ユナユナ
2026-02-07 13:32:38
14497文字
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シーグラスをあなたに 下(進捗)


 夢をみている。
 暗いくらい夜の闇を歩く夢だ。
 足元を照らすのは頭上でじじじ、と鳴る蛍光灯だけ。それすらも接触が悪いのかチカチカと点滅して不安定だ。
 てんてんと等間隔に置かれた蛍光灯を辿るように黛は歩く。進む端から闇に呑まれてしまうから、引き返すことはできない。コンクリートの地面には不気味なほど黒い影が落ち、黛を引きずり込もうと波のように後を追いかけてくる。
 影から逃れるように歩調を速めて歩いていると、闇のなかにぽっかりと四角い光が浮いていることに気付く。
 ──入り口だ。
 直感的にそう思って、黛は引き寄せられるように歩き出す。光にたかる蛾のようにふらふらとした足取りで。
 ふと気付くと、コンクリートの地面にはいつの間にか白線が引かれていた。横に一本。その下に「止まれ」の文字。顔を上げると赤信号が黛の行手を阻むように立ち塞がっている。周囲には赤い三角の道路標識と、赤い丸の中心に一本の白線が横たわる道路標識。そして黛を囲うように張り巡らされた黄色に黒字のテープ。
 黛は足を止め、もう一度前方を見る。光の空間まであと少し。けれど信号はまだ赤く、暗く重い波が引き止めるように足元にまとわりついている。
 ──ならもう、いいか。
 ため息を吐いて光に背を向ける。ただそれだけで、足元に絡みついていた波が拍子抜けするほどあっさりと引いていく。それどころか、闇に呑まれていたはずの空間すらそっくりそのまま復活している。まるで黛が引き返すことを歓迎しているかのようだ。
 黛はじっと己の足元を見る。たぶん、ここから一歩でも踏み出せば背後の空間は扉を閉ざすのだろう。そうして二度と開くことはない。そういう確信がある。
 ──でも。
 顔だけで後ろを振り返ると、途端に周囲の闇が騒めき出す。黛はもう一度ため息を吐いて正面に向き直る。目の前に広がるのは見慣れた──だ。それを冷めた目で見やり、仕方がないか、と三度(みたび)息を吐く。
 自分には縁がなかったのだ。そう思って足を踏み出そうとして──ダム、という音に動きを止める。
 ダム。背後からまた音がする。何かが弾むような音だ。
 ダム、ダム。黛を引き止めるかのように、繰り返し、繰り返し音がする。
 ダム、ダム、ダム。断続的に響く音が、黛の鼓膜を揺らす。心の奥底に仕舞ったはずの──も、揺さぶられる。
 黛の躊躇いを察したのか、黒い波が再びじわじわと足元にまとわりつく。暗く、冷たく、重い波は、黛の体をず、ず、と引きずっていこうとする。その力の強さに「やっぱり無理か」と諦めて、流されるままに、足を。

 そんな夢をみている。もう、何年も。


8

「さっきから何見てんのお前」
 黛が背後からテツヤの手元を覗き込むと、彼はまるで雷に撃たれたかのように大きく肩を跳ねさせた。その拍子にポロッと落とした「何か」をなんとか空中でキャッチしたテツヤは、驚きで引き攣ったままの顔でこちらを振り返る。そして黛の顔が存外近い位置にあることに気付くと、きゅうりを見た猫の如くソファの端に飛び退いた。なんとも失礼なリアクションである。
「な、な、なんだいきなり」
「いや、ビビりすぎだろさすがに」
 入浴を済ませた黛がリビングに戻ったことに気付いた様子もなく、じっと何かを見つめているテツヤの姿が珍しかったから声を掛けただけだ。驚かせるつもりはなかった。普段は背後に立っただけで気付くような男にこんな反応をされて、寧ろこっちが驚いたくらいだ。
「で、何見てたわけ」
 ソファの反対側に腰を下ろしながら改めて尋ねる黛に向かって、テツヤが無言で握りこぶしを突き出した。その真下に手のひらを差し出すと、硬い何かがぽとっと落とされる。
……シーグラス?」
 黛は目を瞬かせると、平べったいそれをそっと照明に翳した。
 以前拾ったものとは異なり、こちらのシーグラスは色つきだ。黒──いや、少し青みがかっているから濃紺だろうか。霜が降りたように硝子全体が白く染まっているため、少々色がわかりにくい。
「へえ、いいじゃん。いつ拾ったんだよこれ。今朝?」
…………いや」
