻めてみてもシンは何にも勘づくことはない。せば、と楽しげに笑う口元がいつもと変わることもなかった。
ただ一人の人間にこんなにも時間を割いて、気遣い、会うための努力をしていたのに、シンには何も伝わらない。ならば、と夏生は曖昧な言葉を吐くようになった。
お前が好きそうなお菓子があったから買ってみた。一緒にメシ食おーぜ。どんな奴がタイプなの。お前の武器メンテしてやるから工房に来いよ。今度二人で遊びに行こーぜ。俺がここまですんの珍しーから。そこ怪我してるじゃん、手当してやるよ。お前の髪の毛、太陽に当たったら透けて見えるのな。
今まで言ったことのない言葉の羅列たち。それなのに伝わっているのか伝わっていないのか、シンの反応は芳しくない。だから今度は、距離を詰めてみることにした。今までの距離より半歩、シンに近づく。それだけで体温は上昇し、背中に変な汗をかき始める。回転の速い脳みそはポンポンと会話するための単語を捻り出すことができるが、どこか浮ついていて頼りない。
ふんわりと鼻をくすぐる柔軟剤の香りに、汗ばむ赤い肌にあらぬ妄想が脳内を支配しようとしていて、夏生は焦った。だってこんなの、読まれたら終わる。そう思って、今まで得た経験と知識を使い作り上げたのが性欲減退ピアスだった。シンへの情欲が生まれそうになるたびに小さく電流が走り鈍い痛みを与えるそれは、大変役に立った。
一度自覚してしまえば、今までなんでそんなにも普通でいられたのか分からないくらいシンへの気持ちも欲望も増えていく。気持ちを悟られるのは問題ない。ただこの情欲だけは、今じゃない。
電流の痛みに慣れたら別の痛みになるように改良し、今では痛みの種類が五種類ほどある。だけどそのおかげか、シンに対する態度を変えることはなかったし、ある程度自分でコントロールすることもできるようになった。優先順位はずっと変わらない。シンの気持ちが一番だ。
だけどシンは手強かった。プールの中で手を握ってから、シンは夏生の気持ちに確信を得たようだった。夏生が近づくたび身体が少し強張ることには気がついていたが、不快というよりは、どうすれば良いのか分からない困惑であるのは分かっていたから、特に距離感を変えることはしなかった。
脈があるような反応をしたり、全く興味を持っていない反応をしたり、シンの態度に振り回される。それさえもどこか心地よいと感じてしまうのだから、いよいよ末期だな、なんて思っていた。
そんな日々を過ごしていたある日、研究室に一人でいる時にシンがふらりと訪ねてきた。どうやらグローブが演習中に壊れてしまったらしい。その日は先輩たちが実技場で大規模実験を行っており、役目を終えた夏生は一足先に研究室に帰ってきていたのだ。
受け取ったグローブを見て、ここがイカれてるのだろうとあたりをつけて回路を弄る。ふ、と机に影が落ちて、シンが後ろから覗き込んできていることが分かった。ドッと心臓が鳴る。夏生が近づいたら離れるくせに、自分からは近づいてくるその意識のされてなさが憎くさえ感じた。
そんな自分の思考を読み取ったのだろうか。シンが一歩夏生から離れた。同じ学校に通う学友との、適切な距離感そのものだ。なんとなく気に入らないが、その気持ちは飲み込んでグローブの修理を終えた。
早速グローブを身につけたシンは何度か動作を確認したあと、手首の辺りに触れた。見ると少しだけ隙間が空いていたようで、確かにこれでは使い心地に違和感がありそうだった。
「緩くしすぎたか? わり、調節する」
「あ、うん」
すぐに道具を持って調整に入る。布越しに触れる、じんわりとした温もりに、いやでも体温が上がるのが分かった。シンの手のひらには、今まで過ごしてきたであろう日常の全てが乗っかっている。一見全くそんな感じはしないのに意外と骨太で、しっかりとした成人男性の骨格。よく見れば細かい傷がついていて、指先は少しだけカサついている。手首は筋張っていて、薄らと血管が浮き出ていた。朝倉シンを朝倉シンたらしめる、夏生が一等好きな手のひらだ。
今頭の中読まれたらちょい恥ずかしいな、と思いながら、グローブの緩さを調整する。グローブをシンにつけたままなのはわざとだけど、そんなこと気にしていないみたいに振る舞うことには慣れ切っていた。いつもみたいに、どうせこいつは触れてこない。核心には絶対に迫ろうとしないシンの態度に、煮え切らない思いをした夜が何度あっただろうか。
シンの距離は相変わらず近い。自分から近づいているのもあるが、伏せたまつ毛の長さが分かるくらいの距離感を許されていることが嬉しかった。夏生の武器をずっと使ってくれていることも単純に嬉しい。だけど今日みたいに、知らないところでシンが怪我をするのは嫌だった。グローブが壊れるくらいの負傷は、必ずシンの身体をも傷つける。こうやって夏生の元に戻ってきてくれたらなんとかしてやれるのに、シンはいつだって夏生の預かり知らぬところで、たくさんのものを背負い込む。そんなところが嫌いで、でも好きだった。善人であろうとする人間の、誠実な態度が何よりも眩しく感じた。
この気持ちはどうやったらシンに伝わるのだろう。言葉を尽くせば良いのだろうか、それとも行動に全てを表せば良いのだろうか。シンはエスパーで、夏生の心を読むことができる。だから夏生の考えていることなんてとっくにお見通しで、分かっていて無視していることだってあり得る。バレてしまっているだろうシンへの感情を、余すことなく伝えられていたならそれで良い。
室内に落ち切っていた沈黙を奪ったのはシンだった。
「セバさ、フード被れば?」
それまで見せなかった隙を、最初に見せたのはシンの方だった。思わずこぼれ落ちたみたいなその呟きが脳みそを駆け巡り、それからその意味を理解した。夏生のアピールをことごとく躱し続けたシンが、今明確な隙を見せた。そこに付け込まない理由なんてなかった。
夏生はもうずっと、シンの前でフードをかぶっていなかった。脳波遮断フードという、思考を読まれないために作った、ただ一人にしか使えない武器。そのフードをかぶらなくなった意味を、シンは正しく理解していた。
「なんで?」
「なんでって……なんとなくだけど」
「答えになってね〜よ小学生か?」
「……」
「ま、いーけど。てめーから触れてくれて助かったぜ。正直ここからどう攻めるかな〜って悩んでたから」
ふう、と小さく息を吐く。それからどうしようもないこの感情を吐き出すために、自分の髪の毛を撫でつけた。少し乱れてしまった気もするが、頭の中は少しスッキリした。目の前で呆けた顔をしてるシンを見つめる。今から夏生は、シンの核心に迫るのだ。
だけどそれはシンに遮れることとなる。まず俺の話から、聞いてくれよ。そんな言葉と共に語られたのは、つらつらと長いだけの言い訳。半分以上がいらない話で、シンの伝えたかったことはたった一つだ。
「つまりてめーは、自分がエスパーで、人の思考を読めるから恋人として誰かと付き合うことはできないって言いたいワケだな?」
シンの話を要約すると、シンは安堵の表情を見せた。言いたいことが正しく伝わっていて、安心するような顔。そこで安心してしまうシンは、やっぱりバカでアホでどこか間抜けだ。
「セバ……お前天才か? そーいうことだよつまりり。だからさ、」
「じゃー、俺と付き合えばいいじゃん」
空気が止まる。心臓が耳のすぐ近くにあるみたいにうるさかった。最初その音が何か分からなくて、数拍おいて「あ、これ俺の心臓か」とアホみたいなことを思った。
だって、夏生はシンに言ってやった。言ってやったんだぞ、ついに、お前のことを恋愛対象として見ているという、逃れようのない一言を。
この動揺はシンには伝わっていないようで、今度は夏生がホッとする。ポカンと口を開けたしんが、少ししてから掠れた声を出した。
「……え?」
「なに?」
「俺の言いたいこと理解してんだよな?」
「うん」
「ならなんでだよ?」
「読めば分かるんじゃねーの」
「っ、」
「読んでいーよ、ほら」
頭を指差して、いつでもどうぞと言わんばかりに頭を近づける。青白かったシンの顔が、どんどんと赤色に染まっていく。その変化が面白くて、反応が遅れてしまった。シンが夏生を強く押し、その衝撃に一歩後ろに下がる。
「……っ、読むわけねーだろ、ばーか!」
シンは夏生にそう吐き捨て、脱兎の如く研究室を逃げ出した。足音がどんどん遠のいていき、そして完全に聞こえなくなった。追いかけるつもりはなかった。自分だって動揺しているし、シンの反応自体はそこまで悪く思えなかったからだ。
そう思っていたのに、その日の夜更け、夏生のスマホに一通のメッセージが入り込んできた。
セバ、さっきは逃げてごめん。驚いたからって突き飛ばすのは良くなかったよな。
改めて思い返せば、セバとすごく仲良くなったなーって思った。
セバとは高速道路の上で会ったのが初めてだったよな。まさか俺と間違えてルーを拐うなんて思わないし、ラボを占拠してるなんて思ってもなかった。最初は敵で、容赦なく刺してくるし殴ってくるし本当に最悪だと思った。今だから言える話な、これ。平助がいなかったら正直お前に負けてたかもしれねえと思ったらなんかムカつくし、てかそもそも学生なのにあんな危ないバイトすんなよって思う。お前やるバイトはちゃんと選んだほうが良いぞ。
とにかくセバとの出会いは最悪で、そんなお前とまさかJCCで再会して、これまたムカつく奴で、だけどそこから、知らなかったセバの一面を見て見直したんだぜ、俺。弟のことで一生懸命になれる奴で、武器制作に本気で取り組んでて、その成果をきっちり出してて、普段は言わないけど、すげー奴だってこと分かってる。お前に助けられたことも何度だってあるし、いつも冷静なセバのおかげで切り抜けられた場面だってある。ほんとサンキューな。
セバと出会ってから、こんなふうに仲良くなると思ってなくて、平助やルーとは違う友達になれた気がして嬉しかった。セバも多分、同じように思ってくれてたんじゃねーかな。セバと一緒にいると楽しくて、居心地が良くて、つい隣に行ってしまうくらい、俺の中でセバは大切な存在なんだ。
だからこそ、ごめん。セバと付き合うことはできない。よく考えたんだけど、大事な友達だから、セバとはこのままでいたい。さっきも言ったと思うけど、俺はエスパーで、誰かと付き合うことに向いてないと思うから。それにセバのこと良い奴だと思ってるけど、そういう風に考えたことないんだ。セバもなんとなく察してたと思うけど、お前の頭読んじまって、セバが俺のことそういう風に思ってたことはなんとなく分かってた。勝手に読んでごめん。
