shirajira
2026-02-06 07:09:10
6906文字
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ある朝に

リクエストいただいた、朝帰りのビマヨダです。

……ん、帰るのか?」
 そーっと帰るつもりが、失敗したらしい。眠たげな、いつになく芯のないふにゃふにゃした声に、ドゥリーヨダナは思わず寝台に腰かけたまま振り返った。
 声と同じくらい締まりのない表情をした男は、しどけなく肢体を寝台に横たわらせている。柔らかな視線が無防備にドゥリーヨダナを見つめる。
 寝起きのくせに色気だだ漏れでずるいぞ。下半身に熱が集まりそうになるのを、意識して無視する。
「ん。朝になるまでに部屋に戻らんと、アシュヴァッターマンが迎えに来てしまう」
……まだ朝まで時間あるだろ。もう少しだけ……
 いつの間にか伸びてきた腕が、ドゥリーヨダナの腰を引き寄せるように抱く。昨晩男の精と魔力をたっぷり注がれた胎が、ずくんと疼いた。ふにゃりと体の力が抜けかける。このまま身を委ねてしまいたい衝動に襲われた。
 まずい。咄嗟に振り払うように立ち上がる。
「もももももう行かねばな! なかなか悪くない夜だったぞ! また共寝をしてやらんでもない! あ、明日とかに!」
 一方的に言い捨てて、部屋を飛び出した。心臓がバクバクとうるさい。人気のない廊下を早足かつでき得る限り静かに通る。角を曲がり、飛び出した部屋から一定距離を置いたところで、ふうと息を吐いた。
 これだけ離れれば、誰かに見られたところで怪しまれることもないだろう。
 気が抜けた途端に、ふにゃりと口角が上がってしまう。いかんいかんと思ったところで、にやけてしまうのはやめられない。
 別に昨晩が初めてというわけでもないのだが、未だに恋人と一夜を共にした後は、世界で一番の宝物を手にしたような、そんな気持ちになってしまう。
 この男に求められている。その歓喜がドゥリーヨダナの体の奥からとめどなく溢れて、でれでれとだらしなく笑みを浮かべてしまうのだ。
 腹を撫でる。注がれた、紛うことなき英雄の精と魔力。これが手に入るのなら、女役をするなんて安いことだ。多少の痛みはチャラになるような快楽もあることだし。
 それに、ああ、せがむようにドゥリーヨダナの名を呼ぶあの声と来たら!
 熱のこもった視線や荒い息遣いを思い出して、下半身に熱が集まりかける。だが欲は満たされていたので、散らすのも簡単だった。白い世界しか見えない窓の外を見るともなしに見ようとすれば、締まりのない自分の顔が映っている。
 いかんいかん、どこで誰が見ているかもわからんのだ。わし様は三百六十度、どこから見ても格好いい王子でいなければ。思いはするものの、表情筋はドゥリーヨダナの意思は無視して、気持ちに正直であり続ける。
 弾むように自室へと足を向ける。誰が見ても、顔を見なくたって気づくような浮かれっぷりであったが、ドゥリーヨダナは気づかなかった。夜明け前で人通りのいない廊下を、ともすれば鼻歌でも歌いそうな様子で廊下の角を曲がると。
「旦那じゃねえかぁ! 珍しいな、あんたがこんな時間にほっつき歩いてるなんざ! おはよう!」
「アアアアシュヴァッターマン!?」
 突然知り合いに出くわしたので、腹から声が出た。廊下に響いた大音声に、アシュヴァッターマンが慌てた様子で「旦那! しーっだぜ!」と人差し指を口の前に立てる。この時間は寝ているものも多い。ドゥリーヨダナは口許に手をやりながらこくこくと頷いたが、仮初めの心臓は跳ねまくっている。
 アシュヴァッターマンは毎朝、ドゥリーヨダナを朝食に誘いに来る。それはドゥリーヨダナを周回に送り出すのも兼ねていた。
 召喚されたばかりの頃、ドゥリーヨダナがまだ朝食を食べてないからと駄々をこね周回に参加しなかったことに、何故かアシュヴァッターマンは責任を感じているらしい。先に召喚されている自分がフォローするべきだったと思っているらしかった。真面目な男なのである。