 硝子片を返しながら問う黛に、テツヤが形容し難い表情で首を振る。
「なんだその顔。……ああ、もらったとか?」
 あの上品な老婦人──村上の顔を思い浮かべながら問い掛けてみたものの、彼は奇妙な表情を崩すことなく再び首を振った。煮え切らないその態度に、自然と黛の眉間に皺が寄る。別にどうしても知りたいわけではないし、一から十まで黛に報告する義務もないが、こうも勿体ぶられると逆に気になるというか、良からぬことでもあったのではないかと勘繰ってしまう。厄介ごとの塊のようなこの男が相手なら余計に。
 そんな黛の疑心を察したのだろう。テツヤ葛藤していますと言わんばかりの沈黙をたっぷりと挟んでから、ついに観念したように口を割った。
「自分で拾ったんだ、その……、あの(、、)夜に」
……なるほど」
 あの(、、)夜というのは、トチ狂ったこの男が黛にキスを迫った日のことだろう。
 そりゃあ言い難いだろうな、と数日前の出来事を思い返しながら、黛はどさりとテツヤの隣に腰を下ろした。テツヤはそんな黛から逃れるように、さらにソファの端に身を寄せる。自分はバイ菌か何かか、とイラついたものの、彼の心情はわからないでもないので、そこには触れないでいてやることにした。完全に身から出た錆なのでフォローはしない。
 黛はソファの端で頬杖をつきながら、身の置き場がなさそうにソワついているテツヤを盗み見る。
 あの日以降で何か大きな変化があったかといえば、それは否と言わざるを得ない。べったりと張りついていた目の下の隈が薄くなって、やつれた頬に赤みが差してきた程度である。日課のゴミ拾いは再開したが、相変わらず外出には消極的で、一日の大半は家にいるようだ。
 まあ、これは想定内である。一朝一夕で何もかもが好転するとは思っていない。マイナスがゼロに戻っただけマシだ。家にいる間は家事をしているようだし、完全にゼロというわけでもないのだから結果は上々だろう。
 ただ、困ったことに、テツヤには厄介な後遺症がひとつ残ってしまった。黛を避けるようになったのだ。物理的に。それはもう徹底的に黛との接触を避けている。先程の反応がいい例だ。少しでも彼に近づこうものなら瞬時に距離をとる。斥力でも働いているのか? と疑ってしまうくらい無駄に素早い動きで。
 大方、無理に迫ったことで黛を怯えさせてしまったのでは、とでも考えているのだろうが、それにしたって過敏すぎる。ゼロか百しかないのかコイツは、と呆れた──というか可哀想なものを見る目でテツヤを眺めていると、視線に気付いたテツヤがギクりと肩を跳ねさせた。
「な、なんだ」
「私の一挙一動で挙動不審になるの、いい加減やめてくんない?」
……僕はいつも通りだが」
「無理があるだろそれは」
 黛の言葉に、テツヤがむっつりと黙り込む。自分の言動を客観視できる程度には冷静なようで何よりだ。
「あの程度で動揺するほどウブじゃないって、あのときも言っただろ」
……しかし、僕は男だ」
 苦々しく返されたその言葉の意味を測りかねて、黛は僅かに眉を寄せる。
「知ってるけど」
「危機感を持て。僕が力尽くで迫れば、お前には抵抗する術がないんだぞ」
「今更?」
 テツヤとの奇妙な共同生活を始めてから約一ヶ月半。そんな説教じみたことを言われても、今更としか思えない。
「ぼ、僕が欲に身を任せてしまったら、どうするんだ」
「生活、信用、経歴、その他諸々を全部捨てて、一時の快楽に走ることを選ぶようなタマか? お前が?」
 口を噤んだテツヤをハン、と鼻で笑って、ていうか、と言葉を重ねる。
「散々人のこと痴女扱いしてきたヤツに、危機感がどうのこうの言われてもな」
「そっ──れは、悪かったと思っている。あまりに侮辱的な発言だった」
 痛いところを突かれた、と言わんばかりに狼狽える彼をもう一度鼻で笑いながら、黛はゆったりと足を組んだ。
「ま、正気じゃないヤツの言うことを真に受けるほどガキじゃない。腹は立つけど」
…………
 テツヤは「正気じゃない」の部分で物言いたげに黛を見たものの、言い返せる立場ではないと自覚しているようで、無言で手元に視線を落とした。
「それで? どういう心境の変化があったわけ?」
 改めて問い掛ける黛に、テツヤは硝子玉のような瞳を向ける。
……手を」
…………?」
「手を、握ったろう。あのとき」