言いたいことまとまらないな。とにかくセバはすごい奴で、俺と付き合うよりももっとふさわしい人がたくさんいると思う。だから俺のことは気にせずに、もっと素敵な人と恋をしてほしい。それから、我儘かもしれないけど、これからも俺と友達でいてくれたら嬉しい。
夜遅くにごめんな、じゃあ、また明日。
最後の行まで読み終わって、ふざけんじゃねえ!と叫んでしまい、隣の奴から壁ドンされたのは仕方のないことだと思う。というかキレない方がおかしいだろ、これ。言葉でもつらつらと言い訳を語られ、メッセージでも長文で振られる。なんだこれ。言葉の方がまだ明確な答えじゃなかった分、メッセージで視覚情報として入ってくる方がキツい。
だけどそれ以上に、沸々とした何かが胸の奥底から込み上げてくるのを感じる。ずっと曖昧にしていたのは夏生も同じで、だけど何よりも真剣だった。それならばもう、あとは攻めるだけだ。逃すつもりは毛頭ない。だってこれは恥ずかしい話、真剣に恋をしてしまった男の戦いなのだ。
次の日、シンの教室まで乗り込んだ夏生は、目の前で緊張しているシンに宣戦布告する。
「いーよ別に、信じられなくても。……その代わり隣で証明していくから、ちゃんと見てろよ」
窓の外で強い風が吹く。まるで夏生を後押ししているみたいなそれは、こちらに微笑みかけてくる幸運の女神になり得るのか。
そのあとはまあ、見ての通りだ。隙あらば攻め込み、攻め込み、少し間を空けてさらに攻め込み、油断しているシンに次々と斬り込んでいった。
シンの学校あるあるリストを手伝うのもその一環だった。元々、学校生活を過ごしたことのないらしいあいつが、少しでも楽しめたら良い。そういう気持ちで協力していたのだが、次第に少しでも好印象を残したい。あわよくば一緒に過ごして楽しいと思ってもらえたら良い。そんなふうにも思ってしまっていた。だけどもし好印象を残せなかったとしても、シンが学校を楽しいと思えたのであればそれで良い。まさか自分がこんな思考を持つようになるなんて、いまだに信じられない。
だから、工房で学校あるあるリストの裏を見た時は驚いた。シンに想いを告げてからなかなか二人きりになるタイミングがなく、少し強引に研究室へと誘った。ただ研究室だとどうしても先輩たちがいるので、基本的に他人を入れることはしない工房へとシンを招いた。何度か入れたことのあるシンは特別なのだという遠回しな意思表示でもある。
帰るのかと思ったシンは、課題をすると言ってソファに座り込んだ。意外だった、今までのこいつなら絶対に逃げを取っていたから。しばらくしてやけに静かな背中が気になり、振り返ると無防備に寝ているシンがいて、夏生は思わずため息を吐いた。自分のことを好きだって言ってる男がいる目の前で寝こけるか?普通。
テーブルに身体を預けてすやすやと眠るシンは、いつからその体勢だったのだろうか。うっすらと涎の後がついているし、頬には紙の皺が移っている。夏生は小さく溜息を付くと、ソファに置いてある仮眠用のタオルケットをそっとシンにかけてやった。
そのまままた作業に戻ろうとして、足がぴたりと止まる。振り返ってシンの顔を見る。むにゃむにゃと口を動かしながら、気持ちよさそうに眠るシンに一歩近づく。顔にかかっている髪の毛を避けてやろうと指を伸ばして、だけどそれはシンの頬に触れることはなかった。一瞬、躊躇うように視線を彷徨わせ、触れる直前に指を止める。
「……さすがにずるいか」
夏生は伸ばした指をそのまま自分の眉間に持っていき、ぐりぐりとほぐすように強く押した。目を開くといくらか良好になった視界に、やっぱり変わらずよく眠るシンが飛び込んできて少し口角を上げる。そしてふと、シンが今まで何を書いていたのか気になり、下敷きになっていない紙を手に取った。
「学校あるあるリスト、ね」
紙に書いてあるその文字を追う。これは一緒にやった、こっちはこの間真冬たちとやってたな、どうにか俺ともやる方向で進めるか。いやさすがにヤンキーと派閥争いはそういう漫画読み過ぎだろ。シンの思い描く学校あるあるに頰がゆるんでいく。
それから何気なくその裏をペラリとめくった。
「え」
"好きな人が隣にいる学校生活を送る"
"好きな人と手を繋ぐ"
“坂本さんと葵さんみたいに好きな人と“
そこから文字は書かれていなくて、上から塗り潰すように何重にも線が重ねられていた。健やかに眠るシンの隣で、その文字をつ、と指でなぞる。何だろう。続きには何が書かれていたのだろう。分からないけれど、これがシンの奥底に眠っている本音のような気がして、夏生は目が離せなかった。
「お、ナツキ。久しぶりじゃん」
それからしばらくして、シンともなんとなく良い感じになっていた時に話しかけてきたのは、JCCに入って少し経った頃に付き合っていた元カノだった。廊下でたまたますれ違った彼女とは、何がきっかけで付き合うことになったんだっけ。流れでそうなったから覚えていないけど、割と相性は良かった。ただお互い研究のことばかりになってしまって、いつの間にか別れていたし、いつの間にかお互い別の恋人がいた気がする。
今思えば悪いことをしたな。好きでもないくせに付き合って、挙句別れた理由も覚えていない。
「同じ学校に住んでんのになかなか会わないもんだね」
「まあ学科違うし。棟も学年も違ったらそーなるんじゃね」
「そりゃそっか。付き合ってた時はわざわざ時間合わせてたもんね」
「そーだっけ」
彼女は特に何も気にしていないようで、カラッとしたその空気感は悪くなかった。しばらく立ち話をしていると、突然彼女がニヤリと笑みを浮かべた。
「そういえば最近、編入試験一位入学の暗殺科の子に猛アタックしてるんだっけ?」
「は? なんで知ってんだよ」
「もうめちゃくちゃ有名だよ〜。二人とも有名人だから余計に話入ってくる、ウケるよね」
「ウケね〜よ」
「え、顔こわ。ガチじゃん」
「……」
「はー、そっかそっか。あの勢羽夏生がガチ恋か〜。なんか感慨深いね、『学業に専念したいから』ってキメ顔でカノジョ振った男とは思えないねえ」
夏生は覚えていないけど、彼女はしっかり覚えているらしい。いつからか使い出した断り文句は、もしかしてこの時からだったのだろうか。
気まずそうな顔をする夏生に、彼女は楽しそうに笑った。
「ま、応援してるから! 今度紹介よろしくね」
「するわけね〜だろ」
去っていく後ろ姿を見送り、廊下を歩き始める。脳裏にはもうどこかのくそエスパーしか存在していなくて、太陽に透けるあの金髪を早く見たいな、と窓の外を見て思った。まだ春とはいえないこの季節は、どこか物寂しくて、だけど期待に満ち溢れている。
やっぱり、シンのことを振り向かせたい。掴んだと思ったらするりと手の隙間から抜けていくあいつのことを、しっかりと両手で捉えたいのだ。
夏生は改めて決意を固めた。──まさかこの場面をシンに見られているとも知らずに。
それからもシンへのアピールは欠かさず、つかず離れずの距離が続いた。シンはその頃には夏生の頭の中を積極的に読むようになっていて、夏生の好意に対して満更でもなさそうな様子を見せていた。照れたように頬を赤らめるシンに、夏生の胸が熱くなる。だけどその度に顔を覗かせる醜い欲に、いつしか疲弊してしまっている自分がいた。
いつでも読んで良いと言ったのは確かだし、当然いつ読まれてもなんの問題もない。ただ、この欲だけは、やはり隠さねばと思った。夏生の気持ちを知っただけで動揺するような人間に、こんな薄暗くて重たいものをぶつけるわけにはいかない。それがシンからの信頼を裏切ることになる可能性には、気づかないふりをした。
そうしてあの日、夏生とシンの仲は決定的に拗れてしまった。
目の前で服を脱ぎ始めるシンの、健康的な頸、白い背中、いつもちらりと見える脇腹、濡れた髪の毛が張り付く首筋、その全てが夏生の頭を支配する。
二人がかけられたのは自白剤という名の、普段隠されてる欲望や感情が表に出やすくなってしまう薬だったらしい。後日謝りに来た生徒がそう説明していた。だからあの日夏生はシンへの欲が我慢しきれなかったし、シンは不安に思っている気持ちを隠し切ることができなかったのだ。
エスパーは恋愛に向かない。そう思わせる何かが今までにあったのか、ただなんとなくそう思っているだけなのか、分からないけどシンのそれは根強い。夏生は今までの相手とも、シンの想像の中の相手とも違うのに。
冷静な今ならそう言える。だけどあの時は自分の醜い欲がバレるのが嫌で、夏生に嫌悪を示すシンを見るのが嫌で、上手く頭が働かなかった。
夏生はずっと、シンのことを諦めるつもりは毛頭ない。だけど、今更どんな顔でシンの目の前に立てば良いのか分からなかった。だって夏生は失敗した。間違えてしまったのだ。
「……どーしよ、これから」
6.現在地
JCCに再度入学してしばらく経った頃、風邪をひいてしまい一週間ほど寝込んだことがある。校内医にはただの風邪だと言われたが、あまりにもしんどくてこのまま治らないのではないかと柄にもなく不安になったことを覚えている。
別に今まではなんともなかった。体調を崩したら治るまで一人でひたすら寝て、何度か夜を越すといつの間にか元気になっている。それがシンの普通だった。だけど坂本と再会し、商店に住み始めてからは、坂本が心配そうに部屋を覗きにきたり、葵がお粥を作ってくれたり、花ちゃんが折り紙に元気になってねというメッセージを書いてくれたり。平助は早く元気になれよ〜と泣きながら肉まんをくれたし、ルーは治った時に一緒に飲むヨ!と良い酒を部屋に置いていってくれた。風邪をひいていて身体は辛いはずなのになぜか経験したことのないもので心が満たされて、逆に熱が上がってしまうのではないかなんてバカな心配をした。
だから余計に、寂しかったのだ。慣れない寮のベッドで、一人過ごす夜は今のシンには少し堪えた。小さく咳をして、緩くなってしまたシートに触れる。明日になれば治る。そう何度か頭の中で唱え、シンは眠りに落ちた。
それからどのくらい時間が経ったのだろうか。ふと人の気配を感じて、重い瞼を開けた。部屋の中は薄暗くて、未だ自室だという自覚が薄い部屋の中はよく分からない。誰もいないはずなのに、誰かに見られているような気もする。熱で意識が朦朧としているのだろうか。
