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ま
2026-02-07 21:45:49
6338文字
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世界の終わり
天利です
「天鬼どの、夜風が障りますよ」
「
……
これくらいどうということは」
新入りの、世話役が声をかけてくる。岩壁を活かして作ったその砦の、格子が嵌った窓から遠くの山の峰を眺めていただけだというのに。
ここに来る前。市中にある城内で私の世話を焼く下男は背の低い、だらしなく肥えたいかにもうだつの上がらなそうな年配の男であったのに、いくさを控えて砦に来た途端、がらりと雰囲気の違う男がついた。
すらりとした背格好で手足が長く、それに見ようによってはまだ元服前にも見える。
歳の頃は自分と同じぐらいか、ほんの少し若いくらいの。
ようき。
と男は名乗った。
霙に鬼と書くらしい。
毒茸の城に仕える忍びは、皆が空に関わるものに鬼と添えた名を名乗るが慣習のようだった。
この自分にも、その慣わしに則って名が与えられた。
「天鬼どの。そうはおっしゃいますが
……
今日は胃の腑が痛んでおられたでしょう」
「何故そう思う」
「夕餉を普段よりも摂っていらっしゃらなかったので
…
」
目の表情や動きを読みとりにくくさせる、丸い形をした色の濃い眼鏡をした男は、やや遠慮がちに述べた。
その声が、やけに耳へ馴染みが良い。それで、側に置くことを許してしまった。身の回りの些事など己一人の手で十分事足りるというのに。
ここに来る前の覚えがない。
この、大人としての身体を得るまでの間がすっぽりと抜け落ちていると感じる。
この身体にはあちこちに古い傷も多く、そして胃の腑と頭の痛みが、断続的にあらわれる
我は以前に違う私として、生きていた場所があったのでは。そんな考えが過ぎる。当然の帰結だ。
しかしどれだけ考えたところで思い出せない。
ただ、燃え盛る屋敷と、無惨な屍の記憶だけがこびりついている。炎の赤と血の赤。その色が消えない。
それが正しい記憶であるならたぶん、縁のある人間はほぼこの世にないということだろう。
たったの一夜で一族郎党が滅ぼされるようなこの戦乱の世の中で、どこかの暮らしから人ひとり消えたところで、探す者がなくともそれは当然だ。
自分が、怪我を負った中でここに来て突然軍師として祭り上げられて、強く不審に思うものもない。
行きずりの人間であっても、使えるものは使う。
世界はそうして勝手に回ってゆく。
誰の嘆きも悲しみも追いつかない速さで、ひたすらに進む。それは誰にも止めようがない。
けれど、我はここで、その速さをほんのわずかでも押し留めるために力を尽くそう。
求められることに応える。自分にはその力がある。
誰ひとり、私というひとりを求めるものはなくとも。
「
……
随分と仕事熱心なことだな」
そのような無益なことを思ったりしているせいか、単なる世話係の男一人の言動が気に、かかっている。腑に落ちない。
業務の範疇を超えた、何かを、この目の前の男から感じる。
霙鬼と名乗るこれは、ここに来る前のわたしのことを、もしかして知っているのではないかという疑いが、少し前から生まれていた。
側に侍らせてからまださほどでもないというのに、妙に手慣れている。例えば食事を片すその塩梅や、着替えを任せる時の手つき。あまりにも加減を分かりすぎている。
私のことを、どうかすると私自身よりも。
知っているのか、ともしも聞けばなんと答えるだろうか。
忍びの真似事をする童の集団がいちど、詰所の側まで来て私の素性についてあれやこれやと言い募ってきた。
どいはんすけ、という名前をした教師だとわたしを。
しかし、他人の空似、人違いか何かとしか思えなかった。