 雨粒のように落とされた言葉に、黛は思わずテツヤの瞳を覗き込んだ。残念なことに、その瞳の奥に宿る感情を読み取ることはできなかったが。
「身長はそう変わらないのに、お前の手は僕より小さくて……お前は女性なんだと気付いた」
「当たり前だろ逆に今までなんだと思ってたんだお前は」
 少女漫画ならキュンとくるシーンなのかもしれないが、実際に言われるとイラっとくるだけなのだなと黛は身を持って実感した。フィクションはフィクションだから良いのである。
「お前ちょっと……いやだいぶ…………とにかく、顔がいいからって調子のんなよマジで。イケメン無罪は通用しないからな」
「のっていないし、侮辱するつもりもない」
「あんだけハニトラ仕掛けておきながら女だって意識してなかったって、おま、どストレートな侮辱だろそれは」
 異性として意識して欲しいわけでは決してない。ないが、シンプルに腹は立つ。色仕掛けする者の姿勢として許されないのではないだろうか。というか、その程度の認識で良くもまあ黛を口説こうと思ったものだ。いくらトチ狂っていたとはいえ。
「ハニっ──いや、本当に申し訳ないと思っているが、それはそれとして」
「それもあれもどれもあるか。もういい、寝る。思春期の戯言にこれ以上付き合ってられるか。ムラっときたら一人で素数でも数えてろ」
 そう吐き捨てて勢いよくソファから立ち上がる黛に、テツヤが心底憤慨したように声をあげる。
「慎みはないのかお前には!」
「女に貞淑さを求めるタイプか? 個人の趣味嗜好は否定しないが、セクハラになるし程々にな」
「男だ女だ以前に人としてどうかと言う話をしているんだ! というか今セクハラを受けているのはどう考えても僕の方なんだが!?」
 黛は尚も言い募ろうとするテツヤを見下ろしながら、チッと鋭い舌打ちを落とした。
「じゃあセクハラついでに聞くけど、お前は私にムラっとくるわけ?」
「いや、お前をそういう目で見たことはない」
「それを聞けて安心したよ。でもいつか泣かす」
 スンっと表情を消したテツヤにノータイムで否定され、黛は苛立ち混じりに手近なクッションを彼の顔面に押しつける。一ヶ月以上も一緒に暮らしているのだ。彼の言葉が嘘か本当かぐらいわかる。今のテツヤの言葉が真実であることは間違いなく、それは女としては大変安心できる要素ではあるのだが──やはりなんというか、こう、釈然としない気分にはなるわけで。
「逆に聞くが、お前はそういう目で見られたいのか?」 
「は?」
……先程も言ったように、僕はお前をそういう対象として見たことがないんだ」
「は?」
「だから、もしそうだとしたら、お前の期待には応えられそうにない。すまない」
「は?」
 botのように同じ単語を繰り返していた黛は、その言葉の意味が脳に届いた瞬間、テツヤの頭をクッションでぼふっと殴りつけた。
「なんっっっで私がフラれたみたいになってんだ……! 自意識過剰も大概にしろよお前……!?」
 クッション攻撃から逃れながら「埃が飛ぶ」と斜め上の文句を言うテツヤにもう一発お見舞いして、黛は肩で息をしながらソファにクッションを投げ捨てる。
「お前絶対痴女扱いしたこと反省してないだろ」
 なんなら現在進行形でしている可能性すらある。さっきといい今といい、この男のなかで黛はどういう認識なのだろう。
「それに関しては本当に悪かったと思っている」
「本当に悪いと思ってたらさっきの発言は出てこねぇよ普通」
「僕は自分の気持ちを嘘偽りなく伝えただけだ」
「何でもかんでも正直に伝えりゃいいってもんじゃないだろ。オブラートって知ってるか?」
「澱粉から作られる植物性の可食フィルム」
「さすがイイトコのお坊ちゃんは博識でいらっしゃる」
 しれっとした顔で言い返してくるテツヤを睨みつけてから、「寝る」と言い捨てて今度こそ寝室へと向かう。文字通り捨て台詞である。
「おやすみ」
 不意に背中から声が掛かった。黛はその静かな声音に動きを止め、チラリと肩越しにテツヤに視線を送る。硝子玉のような赤と金の瞳と目が合って、ふっと黛の肩から力が抜けた。
……おやすみ」
 ため息混じりにそう返すと、テツヤの眦が僅かに緩む。そんな彼を視界の端に捉えながら、黛はそれ以上は何も言わずに寝室に入った。のそのそとベッドに潜り込み、マットレスに体を沈めて深く息を吐く。
 あの夜から変わったことはそう多くない。
