黒鋼にとってその記憶は物心ついた時から当然のように存在していて、今更違和感を抱くようなことはなかった。自分自身ではあるが、今の自分ではない。感覚としてはっきり断絶されているせいか、意外なほど混乱もせず今世を受け入れている。
両親はかつての二人と変わらず、歳を重ねるにつれ見覚えのある顔に出会うことも増えた。だが彼らは黒鋼と違い、前世の記憶などという胡乱なものは持っていないようだった。意味深長な笑みを浮かべる、かつての主君であり今の遠戚である少女や、巨大な学園都市を一手に握る魔女のような理事長に関しては、そもそも探ろうという気にすらなっていない。自分からあれらに深入りするなど愚の骨頂だ。
未だ縁の繋がらない、かつての旅の同行者たちに思うところがないわけではなかったが、不思議と焦りは感じていなかった。直接伝える気はないが、自分たちであればいずれ邂逅する日が来ると思っていたからかもしれない。
諏倭黒鋼という男は、至って平穏に日々を過ごしていた。
その日が来たのは突然だった。たまたま用事があり、広大な敷地の外れに位置する柔剣道場へ向かった時のことだ。大学でも剣道部に所属していたが、今となっては既に引退した身であり、足を運ぶ機会は以前と比べて随分減っている。講義を行う教室が並ぶ棟からは少し離れているため、ここまで来るような学生はそう多くなかった。
簡単な用を済ませ後輩を追い払い、道場を後にする。相変わらず人はまばらだが、その少ない学生たちがどこか落ち着きがなく感じられて、黒鋼は眉をひそめた。周りの様子を探り、どうやら誰かを遠巻きに眺めているようだと気づく。武道場を囲むように設けられた垣根の奥に、人影が見えた。
厚手のコートを着てもなお細身の身体を視認した瞬間、心臓がどっとひときわ力強く脈打ったのがわかった。冷たい風に柔らかそうな金色の髪を揺らしながら、周囲の視線も気にせずひたむきに建物を見つめている。初めて見るのに見慣れた相手が、宝石のような蒼い瞳をしているのを、黒鋼はよく知っていた。
たまらず距離を詰めて腕を掴む。青年は弾かれたように顔を上げた。大きく見開かれた目に、驚愕、不安、動揺、親愛、安堵、恐怖、郷愁と数えきれないほどの感情が浮かび、混在し、そして消えていった。
「おまえ……」
喉がひどく乾いている。絞り出した声は掠れていて、自分でも聞き取りにくいほどだった。ファイは瞳を潤ませると、自身の腕を掴む黒鋼の左手を見て今にも泣きそうに顔を歪め、それでもかつてと同じように小さく微笑んだ。
「黒様」
言葉もなくひとしきり見つめあった二人を待っていたのは、周りからの隠しきれない好奇の視線だった。大した人数でなかったことだけが不幸中の幸いだ。正面入口の近くでこんなことをしていたら、あっという間に大学中の噂になっていただろう。
ファイの腕を掴んだまま足早に構内を出る。大学から離れ、ひとまず学生の寄りつかなさそうな場所まで向かう。寒空も気にならないほど散々歩き回り、落ち着いた雰囲気の喫茶店を探し出すまで、ファイはずっと黙りこくっていた。
「あっあの……ファンです」
ようやく落ち着いたところで、開口一番にこれを聞かされた気持ちにもなってほしい。滅多にない頭痛を堪えるように額に手を当てる黒鋼に構わず、ファイは興奮したように白い頬を上気させた。
毎年晩秋の頃行われる剣道の団体戦、偶然にもその結果を目にしたことで、今世の黒鋼の存在を知ったのだという。同じように記憶があったファイは、本当に行動に移してもいいものかと思案に暮れ、こちらにとっては甚だ不要な気遣いを重ねたあと、大学だけでも一目見たいと見学に訪れたらしい。
「大会の記事にはもう引退って書いてあったし、そもそも四年生のこの時期だとあんまり大学に来てないかもしれないし、とにかく絶対に会えないと思ってて……。まさか本当に顔が見られたうえに、黒様も覚えててくれたなんて」
胸に手を当てて、感無量と言わんばかりに息を吐いている。まどろっこしいやら気恥ずかしいやら、黒鋼は珈琲と共に複雑な感情を飲み下した。
「たまたまあの場に俺が居たからいいようなものの……、そうじゃなかったらどうするつもりだったんだてめぇは」