人にものを教える、そんな器の人間ではない。
しかし軍師としての役割を果たしたいのは、世のため人のため、そんな理想を掲げてのことだと思えば矛盾している。
いや、愛とか平和だとかいう夢幻のような言葉で誤魔化して、領土を、ひいては人の命を奪ういっとう上手いやり方を考えるだけなのだから、それはそれで筋が通っているのかもしれない。
この乱世を生きる、正しい道とはなんなのだろうか。
位や立場が上の人間の言うことに疑問を持たずに従って動くことが、そうなのだろうか。
迷うくらいなら終わらせて仕舞えばいい。
それをしない自分のいまが、過去の記憶よりも曖昧に思うことがある。
「天鬼さまの御身に何かあっては、私は八方斎様に叱られてしまいます」
「なるほど」
「
……
それに、今夜はとくに顔色がすぐれないご様子で」
「夜目は、効くのだろうがしかしこの暗い室の中で分かるのか。それに、その濃い色眼鏡の向こうから顔色も何も」
「分かりますよ
……
いつも、見ていたのですから」
「いつも?」
「
……
冗談です」
冗談にしては、声音に感情が滲みすぎていると感じた。忍びの、ほんの端くれでも、ここまでわかりやすいことはすまい。これは故意だと考える方が理に適っている。
既知の人物ではという疑念は、日々刻々に確信へ近づく。
知りたいとも思うのに、同時に恐ろしくも思う。
何もかもが曖昧な自分の過去が、はっきりすることで見えるものはなにか。
それは単に地獄の底の、より深くより昏い場所を覗くだけのような気がして。
近づくのは、知るのは、得策ではないと判断した。
「仕事熱心かと思えば、疑わしいことを口にする
……
間者ならばさっさと行け。今なら見逃してやっても構わん」
「天鬼どのこそ、間者を見逃すなど疑わしいどころの話ではないのでは?」
「ならばここで殺されたいとでも?」
寝台の脇に置いた刀を手にして尋ねる。
男は薄く笑う。
その顔はどこか嬉しそうにさえ。
そんなふうに思った瞬間、こめかみのあたりに鋭い痛みが走る。苛立ちを覚えて刀を抜く。
切先を真っ直ぐに首に突きつけると、男は半歩前に出た。
喉仏の近くから、血が一筋流れた。
「あなたの手でそうして頂けるのなら、悪くありません」
「寝所を血で汚すのは本意ではない」
既に流れてしまったその、鎖骨へと落ちてゆく血をどう処理してやろうか。
汚れたならいっそ本当にここで首を落としてやろうか。
考えると、今度は胃の腑あたりが痛んだ。しかし内側ではない。左の脇腹。
古い、幾年か前のもの。
誰か人の手を借りて塞いだとしか思えない大きな傷跡がそこにはあった。
しかしその傷の出来た理由も塞がった経緯もやはりなにも覚えがない。確かに傷はそこに在るのに。
咄嗟に左の手を痛む場所にやると、刀を構えているままだというのに男が更に前に出ようとする。
「動くな」
「しかし」
本当に死にたいのか。
死にたがりの男の顔を、暴いてやりたくなって刀の先で眼鏡を引っ掛て跳ね飛ばした。
「て、んきどの
……
」
眼鏡が床に落ちる音がした。
そうしてあらわれたのは涼しい切れ長の目。
暗がりでも分かるうつくしい、その。
「その顔は、つくりものか」
「
……
何故、そうお思いで」
「つくりもののように、うつくしいからだ。真実味がない」
「本物ですよ。どうぞ、確かめてください」
「どうやって」
「お好きな方法で、どうぞ」
男は手を刃に添え、そして自らの頬をぴたりと当てた。
少しでも動かせば、動けば、青く落ちた闇の中でも分かる白さの頬に一筋、傷が走ることだろう。
首の上をたらりと落ちた赤と同じ色の。
うつくしいものを穢す、そんなような種類の畏れを微かに抱いた。
「
……
手を下ろして後ろに下がれ。これは命令だ」
「承知、しました」
素直に従うように見せて、男は刃に添えた頬をそのまま下がろうとする。
「待て。従えないのか。この、私の言葉に」