 テツヤのメンタルがマシになり、顔色が多少良くなった。黛を避ける──というより、適切な距離感を測るようにもなった。些か過敏すぎる気もするが、黛にほぼ依存した状態だったことを考えれば、そのくらいでちょうどいいのだろう。いい加減落ち着いて欲しいとは思うけれども。
 しかし繰り返しになるが、これらの変化はマイナスからゼロに戻っただけにすぎない。いや、出会った頃に比べれば、スタート地点から二、三歩ほどは進んでいるのだろう。三歩進んでなんとやら、という状況ではあるものの、一応、進んではいるのだ。前か後ろか、あるいは上か下か、黛には見当もつかないが。無策で地雷に突っ込んでいかない限りは静観するつもりである。
 けれど、以前と明確に変化したところもあった。
 時々、ちゃんと(、、、、)笑うようになったのだ。取り繕っているのではなく、意図的に作ったものでもなく。硬く結ばれていた縄をほどいたような、どこか緩んだ表情を浮かべるようになった。あまりに微かな変化で、油断すると見逃してしまいそうになるが。
 以前、この男が顔に出すのは負の感情ばかりだ、と呆れたことを思い出す。とはいえ理由は明白だったので、あえて指摘することはなかったが。弱りきっているときに正の感情を表に出すことは、存外難しい。だからやはり、ゼロからプラスにはなっているのだ。
 目を閉じて寝返りを打つ。とろとろとした眠気がやってきては、波のように引いていく。徐々に眠りに落ちていく肉体とは裏腹に、脳が思考を止めることはない。
 ──ああ。
 きっと今日も同じ夢を見るのだろう。


9

 潮風が赤い髪を揺らしている。迷いのない足取りで海岸に下りていくテツヤのつむじを眺めながら、黛は無意識に目を細めた。
 こうして二人揃って海に来るのは、随分と久々なことのように感じる。実際は二週間かそこら来なかっただけなのに、不思議なものだ。ゴミ拾いを始めて以来、休日はほぼ欠かさず二人で来ていたせいだろうか。
 砂浜の感触を確かめるように靴の底を擦りつけていると、テツヤが訝しげな顔をして声を掛けてきた。
「足でも痛めたのか」
「いや」
 端的な答えが逆に疑念を深めたのか、テツヤの瞳が黛の体を見分するように細かく動く。その眼差しはやけに澄んでいて、黛はまるでレントゲンをかけられているような気分になった。
「マジだって」
 言いながら爪先をトントンと地面にぶつけて見せる。その動きにテツヤはようやく疑いを解いたようで、「ならいいが」と目線を手元のビニール袋に移しながら呟いた。
「無理はするなよ」
「はいはい」
 手近なゴミをトングで拾うテツヤを横目に、黛はそわりと体を揺らす。
 ここ最近、こういうやりとりが増えた。折に触れこちらの仕草や顔色を窺われ、些細な違和感があれば即座に拾われる、というか。つまり、まあ、簡単に言ってしまえば、そう、気にかけられている、というか。
 以前のご機嫌とり(、、、、、)と異なるのは、それが心配だとか、労りだとか、気遣いだとか、そういうシンプルで純粋な感情から行われているということだ。
 帰宅が遅くなれば安堵の滲んだ顔で出迎えられ、見送りには「気をつけて」という言葉が添えられる。おやすみ、と告げるテツヤの撓んだ表情を思い出し、黛は言いようのない感覚にうにうにと唇を動かした。
 ──他人から身内に格上げされたってことかね。
 ぽいっとゴミをビニール袋に放り込みながら、感じた気恥ずかしさを誤魔化すように思考を他所に逸らす。
 とはいえ、この男にそういう献身的な一面があるとは予想外だった。立場(、、)的に、圧倒的実力で有無を言わさずに周囲を従わせるタイプなのだと思っていたが──そして恐らくそれも間違いではないのだろうが──、本来この男は、周囲の様子を逐一把握しながら牽引していくタイプなのかもしれない。サポーター気質、というべきか。身内と判定されると、そうした面倒見の良さがわかりやすく表に出てくるのだろう。
 いま思えば、テツヤが自ら料理を引き受けたいと言い出したときにその片鱗は現れていた。なんやかんやありつつ家事をやめないのは、それを通して人の世話を焼けるから、という部分が少なからず含まれているのだと思う。衣食住の対価、というのは大前提として。
……ふぅ」
 思考を一時止めて、軽く伸びをする。気付けば結構な量のゴミがビニール袋に溜まっていた。休憩するにはいい頃合いだろう。