何か飲もうと、近くに置いてあったペットボトルを手に取る。怠い身体で起き上がり、冷たい飲料を口に含むと気分も少しだけスッキリとした気がした。
「……ん? なんだこれ」
見ると机の上にゼリーとプリン、それから新しい熱冷ましのシートが置いてある。自分で買った覚えは当然ない。そういえば今飲んだドリンクも、まるで買ってきたばかりみたいに冷たかった。誰か見舞いに来てくれたのだろうか。部屋の鍵は閉めていたはずだが、マスターキーでも管理人から借りたのかもしれない。
誰かは知らないがありがたく思いながら、もう一度寝ようと布団に寝転ぼうとして、近くで空気の揺らぎを覚えた。薄く息遣いも聞こえる。目の前には誰もいないのに、誰かが近くにいる感覚だけが残る。
シンの知る限り、そんな芸当ができる人間なんてたったの一人しかいない。
「……せば、?」
呟いた言葉は暗闇に吸い込まれ、拡散することなく溶けていった。だけど目の前にいるそいつには聞こえたみたいで、バチバチと光が走り、歪んだ空間から夏生の姿が現れた。
「うわ、やっぱりセバだ。そうだと思った」
「……わり、勝手に部屋入った」
「全然いーよ。むしろ来てくれるなんて思ってなかった」
「思いやりのある人間なんだよ、俺は」
月明かりに照らされて、夏生の姿がぼうっと光る。立ったままの夏生は、そのままシンを見下ろしていた。
JCCに再び戻ってきてすぐに、シンは夏生に会いに行った。手続きを終え、案内パンフレットを読みながら、「あ、セバのとこ行こ」と自然にそう思ったのだ。随分前のことなのに昨日のことのように覚えている道のりを歩き、記憶と寸分違わない場所にある扉を開ける。勢いよく飛び込んできたシンに驚きに目を見開く夏生の顔は、あまりに似合わない表情で思わず大声で笑ってしまった。元々行くということは伝えていたが、詳細な時期だとかは教えていなかったので、夏生には少し呆れられた。それでも、「ま、いつでもくればいーよ。俺だいたいここにいるし」とムカつく顔で言いやがるので、シンは本当に毎日顔を出した。毎日くる奴がいるかよ、と呆れているくせにどこか嬉しそうな顔していた夏生と、そういえば最近顔を合わせていなかった。
風邪を移したら悪いし、そもそも体調が悪くて部屋を出ることも正直辛い。だけど夏生から特に連絡はなくて、まあそんなもんかと思っていたのに。
「風移しちゃダメだから、すぐ帰れよ」
「……馬鹿でも風邪ひくことってあるんだな〜」
「誰がバカだって?」
「お前のことだなんて一言も言ってねーけど」
「ぐっ」
軽快に交わされる会話に、沈んでいた気分がぐんぐんと上がっていく。単純だ。分かっている。人間思ってもみなかった優しさに触れると、じんわりと暖かくなるらしい。
「早く治せよ、くそエスパーいねーと弄りがいがないし」
「おれをストレス発散に使うんじゃねーよ」
シンを見下ろしていた夏生が、そっと指を伸ばしてきた。おでこに貼っているシート越しに、夏生指がなんとか往復した。言葉通り、早く治るように祈りでも込めているようなそれは、今思えば正しく夏生の祈りだったのだろう。
満足したのか手を離した夏生は、そのまま手のひらをポケットに突っ込んだ。
「そんだけ喋れるなら大丈夫そうだな」
「熱もだいぶ下がったし、なんか明日にでも復帰できる気がしてきた」
「そ、ならいーや」
「ありがとな、セバ。来てくれて」
照れたように笑うシンに答えることなく、夏生は静かに部屋を去った。
もしかしたら、他の誰かが来ても同じように感じるのかもしれない。だけどあの時、シンに会いに来てくれたのは夏生だった。
そういう人間なのだ、勢羽夏生は。分かりにくいようで分かりやすく、他人を大切にできる。風邪をひいてしまった友人に、透明スーツを着て隠れるようにお見舞いに来る、不器用でムカつく奴だけど憎めない、そんな人間。
シンは風邪を引いたときと同じベッドに寝転び、窓の外を見ていた。少し動くだけでベッドが鈍く軋む。電気をつけてない部屋の中は、窓の外から差し込んでくる月の光だけが頼りで、なんとなく風邪をひいた時の心細さと、夏生が見舞いにに来てくれた暖かさを思い出してしまった。別に今、その両方を感じているわけではないのに。
夏生と決定的な溝ができてしまって数日。夏生とは会っていない。今までの関係は夏生の努力によって成り立っていたと理解してしまっていたため、今更どんな顔をして夏生に会えば良いのか分からなかった。
夏生から向けられている気持ちに、いわゆる性欲が含まれていることをシンは全く意識していなかった。よく考えなくても分かりそうなものなのに、夏生が徹底して隠していたから、シンは気がつくことができなかった。
「いや、それは言い訳か……」
まさかあんなにも明確に、欲を持たれているとは。正直に言って、いまだにかなり混乱している。夏生がシンのために隠していたということは理解している。夏生は不器用に人を大切にするのだ、隠していたのも夏生なりの誠実さだったのだろう。好意の先にそういう欲があることくらい誰でも知っている。そこで違和感を持つべきだったのに、シンはあまりにも鈍感だった。
夏生に性欲があろうがなかろうが、シンへの気持ちは変わらない。夏生の思考を何度も読んで、夏生の言葉も行動も全部が本当だったことは事実だ。
自分のことは棚に上げて、相手の心を読んで勝手に傷ついて。それでシンが傷ついたことに相手も傷ついてしまって。
同じことをしている。自分は、あの時から何も変わっていない。誰かの気持ちを読んでそれを拠り所にして、それから勝手に幻滅している。利己的で傲慢な自分には、やはり恋愛なんて関わるべきではなかった。誰かを傷つけるくらいなら、自分だけが傷つけばいいのに。
そう思う一方で、なぜかショックを受けている自分がいる。だって、夏生が、隠していたから。読んで良いよと言ったのに、隠していたから。だからこんなにもムカムカと胸が苦しくて、勝手に裏切られている気分になっている。
この感情は、いったい何なんだ。
▽
「は? シンくんってバカなの?」
人も疎な食堂で、真冬は分かりやすくため息を吐いた。一部始終を話したシンは、まさかそんな態度を取られると思っておらず、カチンときたままに反論する。
「なっ、真冬てめー、なんだよいきなり」
「だってそーじゃん。そこまで考えてんのに、何でその先にある結論まで辿り着かないわけ?」
「分かんねーから恥を忍んでお前らに相談してるんだよ!」
「ほら、バカじゃん」
「ま、まあまあ! シンくんも真剣だし、真冬もあんまり言いすぎるのも良くないよ、ね!」
ヒートアップしそうだった二人の間に、虎丸が割り込む。食堂は基本夜の九時まで空いており、学生たちは各々自炊するか食堂で済ませるかの二択が基本だ。だけど今はまだ全ての講義が終わっておらず、夕食の時間には少し早いこともあり、多少大きな声で話していても問題はない。ないのだが、シンの心情は問題だらけなので、真冬のバッサリとした言葉に胸が抉られる。
夏生を傷つけてしまったあの日から一週間、シンは夏生の姿を見かけていない。シンも積極的に話しかける勇気も言葉もなかったため、夏生が今何をしているのか、何を考えているのか全く分からない。合わせる顔もないし、そもそも自分の感情さえもよく分かっていないのだ。今夏生に会ったところでどうにもならないだろう。
「それをそのままナツキに言えば良いんじゃないか?」
「……そーかもだけど、合わせる顔ないっていうか……。俺セバのこと傷つけちまったし」
「悪いことをしたなら謝れば良い」
「ゔっ。その通り過ぎて周に反論できねえ」
何を言ってるんだ、と言わんばかりの眼差しで周がシンを見つめる。真冬にも呆れられたし、虎丸には仲介に入ってもらっているし、なんだか歳上の威厳もない。元々友達だから威厳なんてものはいらないのかもしれないけど、歳下の友人たちを頼らねばならないほどシンの中で整理ができていないのも事実だった。
相談料として三人に奢ったついでに買ったホットコーヒーのプルタブを開ける。勢いがつき過ぎて数滴指にコーヒーがかかった。ペロリと舐めると口の中にわずかに苦味が広がった。
「あのさ、俺でも分かるよ」
真冬はココアの口を開けることなく、手元でコロコロと転がして遊んでいる。真冬が言葉をそこで切るので、シンは目線を上げた。夏生と同じ色をした瞳が、真正面からシンを捉えた。
「兄貴がシンくんのことどう思ってんのか、シンくんが兄貴のことどう思ってんのか」
「……」
「やっぱりシンくんっておっさんっていうか、空気読めないっていうか」
「いや、おっさんは関係ねーし、てかおっさんじゃねーし。真冬ひどくね?」
「だってそーじゃん、今シンくんが落ち込んでる理由ちゃんと考えなよ。シンくん分かんないふりしてるだけじゃん。てか兄貴の性欲の話とか聞かされるのさいあくだから、俺を巻き込まないでほしい」
「最後のが本音だろ絶対」
「ともだちのこと思って言ってやってんだけど」
「はいはいはい! も〜二人ともケンカしないの!」
またしても間に虎丸が入り込み、シンと真冬はフンと荒げた鼻息を一度整える。マフユとシンくん、七歳も違うのに……と虎丸が考えているので、きまり悪くなりシンは目を逸らして椅子に深くもたれかかった。別に真冬と喧嘩したいわけではないのだ。
「じゃあまとめるとー……」
先程から何かを書き込んでいた紙を虎丸が掲げた。夏生とシンらしき絵の間に矢印がいくつかあり、そこに色々と文字が書き込まれている。虎丸、絵が上手いな。
「誰かを傷つけたくないし、自分も傷つきたくない。でも、特定のある人のことを全部知れてると思ってたら、実は隠し事されててショックでしたー。結局傷つけてしまったし、どんな顔して会えば良いのかもわかんない。これが今シンくんが言ってることね」
「なんか他人に言語化されるとさらにくるものがあるな……」
「じゃあ何でナツキくんにだけは、そんな風に思ってるのかってことだよ。シンくんは嫌だったの? ナツキくんの気持ち」
嫌だった? よく考えれば、別に最初から嫌ではなかった。なんで自分なのかとか、今まで通りがいいのにとかは思ったけど、嫌ではなかった。むしろ夏生の心を読むようになってからはクセになったように読み続けていたし、その変わらない熱量に安堵もしていた。勝手に拠り所としていた。
