ねぶくろ
2026-02-08 12:39:22
7119文字
Public 一次創作
 

春を見送る


 女はクリスマスケーキと同じで、二十五を過ぎると古くなる。──およそ現代の価値観とは言えない古い言説が脳裏をよぎり、八重樫やえがし琴音ことねは「結婚したいなぁ」と呟いた。
 同じ食卓でサラダを食べていた母親は、口元へ運んでいたフォークをぴたりと止めて目を瞬き、彼女の正面で今日の夕刊を読んでいた父親は、意表を突かれたような驚き顔で紙面から顔を上げる。琴音は二人からの視線を受け止めて、ゆっくりと同じ言葉を繰り返した。
「結婚、したいなぁ。……ねぇ、どう思う?」
 問いかけに、母親が「あらあらまぁまぁ」とフォークを置いて頬に手を添える。「良いじゃない。ねぇ、あなた」と話を振った先は父親だ。すっかり新聞を畳んだ彼は、「見合いか」と唸るように応じた。今現在、琴音に恋人がいないことは周知の事実だ。結婚という望みを叶えるためには、まず前提として相手を見つけなければならない。
 今の世で、結婚を目的とし、そのための相手を探すことは、そう異質なことではない。巷にはマッチングアプリなる胡乱なサービスが溢れ、電車の車内には結婚相談所の広告が堂々と掲示されている。スマートフォンで検索をすれば、年がら年中そこかしこで街コンだの婚活パーティーだのが催されており、数タップで参加申し込みが完了する世の中だ。
 需要と供給。それが資本主義社会の基本設計であり、多くの人間が『恋愛を経ない結婚』に需要を感じるのであれば、それが供給されることは必然ともいえる。
 当然、現代を生きる琴音はマッチングアプリや婚活パーティーの存在を認識している。しかし、父親の発案した「見合い」という古風な言葉に難色を示すでもなく、「そう。誰かいい人いないかな」と平然とした声で言葉を返した。
 琴音は、大企業で人事部長を務める父の庇護下で暮らしてきた、いわゆる箱入り娘だ。実家が世間一般に比して裕福な部類に入ることは幼いころから自覚しており、──その生活に慣れ切った自分が、マッチングアプリ等を介してお眼鏡にかなう相手を見つけられるとは、端から思っていない。いずれにせよ見も知らぬ相手と会うのであれば、父の紹介の方がアプリよりもはるかに信頼がおけるうえに、身の危険が少ない。
 打算を包み隠して、琴音は淑やかに微笑んだ。
「お父さんの職場に、結婚願望のある男の人っている? もしよければ紹介してよ」
「あぁ……。そうだなぁ、琴音ももう二十五だものなぁ」
 彼は感慨深げに呟いて、「分かった。少し待ちなさい。間違いのない相手を見繕おう」と頷いた。そのやりとりを受け、母親がにこやかにフォークを口元へ運ぶ。手の込んだ瀟洒なサラダを嚥下して、彼女がうっとりと夢見るような眼差しを琴音へ向けた。
「お父さんの会社の方なら安心だわ。何よりも、安定しているもの。……それでも、やっぱり結婚は相性が大事だからね、琴音。焦って判断をしちゃダメよ。一生のことなんだからね」
「分かってるよ。……だけど、お父さんの選んだ人なら大丈夫」
 ねぇ、と父親に話を振れば、彼は「あぁ、太鼓判を押せる相手を見つけてくる」と笑った。
「琴音の伴侶となる男だ、私の目から見て物足りんような半端者を選ぶわけはなかろう」

     *     *     *

「初めまして、かなめ佳孝よしたかと申します」
 土曜日の昼下がり。穏やかな春の陽射しが差し込む窓際のテーブルで、相手の男は爽やかな笑みと共に名を告げた。父の見繕った『太鼓判を押せる相手』の目を見返して、琴音は淑やかな微笑と共に、「八重樫琴音です。本日はよろしくお願いします」と会釈した。
 要は、父の勤務する外資系企業の、主には海外との窓口を担当する部署に所属しているらしい。年齢は琴音より一つ年上の二十六歳。目を引くほどの美形というわけではないものの、柔和そうな目元にぽつりと咲いた泣きボクロが色っぽい。色素の薄い茶色の瞳が、穏やかな物腰と相まって温厚そうな印象を引き立てている。
 少し圧に弱そうだけれど、共に暮らすうえでは申し分のない優しそうな人だ。
 第一印象で好感を持ち、流石は父の見立てだと内心で嘆息する。琴音はおっとりして見えると言われることの多い微笑を崩さないまま、「今日はご足労くださってありがとうございます」と席について彼に語り掛けた。
