いを
2026-02-07 17:22:02
1293文字
Public くらくら
 

ひかる/おんがく


お返事用

 くちびるを閉じていた、あるいは胸中では何らかを思考していたであろう彼は、そっと「失礼しました」といった。それにたいして自分は一度笑んだ。――いいえ、いいえ。あなたなりの考えもあるでしょうし、絶対に正しい答えなどというものはきっと、滅多に存在しないものだから。人か獣かという問いかけに関してもそれこそ人の数だけ答えがあるだろうから。価値観が違っても人間は人間であるだろうし、だからこそ仲違いもする。たまに致命的に相容れないそれさえ、愛と呼ぶ人間もいるけれど。
 給湯器に近づいた彼を見る。このひとがなにを考えているのかは分からない。ひととは、本来そういうものなのだろう。分からないから分かろうとする。分からないから攻撃するという人間もいるけれども、それこそ臆病な手負いの獣のような存在だろう。シンクのすみっこに置いておいた自分のマグカップを視界でみとめる。コーヒーや紅茶の跡――リングのようなものがうっすらと残っている。漂白しなければなと思い、取っ手に指を差し入れて持ち上げた。
 ひとの声が聞こえて来る。若いような、年を重ねたような、笑っているような、泣いているような。ひとというものは複雑怪奇なので、感情もきっと四つのカテゴリに収まらない。どうしてこんなに複雑になってしまったのだろう。
 給湯器に向き合う彼をながめて、このひとも複雑怪奇なのだろうか、ととりとめのないことをも思う。こともなげに彼はなにかを思い出したかのように、または気付いたように墨色の短い髪をゆらして、音楽はお好きですか、と首をかたむけた。
 唐突なそれに、目を二度か三度、またたかせた。
 ――チルっぽいやつ。
 と、彼はチャーミングに目をつむった。
「ちる」
 言いなれない、舌にまだ馴染まない単語をとなえる。呪文のようなそれの意味は、音楽に少々疎い自分にはかみ砕けないものだった。
「音楽、は……そうですね。カウンセリングのときに流す程度で、自分からはあまり聞かなくて」
 カウンセリング時に流すものといえば、総じてテンポのなだらかなクラシック。とくに決まりはないのだろうけれど。クライアントの好きな音楽があれば流してもよいだろう。自分がリラックスできる音というものも、ひとそれぞれだろうから。
 かつて自分が〝先生〟と呼んでいたそのひとは、爆音のラップが好きなようだった。はじめて聞いたとき、言語の暴力だと感じ、ラップはそれ以降聞かなくなってしまった。そもそもなにをいっているのか分からない。ただ韻を踏んでいるということは分かって、そのあたりは美しいと思う。
「あの、道代さん」
 すいと涼しげな目もとの彼は、カップを持ったまま続きを促すようなしぐさをした。
「道代さんはよく聞かれるんですか? ええっと、その、ちる? っぽい音楽というものを」
 そもそもちる・・とはなんなのかからご指導ご鞭撻のほどお願いしてもよろしいでしょうか。あの、本当にいつでもよいので。一度気になると、とことんまで気になってしまうたちで。
 とてもそそくさと、そしてさらさらとした言葉で目を瞬かせるそのひとにお願いをした。