「
……
どうして、です。傷がついたらば、つくりものでないとわかるでしょうに」
それはそうだ。
皮一枚隔てて獣の血を仕込む。そういうことも出来なくはなかろうがそうしたら臭いは隠し仰るものではない。
つくりもののようでいて、つくりものにしては出来の良すぎる。それほどにうつくしい顔貌だった。
「従えと言っている」
「分かりました」
後ろに退いた足を戻し、直立に直るのを確かめて刀を下ろす。切先にはさっき首に触れた血が僅かに残っている。袖口で一度、続けて懐紙で拭う。
「錆にして下さったら良いのに」
「馬鹿なことを」
このままでは実際に錆びてしまう。物入れの行李に皮と油があったはずだ。霙の鬼と名乗る男に背を向け寝台の後ろ、作り付けに棚のほうへ向かう。
そうすると、すっとこちらへ近づいてきた。
「間者を疑うような性質の者に、こんなに簡単に背中を取らせてよいのですか」
「
……
良いも悪いも。殺したいのならそうしてみろ」
ここまでの見立てからすると、それなりの腕はありそうだが、歳若いにしてもまだ足りない。まずこちらが判ずるより、不足に関しては本人の自覚の方がよほど強かろう。
「
……
出来ない、と分かっていて、そんな」
「それはお前もだろう?」
「ええ」
刀の手入れのため必要な鹿の皮と乾布。それに、丁子油とを取り寝台に腰を下ろして刀の先を磨く。
鹿の皮で磨きあげたのち、油を僅かに染み込ませた布で、刀身にその油を馴染ませる。
表面に薄く油膜が張ったのを確かめて、鞘へと収めた。
どうとでも制圧できる男は放っておいたら私のすぐそばで立ち尽くして、見つめている。
この私を。
「
……
どうした。もう用はなかろう」
「見ていたいのです。ただ、お側であなたの姿、を」
応える声が突然揺らぎ、刀から顔を上げると、男の頬を伝うものがあった。
涙。
「どういうつもりだ」
「さあ、私にも分かりません」
明らかに震えた唇で笑ってみせ、拭うことをしない。
はらはらとただ涙は流れ、まだ首に残る血の跡までもを濡らす。乾き始めていた血が湿り気を帯びあらためてつやめいている。
これがもしも、何らかの術、此奴なりの手練手管なのだとしたらあまりに見え透いている。
だがもしも本気なのだとしたら。
「気でも狂れたか?」
「かもしれません」
「忍びとしては終いだな」
「その、とおりで」
手入れの済んだ刀を寝台へ立て掛ける。
甘ったれた男だと呆れて罵ってやりたい気持ちと、どうせならもっと泣かせたいような思いと、それから。
「
……
ならば慰み者にでもなるか?」
「それって、なるものですか」
「してやろう、と言って欲しいのか」
「もしもこのままあなた様に侍ること、叶うなら、」
あわれっぽく言ってみせて、男は足元に跪く。
膝に伸びてくる手。好きにさせてみたらば太腿に頬を擦り寄せながら見上げてくる。
その顔貌はやはりうつくしい。
男でも女でも、簡単に惑うほどの価値があると理解に足る。
けれど、私にとってはそうではなかった。
「
……
よい。退がれ」
「お慈悲を」
「今ならその命、取らずにいてやると言っている」
「
……
お願いです、どうか、後生です、から
……
!」
縋るような声音は、最早しゃくりあげるようになって、まるでちいさな子どもだ。
十かそこらの。
だから、たぶん、きっと。
私はこの男の涙を止めたかった。
「泣くな。子どもに泣かれるのは、気分が悪い」
「な、子どもでは、ありません
……
! わたしは、」
「子どもでなければ、このように泣くものか」
「
……
う、」
眉根がきゅうと寄せられて、瞼の縁を全て涙が覆う。
堰を切ったような涙がこぼれ落ちる。
子供が流す邪気のない涙。演技にしては真に迫ったそんな涙を流したまま男は腰にしがみついてきた。
引き剥がせば良いものを、そうする気にはなれず行き場のない手で戯れに頭巾を解く。