「このお店は仲人の広告部長さんが見つけてくださったと聞いています。桜の時期も近いから、窓際の席でよかった」
 琴音の言葉に、彼の視線が窓の外へと向かう。薄茶の双眸が桜色を映して、「そうですね。ソメイヨシノ……ではなさそうですが、桜が晴天に映えていていい景色だ」と微笑んだ。ゆったりと紡がれる声の速度はやはり穏やかで、小川のように澄んでいる。心地の良い人だ、と緊張の中に安堵が芽生えて目を細めた。
……よかった」
 琴音の呟きに、彼の視線がこちらを向いた。問いかけるような眼差しと共に、彼が小首を傾げる。
「要さんが穏やかそうな方で安心しました。……父の見込んだ方ですから、警戒はしていませんでしたけれど、やっぱり男性と二人で食事というのは緊張しますから」
 琴音の言葉に、要が目を伏せる。照れたように眉根を寄せて、彼が「恐縮です」と頬を掻いた。気恥ずかしそうな笑みの名残を頬に残したまま、彼が琴音を見返した。かちりと歯車がかみ合うように、真っすぐ注がれる視線を受けて、彼を見返す。瞳に邪な感情がないからか、見つめ合っても不思議と嫌な感じがしない。要は、やわらかな声音で口火を切った。
「八重樫さんは、化粧品メーカーで企画を担当されているとお伺いしました。男の私は化粧品には馴染みがないのですが、どういったお仕事なんですか?」
「化粧品というとコスメをイメージされる方が多いんですが、私の会社は主に基礎化粧品……、化粧水だとか、保湿のクリームだとかを扱っているんです。女性のお客様ももちろんですが、老若男女を問わず広い層に向けて健康的な肌を保つ商品を展開しています」
 例えば、と挙げた保湿クリームの商品名に、要が「それなら使ったことがあります」と相槌を打つ。狙い通りの反応に、琴音は気を良くして微笑んだ。
「私は企画開発部に所属しています。担当しているのはニーズの分析で、お客様のアンケート回答や商品の売り上げを分析し、商品開発の担当者に渡しているんです。……だから、要さんみたいな男性が、どんな商品なら知っているかも大体わかるんですよ」
 小首を傾げて窺えば、要は「なるほど……」と嘆息して頷いた。
「それでは、琴音さんが商品を開発することはないんですか?」
「そうですね……。ニーズの分析結果として、どういった傾向の商品が求められているかを報告することはありますが、自分で何か企画を立てて新商品を形にすることはありません」
 要が聞き上手なのか、普段はあまり自分の話をしない琴音でも、戸惑うことなく滑らかに会話が続く。楚々とした所作の給仕係が前菜から順に皿を運ぶ間に、二人は他愛のない会話を重ねた。
 要さんのお仕事についても聞かせてください。このサラダ、珍しい野菜が使われていますね。春は野菜も美味しいし、景色もきれいでいい季節ですよね。要さんはどの季節が好きですか。旅行はお好きですか。どこか印象に残っている景色はありますか。
 互いの仕事の話をし、テーブルに運ばれてきた料理から転じて話題が変わる。窓際の席であることも相まって、ここ最近の陽気や好きな季節、旅行先で印象に残った景色の話へと、滑らかに、くるりくるりと会話が回っていく。
 時に笑い、料理に舌鼓を打ちながら穏やかに雑談を交わす。──その中で、琴音は靴の中に小石が入り込んでしまった時のような違和感を覚えていた。
 要さん、私に興味がないみたい。
 一見して、二人の会話は円滑だ。事実、テーブル上のコミュニケーションはつつがなく、目に見えたエラーは何一つない。問いかけに回答が返り、沈黙が生まれることもなく、穏やかに滑らかに言葉のやりとりが続いている。ずっと、当たり障りのない雑談だけが続いている。
 運ばれてくる料理の種類で、そろそろこの食事も終わりが近いことは互いに認識出来ているはずだ。そして、要は初めからこの食事が『結婚を前提にしたお見合い』であると承知している。──にもかかわらず、彼は琴音のパーソナルな部分について一向に触れようとしない。それどころか、話題を振るのは琴音ばかりで、彼は最初の質問以降はあまり琴音に踏み込んでいないのだ。
 どこで「なし」だと思われたのかしら。
