本来バレンヌ帝国の中でもアバロン周辺は比較的過ごしやすい気候であるはずが、昨日から突然襲ってきた寒波によりこの朝の冷え込みも異常なものとなっていた。
朝の鍛錬時は普段であれば動きの邪魔になりにくい薄手の半袖のシャツを身に付けるが、流石に今日は長袖をクローゼットから引っ張り出した。なんなら寝床からも出たくないくらいだった。
どちらかというと引き篭っているよりも身体を動かしている方が好きなヘクターであってもそれくらいの動きをするくらいの異常気候。
これじゃ敬愛する皇帝陛下も果たして今日はいらっしゃるかどうか、と訓練場中程でヘクターが軽く柔軟をし始めた所で近づいてくるのは軽い足取り。入口から顔を見せるのはもう近くで見慣れた赤毛だ。
「おはようヘクター!」
「おはようございますジェラール様、今日はいらっしゃらないかと思いました」
そう伝えるとジェラールは息を切らしながらももう!と不機嫌を晒し出す。この人は朝から飛ばして可愛らしいなと思う。そう朝から思うヘクターの思考も寒さで働ききっていない気もする。
「寒いからと言って毎日の決まり事を止めるのが性にあわないんだ。ただこれだけ寒いとなかなか身体も動かしにくいね」
ジェラールはほうとため息を吐きつつ口元に手を当てる。吐く息も白くなりそれで暖を取れるほどに温かいのだろう。
「今日は軽く身体を動かすくらいにしときます?」
「いや、寒い地域への遠征だって今後有り得るのだからいつも通りにしよう」
言われてみれば確かにそれは有り得る話だ。そこに確実に自分が追従する為にも今日この日の鍛錬は重要なのかもしれないとヘクターは気合いを入れ直した。
ジェラールが言うようにいつも通りの流れを一通りこなすうちに身体も慣れてきたのか防寒に着ていた服も暑いくらいになってきた。どうせ朝の鍛錬後は1度着替えるのだし勤務中はいつも通りでも良いかもしれない。
使っていた模擬剣を元の位置に戻しているジェラールも軽く汗をかいているようだ。
「やっと身体が温かくなってきたような気がするよ」
「ただ落ち着くと汗で冷えてくるんで早目に着替えた方が良いですよ、俺もこの後一旦戻ります」
「朝夜はあんなに寒かったのにね…布団の中がこれほど至福だと感じたのは初めてかもしれない」
皇帝陛下の私室に伺った事はあるが、寒さ対策されたような物だったかとヘクターは首を捻るとジェラールはその疑問を読み取ったのか応えてくれる。
「鳥類の羽毛を中に入れた布団で柔らかくて軽くて温かくて凄かったよ。でも出るのが嫌だと思うくらいだった。あれは良くない」
うん、と強く頷くジェラールの表情は嬉しさと苦々しいものが入り交じった不思議な表情だったので、その苦悩は何となく読み取る事が出来た。
「普段お疲れなんですからゆっくりお休みになれたなら良いじゃないですか。ジェラール様がそこまで言う代物がどんなのか気になりますけど」
ヘクターが何の気なしに零した言葉にジェラールが食いついてくる。
「気になるなら今度一緒に寝る?」
「は、」
い。と思わず応えそうになりながらも既のところで押し止めた自分の事を誰か褒めて欲しい。
がそんな事を身近に漏らそうものなら袋叩きに遭うのが関の山だろう。
突拍子もない問題発言を飛ばしてくださった当の本人は何が楽しいのかくすくすと楽しそうだ。
あまりの事に自分がおかしな顔をしている可能性に行きあたってヘクターは思わず顔を手で押さえる。
「っ、ふふ…!君の、そんな顔を見られると思わなかった…っ!」
「笑う事で身体も温まったんじゃないですかっ!?」
混ぜっかえすも相変わらずジェラールの笑いは止まらないので大した反撃にはなっていないように見える。全く人の気も知らないで、とヘクターは思う。
(人の気、とは??)
少し引っ掛かったものは現状困っている恥ずかしさと共に流す事にした。
「まあそんな子供みたいな事は流石に私も成人してるんだし我儘言えないよね。すまない変な事を言って困らせた」
「とても魅力的なお誘いではありますけど、そもそもあんた皇帝陛下という自身のお立場考えてください」
そう、皇帝陛下の寝床に侍るなど有り得ないのだから。成人だとか以前に。
「楽しそうだと思ったんだけどな、兄上とは昔良くやったよ?」
「それはお身内での話の上に10年以上昔の子供の頃の話でしょう?良い大人が同衾のお誘いなんて迂闊にかけたら駄目ですよ」
「どうきん」
「詳しくご説明必要ですか?」
知らない言葉では無いだろう、特に書に近しいジェラールであれば。これは嫌味でも皮肉でもなんでもなく知っていてくれなければ正直困る。何が困るのかは…現時点でヘクターはあまり考えたくなかった。
単語を呟いて押し黙っていたジェラールもそれを飲み込んでくれたように見えた。
「わかった。気を付けてかけるようにする」
「是非とも宜しくお願い致します」
またヘクターにとっては引っ掛かる所があったような気もするが、何故だか余裕が無くなっている今追うのは為にならない。ジェラールに釘を刺せたのならそれで良いのだ。
一旦身支度を整えてからジェラール様の勤務前にお迎えに上がります、とジェラールを自室に届けた後ヘクターは兵舎へと戻った。もちろんジェラールの自室へは一歩も立ち入る事もなく。敢えて見ないようにしていた感まであったかもしれない。ヘクターがあんなにも焦るなんて珍しい事だとジェラールも思う。
「一緒に寝ようなんて言われたらヘクターでも驚くんだな」
だがこれが第二皇子であった時であったらあからさまな拒否感を持たれていたに違いない。
今は本当に小さな日常の話題であっても目を合わせて応えてくれる。その幸福に少々酔ってしまっていたからあんな事を言ってしまったのかもしれない。
自分と一緒に、だなんて。
ただそれが兄のような懐かしさを求めてなのか、それとも居心地の良い別の何かなのか。
その何かを今は知りたくないような気がしてジェラールはふる、と首を振る。
今はただ、このくすぐったいほどに柔らかく暖かい状況が得られた事は自分にとって奇跡なのだと思うだけだ。
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