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鳥のささみと申します
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指先ステラ
タイトルのセンスがなさスギノハヤカゼ(競走馬)なんですけど……。
シンジくんにマニキュアを塗りたい欲求を満たしたかった。
最後にカヲシンを匂わせておく姑息さ。
長閑な休日の午後。
リビングのテーブルの上には、アスカのネイル用品がずらりと並んでいた。
丸いもの、四角いもの、背の高いもの。色とりどりの液体が詰まった小さな瓶が、陽光を透かして宝石のようにテーブルを彩っている。
彼女は昼食を終えてしばらくすると、おもむろに自室から重たげなボックスを持ってきて、テーブルに店を広げはじめた。それからというもの、黙々と自分の指に色を塗っては落とし、首を傾げてはまた別の色を重ねる。そんな試行錯誤を、もうずっと繰り返していた。
除光液のツンとした匂いが漂う中、窓際では網戸を通る風がカーテンをふわりと揺らしていた。
なんて穏やかな午後なんだろう。
珍しくスムーズにことが運び、午前中に全ての家事と学校の課題は終わらせてしまった。
やることのなくなったシンジはリビングの隅でクッションに腰を沈め、膝に広げた雑誌をなんとはなしに眺めていた。
このまま何事もなく、恙無く休日を終える。
そのはずだった。
先ほどからページを捲るたびに、身体の一部にやたら視線を感じる。
チラリと向かいで内職をしているはずのアスカを窺う。胡乱気にすがめられた瞳が、自分の指先を追っているのが見えて、慌てて視線を外した。
テーブルに置かれた彼女の爪には、可愛らしいピンクのマニキュアが綺麗に塗られていて、光を受けるたびに小さくきらめている。
何となく、今ここでアスカと目を合わせたらろくな事にならなそうな、嫌な予感がする。
シンジは努めて無関心を装い、雑誌の文字を追うふりをして知らんぷりを決め込むことにした。
そのまま数分、不穏な静寂が続く。
ふと、床を鳴らす足音が近づいてくる気配がした。
雑誌に被る影に、怪訝な顔を挙げると、小さなボトルを手にしたアスカが仁王立ちしていた。
「ちょっと、手貸して」
「え? なんで?」
案の定、嫌な予感が見事的中し、シンジは怯えるように両手を握り、雑誌ごと膝で守るように胸の前に引き寄せた。
「練習。次の休み前にヒカリにやってあげるって約束してんの。アンタ暇でしょ」
「い、いやだよ。なんで僕が
……
」
「なによ、このあたしに逆らうわけ」
仁王立ちのままジロリと青い瞳に真っ向から射すくめられ、シンジは喉まで出かかった反論を引っ込めた。
「そう言うわけじゃないけど
……
」
「だったらいいでしょうが」
「いやでも
……
」
「デモもヘチマもない! さっさと貸す!」
「
……
わかったよ」
その剣幕に押し切られる形で、渋々読んでいた雑誌をたたんで脇に置いた。
アスカは思い通りになったことに満足したのか、縮こまるシンジの正面にどさりと腰を下ろすと、あぐらをかいて座り込んだ。
「ん、手」
促されるまま、諦めたようにノロノロと手を差し出す。
あまりにも無防備な彼女の振る舞いに、胸中では微かな戸惑いが生まれていた。
近すぎる距離にどう反応していいか分からず、妙に落ち着かない気分になる。けれど、こうも「男」としてカウントされていないような扱いを受けると、それはそれで少しだけ複雑だった。
結局のところ、それだけ信用されているということなのだろう。
そんな風に自分を納得させながら、シンジは未練がましく弱い抵抗を続けた。
「ご飯作る時とかさ、嫌じゃないの?」
「別に、気になんないわね。死ぬわけじゃなし」
今ならまだ、適当な理由をつけて逃げられるんじゃないか。アスカの気が変わって、やっぱり面倒くさくなったと言い出さないか。そんな淡い期待は、彼女の有無を言わせぬ断言によって呆気なく打ち砕かれる。
「でも、僕、男だし
……
」
「ほんっと、あんたって何でそういちいち保守的なの」
呆れたようにアスカが、古臭い考えだと鼻を鳴らす。
「それとこれとは関係ないだろ
……
」
「つべこべうっさい。心配しなくてもすぐ落とすわよ。ほら、じっとして」
不貞腐れて唇を尖らせるシンジには目もくれず、アスカはぐいっと手を取り、指先を繁々と眺めた。
「短っ、切りすぎだっつーの」
彼女は忌々しげにつぶやく。
その視線の先にあるシンジの爪は、チェロの弦を正確に押さえられるよう、白い部分がほとんど見えないほど深爪ギリギリ手前まで短く切り揃えられていた。
「仕方ないだろ、楽器やってたらみんなこんなもんだよ」
「だからって白いとこ全部切る?」
「だって気持ち悪いんだもの」
爪が伸びていると、なんだか感覚が鈍る気がして、少しでも白い部分が見え始めると切らずにはいられないのだ。
「ま、いいわ。やりづらいけど」
文句を言うなら諦めてくれるかと仄かに期待をしたが、どうやらこのまま続行する気らしい。シンジは握られた指を少し窮屈そうに動かした。
手元でシャカシャカと小さなボトルを撹拌する音がリビングに響く。
彼女の綺麗に整えられた桜色の指先を見つめながら、往生際悪く呟いた。
「もう十分、上手にできてるじゃない
……
」
「自分にやるのと人にやるのじゃ違うのよ」