 琴音は、自他ともに認める良家の子女だ。そのプライドを傷つけられたことも相まって、要に対する興味が増す。抱いた疑問を悟られぬように、琴音は微笑みながら彼を見つめた。仕草、声音、話題の選定。人事部長である父から叩き込まれた『人を見る目』を総動員し、ここまでのやり取りを反芻しながら彼を観察する。
 綺麗にメインディッシュを平らげて、要がカトラリーを置く。窓の外へ視線を向けて蒼穹に視線をやわらげる横顔を見つめていれば、彼が琴音の視線に気づいて、こちらを向いた。「どうかされましたか」と、あくまでも紳士的な問いかけに笑みを返して、薄茶の双眸と見つめ合う。かちりと音が鳴りそうなほどに真っすぐに視線を交わして、──琴音は、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「要さん。貴方、好きな方がいるでしょう」
 断じた言葉に、彼が目を瞬いた。その顔に一瞬だけ表れたバツの悪さを見逃すことなく息を吐き、琴音は眉尻を下げて「あら、当たってしまいましたか」とくじ引きに外れたような、軽く残念がる声音で肩を竦めた。彼は何も言わず、ただ静かに琴音を窺う。弁解も言い訳もしない潔さにまた一つ好感が積み上がって、──琴音は己の気持ちの不毛さに苦笑した。
「今日はじめてお会いしましたが、要さんが乙女の純情を弄ぶような方ではないことはこの短い時間でもわかっています。……とすれば、お相手は『結婚が難しい人物』なのではありませんか?」
 既婚者。年の差。信教による婚姻の不可。両家の反対。想う相手と結ばれない理由なんて、いくらでも転がっている。琴音はじっと彼を見つめたまま、意識的に少し冷たい声を発した。
「乙女の純情を弄ぶ気はないとしても、誰かを『恋を諦める理由』にするのは失礼ですよ」
 琴音が望めば、彼は想い人を諦めて琴音と結婚するのだろう。──琴音との見合いを『想い人を選べなかった理由』にし、自分を納得させる。それは、いくらなんでもあんまりだ。
 給仕のスタッフが近づいてきたのを機に、琴音は控えめなため息を吐いて、窓の外へと視線を放った。しばしの沈黙が食卓に落ちる。給仕係は空っぽになった皿を下げると、同じく空になっていたグラスに金色こんじきのシャンパンを注いだ。一礼して立ち去る彼女の背中を見送り、窓の外へ視線を固定したまま、言葉を重ねる。
「貴方が、自分の気持ちを伝えることなく諦めるような人だとは思えません。とすれば、相手は制度上婚姻が不可能な相手であると推測します。……既婚者か、あるいは同性かしら?」
 視界の端で、要の肩がわずかに揺れる。当たりだろう。彼は略奪恋愛に踏み出すような無法者ではないだろうし、同性愛を全うできるほどの我の強さも持ち合わせていないはずだ。
 短時間の会話からでも相手の人となりが分かってしまう自分の審美眼を恨みながら、回答を待つ。琴音がはらりと優雅に踊る桜の花弁を目で追いかけていれば、要は逡巡を振り切るようにため息を吐いて、口を開いた。
「流石は八重樫部長のご息女なだけあって、人を見る目は確かですね。ここまで看破されるとは思っておらず、大変失礼なことをいたしました」
 許してほしいとは言いません、と彼は目を伏せて言葉を重ねる。
「ご推察の通りです。私には想う相手がいます。……しかし、彼との関係は、法的には認められません。何より、彼はとても魅力的な人だ。他にいくらでも相手を選ぶことができる。私には、その将来を潰すほどの覚悟は持てなかった」
 独り言のように紡がれる言葉に耳を貸す。視界の先に広がる美しい春の景色と彼の懺悔はひどくアンバランスで、足元がぐらつくような浮遊感があった。
「言い訳がましく聞こえるかもしれませんが、彼から別れを切り出されて、私はそれを了承しました。客観的事実として、今現在、私に恋人はいません。貴方とのお見合いも、前向きに考えて、真剣な気持ちでお受けしました。……その気持ちに、偽りはありません」
 真摯な声が耳朶を打って、ようやく彼へと視線を戻す。要は目を伏せており、会食中はずっと揺るぎなく穏やかだった表情を苦渋に歪めて、眉根を寄せていた。ひどく苦しそうなその顔を見て、水にぬれた地面が黒く染まるような自然さで『可哀想だ』と、思った。
 真摯でありたいがために、彼はこんなにも苦しんでいる。──自分の抱える未練と、琴音への誠実さに板挟みにされて、傷んでいる。