 だが何も使命感だけではなく、ドゥリーヨダナと一緒に食事をとりたいという気持ちもあって毎朝迎えに来てくれていることはドゥリーヨダナも承知の上だ。だからこうして、アシュヴァッターマンが迎えに来る前に恋人の部屋を抜け出して自室に戻ろうとしたのであるが。
 まさかこんなところで会うとは。どうしよう。自分に恋人の痕跡が残っていないか、急に不安になる。首筋のキスマークは多分襟で隠れているはずだが、大丈夫だろうか。慌てて恋人の部屋を飛び出したから、ちゃんと確認していない。
 霊基を編み直しておけばよかったのだが、もったいなくてそんなことはしたくなかったのだ。
「ん? 旦那……
 近づいてきたアシュヴァッターマンが怪訝な顔をした。ドキリ、と心臓が飛び上がる。どう誤魔化そうかとドゥリーヨダナが目を泳がせていると、アシュヴァッターマンが言った。
「何かいいことでもあったのか? 何か嬉しそうだが……
「え? あ、うん、おお、そうだとも! ちょっとほれ、そこの角にある自販機でな、コーヒーを買ったら当たりが出たのだ! もう飲んでしまったが! いやあ一足遅かったな、お前が一緒にいたら一本譲ってやったものを!」
 咄嗟に誤魔化す。半分は本当だった。確かにドゥリーヨダナはカルデアに置かれている自販機で当たりを出した。ただし二週間前のことだが。当たったもう一本は――恋人にくれてやった。
 恋人は瞬き一つして、俺はそういうの当たったことないんだよなと悔しそうな顔をしたから、何だか気分がよかったのを覚えている。
「だが、がっかりするのはまだ早いぞ、アシュヴァッターマン! わし様は今気分がいい! この幸福をお前にもわけてやろう。というわけで奢ってやる!」
「おっラッキー。ちょうど朝のトレーニング後で喉が乾いてたんだ」
 二人並んで自販機へと向かう。ドゥリーヨダナは内心胸を撫で下ろした。
 よし。朝帰りなのはバレてない。何とか誤魔化せたぞ。
 恋人のことは誰にも、何ならカルナにも内緒だった。いや、ひょっとしたらカルナは何か勘づいているかもしれないが――何も言われていない以上、気づいていないということにしよう。
 相手が相手である。大っぴらにして良いことが起きるとも思えなかった。
 自分と、相手が知っていれば、それで済むことだ。人知れず咲く小さな花を、こっそりと愛でるような日々を、ドゥリーヨダナにしては珍しく、悪くないと思っていた。
 誰にも迷惑はかけないのだから、そのくらい好きにさせてほしい。花が枯れてしまうまでの間は。
「ほら、好きなものを選べ」
 自販機にQPを入れてやると、アシュヴァッターマンは「ごちそうさま」と言いながら炭酸飲料のペットボトルを選んだ。ガコン、と音を立てて取り出し口に落ちてきたペットボトルを早速開け、アシュヴァッターマンが口をつける。
「ぷはー。俺たちの時代にはなかったが、この炭酸飲料ってのは悪くない。旦那もそう思うだろ?」
「ああ。わし様もビールなんかは好きだな。あれはいい。シュワシュワしてて喉ごしもよくて。つまみもうまいし、現代に生きるやつらはずるい! ま、わし様たちが生きた後の積み重ね、つまりはわし様のお陰でもあると思えば、悪い気はせんが」
 アシュヴァッターマンが微笑んだ。何だか眩しいものを見るような、不思議な顔だった。
「どうした、アシュヴァッターマン。なんだか顔がかわゆいことになっておるぞ」
「あ!? ……ああ、笑っちまってたか? いや、あんたが楽しそうで良かったって思ってよ」
 目を逸らし、少しの間の後、アシュヴァッターマンが「ここじゃあいつらとも距離おいてうまくやれてみてるだし」と呟いた。あいつら、が誰を指すかなんて、わざわざ聞くまでもない。
 実際は距離を置くどころかそのうちの一人とズブズブになって、生前誰にも許さなかったところまで許してしまっているとは、とても言えなかった。ついでに昨夜の熱を思い出しかけ、首をぶるりと振る。慌てて大声を出す。
「さぁてアシュヴァッターマン。朝食の時間までまだ時がある! となれば、やることはわかるな?」
「走り込みか?」
「ちがーう! 二度寝だ二度寝!」
 軽く小突いて、それから自室へと向かう。気持ちを完全に切り替えるには、まだ少し時間が必要そうだった。


 ドゥリーヨダナは知らない。慌てて部屋を出ていったその耳が真っ赤なのを見て、恋人が寝台の上でくすりと笑ったことを。