信じられないシンに対して全てを明け渡してくれて、信じるきっかけをずっとずっと用意してくれていたようにも思う。そんな風に真摯に大切にシンと向き合っていた夏生に、嫌だという感情を覚えたことはなかった。むしろ少しずつ染み込んできた夏生の気持ちに、理解できない感情にさせられていたくらいだ。
だけど、夏生はシンに隠し事していた。隠すべきことだったのだと思う。実際にシンが夏生の立場だったら同じように隠そうとしていたと思うし、改めて考えてみて夏生の気持ちが理解できないわけではない。ただ、ムカムカと胸が苦しくて、勝手に裏切られている気分になっているだけだ。
だって、夏生がいつでも読んでいいって言ったくせに、隠してたから。
自らそう言っていたのに、結局夏生はシンに隠し事をしていた。全てを見せてくれていると思っていた。現実は違ったみたいだけど。
ほらみろ、知られたくないんじゃねーか。じゃあ最初からそんなこと言うんじゃねーよ、俺は、セバの全てを知りたいと思っているのに。
「……え?」
脳内を走っていった思考に、ハッとさせられた。足りていなかった酸素が急激に体内を巡り始める。知らない間に詰めていた息は、そうと気づかないままシンの内側を凝り固めていたらしい。
今、自分は何を考えた? 夏生の全てを知りたい、なんて。
考える。ずっとずっとシンの奥底にある、この感情は、一体何だ。
誰かのことを知りたいと思うのは、人と深い関係を築く第一歩なのだと思う。自分とは違う考え方や受け取り方、違う好みに違う歩幅。全く同じなんて有り得なくて、だからこそ知りたいと思うのだ。どのように春の訪れを感じ、ギラつく太陽の日差しに汗を流し、散ってゆく紅葉に何を思い、凍える朝雪に反射する光を見て口にする言葉を、一番に聞かせて欲しい。
シンの人生は、思えば人に恵まれていた。世間一般で言うところの幸福な家庭とは違うかもしれないが、生まれてからこれまでの人生、たくさんの人に助けられて生きてきた。
ご飯を食べて働いて、学んで寝て、また起きて。環境や立場は違ってくるかもしれないが、これからだって、そういう生活をずっと続けていける。
この感情はなんだ。
続けていけるけど、隣に誰かがいて欲しくて、走って走って走り続けてふと立ち止まった時に一緒に足を踏み出して欲しくて、その視線にずっと貫かれていたい。
この感情は、なんだ。
ふと頭の中に、ベッドの中から見上げた薄い月が浮かぶ。
「……はは、バカじゃん、俺」
曖昧だったものが急に輪郭がはっきりとし始めたみたいだった。いや、なんで今なんだよ、もっとタイミングとかいろいろあっただろ、と頭の中が文句でいっぱいになる。
本当はずっと、寂しかったのだ。誰かのことを好きになりたくて、好きになってほしくて、坂本と葵のような関係を築きたくて、でも誰のことも信じられなかった。誰かを傷つけるくらいなら、自分が傷つく方がいい。だけど本当は自分だって傷つきたくない。だったら一人でいた方がいい。
そう頑なだった心の内側に、知らない間に夏生が入り込んでしまっていた。じわじわと長い時間をかけてずっと伝え続けてくれていたそれは、シンの心に染み込んで、それからゆっくりと溶かしていた。
隠してほしくなかった。おそらく動揺しただろうし、ここに至るまでにもっと長い時間がかかっていたかもしれない。だけど隠してほしくなかったのだ。臆さず伝えてくれる夏生の、その全てを余すところなく知りたいと思っていたから。いつの間にかそう、思わせてくれていたから。
だからこんなにも寂しくて、腹が立って仕方がないのだ。
最初から、夏生はシンのことを真正面から捉えてくれていた。なぜずっと気づいていなかったのだろう。自分を一番信じていなかったのは自分で、夏生はずっと、そんなシンの心に寄り添ってくれていたのに。
謝りたい。夏生を信じきれなかったこと、傷つけてしまったこと、全部謝りたい。謝って、それからどうなりたいのか、どんな言葉を伝えれば良いのか、その答えは見つけられていない。だけどこのまま放り出すのは嫌だった。ずっと真っ直ぐ見つめてくれていたように、シンも真正面から夏生を受け止めたいと思った。
誰かを傷つけずに生きていける人間なんて存在しない。誰かと関係を築くということは、お互いに譲り合って傷つけ合って、そうやって作っていくものだと今のシンなら分かるから。
「……セバに、謝らなきゃ」
シンの瞳に力強い光が戻る。心は定まった。あとはぶつけるだけだ。
「ちゃんと分かった?」
「おう、わりー、迷惑かけた」
「ったくよ〜〜。いい成人男性二人が中学生みたいな恋愛してんじゃね〜よ」
「ゔっ。だから悪かったって。サンキュー真冬」
「……ま、いーけど」
少し照れたように真冬が頬杖をつく。それを見て笑みを浮かべ、だけど今の現状を思い出してシンは「あ゛」と嗄れた声を出した。
「俺今セバに避けられてんだった。……今さら、俺と話してくれるかな」
不安に駆られ心臓がキュッと狭まった気がした。もしかしたら夏生は、ずっとこういう気持ちだったのだろうか。
顔を青くしたシンに、周が不思議そうに顔を傾げる。
「今まではナツキが追いかけてきてくれていたんだろう? じゃあ次はシンが追いかければ良いんじゃないのか?」
パッと目の前が開ける。そうだ。周の言うとおり、とっ捕まえてやれば良いんだ。今まで夏生がそうしてくれていたように。
いても立ってもいられなくて、シンは勢いよく立ち上がった。その拍子に椅子が倒れ、ガタンと大きな音が鳴る。周りの視線が集まっていることさえ、今のシンにはどうでも良かった。
「周、真冬、虎丸! あんがとな!」
衝動に従って、走り出す。目指す先はひとつ。真摯に貫いてくるあの瞳目掛けて、シンはスピードを上げた。
走り去っていったシンを見届け、虎丸はため息を吐いた。背もたれに身体を預けて脱力する。
「はあー、よかったー! なんとかなりそうで」
「俺らのこと巻き込むなよなー」
「でも真冬やさしーじゃん! 結局シンくんとナツキくんの味方だよね」
「まー俺はシンくんが兄貴になるのは、別に嫌じゃないし……」
「シンが兄になるのは正直羨ましい」
「だいじょぶだいじょぶ、アマネっちはなんかもうみんなの弟みたいなもんじゃん!」
「そ、そうか……」
「え〜〜照れてるのかわいい!」
「は〜〜〜声うるせ……」
▽
はあ、はあ、と荒い呼吸がシンを支配する。構内を走り回っているせいで、背中が汗ばんでいた。
夏生に謝って、それから話をしよう。と、思っていたのに。
「あいつ、ぜんっぜん捕まんねー! どこにいんだよふざんけな!」
シンの吠えた声は、講義を終えて人が増え始めたJCCに轟いた。思いつくところはもうすでに確認した。研究室にトイレ、実技演習場に購買、講義棟。どこにも夏生の姿を見つけられなかった。
走り回った末、南館の中庭にある大木を支えに立ち止まった。冷たい空気を吸いすぎて喉が痛む。指先からは木のひんやりとした質感が伝わって、もう雪なんてどこにもないのに、あの白色に触れているような気分になった。
ポケットに入っていたスマホを取り出し、履歴の一番上をタップする。何度もコールしているのに、聞こえてくるのは無機質な機械音だけだ。
南館には武器製造科の研究室があり、シンはまず初めにそこへ向かった。夏生の根城であるし、研究熱心なあいつのことだ。シンを避けていようがいまいが、研究室に篭っていると思っていたのだ。その期待は裏切られ、先輩達の「ナツキ? 今日は見てないぜ」という声に、初手から詰んでいることを悟った。
透明スーツで姿を完全に消すことができ、脳波遮断フードでシンのエスパーを無効化することができる。気配や息遣いまでは消せやしないが、人の気配の多いJCCではそんなこと些細なことだった。夏生は隠れようと思えば、きっとどこまでもシンから隠れることができる。それをしていなかったのは、フードさえ被っていなかったのは、夏生の誠実さだったのだと今ならばよく分かる。
きっと逃げ続けてきたツケが回ってきたのだ。夏生の気持ちを受け止めず、なあなあにして逃げようとしたツケが。
「はあ、はあ……っ、くそ、どーすれば」
だからって、逃げられてたまるか。シンの心の内側に入り込んできて居座っている夏生を、分厚かった壁をぶち壊して頭の中をぐちゃぐちゃにしてきた夏生を、もはや生活の一部となってしまい隣にいないと違和感のある夏生を、今さらなかったことになんかしてやらない。散々逃げ回ってきた自分が言うことではないが、そんなことは今はどうでも良いのだ。
呼吸もだいぶ整い、さてこのあとどうしようかと考えを巡らせようとした時だった。
「おーい、アサクラー!」
「あ、先輩たち」
武器製造科の先輩たちが、近くの窓からゾロゾロと顔を覗かせていた。そうだ、ここは南館の中庭だ。武器科からもよく見える。
「ナツキ見つかったかー?」
「あいつどこ行ったんだろ?」
「課題はちゃんと出してたよな。姿は見てないけど」
「見つからないなら放送で呼び出せば?」
「でも全館同時に放送できるのは職員室だけじゃん。貸してくれっかよ」
「あー確かに。無理そう」
「ナツキの武器溶かすって電話しよーぜ」
「嫌われたくねーしいやだよそれは」
「お前ナツキにいっつも武器溶かされてるくせに」
「それとこれとは別じゃね!?」
ガヤガヤと騒がしい声を聞いて、「あ」と思わず小さな声が出た。そうだ、夏生を捕まえる良い方法がある。きっとシンにしかできない、とびっきりの方法が。
急に視界が開けた感じがして、シンは口角を上げた。未だ騒がしい先輩たちに向かって声を張り上げる。
「先輩! ありがとー!」
「? おう、気張れよー」
「アサクラ、ナツキは頼んだぞ!」
よく分かってなさそうな先輩たちの声を後に、シンは再び走り出した。
JCCは講義棟が集まる本館を中心に、各科の実技演習場であったり飛行場であったり、その他施設が並んでいる。生徒数は千人弱、全寮制であるためその敷地はかなり広い。そんな広い中、特定の一人を探すのには時間がかかる。
シンはエレベーターを待ちきれず階段を駆け上がり、その先にある扉に辿り着いた。屋上というプレートが書かれたその扉は、いつの日か一人で行った学校探検で行き着いた場所だ。その時は鍵は開いていなかった。