「そ、そうなの?」
「そうなの」
よくわからない理屈に首を捻りながらも、もうどうにでもしてくれと言わんばかりの面持ちで、されるがままに指先を預けた。
アスカはボトルの縁で数度、余分な液を落とすように筆を丁寧に扱いた。
淡いブルーの液が筆先に含まれていく。
マニキュア特有の、甘い香料の裏に隠れた鼻を突くような化学的な臭気が広がり、嗅ぎなれない独特の刺激にシンジは思わず鼻に皺を寄せた。
どうして女の人は、こんな体に悪そうなものを爪に塗りたくるのだろうか。
ふと頭をよぎったが、正直に零したら百倍の質量で言い返されそうなので、黙って飲み込んだ。
「ねえ、ほんとにちゃんと落としてくれるんだよね」
「だーから、そう言ってるじゃないの」
「絶対だよ?」
「しつこい、ちょっと黙って」
これ以上何か言ったら本気ではたかれそうなので、シンジは小さく溜息をついて言葉を飲み込んだ。
ひんやりとした筆先が、慎重に爪の上をなぞる。
「ひゃっ
……
!」
くすぐったさに、肩がかすかに跳ねた。背中を冷たい指先でなぞられたような、奇妙なゾワゾワとする感覚が這い上がる。
「動かない!」
「ご、ごめん
……
」
いつものように「反射で謝るな」そうどやされるかと身構えたが、何も飛んでこないので拍子抜けしてしまう。
アスカは眉をひそめながらも、細部まで妥協を許さない真剣な目つきで色をのせていく。
筆が爪の上を滑り、一筋また一筋と薄い色が広がっては重なる。その単調な繰り返しが十本分、静かなリビングの空気の中で刻まれていく。
プラスチックと硝子の触れ合う微かな音と規則正しいリズムに、シンジの瞼は次第に重くなっていった。
朝早かったせいか、はたまた図らずもアスカに手を握られている緊張の反動なのか、どこかぼんやりとした眠気が微かに混じり、身体から力が抜けていく。
あくびを噛み殺しながら、つけっぱなしのテレビに気を取られてぽやぽやしていると、ようやく両手が解放された。
「ほら、見てみなさい」
自信ありげな弾んだ声に促されて目を落とすと、殺風景だった爪の先は、透明感のある淡く優しいライラックブルーに染まっていた。
何層も重ねられたその奥に、光を反射してまたたいている小さなオーロラの粒が散っている。その輝きが、何とも言えない奥行きを与えて、複雑な色彩を奏でていた。まるで、爪の上に小さな星が乗っかっているみたいだ。
「
……
わ、すごい
……
綺麗な色だね」
「でしょ? あんた指長いし、色白いから似合うわよ」
素直に感嘆の声を漏らすシンジを見ながら、アスカは自分の見立て通りになったことに満足げに頷き、誇らしげに腕を組んだ。
「あ。それ、乾くまでやたらなとこ触るんじゃないわよ」
「えっ、このままでいろっての!?」
シンジは力無くゆうれいのようなポーズで両手を掲げ、心底嫌そうな顔をアスカに向けた。
その様子をを一瞥し、愚問だと言わんばかりにアスカが無慈悲に言い放つ。
「ほんの五分くらいよ、我慢なさい」
「そんな
……
なんかムズムズする」
動かすなと言われると、余計に動かしたくなるのが人間の性だ。
湧き出る衝動を何とか押し込めて、シンジはおそるおそる光の下に手をかざし、複雑な顔で笑う。
「女の人って、色々大変なんだね」
「そーよ、やっとわかったの?」
行動を制限されてまでお洒落をしたい気持ちは、正直よくわからない。
でも。
丁寧に色を重ねられた自分の指先を眺めていると、なんだか、それほど悪くない気分かもしれない、なんて。
そんな言葉を喉の奥で転がした。
「
……
なんか、これ。落とすの勿体無いね
……
」
せっかく熱心に塗ってくれたのだ。すぐに落としてしまうのは、なんだかアスカの努力を消してしまうような、申し訳ないような気がして、シンジは言葉の先を濁した。
「なあに? もしかして気に入ったの? あんなに嫌がってたくせに」
「ちっ、違うよ!」
後片付けをしていたアスカが可笑しそうに顔を覗き込んできて、シンジは慌てて視線を泳がせる。自分の不用意な発言を少し後悔したが、アスカはふっと表情を緩めた。
「
……
冗談よ。ほら、貸しなさい。落としたげる」
そう言って、手元の除光液に手を伸ばしかけたアスカの動きが、ふと止まった。
何か企むような彼女の視線とぶつかり、シンジがたじろいだ瞬間、その瞳にまた、あの不穏で楽しげな光が宿る。
「ちょっと待って、その前に写真撮っとこ」
言うが早いか、アスカは傍らに置いてあった携帯をひったくるように掴み、レンズをこちらに向けた。
「えぇっ、だめ!」
シンジが慌てて手を引っ込めるのを見て、彼女は楽しそうに笑った。
「それ、渚に見せてやりましょーよ」
軽口のように言ったその目が、悪戯っぽく光る。
「ぜっ、絶対やだ!」
シンジは真っ赤になって必死に手を隠した。
きっと彼なら、この爪を見ても驚くことなく、いつものように穏やかに微笑んで、「とても似合っているよ」と手放しで褒めてくれるに違いない。
けれど、そんな光景を想像するだけで、恥ずかしすぎて心臓がもちそうになかった。
馬鹿正直なシンジの反応に、アスカはいちいち本気にするなとまた笑い転げた。
穏やかとも恙無くともいかない休日は、揮発したアルコールの匂いと共に、午後の柔らかな光の中へと溶けて消えていった。
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