 次は朝帰りなんてさせず、そのまま寝台に繋ぎ止めようと思われていることを。

    ★

 設定しているアラームで目が覚めた。慌てて止めて、恋人を起こしてしまったのではと目をやるが、隣で丸くなって眠っている男は爆睡しているのか、口から涎を滴しながらすやすやと眠っていた。楽しい夢でも見ているのか、にやにやと笑っている。
 ちょん、と頬をつつく。相手は目覚めない。そのことにほっとしたような、残念なような気持ちになりながら、ビーマは身を起こした。一糸纏わぬ裸体に、霊衣を纏う。野放図に広がっていた髪が、音も立てず髪留めで留められる。
 英霊というのは便利なものだ。身だしなみを整えるのも、瞬き一つで済む。
 いつでも部屋を出て厨房の朝シフトに向かえる状態になったが、ビーマはしばらくその場に留まった。恋人の寝顔を眺める。
 無防備に寝ている姿を見る度に、形容しがたい気持ちが沸き上がってくる。ビーマはこの穏やかな時間を好んでいたが、同時にひどく落ち着かない気持ちを抱えてもいた。
 目を開けないかな、と思う。起こさないまま部屋を出る方がいいに決まっているのに。
 起きた恋人がビーマを引き留めたってビーマは仕事に行かなければならない。そうしたら恋人はうるさいだろう。朝から口論なんてしたくはない。
 かといってあっさり送り出されても、それはそれで何だかなと思ってしまうかもしれない。それはなんだか、悔しい。
 だから、起こさないのが一番いいのだ。わかっているのに、それでも起きないかなとそう思ってしまう。
 この胸の中で跳ね回るような気持ちを、分け合えたらいいのに。
 二度目のアラームが鳴った。すぐに止める。さすがにそろそろ厨房に向かわなければまずい。
……じゃあ、行ってくるからよ」
 小さく告げて、相手の額に口づけを落とす。やっぱり相手は眠ったままだった。いつまでもこうしてはいられないので、振り返らずに部屋を出る。
 本当は、もっと早く起きて厨房シフトの前にシミュレーターで体を動かすなりなんなりした方がいいのかもしれん。思いながらビーマはその巨体に見合わず、軽やかに廊下を歩いた。ひゅうひゅうと風が耳元で鳴って、苦笑する。
 我ながらどうも浮かれているらしい。いい加減慣れないとと思うが、いつまで経っても恋人との一夜は特別で、なかなか当たり前にはなってくれない。
 相手が相手だ。にわかには信じがたい、夢のような嘘臭さすら感じる。だが、夢ではないのだ。
 ふ、と自然に口角が上がった。早朝の廊下に、それを見咎める者はいない。見られたところで何でもないと言えばそれで終わりだ。誰もそこまでビーマに興味がない。ここには数多の英霊がいて、ビーマはその一人でしかない。
 だから、恋人と今の奇跡のような関係を築けたとも言えるだろう。互いに互いを見つめることを、仮初めの熱を分け合うことを、誰にも知られず行うことができた。
 後ろで一つに束ねられた髪を尾のように振りながら、ビーマは廊下を歩く。情事の後の心地よい気だるさは今はなく、ただ残り香のような記憶を何度も噛み締める。
 足取りは軽い。全身に気力が満ちている。この世の春が来たような。
 それは何も、魔力供給をしたから、それだけが理由なわけではあるまい。
「おや、兄上。……どうされました?」
 角を曲がったところで知った顔に出会って、ビーマは柄にもなくたたらを踏んだ。自分が弟とは言え他人の気配に気づかないとは。我ながら浮かれすぎたか。
 それはさすがに、ちょっと恥ずかしいな。
「お? おお、オルタのアルジュナ! どうしたんだ、こんな朝早くに」
「沐浴をしていました。兄上はこれからお仕事ですか」
 第三霊基のアルジュナオルタは、最もビーマの知るアルジュナに近い。穏やかな表情をビーマが愛おしく思っていると、アルジュナオルタが瞬きをした。
「兄上、何かいいことでもありましたか? 随分嬉しそうな様子ですが」
「ん? そうか? んー、ぐっすり眠ったからかもしれんな!」
 これがアルジュナであれば、それはよかったですね、と言ってくれて終わる。だが、アルジュナオルタは不思議そうに瞬きを繰り返すと、やがて「ああ」と合点がいったとでも言わんばかりの顔をした。