 黛は膨らんだビニール袋を片手に、すっかり定位置となった堤防沿いの段差に腰を下ろした。少し遅れて、テツヤが黛の隣に腰掛ける。近すぎず、遠すぎず。ほどほどの距離だ。
 しばらくの間、会話もなくぼんやりと海を眺めていた。ここ数日の快晴の影響か、今日の海はいつもよりも幾分か澄んで明るい色をしている。テレビなどでよく言われる「透き通るような青」には程遠いが、見ていて気分が上向く程度には綺麗な藍色だ。
「これを」
「は?」
 不意に差し出されたそれを反射的に受け取って、パチパチと瞬きを繰り返しながら手元に視線を向ける。手のひらに転がるのは、真っ赤なりんごを模した可愛らしい飴玉だった。りんごの形をしているからにはりんご味なのだろう。
「こんなの家にあったか?」
……いただきものだ」
「村上さん?」
「村上さんだ」
 村上さんかぁ、と繰り返し、軍手を外した手でピリっと包装を破る。素手で触れないように気をつけながら飴玉を口に入れると、ふわりと甘い香りが鼻腔を通り抜けた。
「あま」
「飴だからな」
 ころころと飴玉を口のなかで転がしている黛の隣で、テツヤも飴玉を口に放り込む。
「甘いな」
「飴だからな」
 内容のないやり取りを繰り返し、吐息だけで笑う。
「んで、今度は何があったわけ?」
「何、というか……スーパーの帰りに偶然会って」
「うん」
「随分と大荷物だったから、荷物持ちを。どうも旅行帰りだったらしい」
「へぇ、でこれはそのお駄賃ってことか」
「お礼だ。僕はいいと言ったんだが、それならお土産として受け取ってくれと」
「どこ行ったんだって?」
「青森らしい」
「ああ、だからりんご」
 会話が途切れ、細波の音だけがその場に満ちる。ぼーっと空を見上げながらじんわりとした甘さを楽しんでいると、不意に何処かから視線を感じた。ちらりとテツヤの様子を窺うと、彼は不自然に海を凝視したままピクリとも動こうとしない。
「見られてるな」
 さらりと告げた黛に、テツヤがぎょっとしたように振り返る。曇った硝子のような瞳で黛を捉えたテツヤは、しばらくうろうろと視線を彷徨わせたあと、ようやく躊躇いがちに頷いた。
「気になってたんだけどさ」
……なんだ」
「秘書ってこんなことまで業務に入ってんの?」
「は?」
 重々しい空気が途端に霧散し、唖然としたテツヤと平然とした黛だけがその場に残る。黛はかろ、と飴玉を舌先で遊ばせてから、もう一度口を開いた。
「だから、秘書って家出したガキを探して監視することまで業務に入ってんの?」
「そんなわけないだろう」
 揶揄を含んだ黛の問いを、テツヤが胡乱な目で否定する。
「でもお前言ってたじゃん。監視してたのは父の秘書だって」
「それはそうなんだが……いくらなんでも額面通りに受け取りすぎだろう」
 疲れたように目元を押さえるテツヤを尻目に、黛ははぁ、とりんご味の息を吐いた。
「じゃ、いま私たちを見てるのは誰なわけ。変質者?」
……興信所か何かに所属している人間だろう。少なくとも、今回は」
「ならなんで名指ししたんだよ風評被害じゃん。秘書の人かわいそ」
「彼らに依頼したのが秘書であることは間違いない。……それが父の指示か、秘書の独断かはわからないが」
 やけに確信がある様子で言い切るテツヤに視線を送り、無言のまま話の続きを促す。
……何度か、顔を見たんだ」
「水族館に行った日より前にってことか?」
 テツヤは黛の言葉に小さく頷くと、そのときのことを思い出そうとするように目を伏せた。
「──と言っても、あからさまに姿を見せたのはあの日が初めてだったが。それまでは、視認できるかどうかの距離でこちらを窺っていた。……そういうことが何度かあって、それでも、あの日まで──いや、今日まで、何もなかった」
 だから自分は切り捨てられたのだと認識した、と。
 黛は立てた膝に頬杖をつきながら僅かに目を細めた。随分と後ろ向きな、と思わなくもないが、そう考えてしまう程度の事情がこの男にはあるのだろう。今日まで何のアクションもなかったことは事実であるのだし。
「独断だったら秘書の人だいぶ健気だな。業務外なのにわざわざこんなことするとか、私なら絶対やらん」
「自棄になった僕が問題を起こさないよう、抑止する意図もあるんだろう。社の不利益になりかねないからな」
「子守りか。もうだいぶやらかしてると思うけど」
「うるさい」