 琴音は彼を見つめて、責め立てて聞こえないように、細心の注意を払いながら言葉を発した。
……それでも、未練があるのでしょう」
 それを受けて、要が唇を噛む。徹底して紳士的だった彼の見せた、唯一の綻び。その、感情的な仕草に目を奪われて、──自由にしてやりたい、と焦燥が掻き立てられた。
 彼と、彼の想い人が、どうか通じ合い幸せに結ばれればいい。それが叶わないとしても、要がどうか、未練や後悔を手放して晴れやかに笑えるようになればいい。
 願いと共に彼を見つめる。要は軽く息を吐いて、薄く張った氷上を渡るような慎重さで言葉を発した。
「未練よりも、数段性質が悪い感情です。……この恋と心中するつもりなんてなかったはずなのに、いざ相手から求められると、その手を振り払おうとは思いきれない。彼が私に執着している。その事実に、満たされる部分があるんです」
 彼が自嘲するように微笑む。その、ひどく人間的な表情を真っ直ぐに見返して、琴音はゆっくりと瞬きをした。息を吸い込み、──積み重なっていた好意の数に背を押される形で、口を開く。
「貴方は、行動するべきです」
 彼が不意を衝かれたように目を瞬く。薄茶色に澄み切って真っ直ぐなその瞳を見返して、琴音は命じるような頑なさで言葉を紡いだ。
「心中するにしろ一人で溺れるにしろ、その恋が終わらないことには先にも後にも進めないでしょう? ならば、覚悟を持ちなさい」
 あでやかに口角を持ち上げて、グラスを手に取る。黄金色に透き通った液体を揺らし、その奥に彼の目を透かして見た。芽生えようとしていた恋心を摘み取って、痛みと共に噴出した血飛沫のような覚悟を笑みに変える。グラスの奥に揺れる輪郭を眺めながら、琴音は飛び切り美しい微笑と共に、鈴にも似た清らかな声音で先を続けた。
「恋に明日なんてありません。心は待ってくれません。躊躇わずにお行きなさい。今すぐに」
 わずかな逡巡。要は琴音へと注いでいた視線を机上に落として、「しかし、」と言い淀んだ。どこまでも律儀で清廉で、──本当に、呆れるほどに『申し分のない相手』だ。覚悟が揺れそうになるのを堪えて、胸の痛みに目を細める。琴音は、「要さん。貴方が私の手を取ることはないでしょう」と、我が身を貫くつもりで彼を諭した。
「どうせ破談になるんですもの。デザートまでご一緒したところで、私が得るものはありません。……だから、貴方はせめてその恋を全うする覚悟をお持ちなさい」
 それが、私に対する精一杯の誠実さでしょう?
 小首を傾げて、あくまで嫣然えんぜんと笑う。余裕を繕い、持つ者の風格を崩すことなく、──決して、『フラれた』なんて負け犬みたいな素振りは見せず。
 琴音の言葉に、彼が深く頭を下げる。「ありがとうございます」と謝辞を残して、彼が席を立った。こちらを振り向くことなく店を出て行き、入れ違いにデザートを運んできた給仕係が気づかわしげに琴音を窺う。いたわりの視線を自覚しながら、優美にグラスを傾けて、揺るぎない穏やかな声で彼女へ声をかけた。
「ごめんなさい、デザートは一人分で結構です。彼は急用を思い出したそうで……。ご迷惑おかけして申し訳ありません」
「畏まりました。……本日のデザート、苺のガトーショコラでございます」
 深く詮索することもなく、給仕係が会釈をして一人分の皿を琴音の前に置く。ぽつん、と。白く大きな皿を飾る淑やかなケーキの姿が、一人でテーブルに残された今の自分と重なった。苦笑を零しつつ、「ありがとうございます」と彼女に礼を述べて、カトラリーを手に取る。琴音は丁寧な所作でケーキを口へ運んだ。
 口内に広がる濃厚なカカオの苦味に目を細め、息を吐く。プロの手で丁寧に焼き上げたガトーショコラは、一口目から豊潤な香りが鼻腔を満たすほどに美味だった。奥の深い苦味を、さり気なく添えられた苺の甘さが引き立てている。
 舌に残る後味は、名残惜しさを感じる程度に甘く、心地よい。美味しい、とフォークを進めて、窓の外へと視線を放った。凛と、蒼穹に向けて枝を伸ばす桜を見上げて、「悪くない時間でしたね」と微笑みを零す。琴音は運ばれてきた食後のコーヒーを嚥下して、空白になった対面の席を見た。
 あぁ、──なんだか恋がしたい気分だわ。
 満更負け惜しみでもなくそんなことを考えて、琴音は一人、見送った春の行く末に思いを馳せた。