「それはよかったですね」
 待て。待てオルタのアルジュナ。その「ああ」は何だ。何を察したんだお前は。
 気になるが、聞いてしまったら最後、どんな答えが返ってくるかわからない。一応、自分たちの関係は誰にも内緒なのだ。ビーマはバレてしまってもそれはそれで仕方ないと思ってはいるが――恋人と取り決めたことが自分の過失、過失とは思いたくないがとにかく自分がきっかけで崩れていくのは避けたかった。恋人が何を言うかわかったものではないし。
 何より、まだまだこの心弾むような朝を迎えたいのだし。今は波風を立てる時ではない。
 たとえ第三霊基でアルジュナに近くとも、アルジュナオルタは多弁ではない。こちらから聞かなければ、何かを察したにしろ黙っていてくれるだろう。つまり尋ねさえしなければ、仮にバレてしまっているにしろ、バレてないのと同じである。
 何だったか、何とかの猫というやつだ。いや犬だったか? 思いながらビーマが目を泳がせていると、アルジュナオルタがくすりと笑った。
「何だ? 俺、変な顔でもしてたか?」
 不思議に思ってビーマが尋ねれば、アルジュナオルタは微笑んだ。
「いえ。兄上が楽しそうで、私も嬉しいです」
……ああ。そう思ってもらえるなら、俺も嬉しい」
 変わり果ててしまった、それでも弟である存在の頭を撫でる。くすぐったそうに、それでもおとなしく撫でられていたアルジュナオルタが、兄上、とビーマを呼んだ。
「ん、どうした」
「霊基は編み直さないのですか?」
「霊基?」
 何故そんなことを聞かれるのかわからず、ビーマは瞬きをした。今は第二霊基の姿だ。肌は最低限しか出ていない。従って、肌の上に残る情事の痕は隠れている、はずだ。
 どうせそのうち消えるのだから、消してしまったっていいものではある。けれどもこのくらいの持ち帰りはしたっていいだろうと、そんなことも思う。人知れず咲く花を愛でるようなことをしたって、何も悪くはないだろうと。
 だが、何かバレてしまうような痕跡があるのであれば、話は別である。
 ビーマは思わず自分の体を見下ろした。ちゃんと服は着ている。よし。
 顔を上げてアルジュナオルタを見れば、わずかばかり口許に笑みを浮かべ――そうしているとビーマたちの母とそっくりだった――アルジュナオルタは言った。
「兄上が大切にしたいものなのであれば、そのままで大丈夫でしょう。勘のいい者たちはこの時間から食堂に赴くこともないでしょうから」
「そうか? ……そのうちわからなくなっちまう程度のもの、ってことか」
 安堵していいのか、がっかりしていいのか、よくわからない。ただ何かしら心に引っ掛かるものがあるのは確かである。
 傷痕一つない、恋人の左腿を撫でた時のような心地。どう表現したらいいのか、自分のことなのに未だにわからないでいる。
 目を覚まさなかった恋人の寝顔が脳裏を過る。もう起きただろうか。まだ寝ているだろうか。ビーマが隣にいないと知って、どんな顔をしただろう。
 まずいな。まだ厨房にたどり着いてすらいないのに、もう引き返したくなってしまっている。
 朝帰りから始まる一日は悪くないが、どうしたって相手が脳裏に居座ってくるから困りものである。どうにも集中に欠ける。
 いや、これもまた愛おしさというやつか。口許に勝手に笑みが浮かぶ。よし、と気合いを入れ直す。
 愛おしい日々を続けるために、まずやることは求められた役割を果たすこと。つまりは朝食の準備である。
 恋人は食べるのが好きだ。ビーマが食堂で働いていれば、そのうちやってくる。
 寝起きに伝えられなかったことは、その時に伝えてやればいい。
「オルタのアルジュナ、お前も気が向いたら食堂に来いよ。今日は搾りたてのオレンジジュースも出すぞ。目の前で搾ってやる」
 味覚が曖昧だという弟に声を掛ける。「では真なる私も誘って伺いますね」と言ったアルジュナオルタと別れて、ビーマは意気揚々と食堂へと向かった。


 ビーマは知らない。恋人が本当はいつも意識を浮上させていたことを。
 照れくさくて寝たふりをしてしまうけど、いつか目を開けてまだ行くなと言ってやろうと思っていることを。