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来羅
2026-02-07 23:02:25
2238文字
Public
トワウォ
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理髪店(風信)
ワンドロライ第30回。
この理髪店は、まるで小さな小さな楽園だ。
「なに、あんた、またここにいたの」
いるだろうな、とは思っていた。
思っていたけれども、本当にいたのを見た瞬間、思わず言葉は口から出ていた。
見上げるでもなく誰だか理解したんだろう信一が顔を顰めるのを、なにその顔と小突く。この香港一の色男にそんなことするのはお前くらいだと信一は常々文句を言うが、幼い頃より慣れ親しんだその顔は今さらだ。
「龍哥、甘やかしすぎなんじゃないですか?」
だからそんな甘ったれたことを言い出す前に、元凶へと話を振れば、客の散髪に暇ない龍捲風は柔らかく苦笑した。
「耳が痛いな」
「オイ、燕芬」
自覚はあるらしい。なければ困るけれども。
大佬の邪魔をするなとばかりに毛を逆立てる信一に、勝ち誇った笑みを返す。悔しそうな顔は実に不細工になっていた。
「燕芬、今日はどうした?」
「ちょっと伸びてきたから、龍哥に切ってもらえないかなって」
「いいぞ。少し待っててくれ」
「ありがとう」
客には文句は言えない。
また大人しくバーバーチェアに座り直した信一は、雑誌を広げた。けれども読んでいないのなんて一目瞭然。その全意識はたったひとりにしか向いていない。
「なに」
「暇そう」
「暇じゃない」
そうでしょうね、とはあまりに大人げないので言わなかった。
カチャカチャとリズミカルな鋏の音が響く。
信一とふたり、まるで魔法みたいだと入り浸って眺めていたのがついこの間のようだ。
信一だけが、まだその魔法に魅せられている。
もう雑誌を読む振りすらやめた男は、鏡越しのその姿をうっとりと瞳をたわませて見ていた。
その熱視線に気づかない龍捲風でもないだろうに、男は何も言わないままだ。
「店に立ってる龍哥、本当に格好良いわよね」
「わかってるなー! さすが燕芬!」
「でもいつもの龍哥も格好良いのよね」
「そうなんだよ!」
呆れを含ませた燕芬に、けれども熱弁をふるう信一は気にせず龍捲風の『格好良さ』を語り始めた。いつもの、といえばいつもの光景に、散髪されている客も当の龍捲風も笑っている。
変わらない。何ひとつ変わらない信一に、少しだけほっとした。
この城砦がなくなるらしい。
今、住人たちはその話でもちきりだというのに、ここに来ると不安が拭い去られるようで強張った顔が自然と緩む。だから、来てしまったのかもしれない。
信一にとっての龍捲風がその全てであるように、燕芬にとっても龍捲風は支柱だ。
心配するな、とは龍捲風は言わなかった。
ケープをかける手が、ただ優しく肩を叩いただけだ。
「よし、香港一の美女にしてやろう」
いつもの龍捲風の軽口に信一が吹き出した。
「信一」
「ごめん」
咎めた龍捲風も、謝る信一も、口調は甘い。甘ったるい。
そういえば昔、この人はしきりに信一との仲を取り持とうとしていたことがあったと思い出す。互いにそんな感情は微塵もない。憤慨する信一を宥めたのも今となっては遠い話だった。
そもそも憤慨するなら私の方だろう、と今は思う。
けれども信一を遠ざけようとする龍捲風が、いつだって眩しさに焦がれるように信一を見ていたことを燕芬は知っていた。そのそばに居たがって眉を吊り上げる信一が、いつだって龍捲風を求めて苦しんでいたことも知っていた。
なるようになって良かった、のかもしれない。
鏡越しの視線は煩い。燕芬の、そんなに伸びてもいない髪を切る龍捲風は何も言わない。
それがこの店の日常、このふたりの幸せのカタチだ。
「龍哥、本当にあんなんでいいんですか?」
あまりに明け透けな視線に耐えかねてこそりと問えば、片眉を上げた男は咥え煙草でにやりと笑う。
「可愛いだろう?」
「
……
痘痕もえくぼ」
「手厳しいな」
「甘やかしすぎですよ」
けれどもせめて少しでも釘を刺しておかなければと見やれば、案の定、そこに反省の色はなかった。
サングラス越しの柔らかな眼差しが、鏡の中の一途で真摯な瞳と交わることはない。それでも信一は幸せそうに龍捲風を眺めていて、龍捲風も受け入れている。
ふたりの空気はあくまで穏やかで、優しく、甘いのだ。
「あ、燕芬、信哥見てないか?」
荒らされた工場は完全には元に戻らない。
麻薬を丁寧に洗い流して一息ついた燕芬に、誰かが声をかけた。
「大佬、でしょ」
「あっ!」
誰だったか。
慣れない呼び名を訂正すれば、信一の部下は気まずそうに頭を掻いた。
部下。
信一の部下。
笑ってしまう。
涙が出そうだ。
「で、大佬は」
「冰室じゃない?」
適当に言ってみたら、名前の思い出せない誰かはおかしいなぁと首を振りつつ来た道を戻っていく。
嘘だった。この時間、信一はたいてい行方不明になる。
昼過ぎまでかかった住人相談室が終わって、夜の役人との会食までのほんの十数分。
知っているのは昔馴染みの者たちだけだろう。そして彼らは皆一様に口を噤んでいるから、燕芬だとて言うわけにはいかない。
蝶番の外れかかった古いドア。割れた鏡と壊れたバーバーチェア。赤い格子戸はあの日を境に閉められたまま。
「
………………
甘やかしすぎるから」
思い出を辿るように打ち捨てられた理髪店のいつもの場所に座り込み、夢見るようにうっとりと目を閉じる信一は、今もその楽園でひとり、面影を追っている。
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