 子供のように不貞腐れた顔をするテツヤを鼻で笑い、黛はからころと飴を転がしながら再び海に視線を向ける。夢から覚めた瞬間のように白暈けていた空には、淡い青色が少しずつ滲み始めていた。
……僕も聞きたいことがある」
「なんだよ」
 ぶすくれた、しかしどこか強気な声色で、テツヤが言葉を続ける。
「お前はことあるごとに僕をお坊ちゃんだと言うが、僕が良家の出だとお前に言ったことがあったか?」
「ん」
 言葉に詰まった拍子にガリッと飴を噛み砕いてしまう。黛は舌がざらつく感触に眉を寄せながら、刺すようにこちらを見据えるテツヤを見た。少しの沈黙を挟んで、ゆっくりと口を開く。
「言われては、ないな」
「言った覚えがないからな」
「でもまあ、理由はあるぞ」
「例えば?」
 じゃりじゃりと飴の欠片を念入りに擦り潰しながら、黛は指揮をするようにゆるりと指を揺らしてみせた。
「海に突っ立ってたときのお前の服装」
……服?」
 黛の言葉に、テツヤが怪訝そうに片目を眇める。
「あの日着てたの、全部ハイブランドだったろ」
「それだけで『お坊ちゃん』だと思い込むとは思えないが」
「まあ聞けって。糊がきいているけど着用感はある、かといって着古した感じもないから、まあ着まわせるように何着か持ってるんだろうな。上から下までハイブランドで揃えられて、かつそれを普段使いできる。それだけ経済的余裕があるってことだ。あと──」
 そこで一度言葉を切り、テツヤの手に視線を向ける。その指先は、少しだけ荒れていた。
「手が綺麗だった。少なくとも水仕事はしてなかったってことだろ」
……そんなところまで見ていたのか?」
 引いています、と言わんばかりにテツヤが手を隠す。わざとらしいその仕草にイラッとした黛は、彼の無駄に長い足を容赦なく蹴り飛ばした。
「目を離した隙に何かやらかしそうなヤツを観察しないわけないだろうが。……家事は普通にできてるけど、慣れてるって感じじゃない。どっちかってと普段は世話をされてる側。指輪してた形跡はないからたぶん独身。なら身のまわりのことは代行サービスとかに任せてたんだろう。実際、お前んちコックがいるんだろ?」
……それで?」
「あとは、やっぱ所作とか言葉選びとか。教養ってやつ? 育ちの良さっていうか、そういうのって付け焼き刃じゃボロがでるからな。習い性になるくらい、子供の頃から質の良い教育を受けてたんだろう。……ま、こんなとこかな」
「そうか」
 静かに頷いたテツヤの瞳に刃物のような光が宿る。黛は腹に力を入れて、その視線を真っ向から受け止めた。
「流暢なわりには、ところどころ穴があるな」
「思い込みってそういうもんだろ」
 ばしゃん、と一際大きな水音が響く。それから少しの間をおいて、二人は同時に息を吐き出した。
……こういうときは『面白い推理だ』と返すべきだったか?」
「あとは『小説家にでもなったらどうだね』って言や完璧だな。……お前もだいぶコッチに染まっちまったな」
「誰かのおかげでな。……まあ、いい。そろそろ再開するか」
「そうだな」
 お互い表情にどこか呆れた色を含ませながら立ち上がる。監視するような視線は、いつの間にか綺麗さっぱり消えていた。


10

「──あ、美味い」
 朝食として出された味噌汁に口をつけた黛は、ぱちりと大きく瞬きをしてお椀に視線を落とす。そんな黛の反応に、テツヤがふむ、と意味深に呟いた。
「なるほど、三対一か」
「なにが?」
「味噌の配合だ。赤味噌が三、白味噌が一」
 淡々と告げられた言葉に、黛は思わず目を丸くする。
「え、合わせ味噌だったのかこれ」
「まさか気付いていなかったのか? だいぶ前から変えていたんだが」
「悪かったなバカ舌で」
 きまりの悪さを隠しつつ言い返し、黛はもう一度味噌汁を啜った。細切りにされた大根が泳ぐ味噌汁は、きりっとした塩気のわりに後味がまろやかだ。白味噌のおかげなのだろう。たぶん。細かいことはさておき、黛の好みの味だ。ここ最近やけに朝食の和食率が高いと思っていたのだが、もしかすると味噌汁を極めるためだったのだろうか。
 炊き立ての白米を頬張り、目玉焼きに箸を伸ばす。料理を任せてすぐの頃は焼き加減にむらがあったそれも、もはや黛が口を出す必要がないほどに上達した。その出来栄えは、まさに「理想の目玉焼き」と言ってもいいレベルである。