息を整えつつドアノブに手をかける。時計回りに動かし、扉を押すが、何かが引っ掛かり開きそうにない。やはり学校の屋上は、都合良く鍵が開いているものではないみたいだ。もちろんシンの手元にも都合良く鍵があるわけではない。じゃあどうするか。腰を落とし、軸足に力を入れる。──どうするかって、そんなもん。
「強行突破しか、ねーだろ!」
腰を捻り後ろから繰り出した足を、勢いそのまま扉へとぶつけた。シンの蹴りを受けた扉は蝶番が外れ、大きな音を響かせながら外の世界へと放り出された。
一歩外に踏み出した途端、太陽がシンを睨みつけた。夏には程遠いその視線でも、太陽に近くなればなるほど鋭さを増すらしい。走り回ったせいで汗が額を伝う。袖で拭き取り、前髪を払ったシンは、先程自室に寄り持ち出したメガホンを強く握った。
超小型広範囲拡声器つたわるくん。どんなネーミングセンスだよ、と思ったその武器は、以前夏生から借りた、声を届けるための武器。演習で使ってから夏生に返すのをすっかり忘れていたそれが、まさかこんな時に役に立つなんて。
思えばずっと、夏生に助けられている。そんなこと、とっくのとうに知っていたはずなのに。漏れ出る苦笑をそのままに、シンは大股で手近な柵に近づくと、柵をひょいっと乗り越えた。バランスを崩したらそのまま真っ逆さまに落ちてしまうのに、不思議と怖くはなかった。
思ったとおり、本館の屋上からはJCCがよく見渡せる。講義終わりの時間だから人だってたくさん歩いている。これなら、いける。
そう思ったシンはメガホンに口を近づけると、思いっきり息を吸い込んだ。
「武器製造科研究室一年!!!! 勢羽夏生ー!!!!」
出力最大、感度良好。シンの出した大声は、メガホンを通して爆音でJCC内に響き渡った。音が反響して、遠くの森で鳥が驚きに羽ばたち、近くのゴミ箱で眠っていた猫は飛び上がり、日常を過ごしていた生徒たちは「なんだなんだ?」と外に出て上を見上げた。
本館の外にいた生徒は皆揃ってシンを見上げている。そのほかの場所にいた生徒も、これが校内放送ではない何かなのだと察し騒めいている。全てがシンに注目している。辺りの思考を一通り読み終えたシンは、そのまま続けた。
「セーバー‼︎ 聞こえてるかー⁉︎ 散々俺のこと追いかけ回したんだ、次は俺がお前のこと見つけるから! 首洗って待っとけよ‼︎」
キィンと音割れしたシンの言葉は、きっとJCCのどこにいても聞こえたはずだ。本当に聞いてほしいただ一人にも。青天の霹靂、寝耳に水。あとは、なんだろ。まあとにかくそんな、夏生にとって思ってもみなかった言葉になっていたら良い。
もう一度大きく息を吸い込み、シンは続けた。
「と、いうことで! セバを見つけた人は、朝倉シンに思考飛ばしてくれ! 考えるだけでいいから! あ、あとセバてめー、逃げられると思うなよ!」
一人では探しきれない。それならば一人で探さなければいいのだ。千人の生徒を味方に引き入れ、あとはシンが、その思考を読むだけ。目を閉じる。ピーン、と思考を読む時特有の音がして、それから徐々に周りにチャンネルが合っていく。ただの音の羅列が、意味のあるものに変わる。
『なに、人探し?』『勢羽ってあれじゃん。有名な奴』『朝倉って編入試験一位のやつかー、セバと喧嘩中か?』『おもしろそー!』『明日のテストやばい、受からなきゃ退学だ……』『腹減った』『眠い』『ナツキならさっき食堂の近くで見かけたな。晩飯食うところだったのかな?』
狙い通りの言葉が出てきて、シンは跳ねるようにその場を走り出した。
「よし、とりあえず食堂だな!」
階段を数段飛ばして駆け降りて、それから角を数度曲がり、食堂へと向かう。風を切るように走るシンに、周囲の生徒たちが声援を送る。
「アサクラ頑張れよ〜」
「ナツキのことゼッテー捕まえろよ! なんで追いかけてんのか知らないけど」
「あ、さっき食堂から慌てて逃げていくセバ見つけたぜ、北館の方行ってたからそっち行ったら?」
「まじか! サンキュー!」
グッと爪先に力を入れて、勢いそのまま身体の向きを変える。目の前をすごいスピードでターンして行った生徒は、目を白黒させながら「がんばれ…よ?」と呟いた。
北館は前に夏生とともに校内探検をしたから、構造はよく覚えている。猫が集まりやすい中庭に、置いてある道具の数が多い体育館。そのまま南館に向かえば武器製造科の研究室がある。夏生の城に向かうため、北館を経由することはそれなりにあった。別になんてことないただの日常。それなのにこんなにも、思い出は色濃くくっきりとしている。
北館に着いたはいいが、どこにも夏生の姿はない。物陰や講義室を探していると、「あ、アサクラシンだ」と声がかかった。
「さっき誰もいないのに走る足音聞こえたから、多分もうここにはいないと思うよ! 音的に東側に向かってた」
「っ、ありがとう!」
「いいえ〜。なんか面白そうだし、結果また校内放送してね」
「それは要検討!」
どうやら夏生は、シンに捕まるまいとあちらこちらに逃げ回っているみたいだ。先ほどの放送はきちんと校内に届いていたようで、知らない人も知っている人も、シンを見かけると話しかけてくるのだ。頑張れよ、なんて気楽な声かけから有力情報まで、直接だったり思考越しだったり様々だが、エンタメとして前向きに捉えられたらしい。情報が集まってくるのはありがたいので、この後起こり得る面倒事のことは一旦忘れておく。
走っていると古びた棟に出た。なんとなく見覚えがあるなと思って、すぐに夏生と映画を観た場所だと思い出す。シンのためにわざわざ貸切にして、自主制作映画を鑑賞した。サブスクで違う映画も観ようという話は、そういえばどうなったのだろう。あれから話していないから、誘ったら一緒に観てくれるだろうか。もちろん、コーラとポップコーンも。
なあ、こんなにも俺の中はお前でいっぱいなのに、よく逃げ切れると思ってたよな。
これはバカな話だが、シンは変わらないでいられると思っていた。人と人との関係は時間や環境で変化していくもので、ずっと変わらないなんてこと、あるはずがないのに。
「シンさん!」
自分の馬鹿げた考えを心の中で笑っていると、進行方向の端に立っている晶に声をかけられた。隣には加耳もいる。珍しい組み合わせだ。こっちです! と手を挙げている晶に、シンも手を挙げて応える。
「アキラ、それに加耳!」
「会えて良かったです、宣言聞きました」
「おー、お前らの方にも届いてたか。てか二人が一緒なの珍しいじゃん」
「加耳さんと演習が一緒で……。終わったのでこれから課題でもしようって話してたんです」
「今度俺も混ぜてくれよ、暗殺科って意外と課題多くて大変だし。じゃあ俺行くから」
「はい! って、あ、そうじゃなくて」
再び走り出そうとするシンを晶が引き止める。首を傾げると、晶が興奮したように声を上げた。
「さっき何かにぶつかったんですけど、姿見えなかったから多分真冬くんのお兄さんです! あっちに走って行ったと思います」
「! さんきゅー晶、助かる」
まさかの援護に思わず手を上に掲げる。察した晶がパンと手を合わせた。小気味良い音が鳴り、逸る気持ちを持て余しそうになりながら一歩足を踏み出した時、『シン』と加耳が脳内で話しかけてきた。足を止めて、加耳を振り返る。
「シン、真冬の兄貴から伝言だ」
『お前しか入ったことない場所で待ってる』
加耳まで協力してくれるとは思わなかった。晶といい、やっぱり頼りになる奴らだ。加耳から伝えられた言葉を聞いて、シンは「うん」と大きく頷いた。夏生が指し示す場所に、ひとつだけ心当たりがある。
「分かった。ありがとう」
「ああ」
シンは二人に手を振りながら、先を急ぐ。もうきっと夏生は逃げてはいない。迎え撃つ準備をしているのだろう。だからシンも、あとはこのままぶつけるだけだ。待ってろよ、セバ。
去っていく後ろ姿に手を振って、それから晶は加耳に疑問をぶつけた。
「真冬くんのお兄さん、何か言ってましたっけ…? 声は聞こえなかったような」
「……すごく小さい声だった」
俺の耳を都合良く使いすぎだと思う、と加耳はため息と共に呟いた。
▽
最初は敵として出会った、いけすかない野郎だと思っていた。だけど何の因果かJCCで再会して、利害の一致で協力することになった。そして真冬を助け出した時点で、夏生がシンのために何かをするメリットは失われた。本来なら、そこで途切れてしまってもおかしくないのだと、今ならば思う。
だけどそうじゃなかった。真冬を助け出したあとも夏生はシンを助けてくれたし、スラーの暴走を止めるために自分にできることをしてくれていた。それが周り回って再びシンを助け、JCCに再入学することになった今まで、その奇妙な縁はずっと続いている。
その関係に胡座をかいていた。シンは夏生との関係を崩したくなかった。今日隣にいた誰かが、明日にはいなくなっているかもしれない。そんな世界で長く生きてきたシンにとって、人との関係は常に流動的なものだった。坂本とだってほんの少しの期間一緒にいた後、再会まで何年もかかってしまったのだ。一度別れた誰かとまた会えることなんて奇跡に近くて、それは夏生のことも同じだった。だからこそ、いつかなくなってしまうかもしれないのなら、曖昧なものは曖昧なままにしておきたかった。そうすれば、きっとその時が来るまでいつも通りでいられるから。
だけど夏生が一歩踏み込んできた時点で、元の関係は破綻してしまっていた。逃げ続けていた自分のために、夏生がただ合わせてくれていただけだ。
でもそれではダメなんだ。人と関わるっていうことはその人の人生に関与するってことで、自分一人の立場で考えてはいけないことなのだ。そんな簡単なこと、とっくのとうに知っていたはずなのに、なぜか夏生に対しては上手くできなかった。なかったことにすれば、それまで通りでいられると思ってしまった。
もく元の関係に戻らないのであれば、次はどんな関係を築くか。正直、どんな形になるのか想像もつかないし、考えたって分からない。だけど今までみたいに終わりにしたくないんだ。
思えばトイレで再会したあの時から、シンの中で夏生は誰とも違うところに立っていたような気がする。その答えを、ようやく見つけることができるのかもしれない。
「はあ、はあっ、……っ、はぁ」
冷たい空気が張り付いて、喉が焼けるように痛い。冬の気配はもうほとんどなくて、あとは訪れるであろう春を待つだけだ。シンは今から迎えに行く。長い長い冬を経て、次の季節へと進むのだ。