結われた、見るからに柔らかそうな髪に触れれば、それは絹糸のような手触りでもって指に馴染んだ。
そうするうち男は、私の腹に顔を埋めて小さくつぶやいた。
「お兄ちゃ、ん
……
」
消え入りそうなその声を、聞き逃さない。
やはり。
「
……
私は、お前の兄か?」
「!」
はっとしたように顔を上げた。柔らかい髪から指を離し、細い顎をしかと捉えた。
「あ、の、
……
」
「答えろ」
「違い、ます」
「本当か」
「
……
私の、兄
…
に、あなたは、生き写しで、」
「この顔が?」
「かお
……
顔も
……
声も匂いも、指も。すべてあなたは、」
「そうか
……
」
やはりこの男は、私を知っている。
知っていて、本当のことは言いたくないのだ。
いや違う、私のことはやはり誰も知らない。
私を通して、この男は違う私を見ている。
私も知らないその誰かを。
「
……
兄を、そのような目で、お前は」
「え、っ」
「私を見ろ」
何を言っているのだろう。
真摯な眼差しに、少なくともいまそう見える二つの目に、自分の存在の曖昧さを突きつけられたようで、痛みが走る。
「私は、お前の兄ではない、」
顔を近づけて、諭すようにゆっくりと口にした。
目の前の男に、そして己にも。
呆然と開いた唇のままだった男は、途端に端正な顔を歪ませて新たな涙をそのまなこに湛える。
「
……
わか、っていま、す」
「いいや、分かってない」
「
……
分かってますってば。だってあなたが、誰だって良いのです、もう」
「何を」
「本当です。あなたが天鬼だろうと、なんであろうともはや関係がない。ここに在れば
……
あなたの命が、魂がこの世にありさえすれば、私はそれでいい。それだけでいいんです。本当に
……
」
これまでに聞いたどの声よりも切実さを持って訴えてくる。つくりものめいた様子は形を潜め、ただこの男の純度の高い願いのみが差し出されたと思った。
天鬼、と名を与えられた自分は、だが違う己があったはずだ。すっかりと抜け落ちた部分を、その空洞を、もしかこの男であれば補えるのかもしれない。
そして私自身が。
世のためでも、人のためでもなく。
この手、この身、一つで。
「
……
本当だな、」
「
……
あなたに嘘なんて
……
だからお願いです。生きて、
……
絶対に死なないで、お願いですから、」
「
……
裏切るなよ。謀ったらゆるさない」
「勿論です。むしろ、ゆるしてくださるのですか。あなたへ望むことは」
「
……
」
「
……
何か言ってください。わたしは、あなたのためにしか動けない。それでも、」
「よい」
「
……
うれしい」
涙は止まぬままに、男の手がこちらの顔は向けて伸びてくる。制止するべきところをそのままにさせると、頬に届く寸前で動かなくなった。
「どうした」
「触れて、も、良いのですか」
「躊躇うのなら、」
ならば、こちらから触れてやろう。
触れて、確かめたい。
つくりものではないこと、嘘ではないことを。
せめて、お前の中には真実があることを。
ほんのひとかけらでもいい。
「天鬼、どの」
頬に手のひらを当てると、流した涙のせいかしっとりとしていた。触れたら光のない部屋の中でも、目の色が変わるのが分かる。
熱を帯びた色。
掌に伝わる頬の熱も、上がってゆくように感じる。
「兄と、呼んでも構わぬ」
「そんな」
「ゆるすと言っている。呼べ」
「
……
お、にいちゃ、ん
……
」
呼ぶ声には恍惚が混じる。
この男は兄と、情を結んででもいたのか。
既遂かは知らねども、これが望んでいたのは確かだろう。
目を合わせたままに距離を縮める。逸らさないし瞬きもしない。
呼び名などもうどうでもよい。
薄く開かれた唇は、待ち焦がれている。
この私を。
私だけを。
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