 で、あれば次を目指すのがこの男だ。まったく、その向上心には脱帽せざるを得ない。
「そうだ、今日はスーパーに行く予定なんだが、何か必要なものがあるなら言ってくれ」
「いや、特にない。金、まだ足りるか?」
「ああ、まだ大丈夫だ」
「足りなくなったら早めに言えよ」
 わかった、と素直に頷くテツヤから視線を外し、ぽいとプチトマトを口に放り込む。
 テツヤの昼食用にと渡していた五枚の千円札は、今では二人分の生活費へと形を変えて、小さな古銭入れのなかに収まっていた。食費や雑費は基本的にそこから支払われ、足りなくなれば黛が都度追加する。そしてその財布を管理するのは、買い物に行く頻度の高いテツヤだ。いつの間にか、そういうことになっていた。
「そういえば」
 ずず、と味噌汁を啜る黛を眺めていたテツヤが、ふと口を開いた。
「お前はどんな具が好きなんだ?」
「具? 味噌汁の?」
 きょとんと目を瞬かせながら問うと、小さな頷きが返ってくる。
「って言ってもなぁ」
 しばしの間考え込んだものの、元来それほど好き嫌いがないというのも相まって、なかなかピンとくるものが出てこない。くさやは好物だが、味噌汁に入れたいかというとノーだ。結局黛は、首を横に振ることを答えとした。
「ないのか?」
「ないっていうか、これ、っていうのがない」
「なら苦手な具は?」
「特には」
 端的な黛の答えに、テツヤがどこか困ったように首を傾ける。黛はその反応を訝しみながら白米を口に含み、少し遅れて、なるほど、とその理由に思い至った。
「明日の具に悩んでるのか」
「まあ、それもあるが。よく考えるとお前からメニューをリクエストされたことがないな、と」
 言われてみれば確かに、と咀嚼しながら思い返す。とはいえ、だ。料理が得意な相手ならともかく、ほぼ料理未経験者にあれこれとリクエストするほど黛は鬼ではない。今はそれなり──というには出来が良すぎるが──に慣れてきたとはいえ、初めて作る料理に対しては相変わらず「予習」が必要なのだ。
「確かに僕はまだ未熟だが、味噌汁の具くらいなら応えられる」
 そんな黛の内心を察したのか、テツヤが不服そうな視線をこちらに向ける。
「はいはい、悪かったよ。なら、そうだな……
 黛は少しだけ悩んだあと、ふと最近食べていなかったものを思い出した。
「わかめと豆腐とか」
…………
 ぴた、とテツヤの箸の動きが止まる。
「そうか、他は?」
 それを疑問に思うよりに先に、テツヤが促すように言った。
「ええ……? ニラ玉とか……?」
 穏やかな口調のわりに有無を言わせないテツヤの態度に困惑しつつ、適当に思いついた具を挙げる。
「そうか。覚えておこう」
 その答えに重々しく頷くと、話は終わりとばかりにテツヤは食事を再開させた。黛はそれに首を傾げながら、再び味噌汁に口をつける。
 なお、このやりとり以降もわかめが食卓に並ぶことは一切なかった。実にわかりやすく、そして面倒な男である。


11
 とある夜。風呂上がりの黛を待っていたのは、緊張したようなテツヤの硬い顔と、そんな彼から差し出されるA4サイズの紙きれだった。
 その物々しい雰囲気に身構えつつ紙を受け取った黛は、するりと紙面に視線を滑らせながらその内容を読み上げた。
「『うみひろい〜海岸ゴミゼロ運動〜参加者大募集!』……?」
 虹色グラデーションのポップ体でデカデカと書かれた見出しの下には、過去のイベント参加者だろう人々の集合写真が貼り付けられている。要するにボランティアイベントのチラシだ。主催は町内会、開催日は次の土曜日の十一時。
 ひと通りチラシに目を通した黛は、肩の力が抜けると同時に心底呆れた気分になった。テツヤの意図は読めたが、どう考えてもそんなにガチガチの態度で手渡すほどのものではない。
「んで? これが?」
 ぴらぴらとチラシを揺らして尋ねてみせると、テツヤはうろうろと忙しなく視線を走らせたあと、意を決したように口を開いた。
「今朝村上さんにこのチラシをもらって、ええと、ただ集まってゴミを拾うだけで特別変わったことはしないらしいんだが、その、年々参加者が減っていると、ああ、村上さんは毎年参加しているらしくて、その──」
「簡潔に」
……参加しないか」
 俯いているせいでやや上目遣いになっているテツヤは文句なしに顔が良かった。色の薄い唇は不安げに結び開きを繰り返し、無駄に長い睫毛が硝子玉のような瞳に影を落としている。この男にこの態度と表情で頼み事をされたら大半の人間はYESと言うだろう。