走って走って追いかけて、辿り着いたのはいつの日か時間を共にした夏生の工房だった。頑丈な扉はぴったりと閉まっていて、鍵がなければ開きそうにない。だけどシンは知っている。ここには鍵なんてかかっていない。グッと力を入れて扉を押す。古い扉は硬くて重くて、でも思ったよりもすんなりと開いた。
「おー、やっと来たか」
夏生はいつも通りの顔をして、そこに立っていた。フードはかぶっていない。透明スーツも解除されている。今まで逃げ回ってたとは思えないほど、いつも通りの夏生だった。だからシンも、いつもみたいに笑った。
「俺しか入ったことない場所って……ウソじゃねーかよって前に言ったよな?」
「あのドM野郎はノーカンって俺も言ったろ?」
すかさず言い返してくる夏生に、んなわけねーだろ、と思いながらも口を閉じる。シンが黙ると夏生も同じように口を閉じ、工房の中に沈黙が落ちた。気まずい空気が流れる。
ドク、ドク、と自分の心臓のスピードが、ずっと走っている。駆け回っていたせいではない、目の前に対峙する夏生に対して、緊張しているのだろう。息を吸っても、吸った気がしない。夏生がどんな反応をするのか、読めば分かるだろうけど、ちゃんと夏生の口から聞きたいから。
「あ」
「あ、のさ」
「……」
「……」
「……セバからでいーよ」
「……いや、お前からで」
今度は同じタイミングで話し出してしまった。またしても微妙な空気が流れ、シンはグッと強く拳を握りしめた。そして、勢いのまま頭を下げた。
「──っ、ごめん!」
そのまま発した言葉は、短く、だけど鋭く工房の中に響き渡った。ひゅ、と夏生が息を吸い込むを音が聞こえる。どんな顔をしているのだろう。何を思うのだろう。分からないけど、シンは夏生に伝えなければならない。伝えたいと思っているから。
「俺、お前の思考読んで、ずっと変わらないことに安心して胡座かいてた。そんな時にお前の元カノのこと考えて勝手に落ち込んで、セバが俺に見せない顔をその子に見せてたんだと思ったらなんかモヤついて、それであんな態度とっちまった。かぶった薬のせいで心の内側が出やすかったとはいえ、ひどかったと思う。本当に悪かった」
ギュッと目を瞑る。一気に吐き出した肺は新しい空気を求めていて、シンは大きく息を吸った。ゆっくりと顔を上げる。夏生の反応を見るのは怖いけど、あの黒い瞳をもう一度見たいと思った。
「セバの、隠したかったところまで読んで、本当にごめん。セバはずっと俺に寄り添ってくれていたのに、分かってなくて、ごめん」
ああ、最初からこうすれば良かったんだ。誰かの読まれたくないことを勝手に読んで傷ついて、傷つけたことを察して傷ついてしまうような人に、「ごめん」と伝えるべきだったんだ。自分一人で完結せずに、続きを一緒に考えれば良かったんだ。こんな簡単なことに今更気づくなんて、自分は本当にバカだ。
もう顔も声も覚えていない、少女の後ろ姿が脳裏に浮かぶ。ごめん、勝手に読んで。許してくれとは言わないけれど、謝らせて欲しいんだ。
「──俺も、ごめん」
頭を下げた夏生が、顔を上げて真っ直ぐにシンを見た。黒目がちな瞳は、いつもみたいに真っ直ぐにシンを貫いている。
「いつでも読んで良いっていたのは自分なのに、知られて、困らせたくなかったから隠した。……いや違うな。嫌われたくなかったんだ。引かれて、距離を置かれるのが嫌だった。お前のためみたいに言い訳して、結局自分のために隠してた」
夏生がしっかりとした足取りで近づいてきて、シンの目の前に立った。たった人一人分。手を伸ばせば触れてしまえる距離で、だけど夏生がシンに触れることはなかった。
「だから、隠すのはやめる。俺はお前のこと、そういう意味で好きだし、そういうことをするような関係になりたいっていうのは事実だし。ってことで、いつでも読んでいーぜ。くそエスパー」
ニヤリと生意気に笑う夏生に、つられてシンも笑ってしまった。
「後悔すんじゃねーぞ」
「しないって。くそエスパーこそ後悔すんなよ?」
「しないよ、俺も」
「ふーん、なら良いけど」
肩の力が抜ける。いつも通りの空気が戻ってきた。心なしか息が吸いやすくなったような気がする。脳に酸素が回って、ずっと鳴りっぱなしだった心臓がようやくゆっくりとスピードを落とし始めた。
和らいだ空間に、二人分の気配がある。それだけでなぜか気分が上がる。JCCに再入学してから、シンは夏生とたくさんの時間を過ごしてきた。あまりにも濃いその時間は、きっと何年経っても薄れていってはくれないし、むしろこれからもどんどんと色を強めていく。それくらいシンにとって夏生は隣にいて当たり前の存在となっていた。
「へへ、セバとこうして話すの、久しぶりだな」
「……一週間くらいじゃん。そんな久しぶりってわけでもないと思うけど」
「そうかもだけどよ、お前と一週間話さなかったのなんて、俺が入学してから数回くらいしかないだろ?」
「まあそうかも。お前研究室に来すぎだし。暗殺科じゃなくて武器製造科だっけ? って先輩たちも言ってんだぜ」
「まじ? JCCって掛け持ちとかいける?」
「さあ、無理じゃね? 転科ならあるけど」
会話がポンポンと弾む。そうだ、夏生との会話は楽しくて、いつもつい話しすぎてしまうのだ。ほんの少しの間話してなかっただけなのに、久しぶりに交わせた会話が嬉しくて、シンは笑った。
それを見た夏生が、一歩シンの方へ近づいた。
「ところで」
「!」
手のひら一枚分の距離に詰めてきた夏生に驚いて、一歩下がる。すると下がった分だけ夏生がまた距離を詰めてきて、シンは同じように数歩後ろに下がった。
「? おい、なんだよ」
「……」
「せ、せば?」
じりじりと近づいてくる夏生に気圧され、どんどんと後退していく。トン、膝裏あたりに何かがぶつかった。支えを失ってぐらりと身体が傾く。
「うわ⁉︎」
背中から倒れ込み、床の硬い感触に痛みを感じるかと思ったが、気づけば背中は柔らかいものに包まれていた。ああ、いつの日か居眠りをしてしまったソファに倒れ込んだのか、と思った時には夏生が至近距離でシンを見下ろしていた。上手いこと手すりの部分に足が引っかかったみたいで、ソファに寝そべるように倒れてしまったシンに、覆い被さるように夏生が背もたれに手をついた。
「セバ、近い」
「うん。ところで話は変わるんだけど、俺期待していいよな? お前がさっき言ってた言葉の意味、そのまんま受け取ってもいいよな?」
「ゔっ……そ、それは」
ドッと心臓が大きく跳ねた。緩やかになり始めていた心臓が、再び強く動き始める。夏生の顔に影がかかっている。だけど表情は分かりやすくて、きっと十人中十人が頭の中を読めなくても夏生の言いたいことを当てられる。先程、自分が吐いた言葉がどういう意味を持つのか、どれだけ鈍い人間だろうと分かるはずだ。
シンの顔にも、影がかかっている。夏生の影がシンに重なり、直接触れられていないのに、合わさっているような気がした。
夏生の瞳は期待とほんの少しの恐怖が見え隠れしていて、シンは思わず隠そうと夏生の目元を手で覆った。夏生が瞬きをすると手のひらにまつ毛が当たり、くすぐったさに身を捩る、だけどもそれは一瞬で、夏生に腕を捉えられたシンは、触れる手の熱さにハッとした。
手のひらに刻まれた皺をゆっくりとなぞり、そのまま指の腹で撫でるように、シンの指の隙間に自身の指を滑り込ませた。あの夜、ベンチで触れられた時は違う握り方にどきりとする。夏生の手のひらはじっとりと熱を帯びていて、だけどすぐにそれは自分も同じだと気がついた。あの時と同じようで、明確に違う。
夏生の瞳が、ずっとシンを貫いている。
「それとも、俺のこと嫌なのなよ。……ほんの少しでも、そういう風に思えねーの?」
そうじゃない。そうじゃないのに。バクバクと心臓がうるさいし、さっきから吸ってるはずなのに酸素が肺に入ってこなくて、頭が働かない。夏生に伝えるべき言葉はまだたくさんあるはずなのに、ソファに押し倒されている状況とか、熱の籠った瞳とか、触れる体温の高さとか、手を握り返したいと思っていることと、ほんのり香るオイル臭さとか、とにかく思考があちらこちらに散らばっている。
「……っ」
夏生の気持ちに対して、明確な言葉を持ってこの場に来たわけではなかった。ただ伝えたい想いがあって、夏生がシンにしてくれたように、シンも夏生との関係を諦めたくなかった。だからこうして答えに困る。ここまできて、困っているフリを、してしまう。
黙りこくるシンに何を思ったのか、するりとシンの頬を夏生の指が撫でた。少しだけカサついた指先が、大切な武器を扱うみたいにシンをなぞる。もう片方の手のひらは変わらずシンの手のひらを包み込んでいて、身動きが取れない。
「分かった、じゃあ今からキスする」
「はあ⁉︎」
突拍子もないその発言に、思わず声を荒げる。それを抑え込むように、握り込まれた手のひらに力が入った。
「嫌だったら殴ってでも逃げろよ。……でも、もしも嫌じゃないなら……」
ふ、と影が濃くなった。夏生の顔がゆっくりと近づいてくる。力強い瞳の中にはたった一人、シンだけが映り込んでいて、もう目を逸らせなかった。
「逃げないでよ、くそエスパー」
吐息が、シンの唇に触れた。あ、と思う間もなく夏生の唇が重なる。柔らかくて温かくて、途端になぜか泣きそうな気持ちになった。その気持ちはずっと追い求めていたような、だけどずっと逃げ続けていたようなものにも思う。手のひらを握り込まれて頬をもう片方の手で包まれて、さらには上に覆い被されて、逃げられると思ってんのか? シンは長く殺し屋をやってきて、引退してからも坂本を狙い襲いくる敵を倒したり、戦いの場に立つことは多くあった。JCCでは実践的な演習も多く、そんなシンが鍛えていないはずもない。武器製造科というどちらかといえば内勤向きの夏生に勝るのは当たり前のことだ。
だからいつだって逃げ出せる。今までみたいに誤魔化して、曖昧にしてなかったことにだってできるのだ。ずっとそうやって生きてきたのだから。だけどそんな気にはならなかった。だってもう、逃げるのはやめたのだ。
意外と睫毛長いんだな、と関係のないことを思う。この距離でないと、きっと知り得なかったことだ。
縋るように、追い求めるように、瞳を閉じる。それはまるで祈りに似ていた。
長いと思えたその時間は、夏生がゆっくりと唇を離したことで終わりを迎える。これから始まるのは、予想のつかない新しい時間だ。