「練習してた道場と中に飾ってある優勝カップとか記念写真を見るのが目的だったから、どうするもなにも実在したんだぁって1週間くらい余韻に浸るところだったよ。……本当に黒たんが映ってるの見て、オレ胸がいっぱいになっちゃった」
「…………」
その言葉を証明するかのように、目の前に置かれた湯気の立つ紅茶は一切手がつけられていない。
「あっ嘘、1か月くらいかも。黒たんが載ってる雑誌のバックナンバーも探し始めたところだし」
オレ剣道詳しくないから全然知らなかったけど、黒様ってばずっと活躍してたんだね。すごいねぇ。
いつかの国で酔っぱらったときのように呑気に笑う相手に、黒鋼は今度こそ耐えきれず大きなため息を吐いた。前からわかっていたことだ。比べるまでもなく、自分たちは考え方が全く違う。それはお互いに対しての姿勢も同じだった。少年の対価を払い終えた旅の終わりにも、散々意見が対立したのを思い出す。
頬を赤らめて満ち足りた顔をしているファイとは違い、黒鋼の焦燥感に似た感情は一向に落ち着く気配がなかった。今までの平穏は既に一瞬のうちに崩れている。あの頃と同じように黒鋼を想い生きているのだと知ったら、一度実物を目にしたら、これを逃すなど断じて考えられなかった。
己の内に引き入れて、絶対に手放したくない。
躊躇いなくそう考える黒鋼に反して、ファイはこの一時の再会を後生大事に抱えていく人間なのだと、長い長い付き合いの中で理解はしていた。
とはいえ今度は悠長にそれに付き合ってやるつもりもない。
「おい」
「なぁに?」
「結婚するぞ」
「……え?」
「いやか」
「え? 誰が……?」
「俺とおまえだ。いやか」
「いやじゃない、けど……、ええ?」
「今付き合ってる奴は」
「いっ、いません……」
誰が見てもわかるくらいに混乱しているファイに視線を向ける。黒鋼は至極冷静に、畳みかけるならここだと思った。
「おまえも学生か? 見た目変わってねぇが籍はどうなってる」
「えっと、院に通ってるよ。あと籍……? あ、籍か、戸籍はね、出身は違うけど今はこの国。そのオレ、養父に引き取られてて」
「……まさかそいつ」
「うん、アシュラさんだよ」
ファイは照れたような、困ったような顔で笑った。関係は悪くないのだろう。あの掴みどころのない笑みを浮かべた男が脳裏を過った。色々懸念はあるが、黒鋼の長年積み上げられた衝動を止めるものではない。
「まぁいい、問題ねぇなら結婚するぞ。おまえ土日の予定は」
「土日どっちかは大学に顔出そうとは思ってたけど、それくらい……」
「そうか。俺の実家とおまえの方への挨拶と……、あー、そもそも調べねぇと籍入れるのに何が必要なのかわかんねぇな」
慌てふためくファイに、大分冷めただろう紅茶を飲むよう促す。自分も珈琲を飲み干し、あえて宥めることはせず、差し当たって気になるところだけを話して席を立った。店の外に出たあとも、ファイは困惑を露わにしている。ただその顔に拒絶も嫌悪も浮かんでいなかったので、黒鋼は柄にもなく内心胸をなでおろした。
「あ、あの黒様」
「なんだ」
「オレ、その、結構今ついていけてないんだけど、いきなりこんなことになってびっくりしてるっていうか、まさか夢……」
「現実だ」
「現実、現実……? わっ、わけわかんないよー!」
冷静になってうだうだ考え込まれる前を狙っているのだから当然だ。性急なのは大いに自覚しているが、一度ファイを見たら、もうこいつと一緒に食事をして、こいつと共に眠りに就いて、こいつが隣で笑っている日常しか許せなくなってしまった。だから、仕方ないだろう。
人気のない路地で無駄な抵抗を続ける身体を抱きしめてから、黒鋼は思い浮かんだ言葉をできるだけ素直に伝えた。しばし逡巡したのち小さく頷いたファイが、おそらく無意識に目を瞑るのを見届ける。
今日出会ったばかりだというのに、抱きしめ方も口づけ方もお互いの身体に染みついているのが、妙におかしかった。
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