 顔の良さを自覚しているあたり、実際にそういう風に振る舞ったこともあるのかもしれない。というか、確実にしているだろう。末恐ろしい男だ。今回のこれは全くの無意識だろうが、それはそれで別種の恐ろしさを感じる。と、詮無いことを考えながら、黛は端的に「いいけど」と言ってチラシをテーブルの上に置いた。
……いいのか?」
 拍子抜けした様子で尋ねてくるテツヤに、冷蔵庫から水を取り出しながら素っ気なく返す。
「朝やるか昼やるかってだけの話だろ」
 実際そうだ。人がいようがいまいが、やることは同じなのだから。テツヤはともかく、積極的に黛に絡んでくる人間がいるとも思えない。誰とも関わらずにゴミを拾うだけならば、結局それはいつもの行為と何ら変わりはないのだ。
「そう、か」
「なに、やっぱやめたって言って欲しいのか?」
「い、いや、そういうわけでは」
 コップに水を注ぎながら意地悪く問い掛けると、テツヤが慌てたように首を振った。とはいえ、彼の煮え切らない様子に変わりはない。黛は何か言いたげに口元を動かすテツヤを尻目に水を煽ると、コップをシンクに置いてさっさと寝室に向かった。テツヤの心情の言語化を待っていたら朝になる。明日も早いのだ。
「じゃ、そういうことで」
 ひらりと振った手のひらを残して、滑るように寝室に入る。「おやすみ」の言葉が、扉越しに聞こえた。


「そろそろ時間だが、準備は──」
 そう言いながらリビングに入ってきたテツヤは、鏡越しに黛と目が合うとぱちりと大きく瞬きをした。テツヤはローテーブルに並ぶメイク道具を見ると、怪訝な顔をしてこちらに視線を戻す。「わざわざ化粧をするのか」と言わんばかりの顔だ。
「わざわざ化粧をするのか?」
「言うと思った」
 やっぱり言った、と黛は半ば感心しながら頬にチークを塗った。とはいえ普段は日焼け止めとリップ程度で済ませているのは事実なので、そう尋ねたくなる気持ちもわかる。それを口に出すあたり、相変わらずデリカシーに欠けていると思うが。
「いつもはしていないだろう」
「今日は人が集まるだろ。しかも写真撮影もあるっぽいし。さすがにほぼすっぴんてのは私的にナシ。心配しなくてもそこまで派手にはしねぇよ」
 そう返しながら鏡の前で何度か首を振ってその色味を確認する。先日新しく買ったものだが、以前のものより肌馴染みがいい気がする。ブラウンのアイシャドウとも相性が良くて使い勝手がいい。今後も重宝するだろう。いい買い物をした。
 マスカラをすると派手になりすぎるので、あとはチェリーピンクのリップを塗るだけでいいだろう。よし、と前のめりになっていた姿勢を正すと、再び鏡越しにテツヤと目が合った。あまり納得していなそうな顔だ。真意を探るような顔、と言った方が近いか。黛は目を伏せて大きくため息を吐くと、渋々ながら口を開いた。
……体調が悪いと思われたら面倒だろ、こういう身内向けのイベントは特に」
 改めて覗き込んだ鏡の中の黛は、化粧をする前と比べると幾分か顔色が良く見える。程々の清潔感と、無難な健やかさ。最後に、指通りには自負がある長髪を動きやすいように纏めれば、どこにでも居そうな「ボランティアA」の完成だ。
 実際そこまで黛を気に掛ける人間なんていないだろうが、不安要素は極力排除しておくに越したことはない。そうすればあとは、いつものようにゴミを拾っていればいい。狭いコミュニティのなかに飛び込むのだ、下手に目立つような真似はしたくない。
「そうか」
 果たして含んだ言葉の意図まで察したのかは不明だが、テツヤはあっさりと頷くと「先に外に出ている」と告げてリビングを出て行った。黛は鏡越しにそれを見届けて小さく息を吐く。
 最近、こういうことが増えた。以前なら流されていたようなことが流されなくなった、というか。適当な言葉で丸め込めなくなった、というか。一歩内側に踏み込むような。あるいは一段深く覗き込むような。そういう眼差しを、テツヤは時折見せるようになった。
 手早くメイク用具を片付けて、いつものポーチを片手に立ち上がる。なんとなしに重たい足を早めて玄関に向かいながら、その先で待つ男を思い浮かべて黛はもう一度ため息を吐いた。
 黛は未だ、彼の視線を受け止めかねている。