目を開くと、夏生の視線と交わった。やっぱり真っ直ぐに貫いてくるその視線に、シンはもうずっと前から心の真ん中を撃ち抜かれていた。そのことに、ようやく気がつくことができた。
静かな空気が満ちる工房で、シンはくしゃりと笑った。様々なものが混じり込んだ、シンだけの笑顔だった。
「……嫌じゃない。だから困ってんだ、バカ」
夏生の目が大きく開かれる。困っているフリをしている時点で、困っていないのなんか明白なのだ。シンはゆっくりと体を起こすと、夏生の肩にそっと触れた。男らしく、角張った肩。たくさんの苦労と期待を背負ってきた頼もしい身体に、自らの意志で触れる。夏生が伝え続けてくれていたみたいに、この手のひらの温かさが少しでも伝わればいいと思った。
「セバのこと傷つけるかもって、幻滅させるかもって思ったら、正直怖い。他の人のためを思ってるように見えて、自分のこともちゃっかり考えてる。そういう面倒くさくて、ずるい奴なんだよ、俺は。……お前、それでも良いって言えるのかよ」
今度はシンが、夏生を真っ直ぐに見つめた。一歩踏み出すのは怖い。変わらない関係を続けていきたい。そう思っていたけど、夏生が一歩踏み込んできた時点で、変わらない関係なんてどこにもなかった。夏生が踏み込んでこなくても、二人の関係はきっと変わっていた。夏生の気持ちが痛いほど伝わってくるように、シンの気持ちも抑えられなくなっていっただろうから。
シンの不安を感じ取ったのか、夏生が肩に乗せたシンの手に、自身の手を重ねた。
「別になんでもいーよ。俺はお前が良くて、お前じゃないとダメだから」
「……なんで? なんで俺なんだよ。お前の心読めるんだぞ。恋人になんて一番向かないだろ」
「別にお前がエスパーだろうとエスパーじゃなかろうと、お前に向ける気持ちは変わらないと思うけど」
噛み砕くように、夏生が唸る。どう伝えれば伝わるのか、ひとつずつ言葉を選んでいるみたいだ。シンはエスパーで、人の思考を読むことができる。だからこそ、口に出した言葉で伝えたいという夏生の気持ちにたまらない感情になってしまう。
「……気持ちを読むことができるとか、傷つけられるかもとかは正直あんまり関係なくて、俺はお前だから、隣にいたいって思うようになったんだし。馬鹿みたいにムカつくし、ありえねーって思うこともあるけど、お前といると楽しい。本当は危ないことはしてほしくないけどお前は聞かないから、それなら俺の見える範囲でして欲しいとも思ってるよ」
夏生の思考を読む度に、その想いがシンの中にどんどんと溜まっていった。シンの心の内側に染み込んだ夏生の気持ちに、返したい言葉をやっと見つけることができた。
ずっ、と鼻水を啜る。いつの間にか視界が揺れていて、鼻がツンと痛くなった。震えそうになる喉につい俯きそうになるけど、視線だけは逸さなかった。やさしい目で見つめてくる夏生の瞳を、ずっと見つめていたかった。
「それにもしお前が俺の頭の中読みたくないって言うなら、俺ずっとフード被るよ。そんでお前が読みたいって時には外してやるよ。お前のエスパーなんて俺の武器があればいくらでも対策できるし、割とどうでも良いと思ってるから。……お前は素直にうんって頷けば良いんだよ」
そう言って、夏生はいつもの得意げで、生意気そうな笑みを浮かべた。
「それに最初から言ってんだろ、隣で証明していくから見てろって。……だから、まあ。死ぬ時に分かるんじゃねーの? 俺がお前のこと、ずっと好きだってこと」
夏生はずっと変わらなかった。本当に何度も何度も思考を読んだ。自分のことをうざいと思っている時もあれば本気でムカついている時もあったけど、根底にはずっとシンへの気持ちが存在していた。読んでいたって読んでいなくたって、夏生は夏生でシンはシンだ。
恋人になって他の人よりも深い関係になってしまえば、きっとシンはもう夏生を逃してあげられない。誰かを傷つけたことに傷つくような人間を、気づかないうちにまた傷つけてしまうこともあるかもしれない。それはシンでなければ起こり得ないことで、そんなシンが誰かの、夏生の隣を歩くことを選んでも良いのだろうか。
分からない。分からない、けど。それでも、一緒に歩みたいと思った。夏生となら、隣り合わせで生きていけるのではないかと、そう思わせてくれた。
滲んだ涙を、夏生の指が拭う。カサついた指先は優しさに溢れていて──ああ、ダメだ。もう離せそうにない。
「つーかてめえはごちゃごちゃ考え過ぎなんだよ。別にいーだろ、今こうやってお互いの気持ちが同じ方向見てんだから。そのあとどっか行きそうになっても、その度に擦り合わせればいいだけだし」
「……うん」
大きく頷いて、シンは返事をした。ずっと言いたかった。夏生が伝えてくれた気持ちに、「うん」と答えを返したかったのだ。
鼻水を啜るシンに笑いながらティッシュを投げつけてくる夏生は、珍しく眉間に皺のない笑みを浮かべていた。
「鼻水すごいぞ」
「うるせーよ」
勢いよくかんで、多少スッキリしてからもう一度夏生に向かい合った。やっぱりやさしい目でシンを見ていて、たまらない気持ちになる。
「俺もセバが大切だ。……遅くなってごめんな」
「おー。まあ俺は薄々お前の気持ち分かってたけどな〜、分かりやすいし」
「んだよその自信! なんかムカつく」
「はは、ウケる」
「ウケねーよ!」
「ははは、はあ……うれしーな、気持ち伝えて返ってくんの」
目を伏せて笑う夏生に、目の前がチカチカと点滅する。太陽が指し込んでいるわけでもなく、照明が光っているわけでもないのに、眩しくて仕方なかった。
両想い、すごい。なんだか夏生のことが見れなくなって、シンは目の前にある肩にそっと額を預けた。心臓がドキドキと高鳴ってうるさいし、未だ触れている手のひらは汗で滲んでいる。あれ、なんか、やばい。頭が沸騰しそうに熱くて、どうにかなってしまいそうだ。
顔は隠れているけれど、耳は見えているのだろう。赤くなってる、と呟いた夏生がそっとシンの丸い頭を撫でた。その動作にさえドキッとしてしまう。ふと夏生がどんな顔しているのか気になった。さっきは眩しくて見ていられないと思ったけど、今はどんな表情を浮かべているのか見たくなった。よく分からない矛盾をそのままに、そっと顔を上げる。
そこには同じくらい顔を赤くした夏生がいて、シンは思わず笑ってしまった。
「笑うなよ。言っとくけどお前も相当赤いからな」
「はは、うん、分かってるよ」
「うん。……俺ら付き合うってことでいーよな?」
「……そ、そーだな」
「てことでもう一回キスしていい? 割ともう限界なんだけど」
ずい、と真顔でそう口にした夏生に、甘酸っぱかった空気が急速に変わっていく。
「おっまえ、情緒ねー!」
「いやいや、俺の今までの頑張りと忍耐を考慮しろよ」
「最後は俺の歩み寄りのおかげだろ! てめー俺のこと避けてたじゃねーかよ」
「それはお前もだろ! で、ダメなの」
「……それは、べつに……いいけ、っ」
言い終わる前に、夏生の唇がシンに触れた。先ほどよりも少しだけ強く押し付けられる。唇の柔らかさを堪能するように二、三度啄まれたと思ったら、角度を変えて再び重ねられる。その動きを夢中で追っていると、夏生の手がシンの首裏に添えられた。
求められているその動き胸がキュッと締まり、シンも片方の手のひらを夏生の首に回した。ジョリ、と刈り上げが指先に触れ、感触を楽しむようになぞると、夏生に耳の縁を優しく撫でられて、ぞわりと腰に甘さが走った。
その甘さを逃すため少しだけ開いてしまった隙間に、すかさず舌が入り込んできた。艶かしいその感触に思わず舌を引っ込めた。それを追うように夏生の舌がどんどんと口内を侵す。自分のものではないその熱に侵入され、身体中の血液が沸騰してしまったのかと思うくらい暑くなった。上顎を舐められる。小さく反応したシンに気をよくしたのか、次は溜まった唾液を掬い取るように舌裏の筋を撫でられて、反射で押し返そうと舌を突き出した。
待っていましたと言わんばかりにその舌を絡め取られ、一分の隙もないほど合わせてくる。ゾクゾク、と身体に明確な快楽が走った。やばい、気持ち良い。好きな人とのキスがこんなにも満たされてこんなにも気持ち良いなんて、知らない。
今までの隙間を埋めるように、夏生がシンを求めている。その事実にも嬉しくなってしまう。だから応えたくてシンも負けじと夏生に舌を絡めた。好き勝手してくる動きに翻弄されつつ、同じ熱の高まりを感じてシンもどんどん夢中になっていく。
いつの間にかじっとりと背中に汗をかいていて、肌寒かったはずの空気は服を脱いでしまいたいくらいに暑く感じた。
はあ、と息継ぎのために夏生が一度唇を離した。離れてしまったその距離がもどかしくて、すぐにその後を追う。息が整う前にもう一度唇を重ね、次はシンが夏生の口内に舌を侵入させた。驚きからか肩を跳ねさせた夏生に気分が高まり、シンは先ほど自分がされたように夏生の舌を侵した。舐めとって吸い上げて、逃げようとする舌を追いかけてつつく。その度に初々しいような反応をする夏生が無性に可愛く思えて、シンは夏生の首裏に回した手をぐい、と自分の方へ引き寄せた。
シンの思わぬ行動に踏ん張れなかったのか、夏生が倒れ込んできた。自身の体を支えていた左手の力がかくんと抜けて、二人でもつれながらソファに沈み込んだ。弾みで歯がガチッと音を立てて当たり、鈍い痛みが広がる。
「わるい、大丈夫か」
「こっちこそ。セバは平気?」
「うん」
素早く起き上がった夏生が、心配そうに覗き込んでくる。先程までのふれあいの名残で蕩けたような顔をしていて、ああ、これが恋人に見せる顔か、とまたしても胸が締め付けられた。
夏生に見下ろされている。正しく押し倒されているような格好に、夏生が満足そうに口角を上げた。
「はは、いー眺め」
「……」
「……? なんだよ」
「あ、いや。……俺、やっぱりこっちなんだと思って。……その、お前の思考読んだ時……」
「っ、」
思い出すのは、シンの脳内に直接流れ込んできた欲望。赤くほてった肌、白いシーツに散らばる金髪、組み敷かれて影が落ちる頬、潤んだ瞳、赤い唇からはとめどなく甘い声が溢れていて──
夏生がシンのことをそういうふうに思っていることを、シンは知ってしまった。嫌ではない。むしろ夏生とならそういう触れ合いをしたいと思っている自分もいる。恋愛なんてしたくない、と嘯いていた自分が知ったら白目を剥いて倒れてしまいそうだ、と小さく笑った。
「……んだよ、ダメなのかよ。悪いけど、俺もう隠さないって決めたからどんどん考えるぜ、ソーイウコト」
「うわ、開き直りやがった。このすけべ野郎」
「そんな俺のことが好きなくせに」
「ううううるせー! そうとは言ってないだろ⁉︎」
「でも事実じゃん」
「ゔっ。おかしい、俺が攻めるターンだったはずなのに」
「はっ、まだまだなんだよくそエスパーくんは」
ふ、と夏生が鼻で笑って、それから沈黙が落ちた。冷静になってくると途端に恥ずかしさが増す。両想いになってキスをして押し倒されて。その上夏生もシンも明確にそういう欲を持っていて。期待と少しの不安で胸が高鳴る。このまま先に進むのだろうか。
キスで昂った熱は、まだ冷めそうにない。
「……続き、する?」
「っ、」
あまりにも魅力的なその誘いに、夏生がぐらりと傾いたのが、読んでないはずの思考から飛んできた。夏生の脳内ではあられもないシンの姿でいっぱいで、思わずごくりと生唾を飲み込んだ。あの指先が、シンの身体中に触れる。大切な武器をメンテナンスするように、シンの身体を拓いていくのだ。そう思ったら堪らなくなってしまって、もういっそのこと早く刺し殺してくれ! とシンは目を強く瞑った。
夏生の顔がゆっくりと近づいてきたのが目を閉じていても感じられた。ふわふわの黒髪が額にあたり、キスされる──と思っていたら、ポスリと肩に重みがかかった。
「え?」
目を開けると、目の前には誰もいなくて、肩越しに無機質な天井が見えた。覆い被さっている夏生は、シンの首筋に顔を埋めていた。髪の毛が当たってくすぐったい。
「……っいや、今日はここまでな」
「へ……? シないのか?」
「……俺、お前のこと大切にしてーと思ってるから。さすがにここで初めてってのはダメだろ」
「……頭ん中パンパンなのに?」
「……あんま見んじゃねー」
頭の中は欲望でいっぱいなのに次に進む気はないようで、シンはどこか残念な気持ちになる。だけど少しほっとした。急激に変わっていく環境に、もう少しゆっくり慣れていくことができるから。
きっとこれからシンと夏生はいろんな時間を重ねていく。時には喧嘩して、時にはぶつかり合って、それでもこうして生きていくのだろう。
夏生の思考が流れ込んでくる。その熱さに灼かれそうで、だけどそれが心地よかった。
目を閉じて、そっと夏生の耳に頬を寄せる。トクン、トクン、と早いリズムを刻む心臓の音が微かに聞こえてきて、シンはやんわりと微笑んだ。
なんてことはない。シンはおそらく最初から、この透明野郎に捕まっていた。ただ、それだけの話だ。
▽
ざあ、と風が吹いて、頭上で桜の花びらが舞った。澄んだ青色の空の中で薄ピンクの花弁がチラチラと踊っていって、やっと訪れた春に笑みを浮かべた。
手に持ったオレンジジュースの紙パックを吸う。思い切り吸い込んだせいか思った以上の勢いで気管まで入り込んできて、シンは盛大に咽せた。
「何やってんだよてめーは」
「げほっ、ごほっ、気管に゛はい゛っだ」
「バカじゃん」
呆れたような声で、夏生がシンの頭を拳で軽く突いた。寒くて凍えるような冬が終わり、気温も高くなり雪ももうすっかり溶けてしまった。完璧な春という季節に、心が躍ってしまうのは仕方のないことだろう。夏生だって普段はジュースを飲みながら歩くなんてことはしないのに、「桜見ながら散歩しようぜ!」というシンの一言に乗り気だったのは、きっと同じように気分が良いからだ。
少し違和感のある喉をさすりながら、また上を見上げる。JCCの桜並木はかなり立派で、シンたち以外にも複数人グループで花見をしていたり、歩いていたりする人がいる。ワッと急に盛り上がった声が聞こえてそちらを見ると、三人ほどが地面に散らばった花びらを集めて空中に飛ばして遊んでいた。新入生だろうか、初々しさを感じられてシンは微笑んだ。
「あいつら何科の新入生かなー」
「さあ。楽しそうだし暗殺科か毒殺科じゃね? 少なくとも武器科ではない」
「お前のその各科に対する偏見なんなの?」
飲み終わった紙パックを潰して、近くのゴミ箱に投げ入れる。縁に引っかかって外したかと思ったそれは、そのまま綺麗に中に吸い込まれていった。
「お。ナイスピッチング」
「セバもやったら。うまく入ったら奢ってやんよ」
「まじ? ステーキ丼よろしく」
「そういうことは入ってから言えよ」
大きく振りかぶった夏生が、それっぽいフォームで紙パックを投げる。だけどそれは見た目だけで、投げたゴミは綺麗な円を描いて近くの茂みに吸い込まれていった。
「だっせー!」
「うるせ〜よ」
腹を抱えて笑うシンを、少し恥ずかしそうにした夏生が睨みつける。そんな顔されても、別に怖くないんだよな〜、と笑いながら思う。夏生は入らなかったゴミはきちんとゴミ箱に捨てると、いまだに笑っているシンの肩を強めに小突いた。
「いて」
「笑いすぎ」
不服そうな顔をした夏生が堪らなく愛おしくて、シンはまたしても笑ってしまった。悪い悪い、と肩を叩くシンの手を、夏生の手が掴んだ。そのまま指を絡め取られ、いわゆる恋人繋ぎになったと気づいて、シンは顔を赤くした。ほんのりと耳を赤く染めた夏生がシンの方を見ないまま、繋いだ手を自身のポケットに突っ込んだ。武器製造科のジャケットは、様々なものが入るからポケットも大きいのだ。
恋人同士の甘い空気に、シンはいまだに慣れていない。毎回のようにドキドキして、同じように照れている夏生に胸を締め付けられる。工房でキスをしてからまだ一ヶ月ほど。はたしてこれから慣れることが出来るのだろうか。そんな気は今の所全くしていないが。
「な、セバ。……人に見られてる」
「お前全校生徒の前で公開告白みたいなことしてんだし、今更だろ」
「そっれは……そうかもだけど」
声が裏返り、ごにょごにょと誤魔化すように口を尖らせるシンに、夏生が笑った。
「いつでも読んでいーよって言ったけど、今読んだら読んだでお前困るかも」
「え、今更引っくり返す? うそだろ? 俺めちゃくちゃお前の思考読んでんのに」
「だって俺、お前のことマジでムカつくしうぜ〜って思うけど」
「おい! 何回も言わなくても良いってば」
「でも、それ以上にかわいいって思ってんだもんな〜」
「なっ、……急になんだよ!」
ニヤリ、と意地悪そうに笑う夏生に、ときめくなという方がおかしい。無事だった昔の自分がむしろ恨めしい。
「ほら、突然読んで思考停止しないように事前説明だよ」
「余計なお世話だっての!」
握られた手を振り解き、夏生の背中を両手で交互に殴る。痛くないくせに「いてー」と笑う夏生はあまりにも楽しそうで、シンも釣られて楽しくなる。付き合い始めてから夏生はくしゃりと笑うことが多くなった。少しだけ眉毛が下がって、困ったように笑うその笑い方が、夏生が近しい人間にしか見せない笑顔だと気づいた時は喜びで満ち溢れた。いつだったか、夏生が恋人にしか見せない顔がどんなのだろう、と考えたことがある。こんなに愛おしい気持ちにさせられるなんて、思ってもみなかった。
「……それに、俺だって」
「ん?」
夏生が不思議そうに首を傾げる。
グッと奥歯を噛み締めた。俺だって、セバのことかわいいって思ってるなんて、口が裂けても言えそうにない。
もしもの場合が怖かった。夏生のことを傷つけたらどうしよう。嫌われたら、憎まれたら、そんな意味のない想像でいっぱいだった。そんなこと現実に起こっていないのに。起きるかもしれないという可能性ばかりに目を向けて、目の前にいた勢羽夏生という人間のことを見落とした。
だけど夏生はそんなこと関係ないと言わんばかりに無理矢理にでも視界に入ってきて、シンの心に居座った。たとえば、セバと気持ちが通じ合ったらって。考えさせられてしまった。夏生がずっと伝え続けてくれたから、シンも応えることができた。諦めずに追いかけ続けてくれた夏生を、きっともう離すことなどできやしない。
誰かと恋をしたいのにしたくない。誰かを傷つけたことに傷ついてしまうような優しい人間を、傷つけたくない。勢羽夏生という人間はこの世にただ一人で、他の誰とも違う。そんな簡単なことにずっと目を背けていた。
今ならばはっきりと言える。起こってもいない未来の話は、いくら考えたって無駄なのだ。そんなことより明日の昼ごはんとか、今日見たテレビの話とか、星が綺麗だなってこととか、そういうことを分かち合えたらそれで良いし、それが良い。小さな幸せの積み重ねが、きっと未来を作っていく。
「なにニヤけてんだよ〜、変態」
「変態じゃねーし! これはあれだよ、表情筋のトレーニングだよ!」
「はは、お前ほど表情豊かな奴もそうそういねーだろ」
シンはムッとして地面を蹴ると、駆け出した。散っていく桜がシンの背中を後押しするみたいに舞っていて、とても綺麗だと思った。後ろを振り返る。急になんだよって顔で夏生がシンを見ていた。周りの薄ピンクに馴染まない、真摯な黒い瞳で、シンを見ていた。
胸の内側から、熱くて熱くて仕方のない何かが溢れてくるようだった。その熱は身体中を巡って、そして上へと突き抜けた。風が吹く。桜が舞って、夏生の頭にピンク色の花が咲いていた。間抜けで愛おしい姿が目に入って、自然と口角が上がっていく。だからシンは正しくその熱に従って、笑った。
「俺、お前のこと好きだぜ、セバ!」
ポカン、と口を開けた夏生の間抜けヅラを、シンはこれからもきっと覚えている。
たとえばのはなしをしよう。たとえばシンが坂本と一緒に働いていなかったら。たとえばエスパーじゃなかったら。たとえば、JCCで夏生と再会しなかったら。どれをとっても重要なピースで、欠けていたらきっと今のシンはここにいない。
たとえばのはなしをしよう。たとえば一緒に笑って、たまに喧嘩とかして。たとえばシンの涙を拭ってくれるように、夏生の背中を押してやれたら。たとえばこのまま、隣でずっと過ごせたら。──それだけできっと、シンは幸せなのだ。
シンの言葉に徐々に顔を赤く染めていく夏生が、ズカズカと近寄ってきてシンの腕を掴んだ。その後に続く言葉に、さらに笑みが深くなっていく。
夏生がシンの隣で証明し続けるなら、シンも同じように証明し続けよう。夏生の隣で、これからも、ずっと。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.